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あなたのとりこ 601 [あなたのとりこ 21 創作]

「無礼とかじゃなくて、正にズバリ、でしょう?」
 那間裕子女史が益々からかいの色を増した笑みを浮かべるのでありました。「ここに居る皆は、そんな事くらい昔からとっくにお見通しよ」
 この那間裕子女史の言に袁満さんと均目さんが同調して小さな笑い声を立てるのでありました。釣られて頑治さんも思わず笑おうとするのでありましたが、どう云うものか既のところで頬が動くのを抑えるのでありました。先程土師尾常務からこの会社で最も無用な社員とはっきり名指しされたようなものでありますから、その意趣返しと云う点からも、別に敢えて笑いを堪える必要はなかったかなと、堪えた後で思うのでありました。甲斐計子女史と日比課長も、ここで危うく失笑するのを堪えて無表情を貫くのでありました。
「それが目上の者であり上司に対する口の利き方か!」
 例に依って例の如く土師尾常務は激昂のご様子ではありますが、もう那間裕子女史にも袁満さんにも均目さんにも、その手は利かないのでありました。
「皆の心服をかち得た上でそんな事を云うのなら、それは皆も尊重もするし納得もするけど、単に短慮と勝手な目上意識だけで怒鳴り散らすような手合いは、相手にするのも億劫と云うものですね。何様の心算でいるのかと、軽蔑されるのがオチじゃないですかね」
 均目さんは余裕綽々と云った物腰で、ニヤけた顔付きをして云うのでありました。袁満さんもこの均目さんの言に賛同の笑い声を立てるのでありました。
「好い加減、その怒りん坊さんの作り顔も見厭きたし、その迫力不足の怒鳴り声も聞き厭きたわ。何か他の気の利いた芸はないのかしら」
 那間裕子女史は憫笑を湛えてはいるけれど、しかしながら、なかなかに土師尾常務如きでは及びもつかないような迫力のある、決して笑って等いない鋭い眼容を土師尾常務に投げ付けるのでありました。そうしてその目を今度はゆっくりと頑治さんに向けるのでありました。多分お前も何か云ってやれ、と要求しているのでありましょう。
 頑治さんは大いにたじろぐのではありました。しかしこの土師尾常務攻撃の急先鋒たる三人に比べて、自分は見事に一歩も二歩も出遅れたと云うような思いがあって、おいそれと那間裕子女史の指嗾に乗って土師尾常務攻撃に加わるのは、どことなく躊躇いがあるのでありました。何やらそれでは単なる浮ついたお調子者ではありませんか。
「何だ、その云い草は!」
 土師尾常務としては自分を堪忍出来ないくらい軽々しく扱う那間裕子女史に対して、精一杯の憤怒を表するのでありました。多分その内心の心臓のはち切れそうなおどおど感は別にして、ここは自尊心から引くに引けないころでありますか。
「話しの内容じゃなくて、言葉遣いとかにしかイチャモンをつけられないところも、もううんざりするくらいこれ迄に何度となく見せて貰ったわね」
 那間裕子女史には土師尾常務の怒りなど屁の河童と云うところでありましょうか、全く歯牙にもかけないような素振りであります。
「土師尾君、好い加減にしないか」
 社長が先ず土師尾常務を窘めるのでありました。「それに那間君も云い過ぎだ」
(続)
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あなたのとりこ 602 [あなたのとりこ 21 創作]

 喧嘩両成敗は仲裁とその後の手打ちの鉄則でありますから、勿論社長は那間裕子女史に対しても苦言を呈するのでありました。
「土師尾君のように一々喧嘩腰になっていたら話がちっとも前に進まないよ。それに那間君にしても、もう少し上司に対して弁えたもの云いをすべきじゃないのかね」
 社長にそう云われて一応は社長の顔を立てる心算か、那間裕子女史はちょろっと舌を出してから苦笑いして嘴を噤むのでありました。それに比べて土師尾常務の方は苦虫を噛み潰したような表情で、未だ何事か云いたそうに口をモグモグと動かすのでありました。この対比はまあ、一連のこの二人の遣り取りに於ける両者の気持ちの余裕の度合いを表しているのでありましょう。那間裕子女史の方が土師尾常務よりも、人の悪さとか抜け目なさとか性根の座り具合なんぞの点に於いて、一枚上手と云う判定になるでありましょうか。

 均目さんが社長の顔を凝視しながら云うのでありました。
「人員整理とか我々の待遇改悪と云う事を社長が対策としてお考えだと云うのは、勿論納得出来ませんが一応お伺いしました。その上でお訊きしますけど、こちらとして到底受け入れ難いそのような事を受け入れさせようと云う訳ですから、当然社長や常務の待遇と云う点に於いても、従業員以上に厳しいご処断をされるお心算があるんでしょうね?」
「我々だけに苦渋を嘗めさせてそれで済ます心算じゃあ、勿論ないですよね?」
 袁満さんも続くのでありました。
「どうせまた自分に好都合な事ばかり考えて、こちらには到って厳しく、自分達には甘々に事を収めようとしているんじゃないでしょうね」
 那間裕子女史も懐疑的な目を社長に向けるのでありました。
「それは敢えてここで、君達に態々云う必要なんかないだろう」
 土師尾常務が社長に代わって不機嫌な顔でこの三人の顔を見渡しながら無愛想に云うのでありました。「今日の話題はあくまでも従業員のこれから先の待遇の事なんだから」
「そんな一方的で、手前勝手な理屈がありますか!」
 袁満さんが声を荒げるのでありました。「これ迄の経営的責任を取って、社長と常務がその責任に見合うだけ身を切る心算でいるんだから、従業員も相応に痛みを分かち合ってくれないか、と頼むのが本来の筋と云うものじゃないですか」
「何を偉そうに袁満君は云っているんだ!」
 土師尾常務も負けないように声の調子を刺々しくするのでありました。「抑々経営責任なんかじゃなくて、君達の社員としての無責任と無気力と無能振りがこういう結果を招いたと云う点が、さっぱり判っていないようだな、袁満君は」
「ほう、それじゃあ経営責任と云うのは一切無いと云う認識ですか?」
 均目さんが皮肉な笑いを湛えて訊き質すのでありました。
「一切、とは云わないよ。つまり君達の怠惰な働きぶりをきちんと指導矯正出来なかったと云う責任は、深刻に反省しているよ」
 この土師尾常務の言に那間裕子女史が吹き出すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 603 [あなたのとりこ 21 創作]

「何を頓珍漢な反省の弁なんかのたまわっているのよ。そんなんじゃなくて業績がこういう風に傾いたのは、あなたの役員としての頓馬のせいじゃないかって訊いているの。片久那さんの百分の一も役員としての自覚もないし責任も果たしていないのに、何を偉そうに一から十迄人のせいにして、そんなにのうのうとしていられるものよねえ」
「僕は僕なりに、一生懸命に取締役としての責任は果たしてきた心算だ」
「その、僕は僕なりに、と云う云い草がつまり、取締役の任務に対するインチキを、暗に認めている事になるんじゃないの。僕は僕なりにやっていればそれで済む話しじゃないでしょう、役員と云う仕事は。全く了見が幼稚と云うのか頼りないと云うのか。そんな程度でよく、常務取締役でございますなんて大きな顔してふんぞり返っていられるわね」
 那間裕子女史邪そう捲し立てて、舌打ちでこの言を締め括るのでありました。
「那間君に役員の仕事を教えて貰う必要は何もないね」
 土師尾常務は鼻を鳴らして見せるのでありましたが、那間裕子女史の剣幕に気圧されているのが、その眼鏡の奥の目玉の微動具合からありありと窺えるのでありました。
「僕な僕なりに、とか、その辺の気の利かない子供みたいな事を、何の恥じらいもなく云うものだから、その頼りなさにすっかりうんざりさせられるのよ」
「まあ、那間君、その辺で」
 社長が口を出すのでありました。しかしどことなく控え目なこの割って入り方から察すると、社長も土師尾常務の云い草に役員としての矜持とか頼り甲斐とかを全く見出す事が出来なくて、那間裕子女史の不謹慎な発言を厳しく叱責する事が出来にくかったのでありましょう。土師尾常務は社長にも愛想尽かしをされたような具合でありますか。
 社長に制止された那間裕子女史は、まあここも一応社長の顔を立てるように、口を噤むのでありました。社長まで徒に逆上させるのは得策ではないと一応弁えていると云う事でありますか。社長も土師尾常務の頓珍漢振りがここに来て判ったようでありますし。
「で、社長と土師尾常務の待遇の変更に関して、相当の流血を要求されている我々には、あくまでも内緒にすると云うお心算ですか?」
 均目さんが社長の口元を見ながら訊くのでありました。
「まあ、私としては勿論、君達に大変な事をお願いするんだから、けじめとしてそれ相応の処置をこちらとしても蒙る心算ではいるよ」
「具体的にはどんな事ですか?」
 袁満さんが身を乗り出すのでありました。
「僕の役員報酬を向う一年間半額とする心算だ」
「ほう、半額ですか。立ち入った事になりますが、それはお幾らになるんですか?」
「ええと、まあ、月額で五十万くらいになるかな」
 社長はそう云って甲斐計子女史を見るのでありました。つまり甲斐計子女史は職務上社長の報酬を知っているのでありましょうから、それを確認する心算で、或いは自分の云う数字の信憑性を甲斐計子女史に担保して貰おうと云う狙いからでありますか。思わぬところで社長に目を向けられた甲斐計子女史は狼狽を見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 604 [あなたのとりこ 21 創作]

「ええと、多分そのくらいになるかしらねえ。はっきりとした数字は云えないけど」
「ほう、五十万円ですか。それでもここに居る我々従業員の、春闘で改定された月額賃金と比較して、誰も足下にも及ばないくらい遥かに多額ですよね」
 均目さんが些か白けたような云い草をするのでありまいた。「ま、役員なんだからお前等社員如きの賃金と比較されるのは片腹痛い、と云うところかも知れませんけどね」
 しかし半額で五十万と云う事は全額なら百万と云う事で、その額は幾ら零細企業とは云え、社長の報酬としては少ないのではないかと頑治さんは考えるのでありました。前に何かの話しの序に小耳にしたところに依ると、全労連の他の小規模企業の、部長クラスの給与とそれはあんまり変わらない額でありますか。
 まあ、社長は経営者と云うだけで、日常業務には殆どノータッチで、贈答社の主たる仕事を何もしていないのでありますから、それくらいで妥当と云えば云えるのかも知れませんが。その辺の社長の会社に於ける立ち位地を勘案して、この額はひょっとしたら片久那制作部長辺りが決めた数字なのかも知れないと、頑治さんはふと思うのでありました。
 社長としても片久那制作部長に妙に座った目でそう云い渡されると、おいそれと逆らえないばかりか、成程その辺りが妥当な線だと云う具合に、云い包められたと云う経緯等があったのかも知れません。それでもしかし何だか間尺に合わない、と云う不平が実は社長の心根の内にあったけれど、でもそれを云う勇気はないし。・・・
「で、常務の方はどうなんですか?」
 袁満さんが口を尖らせて訊くのでありました。
「土師尾君は実質的にこの会社の管理一切を取り仕切っている訳だから、私としては報酬をカットするのは実に忍びないところではある」
 これは土師尾常務の代わりに社長が云うのでありました。
「会社の管理一切を取り仕切っている、ですか?」
 袁満さんが大袈裟に吹き出すのでありました。「常務がそんな大した事をしている訳がないじゃないですか。片久那制作部長が居た頃は殆どの管理業務を丸投げにして、単なる営業マンとしてのみの仕事をしてきた人ですよ。それも熱心な営業マンとして働いていた訳でもなく、例えば日比さんがあくせくしてようやく契約成立の段まで運んだ仕事を、横からしゃしゃり出て来て、ちゃっかり自分の業績として横取りするような事をしたり」
「そんな卑劣な事はしていないよ、心外な。何を証拠に、そんな悪意のある、口から出任せの法螺を袁満君は吹いているんだ!」
 土師尾常務は社長の手前なのか、これはきっぱり否定するのでありました。いや社長の手前と云うよりは、ひょっとしたら土師尾常務は本気の本気で、今袁満さんの云ったような事には全く覚えがないのかも知れませんし、袁満さんに身に覚えのないとんでもない濡れ衣を着せられようとしていると、本気の本気で憤怒しているのかも知れません。
「なにをそんなに狼狽えているのかしら?」
 那間裕子女史がからかうのでありました。
「狼狽えてなんかいないよ!」
(続)
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あなたのとりこ 605 [あなたのとりこ 21 創作]

 土師尾常務はここでもムキになるのでありましたが、例によって迫力不足は否めないのでありました。実際土師尾常務と那間裕子女史では、生来の気が弱いとか強いとかもありはするのでありましょうが、諸事に対する根本的な胆の据え方がまるで違うのでありましょう。二人を対比して見ていると頑治さんにはそれが良く判るのでありました。
「若しかして心の底から自分は卑劣な事はしていないし、従業員の目を気にしなくちゃいけないような疚しい行為はしていない、なんて思っているのかしら?」
 那間裕子女史は目尻に憫笑を湛えるのでありました。
「那間君は一体何を云っているんだ!」
 土師尾常務は熱り立つのでありました。「そんな事を僕がする筈がないじゃないか」
「へえ、それじゃあ幾つか、ここで具体的な話しをしましょうか?」
 那間裕子女史の目が何やら嗜虐的な光を湛え始めるのでありました。「まあ、社長の手前それを暴露されるのが怖いものだから、全く身に覚えの無い事だと、ここで大慌てで体面を繕っているんでしょうけど、内心はおどおどして心臓がはち切れそうになっているんじゃなんないかしら。だからそうやって必死の形相になっているんでしょう?」
「人を愚弄するのも程々にしておけよ!」
「愚弄しているんじゃなくて、本当の幾つかの事実を暴露して差し上げましょうかと云っているのよ。単にあたしの印象とかじゃなくて、事実を事実として」
 那間裕子女史は自信たっぷりに土師尾常務を追い詰めて見せるのでありました。
「そんなものがあるのならはっきりと云って貰おうじゃないか」
 土師尾常務は対抗上きっぱりとそう云い放つのでありましたが、那間裕子女史に対する苦手意識を差し引いても、どこか旗色が悪そうな按配でありましたか。と云う事は、土師尾常務としても全くの寝耳に水と云うよりは、ほんの小指の先程くらいは、社員に対しても、自分自身に対しても、後ろ暗い気持ちがあると云う事でありましょうか。
「こうなったら俺も云わして貰うよ」
 袁満さんが大仰に身を乗り出してきて参戦するのでありました。「これまで遠慮していたけど、こうなったら云いたかったことをここでぶちまけさせて貰う」
「まあまあ、土師尾君も那間君も、それに袁満君もちょっと落ち着いて」
 また社長が間に入って仲裁役を務めるのでありました。「そんな事を云って対立し合っていても、何の役にも立たないじゃないか」
「ええと、確かにこのようないざこざは今日の会議には無関係な事ですけど」
 ここで均目さんがおずおずと云った感じで喋り始めるのでありました。「話しを少し前に戻しますが、つまり社長のお考えとしては、会社の管理一切を、責任者として全幅の信頼を置いて任せている土師尾常務の報酬カットとか待遇の見直しに関しては、今の儘で何も変更する気がない、と云う事でよろしいのですね?」
「まあ、そう云う事をするには忍びない、と云う気持ちがあるよ」
「実態は多分ご存知無いでしょうが、そこ迄常務を信頼されていると云う事ですね?」
「まあ、そう受け取って貰っても構わないかな」
(続)
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あなたのとりこ 606 [あなたのとりこ 21 創作]

 社長がそのように土師尾常務を庇うのは、まさか本当に土師尾常務に全幅の信頼を置いているため、と云うのではないのではないかと頑治さんは考えるのでありました。もしかして社長がいくら盆暗な目をしていたとしても、土師尾常務と云う人がそれ程信頼を置ける人かどうかは、接していれば疑わしいと少しくらいは判るでありましょう。頑治さんは今迄接してみて、社長はそれ程に頓馬ではないとは思われるのであります。
 であるとしたら、社長は土師尾常務をすっかり信用しているところを従業員に見せる事に依って、何がしかの効果を狙っていると云う事でありましょうか。しかし何の効果を狙っているのかは、今のところ頑治さんにはさっぱり判らないのでありました。土師尾常務への揺るぎない信頼は寧ろ従業員の不信感を誘発、増幅しかねないのでありますから、これはもう逆に、効果も何も狙い難いと云うものではないでありましょうか。
「社長は何を根拠としてそのように土師尾常務を信頼されているのでしょうかね?」
 均目さんが首を傾げて訊くのでありました。均目さんとしても今の頑治さんの疑問と同じ疑問を抱いたのでありましょう。
「それは今迄、土師尾君が我が社の実務のトップとして、会社を引っ張って来た実績があるためだ、と云うしかない」
 社長はしれっとそう云うのでありましたが、そのしれっとした云い様がいかにも何か屈託あり気で、何やら思惑があってそう云っているようにも見えるのでありました。
「実務のトップ、ですって?」
 那間裕子女史が哄笑するのでありました。「本気で社長がそう思っているのなら、それは頓珍漢も窮まったと云うところかしら」
 勿論この那間裕子女史の無遠慮な言葉に社長は嫌な顔をするのでありました。しかし今迄散々那間裕子女史の無礼に対する土師尾常務の逆上を宥めて来た手前、ここで自分が興奮して大声を出す訳にはいかないからか、そのような醜態を見せるのはグッと堪えるのでありました。何に依らずエエ格好しいの面目躍如というところでありますか。

 急に土師尾常務が喋り出すのでありました。
「僕は我慢するとしても、社長に対してその云い草は失礼じゃないのか、那間君」
 ここは自分を高く買ってくれている社長に対する忠義の見せどころであります。
「ちっとも我慢なんかしていなかったじゃないの」
 那間裕子女史はここでも哄笑するのでありました。「ちょっと挑発されるとすぐに頭から湯気を出して、まんまとこっちの思い通りの反応を見せていたくせに」
「社長に対して全く弁えがないと云っているんだ、僕は」
「まあまあ、ここでそんなに社長に自分を売り出さなくてもいいじゃないですか。社長も常務の忠誠心は重々笑止、いや、承知されているようですから」
 均目さんがからかい半分、いや、からかい八分の口調で云うのでありました。それに那間裕子女史と袁満さんが同調して笑い声を立てるのでありました、頑治さんと日比課長、それに甲斐計子女史は何とか漏れ出ようとする笑いを我慢するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 607 [あなたのとりこ 21 創作]

「まあ、社長に対するあたし達の無礼をここでいきなり大声で云い立てて見せる事で、一気にこちらの態度や物腰の不手際のみを必要以上に強調して、ここから先の議論を自分達有利に持って行こうとしているのかも知れないけど、それは返って社長の、穏便に話し合いを進めていこうとしている意に反しているんじゃないかしら?」
 那間裕子女史もからかい口調で均目さんの後に続くのでありました。「尤もこれは、議論のいっぱしの策士だと、あたしが土師尾さんを買い被っているだけで、本当はそんな策略もテクニックも全くない単なる頓珍漢なのかも知れないけどね」
 ここでも袁満さんが同調の笑い声を立てるのでありました。頑治さんと日比課長、それに甲斐計子女史は、竟漏れそうになる笑いをここでも再度堪えるのでありました。
 その笑わない三人組に目を付けたのか土師尾常務が、先ずこの三人組の中の日比課長に険しい目を据えるのでありました。
「日比君も、こんな均目君や那間君や袁満君と同じ意見なのか?」
 急に自分に土師尾常務の矛先が向いたものだから、日比課長はあたふたするのでありました。それからこそこそと横目で社長の顔色を窺いもするのでありました。
「いやまあ、すんなり同調する心算ではないですが、袁満君等の云っている事も一理ありはするかなあ、とはちょっと思いますがね」
 日比課長は旗幟を鮮明にするような云い草は避けるのでありました。
「つまり僕がこの会社に何一つ貢献していない、駄目役員だとは思わないんだな?」
「駄目な役員とは全く思いませんよ、勿論。ただ、社員とのコミュニケーションが得意じゃないせいか、専横だと見られるきらいはありますかねえ」
「確かに君達の何に依らずもたもたしている仕事振りなんかは、見ていて非常に腹立たしく感じる事がある。だから竟、厳しい対応になる点は認めないでもない。僕個人としては宗教者として、未だ至らない部分があると反省するところだが」
 土師尾常務は日比課長の言に、険しい顔をした儘頷き返すのでありました。
「良く云うわ。片久那さんがそう云うのだったら納得もするけど、土師尾さんがそんな科白を吐くのは、如何にも烏滸がましいと云うものじゃないかしら」
 那間裕子女史がまたここでも哄笑するのでありました。「第一、宗教者として至らない部分がある、とか一見殊勝らしいところを醸し出そうとする肚が、全く以って卑しい性根の証明と云うものよ。土師尾さんが立派な宗教者だとここに居る誰が思っていると云うの。そんな事をのうのうと本気で考えているようなら、それは自己省察の足りないお目出度いにも程がある頓馬、と云われても仕方がないんじゃないかしら」
 この那間裕子女史の言には例に依って均目さん袁満さんが同調の笑いをするのでありましたが、日比課長もごく控え目ながらその笑いの組に加わるのでありました。
「甲斐君もそう思っているのか?」
 土師尾常務は、今度は甲斐計子女史に憮然たる顔を向けるのでありました。
「まあ、そうね」
 甲斐計子女史はやや遅れて、この笑いの組に参加するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 608 [あなたのとりこ 21 創作]

「ああそうかね」
 あっさり甲斐計子女史に肯定されて仕舞ったので、土師尾常務は険しい眼容で甲斐計子女史を一睨みして不快感を示しながらも、次の句の接ぎ穂を失って、意ならずも何となく曖昧に語尾を収めざるを得ないのでありました。それを見て頑治さんは表面上無表情を貫きながらも、心の内で笑いの組に加わるのでありました。
「唐目君はどう思っているんだ、僕の事を」
 最後の砦、と云う訳ではないでありましょうが、土師尾常務はどこか縋るような色をその険しい眼光の中に仄見せるのでありました。
「那間さんや均目君と殆ど同じ考えです」
 頑治さんも甲斐計子女史に倣ってさっぱりといた物腰で云うのでありました。それを聞いた土師尾常務は口を尖らせて眼中の棘を一層逆立てるのでありました。日比課長は曖昧な態度ながらも、まあ、土師尾常務は完璧なる嫌われ者と云う感じでありますか。しかしこう迄従業員に良く思われていないのがはっきりした以上、返す言葉ももうないようであります。良く思えと従業員に命ずる頓馬を仕出かす訳にもいかないでありますし。
「何だか土師尾君は皆から総好かんを食らっているようだな」
 社長は隣に座っている土師尾常務の顔を向けながらしみじみ云うのでありました。
「不徳の致すところです」
 土師尾常務はしおらしそうに云うのでありましたが、勿論本気で恐縮しているわけではないのでありました。いつか必ず全員に手酷い仕返しをしてこの恥辱を雪いでやると云った怨念を、その顔から隠そうとしないのでありました。
「ところで、こう云った不毛な誹謗中傷の消耗戦を延々と繰り返していても、会議としては全く無意味だと思いますので、この辺で一旦締め括りませんか?」
 頑治さんが唐突にそう云い出すのでありました。
「それもそうだな」
 社長がその頑治さんの提案に早速同調するのでありました。社長としてももう好い加減こんな不毛な話し合いの様相に疲れたのでありましょう。
「でもこの儘終わる訳にはいきませんよ。こんな状態で終わったなら、誰も明日から仕事をする気にはなりませんよ」
 均目さんが社長を睨みながら反対するのでありました。
「でも一端時間を置いて、少し頭を冷やしてからこの後の話しを進めないと、纏まる話しも纏まらないんじゃないのかな」
 頑治さんは均目さんに向かって云うのでありました。
「頭を冷やしてみたところで、結局また今の話し合いと同じところに戻って、誹謗中傷合戦に終始して、何処かに纏まるような話しは出来ないと思うけどなあ」
「でも、もう土師尾さんの御託をくどくどと聞きたくもないから、今日の内に覚悟して行き着くところ迄議論する方が結局纏まるんじゃないかしら」
 那間裕子女史も頑治さんの言に異を唱えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 609 [あなたのとりこ 21 創作]

「議論、と呼べるようなものなら、そうかも知れませんが」
 頑治さんはそう云って不同意であるところを尖らせた唇で表わすのでありました。
「私も唐目君の意見に賛成です」
 日比課長が云うのでありました。先程土師尾常務に無理矢理意見開帳を迫られて、それを機に少し舌の動きが活性したのでありましょうか。
「この儘誹謗中傷合戦をしていても、得るところは何も無さそうだしねえ」
 しみじみ云う社長の額には疲労の色が浮いているのでありました。
「いや、もうこの会議で何らかの決着を付けて仕舞わないと、こうして集まった意味が無いじゃないですか。あれこれ云い合いしている中で、ようやく社長には我々が常務をどういう風に見ているのか、少しは判っていただけたようですし、その上で社長から常務の待遇をどうするのか、或る程度はっきりした回答を得なくては引くに引けませんからね」
 あくまで均目さんは議論の継続を主張するのでありました。
「そうよ、社長の土師尾さんに対する考えがちゃんと聞けないなら、あたし達のこれから先の態度も決められないわ」
 那間裕子女史もあくまでも議論継続派であります。
「うーん、困ったなあ」
 社長は腕組みして瞑目するのでありました。

 暫くして俄かに均目さんが喋り出すのでありました。社長はその声に促されるように閉じていた目を開くのでありました。
「社長は常務の待遇は絶対落としたくないのですね?」
 この問いに社長は深刻そうな顔で頷くのでありました。
「まあ、これ迄会社を引っ張ってきて貰った功績は、評価しなければならないからね」
「これ迄片久那さんにおんぶに抱っこで何一つ自分で決められなかったんだし、その所為で従業員からとことん見縊られているし、反感ばかり買っているんだから評価に値しない人だ、と云うあたし達の意見には耳を貸そうとしないんですね、社長は」
 那間裕子女史は皮肉な笑いを社長に向けるのでありました。
「まあ、君達の間での土師尾君のむやみに悪い評判は傾聴しておきますよ、一応」
「常務の評価は、一先ず置くとして」
 均目さんが那間裕子女史の顔を鬱陶しそうに見ながら先を続けるのでありました。「社長が常務の待遇はその儘にしたい以上、要はその分我々の待遇を改悪したいし、そうでなければ誰かを辞めさせたい、まあ、その両方を目論んでいるのかも知れませんが、兎も角、そう云う風に考えていると云う事で、整理させて貰って構わないですね?」
 そう訊かれて社長は無言で下唇を突きだして見せるのでありました。明快に諾とは云い辛いところなので、そう云うあやふやな所作をしたのでありましょう。
「社長は情義の方だから、はっきりはおっしゃり辛いだろうから僕が代わって云うが、本心に於いては間違いなく均目君の今云った通りのお考えだよ」
(続)
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あなたのとりこ 610 [あなたのとりこ 21 創作]

「いけしゃあしゃあと良く云えるわね、そんな事が」
 那間裕子女史が土師尾常務を睨み付けるのでありました。
「つまり社長はここに居る従業員全員の賃金やら処遇を犠牲にして、常務の待遇をその儘維持したいと云うお考えだと受け取って構わないのですね?」
 均目さんは念を押すように社長に言葉をぶつけるのでありました。
「出来る事ならそんな風にはしたくはないんだよ、私は」
 社長は弱々し気に曖昧な云い草で逃げようとするのでありました。
「でも、屹度そんな風にする心算なんでしょう?」
「まあ、土師尾君の処遇を変える心算は、ないかな」
「はい、その言葉で結構です」
 均目さんはそこで口調を変えてきっぱり云うのでありました。「あくまでも社長がそう云うお気持ちなら、自分は会社を辞めさせていただきます」
 均目さんの唐突な辞意表明にこの場に居る全員が呆気に取られるのでありました。那間裕子女史迄もが目を見開いて言葉を失くしているような風であるのは、頑治さんにしたらちょっと意外の感があるのでありました。それはこの二人は何か打ち合わせのような事をした上で、この会議に臨んでいるのではないかと秘かに考えていたからであります。
 先に那間裕子女史が頑治さんのアパートに夜中に突然泥酔して現れて、それを均目さんに迎えに来て貰ったのでありましたが、その後二人にどう云う経緯があったかは知れないながら、何となくよりを戻していて、二人結託してこの会議を土師尾常務糾弾会みたいなものにしようと企んだのではないかと頑治さんは睨んでいたのでありました。今迄の会議の流れからも、この二人の結託は得心のいく推量だと思われたのでありました。
 しかしここで均目さんの辞意表明に、那間裕子女史が寝耳に水と云った顔をして驚いているところを見ると、頑治さんの秘かな推量は外れていたと云う事でありますか。まあ、土師尾常務追及は二人で示し合わせていたとしても、均目さんの辞意表明に関しては、二人の間で予め話し合われていたところではなかったと云う事なのかも知れませんが。
「ちょっと待ってくれないか」
 ここで社長があたふたしながら口を開くのでありました。「均目君は片久那君が居なくなった後の制作部の実質的責任者と云うところなんだから、均目君に辞められるとなったら、それは業務の上で会社として大いに困る事になる」
「しかし那間さんもいる事だし、そこは屹度大丈夫でしょう」
 均目さんは無表情且つ無抑揚に云うのでありました。
「そんな云い草は如何にも無責任じゃないのか」
 土師尾常務がそんな均目さんを睨むのでありました。
「貴方にそう云われる謂れはありませんよ」
 均目さんは土師尾常務を睨み返すのでありました。常務と云う呼称から、貴方、と云う云い方に変えたのは、明らかに上役に対する敬意をここに於いて放棄する、と云う表明でありましょう。つまりこれ以後上役とは思わないと云う事であります。
(続)
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あなたのとりこ 611 [あなたのとりこ 21 創作]

「急にそんな事を云われたらあたしも困るわ」
 那間裕子女史が狼狽した風の云い草をするのでありました。「片久那さんは均目君を後継として会社を辞めたんだから、その半年も経たない内に今度は均目君が辞める事になったら、この先制作部はちゃんと遣っていけなくなるじゃないの」
「そんな事はないよ。第一那間さんは俺より先輩格なんだから、制作部の仕事内容に関しては俺なんかより余程理解しているじゃないか」
「そんな事ないわよ」
 何時もは至って気丈な那間裕子女史が弱々しく云うのでありました。
「いや、俺が居なくても那間さんが居れば間違いなく大丈夫だよ。制作部関連の請求書の整理とか支払いに関する経理作業とかはそんなに煩雑な仕事と云う訳ではないし、慣れれば那間さんなら今迄の仕事を熟した上で充分やれる作業だよ、俺でも片久那制作部長が居なくなってからそれなりにちゃんと出来ていたたくらいなんだから」
「そうじゃなくて、あたしは制作部本来の、地図とか本の編集や管理仕事以外の雑用は、さっぱりする気なんかないと云っているのよ」
「でも、本当にそれ程煩雑な雑用はないよ、実際に」
「そうでもないんじゃないの、実際は」
 何だかここに至って均目さんと那間裕子女史の間の問題になって来た按配であります。この二人の遣り取りを聞きながら社長も土師尾常務も、それに他の従業員も呆気にとられたように口を閉ざして、事の様相と成り行きを見守るしかない在り様でありますか。
 それに気付いたように均目さんが周りをゆっくり見渡すのでありました。それから土師尾常務の顔に目を据えるのでありました。
「俺としては那間さんが一通り管理仕事が熟せるようになる迄は会社に居る心算だし、別に貴方みたいな無責任から会社をすぐにでも辞めると云っている訳じゃない。引継ぎはちゃんとしてから辞める心算ですよ。それに貴方は片久那制作部長の遣っていた仕事なんか自分の器量なら簡単に熟せると、社長に日頃から嘯いているんでしょうから、俺が居なくなっても、那間さんが遣れるようになる迄貴方が代わりに遣っても構わないのだし」
 均目さんは片頬に冷笑を湛えて云うのでありました。この均目さんの言を聞いて、社長は隣に座る土師尾常務の方にゆっくりと顔を向けるのでありました。
 頑治さんはこの様子を見ながら、成程紛う事なき事実として、土師尾常務は常日頃から均目さんが今、嘯いている、と云ったような大口を社長に向かってちゃっかり、さも自分が頼りになる存在であるかのように装うために叩いているのでありましょう。まあ、本当に片久那制作部長の遣っていた仕事が出来るかどうかは疑わしいところではありますし、頼りになると社長に本当に思われているかどうかも実は大いに疑問でありますけれど。
「確かに、そうなったら土師尾君に一肌脱いで貰う事も出来るか」
 社長は土師尾常務に確認するかのようにそう云って何度か頷くのでありました。
「いや、僕は今の営業の仕事と会社全体の運営を見る事で手一杯ですよ」
 土師尾常務は慌てて云ってあたふたと何度も首を横に振るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 612 [あなたのとりこ 21 創作]

「要するに本当は出来もしない事を社長に普段から臆面も無く嘯いているから、そんな云い逃れめいた事を今口にしているんでしょう」
 均目さんが憫笑を湛えて土師尾常務を見るのでありました。
「無礼な事を云わないで貰いたいな。僕だって最初は編集要員としてこの会社に入ったんだから、今の制作部で遣っている仕事程度ならすぐにでも熟せるよ」
「ほう、それはそれは」
 均目さんは如何にも冗談めかして感心して見せるのでありました。「五十万分の一地図を百三十パーセント拡大したらその縮尺が幾らに変更されるのか、そのくらいのその辺の小学生でも遣れる計算が出来ないものだから、忙しい俺に遣らせようとしたくせに」
「そんな計算くらい僕でも出来るよ、馬鹿にして貰っては困る。でもあの時は仕事の責任領分として均目君がやるべき仕事だから、均目君に任せようとした迄だ」
「何ですか、その屁みたいな理由は?」
 均目さんが吹き出すのでありました。「若しその理由がまかり間違って本当なら、それは救いようのないゴリゴリの形式主義とか教条主義云うものだな。いやそんな事を云うと形式主義者や教条主義者に対して申し訳無いと云うくらいだ。まあ、実際は本当にその小学校で習う程度の計算も自分じゃ出来ないから、と云うのが正解なんだろうけど」
「確かに、理由にもならない理由だと私も思うよ、土師尾君の今のは」
 社長も呆れ顔で横の土師尾常務を見るのでありました。よくもそんな事を口にしてそれが立派な理由として通ると考えたものだなと、頑治さんも内心、軽蔑を通り越してそのスットコドッコイ振りに感心すらするのでありました。
 ところで、均目さんが土師尾常務の馬鹿げた云い草の揚げ足を取って、それを揶揄したりからかったりする時には屹度、普段の那間裕子女史ならここぞとばかりにおいそれと同調して痛烈な皮肉の一つも一緒になってものしてくる筈であります。しかしこの場合の女史は、沈痛な面持ちをして均目さんと土師尾常務の遣り取りを傍観しているのみでありました。恐らく均目さんが居なくなった後の、ひょっとしたら自分にのしかかって来るであろう厄介事に思いを馳せていて、そんな気分には到底なれないのでありましょう。

「本気で、均目君は会社を辞める心算なのかな?」
 社長が均目さんにもう一度聞くのでありました。
「はい、その心算です」
 均目さんはきっぱり言うのでありました。
「会社を辞めて、その後どうする気なんだ?」
「それはここで云う必要はないんじゃないですか、自分個人の事なんですから」
 均目さんは鮸膠も無い云い方をするのでありました。
「それはそうだが、・・・」
「社長、ここで均目君に辞めて貰ったら、寧ろ願ってもない事じゃないですか」
 土師尾常務が社長の顰め面に言葉を投げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 613 [あなたのとりこ 21 創作]

「願ってもない事?」
 社長は土師尾常務に首を傾げて見せるのでありました。
「これ迄観察してみて、どうも均目君では片久那君の後釜としては力不足で、この先制作部を安心して任せるのは無理じゃないかと思われるので、ここは均目君の方からの申し出でもありますから、この際辞めて貰う方が良いのじゃないでしょうか」
 これはひょっとしたら先程均目さんに小学生程度の頭だと云われた事への、土師尾常務の意趣返しの言葉なのであろうかと頑治さんは考えるのでありました。
「そうするとこの先、制作の方はどうなるんだい?」
 社長はの方は那間裕子女史を横目で窺うのでありました。「那間君に任せるのかい?」
「そんなの、あたしは困るわよ」
 那間裕子女史は大袈裟に何度も首を横に振って、何が何でも絶対拒絶の意志表示をするのでありました。「さっきも云ったけど、あたしは地図や本の企画立案とか編集とか修正の仕事以外には、まっぴらご免蒙りますからね、この会社では」
「社員としてそんな自儘は通用しないだろう」
 社長が女史を一直線に見るのでありました。
「そっちの勝手でそんな事決められても困るわよ」
「でも、若し均目君が会社を辞めたら、・・・」
 ここで袁満さんが横から言葉を割り込ませるのでありました。「後は那間さんしか制作部には居ないんだから、責任者を引き受けるしかないんじゃないですか?」
「そりゃそうだ。俺もそう思うな」
 これは日比課長の科白であります。「甲斐さんもそう思うだろう?」
 ここで急に同調を求められた甲斐計子女史は、咄嗟にどう反応して良いのか判らないと云った様子を見せるのでありました。
「唐目君もそう思うだろう?」
 甲斐計子女史の即答がなかったので日比課長は頑治さんを見るのでありました。
「まあそれは妥当なところでしょうが、那間さんの気持ちもありますしねえ。すんなり次は那間さんが責任者だと、こちらで勝手に決め付けるのもどんなものでしょうかねえ」
 甲斐計子女史程にはあたふたしないものの、頑治さんも即答と云うのはまったく当たらない程度の間を置いて、同意と云うには何となく曖昧な云い草をするのでありました。
「そうよ、あたしの気持ちもあるんだからね、これは」
 那間裕子女史がどこか悲壮な調子で云うのでありました。
「別に那間君に均目君の後釜を頼もうと云う訳でもない」
 土師尾常務はなかなかきっぱりと云うのでありました。
「じゃあどうする心算なんですか」
 袁満さんがそのきっぱりさ加減に抵抗するような語調で訊くのでありました。
「どこか他から適任の人を連れて来る、と云う事かな?」
 社長も土師尾常務の意を読み兼ねているようであります。
(続)
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あなたのとりこ 614 [あなたのとりこ 21 創作]

「そうではありません」
「ではどう云う解決策を考えているのかね?」
「この際制作部を廃止すれば良いのじゃないでしょうか」
「制作部の廃止?」
 社長はここで目を見開いて驚くのでありましたが、頑治さんは単なるこの場の体裁として驚いて見せているのではないかと疑うのでありました。この制作部の廃止と云う路線は予め社長と土師尾常務の間で前から共謀されていた事で、丁度制作部の実質的責任者である均目さんが辞意を表明したので、しめしめとばかりここで土師尾常務が持ち出したのではないでありましょうか。なかなかに息の合った漫才コンビでのようであります。
「そうです、制作部の廃止です」
 土師尾常務は重々しく頷きながら繰り返すのでありました。
「そんな事をしたら贈答社と云う会社自体が全く成り立たなくなるんじゃないか?」
「いや、そうでもありませんよ」
 土師尾常務が妙に自信あり気な表情で続けるのでありました。「ここのところ自社製品と他社製品の売上比率を較べてみると、他社の売り上げの方が上回っています。それはつまり、自社に魅力的な商品がないという事です。それは片久那君は、僕にすればあれこれ物足りない部分はあったけど、それなりの商品企画力がありましたから、売り上げに占める自社商品の割合も六十パーセント程度はありましたが、それももう頭打ちで、片久那君が居なくなった後は、ギフトにしろ販促企画物にしろ他社製品の方が圧倒しています」
「でも自社製品を切り捨てるのはなかなか勇気の要る事じゃないだろうか。それに他社製品より自社製品の方が圧倒的に利益率は高いんだし」
「それはそうですが、でも売り上げに於ける自社製品の割合は、魅力的な商品が生み出せない以上、漸次減っていくしかないでしょう。利益率の高さに目が眩んで自社製品に拘った営業をしていると、この先深刻な事態に陥るのは見えていると僕は思いますよ。ここ何年かの売り上げ低迷は、つまり自社製品偏重の考えのためではないでしょうか」
「うーん、成程それも、一理はあるかな」
 社長は瞑目して顎に握り拳を添えて、まあそれは頑治さんの目に映る様として如何にも芝居っ気たっぷりと云った風に、首を縦に何度か動かすのでありました。
「おまけに均目君では片久那君の代わりになるとは到底思えないので、この際自社製品を軸に営業を展開する事をきっぱり諦める、と云う選択もしっかり考えるべきですよ」
 土師尾常務は横目でチラと均目さんを見るのでありましたが、その目には勝ち誇ったような軽侮の色と、この会議に於いてと云うばかりではなく、今迄事あるにつけ散々自分をコケにしてくれた事への報復成就の喜びの色が浮かんでいるのでありました。

 暫くの沈黙の後に均目さんが喋り出すのでありました。
「ええと、まあそう云う事なら、自分の辞意も認めて頂いたと考えて良いのですね?」
 社長と土師尾常務が一緒に均目さんを見るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 615 [あなたのとりこ 21 創作]

「それは自分勝手よ。無責任な事云わないで」
 社長でもなく土師尾常務でもなく、ここで那間裕子女史が声を上げるのでありました。皆の視線が一斉に那間裕子女史に向かうのでありました。ただ土師尾常務だけは自説の展開に水を差しかねない発言だと、警戒心を眼鏡の奥に覗かせるのでありました。だから機先を制する心算でか、均目さんよりも先に言葉を発するのでありました。
「均目君が辞めたいのなら、こちらは別に引き留めないよ」
 土師尾常務は多少慌てた風に云うのでありました。社長の方はもうその土師尾常務の発言に待ったをかけないのでありました。
「あたしは土師尾さんに云っているんじゃなくて均目君に云っているのよ。妙に調子に乗ってペラペラと、別に話しかけられてもしていないのに、嵩にかかってくるように横から割り込んでこないでよ、鬱陶しいわね」
 そう云われて土師尾常務は眉根を寄せて目を怒らすのでありましたが、だからと云って特段何も云い返そうとはしないのでありました。これはまあ、理由の半分はいつもの那間裕子女史に対する苦手意識が作用したからでありましょう。
 しかしそればかりではないような按配であります。つまり不謹慎にも自分を鬱陶しがるような口調の那間裕子女史に憤怒した事実もありはするけれど、妙に調子に乗ってペラペラと話しかけられてもいないのに横から嵩にかかって割り込んでくるな、と云う那間裕子女史のピシャリとした云い草に、自分の魂胆の内の真ん中辺りをズバリ云い当てられて仕舞ったような動揺を、秘かに感じたが故かも知れないと頑治さんは思うのでありました。で、単なる苦手意識だけではなくて思わず言葉に詰まったと云う次第でありますか。
「無責任と云われればそうかも知れないけど、今の常務の云い草を聞いていると、俺は会社に必要とされていないようだし、こちらとしても、そんな会社に居続ける理由もないし義理もない。そうなると或る意味で、俺が会社を辞めるのは円満な解決と云えなくもないんじゃないかな。まあ、そう云う事でしょう、ねえ土師尾常務?」
「確かに考え様に依ってはそうとも云える」
「何を二人で得心したように尤もらしく頷き合っているのよ、癪にさわるわね!」
 那間裕子女史は激したように前のテーブルを平手で叩くのでありました。「均目君も出し抜けに辞意表明するんじゃなくて、前以てあたしに云って置いてよ。会議中にいきなりそんな事云い出すのはあたしに対する配慮とか遠慮とかが足りないんじゃないの!」
「ああ、その点は申し訳ないところもあったけど、でも俺の進退は俺が決める事で、予め那間さんに話そうが話すまいが、俺の辞意自体を変更する心算は更々ないけどね」
 こう云う遣り取りを聞いていると、矢張り那間裕子女史と均目さんの仲はあの日以来、ギクシャクとした儘のようでありますか。
「それなら、あたしも辞めるわ、こんな会社」
 那間裕子女史もここで辞意表明であります。「制作部を取り潰して他社商品だけでこの先会社を遣って行く気でいるようだし、そうなるとあたしも必要としない訳よね」
 那間裕子女史はそう吐き捨てて土師尾常務を睨むのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 616 [あなたのとりこ 21 創作]

「那間君の今表明した辞意も、尊重するよ」
 土師尾常務はまんまと那間裕子女史が自分の謀に嵌ってくれたと云う風の、底意地の悪そうな笑みを眼鏡の奥の瞳に湛えるのでありました。
「ええと、・・・」
 皆の耳目が突然ここで喋り出した頑治さんに集まるのでありました。「この会議はここいら辺りで、取り敢えずストップ、と云う事にしませんか」
 袁満さんが口を半開きにした儘、事の推移に呆気に取られて仕舞って何も喋りそうにないものだから、頑治さんが出し抜けに話し出したのでありました。
その頑治さんにすぐさま土師尾常務が鋭い視線を投げるのでありました。折角良い按配に議事が進行しつつあるのに、この唐突な頑治さんのお開き提案なんと云うものは、土師尾常務にとっては全く以って余計なもの以外ではないでありましょう。社長も何やら不愉快そうな表情を浮かべて、頑治さんから目を逸らすのでありました。
「袁満さん、ここで一旦会議を中断した方が良いと思いますよ」
 土師尾常務の視線の棘や社長の不快なんぞはものともせずに、頑治さんは呆けた顔の儘であるにしろ、こちらを向いた袁満さんに強請るように再度そう云うのでありました。
「ああそうだね、・・・中断した方が、良いよね」
 袁満さんはようやく正気に戻ったように同意の頷きをするのでありました。
「中断する事はない。話しは段々具体的なところに入って来たんだから」
 土師尾常務が袁満さんにも鋭い視線を投げるのでありました。
「いやもう、これは社内の全体会議の中で話し合うべきものではなく、我々にとっては明らかな労働問題として、組合案件として処理するべきところの問題ですよ」
 頑治さんは土師尾常務の視線にあたふたする気配を見せる袁満さんを励ますように、少し声を張ってそう云いながら土師尾常務を睨むのでありました。
 何方かと云うと諸事控え目で事を荒立てる事を嫌う弱気なヤツだ、と思っていた頑治さんのその意外な視線の強さに土師尾常務は一瞬たじろぎを見せるのでありました。しかしここで怖じる必要なんか何処にもないと、自分を励まして頑治さんを睨み返そうとするのでありましたが、どうしてだか調子が狂ったように何時もの気勢が出せないようで、例の如く眼鏡の奥の目玉を弱気に微揺動させるのでありました。
「どうしよう、均目君?」
 袁満さんは均目さんに縋るように言葉をかけるのでありました。こんな袁満さんを見たらすぐさまここぞとばかりに逆上して見せて、容赦ない怒鳴り声で以って袁満さんを黙らせようとするのが土師尾常務の何時もの手なのでありましたが、頑治さんに鋭く睨まれていて、その無言の威圧に自分でも判らないけれど何故か畏れ入って仕舞っているため、逆上する契機を失って袁満さんに何もアクション出来ないような具合でありますか。
「俺は別に続けても打ち切りにしてもどちらでも良いけど、まあ、組合員の皆に前以て云わないで、ここで唐突に辞意を表明した事は何となく申し訳ないとは思っているから、袁満さんがこれで会議を切上げると云うのならそれに従いますよ」
(続)
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あなたのとりこ 617 [あなたのとりこ 21 創作]

「ところで、どうして全体会議の問題じゃなくて、組合案件なんだ、唐目君?」
 社長が身を乗り出しながら訊くのでありました。社長としても他者を交えず社内の人間だけで、この制作部廃止と云う提案を話し合いたいと云う目論見でありましょう。それなのに他者の中でも最も避けたいところの全国組織の労組連合の上部の人間が絡んできて、事態が妙な具合に拗れるのは全く以ってげんなりと云うところでありましょう。
 社内の人間相手だけなら、社長と云う立場を以って無理筋でも自分の主張を押し通す自信はあるけれど、社外の、しかも労働問題の専門活動家に首を突っ込まれるとなると、なかなか思う壺とは行かなくなると云うものでありますか。それどころか、とんでもない悪徳経営者と云う事にされて、あらぬ恥辱を味わう事になるかも知れないのであります。
「それは、会社の機構改革に依って明らかに職を失う従業員が居るからですよ」
 頑治さんは眉根を寄せて不愉快そうな口調で云うのでありました。この不愉快そうな口振りてえものはつまり頑治さんの心根の内としても、これが労使問題とか労働組合案件だとはっきり云い切る確信が実はなかった故であります。何となれば社長や土師尾常務からは、制作部の廃止、と云う提案がなされただけであって、それが明快に即均目さんや那間裕子女史の会社からの追い出しと云う話しではないからであります。寧ろ均目さんも那間裕子女史も、経緯としては自分の方から会社を辞めると云い出したのでありますから。

 社長が乗り出していた身を背凭れに引くのでありました。
「確かに機構変更と云う事にはなるけど、別にそれで制作部の均目君や那間君に会社を辞めて貰いたいとこちらから云った訳じゃない。例えば均目君と那間君には、この先制作過程を熟知しているところを活かして、新たな営業社員として活躍して貰う事も出来る」
 この社長の言に頑治さんは肚の中で秘かに小さく指を鳴らすのでありました。
「今の社長のおっしゃり様は、前に聞いた事がありますねえ」
「前に、そんな事を私が云ったかね?」
「いや、社長ではなく常務と片久那制作部長でしたかね」
 頑治さんの口から不意に自分の名前が出て来たものだから、今度は土師尾常務がソファーの背凭れから身を乗り出すのでありました。
「土師尾君と片久那君に?」
 身を乗り出した土師尾常務ではなく社長が訊くのでありました。
「そうです。前に制作部に居た山尾主任を制作部から営業部に移動させようとした時に、今社長がおっしゃられた事と同じ理屈で以って説得しようとして、だったですかね。だからその時は社長ではなく常務と片久那制作部長が結託して、と云うことになりますか」
「僕は知らないよ。それは片久那君が勝手に、そんな風な事を云って山尾君を説得しようとしたんだろうさ。別に僕は片久那君とその点で結託していたんじゃ、・・・」
 土師尾常務が頑治さんの言に抗おうとするのでありましたが、どうしたものか頑治さんに一睨みされて、急に語尾を曖昧にして口を閉ざすのでありました。恐らく今迄に見た事のない頑治さんの眼光の強烈さに、おどおどと尻尾を巻いたのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 618 [あなたのとりこ 21 創作]

「その経緯に関しては後に片久那制作部長から少し詳しく俺は聞いた事がありますが、それによると常務も一枚噛んでいて、二人で結託した事は間違いないですね」
 これは均目さんが云うのでありました。頑治さんは均目さんが片久那制作部長から山尾主任の営業部コンバートの件に関して何か詳細を聞いていると云うのは、これはひょっとしたら一種のハッタリではないかと、頭の隅でちょいと疑うのでありました。
 まあつまり、順当に考えて山尾主任の後継になるであろう均目さんになら、ひょっとしてその辺りの詳しい事情を片久那制作部長は話したかも知れないと、土師尾常務が勝手に憶測する事を期してのハッタリであります。実はそんなところを均目さんが知っている筈もないのだろうけど、ひょっとしてひょっとしたらと云う、大体が気の小さい土師尾常務の弱気にまんまと付け込んで、心根を揺さぶってやろうと云う魂胆であります。
「そんな事は絶対にないよ。第一均目君に、そんな事を片久那君が云う筈がない」
 土師尾常務はムキになって云い返すのでありました。
「そんなにムキになって、否定しなくても良いですよ」
 均目さんは余裕たっぷりの口振りで片頬に笑みを浮かべていうのでありました。
「ムキになんかなっていないよ!」
 土師尾常務はよりムキになるのでありました。
「ああそうですか。それならそう云う事にして置いても構いませんよ」
 均目さんは嘲弄するように鼻を鳴らすのでありました。こうなってくると小心で短気と云う特徴を持つ土師尾常務は、大いに分が悪いと云うところでありますか。実は結託と云う程の謀めいた事実はなかったとしても、この土師尾常務の態度に依ってその疑いは返って濃くなったと云う印象であります。ま、均目さんの目論見通りであります。
「要するに、如何にも山尾主任の時と遣り口が似ていると云っているんですよ」
 頑治さんが後を引き取るのでありました。「制作部から営業部に調子の良い事を云って鞍替えさせて、その後にお客さんに対する態度とか言葉遣いとか、その営業の遣り方とかの細々とした点に一々難癖をつけたり罵倒したりして、結局居たたまれなくして会社を自分から辞めさせようと云う肚なのでしょう。それに、出雲さんの地方特注営業の時も、同じ遣り口で意地悪を繰り返した挙句の果てに、いびり出したんでしたよね」
「馬鹿な! そんな、訳じゃ、・・・」
 土師尾常務は先ず弁解しようとして強く頭の言葉を吐くのでありましたが、頑治さんの顔を見ながら、次第に尻すぼみに弱々し気に語調を落とすのでありました。どんな思いの経緯かは確と判らないながら、土師尾常務はここにきて急に、頑治さんと云う存在を那間裕子女史の如く苦手と感じ取って仕舞った、或いはもっと云うと、自分の小細工とか口から出任せが全然通用しない相手と、ハッと驚くように覚ったと云う按配でありますか。
 その土師尾常務の動揺が伝わるものだから頑治さんとしては、ここは一番それに乗じない手はないと云うものであります。
「そんな訳じゃないと、未だ云い募る心算ですか?」
 頑治さんは無表情で半眼に土師尾常務の目を見つめるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 619 [あなたのとりこ 21 創作]

「まあ、どう云う風に取られようと構わないがね」
 土師尾常務は不貞腐れたように云ってそっぽを向くのでありました。これは頑治さんに自分の動揺を見透かされないようにするために、不貞腐れを装って合わせていた目を気弱に逸らした、と云う事になるでありましょう。
「今更、誤魔化しはなしですよ」
 頑治さんは目を逸らした土師尾常務を一直線に見据えているのでありました。その刺すような強い眼光を頬に感じて、土師尾常務は居心地悪そうに居住まいを無意味に正すのでありました。落ち着かない風情が頑治さんにだけではなく他の誰彼にも、土師尾常務としては慎に不本意ではあるだろうけれど、はっきりと伝わるのでありました。
「じゃあ、ここ迄で一端、全体会議を終了して良いですよね?」
 袁満さんが土師尾常務の弱気に付け込むように乱暴な口調で訊くのでありました。土師尾常務は頑治さんにはどうした訳か判らないながら畏れ入ったけれど、別に袁満さんに迄脅威を感じる必要はないと自分を励まして袁満さんの方に目を向けるのでありましたが、どうしても頑治さんの視線を頬に感じて仕舞って、それが何とも気になって気になって、袁満さんに迄も何だか遠慮がちになって仕舞うのは悔しい限りでありましょう。
「社長も、ここで会議を打ち切る事を了承されますね?」
 土師尾常務が何も云わないので、いや、云えないような風情なので、袁満さんが今度は社長を見るのでありました。
「いや、組合対経営、と云う構図ではなく、この社内の全体会議と云う形式でもっと会社の将来像やら在り方やらを私は話し合いたいと思うけど、・・・」
「もう社内の全体会議と云う体裁では、我々はこれ以上の話しは出来ませんね」
 頑治さんがきっぱり云うのでありました。
「そう云わないで、この会議を続けようじゃないか」
 社長は土師尾常務程には頑治さんの何時も見る眼容と顔付きが変化した事に気付いていないようで、と云うのか、生来の鈍感さの故か頑治さんの目付きには無頓着なようで、些かのんびりした調子でそう云いながら背凭れに身を引くのでありました。
「それは受け入れられません」
 頑治さんの云い方は鮸膠も無いのでありました。
 大概の場合なら、或いは袁満さんがそう云う云い草をしたのなら土師尾常務が横からしゃしゃり出て来て、社長に対して無礼だとか慎みがないだとか捲し立てるのが恒の光景でありましたが、この時は口を閉ざした儘で非干渉の態度を貫くのでありました。
「組合として、これ以上会議を続行する事を拒否します」
 袁満さんも断固云い放つのでありました。
「異議なし」
 空かさず頑治さんが、これも強い調子で続くのでありました。その頑治さんの言葉を追って那間裕子女史も異議なしを表明するのでありましたし、均目さんも後に続くのでありました。甲斐計子女史は慣れないせいか出遅れて口をモゴモゴするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 620 [あなたのとりこ 21 創作]

「こうなった以上、組合員はこれで退出して、今後の組合活動の方策を話し合いますが、日比さんは組合員ではないから、それに同調して貰う必要はないよ」
 袁満さんが立ち上がって横に座っている日比課長を見下ろすのでありました。均目さんも那間裕子女史も、それに頑治さんも立ち上がるのでありました。
 袁満さんにそう云われて一人取り残されたような形になった日比課長が、おどおどと袁満さんに上目遣いの視線を投げるのでありました。組合員からは仲間外れを宣されたような具合だし、従業員の中では腐れ縁の長い付き合いである社長や土師尾常務に対しては、何となく不躾な態度に出る事が憚られると云うところでありましょう。日比課長としては、ここはどうにも悩ましいと云った立場のようで、こうしてほんの少しく逡巡している間に、何となく腰を浮かすチャンスを逸して仕舞ったような感じでありますか。

 組合員は非組合員の日比課長を残して、社長の再度の慰留も袖にして社を出て行くのでありました。こう云う展開になるとは誰しも考えてはいなかったのでありますが、こうなった以上この儘解散すると云う訳にもいかず、袁満さんの提案で組合活動の後に時々行く神保町の居酒屋に席を移して集会すると云う恰好になるのでありました。
 一通りの酒肴の注文が済むと、均目さんが切り出すのでありました。
「何だか突然会社を辞めると云い出して、混乱させて申し訳なかったですね」
 均目さんは袁満さんに頭を下げるのでありました。
「いやあ、参ったよ」
 袁満さんは冗談調にではなく、真から苦渋の面持ちで返すのでありました。
「俺もまさかあそこで、均目君が辞意表明するとは思わなかった」
 頑治さんが続くのでありました。予測はしないでもなかったけれど。
「あたしも一応驚いたけど、何だかこのところずうっと抱いていた均目君に対する不信感みたいなものが、これではっきり確証されたような気がしたわ」
 那間裕子女史が無愛想にそう云って、均目さんにまるで天敵を見る時のような憎悪に満ち溢れたような目を向けるのでありました。その目は、那間裕子女史と均目さんの間に、何の結託もない事を証明しているようだと頑治さんは思うのでありました。矢張りこの二人は、あの事件、の後に何の関係修復の努力もしなかったようでありますか。
「で、均目君はここに至っても、未だ会社を辞める気でいるの?」
 袁満さんが首をやや傾げて訊くのでありました。
「まあ、辞めるつもりは変わってはいません」
 均目さんが居心地悪そうに頷くのでありました。「でも、辞める時期は考えます」
「そんな弁解じみた事云っていないで、辞めたければさっさと辞めて仕舞えば良いのよ。別に止める心算なんか更々ないから」
 那間裕子女史が鼻を鳴らすのでありました。
「それなら、均目君が辞めた後は、那間さんが制作部の責任者を引き受けると云うんですか? まあ、制作部は結局那間さん一人しか残らない事になる訳だけど」
(続)
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あなたのとりこ 621 [あなたのとりこ 21 創作]

「それはご免蒙ります」
 那間裕子女史はきっぱりと云ってから、自分の前の未だ一口か二口程しか飲んでいないビールジョッキをやや重そうに持ち上げるのでありました。
「均目君にさっさと辞めろと云って置いて、それは無責任なんじゃないの」
 対面に座っている甲斐計子女史が持ち上げていたウーロン茶のグラスをテーブルの上の厚紙トレーに置いて云うのでありました。全体会議中は終始沈黙していたのにここで声を上げたものだから、皆の視線が甲斐計子女史に集中するのでありました。
「あたしの無責任を論う前に、均目君の無責任を追及して貰いたいものよね。断っておくけどあたしは本の編集とか、地図やその他の図版のデザインとか、そう云った仕事はやるけれど、制作部の請求書の整理とか材料在庫の管理とかの、細々した事務仕事には入社以来一貫して無関心を決め込んでいたんだから、今後も遣る気は一切ないんだからね」
 那間裕子女史は不貞腐れたような云い草をするのでありました。
「まあ、そう云った態度だったのは何となく判っていましたけどね」
 袁満さんが渋い顔をして納得の頷きをするのでありました。
「でも大企業の、製作部員が何人もいる会社じゃないし、均目君が辞めるとなったなら、残った那間さんが、好きも嫌いも、否も応もなく引き受けるしかないんじゃないの」
 甲斐計子女史は那間裕子女史の不貞腐れ具合に負けないくらいの、やけにつんけんした云い草をするのでありました。
「そんな事勝手に決めないで貰いたいわ」
 対抗上、那間裕子女史が不機嫌に云い棄てるのでありました。この二人は普段からそんなに親しく会話をする仲と云う訳ではなかったけれど、かと云ってこう云う風の喧嘩腰で屡云い争いをするような険悪な間柄でもなかったのでありました。
「それじゃあうちの会社はどうなるのよ?」
 甲斐計子女史は明らかに甲斐計子女史が制作部の責任者を引き受けない事に腹を立てているようでありました。腹を立てるべき第一番目はそこではないと頑治さんは思うのでありましたが、それを云ってもここでは詮ないと思って沈黙を守るのでありました。
「だって、土師尾さんが制作部を潰すと云っているんだから、ウチの会社がその後にどうなるのかは土師尾さんに訊いてみたら良いんじゃないの。そう云い出したんだから、屹度明確な将来像があるんじゃないの。あたしはそんなのにちっとも興味はないけど」
「甲斐さんとしては要するに、兎に角会社だけは存続して欲しいと云う立場かな?」
 袁満さんがやや首を傾げて訊くのでありました。
「それは、失業するよりはマシよ」
 甲斐計子女史は無愛想に云うのでありました。直截にそうだと明言しないし、云い草が無愛想であるのは、つまりそう考えている事がまるで裏切り行為を働いている時のような後ろめたさが、気持ちの隅の方に少しくあるからでありましょうか。部署の廃止とそれによって発生する就労環境の変化とか待遇の改悪とか解雇なんかの労働問題よりも、取り敢えず多少切り下げられても給料が保証される方を個人的には願う、と云うような。
(続)
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あなたのとりこ 622 [あなたのとりこ 21 創作]

「土師尾常務は制作部を廃止して、他社商品の取引だけで今後は会社を存続させると云う風に目論んでいるようだけど、それは現実に可能なんだろうか?」
 袁満さんが独り言のように呟くのでありました。
「ちゃんと数字の裏付けや会社の明確な将来像があって云っているんじゃなくて、要はそれでやっていけるかも知れないと云う、一種の勘とフワッとした感触だけだろうなあ」
 均目さんが云うのでありましたが、まあ、そんなところだろうと頑治さんも思うのでありました。綿密さと云うところでは土師尾常務は信用に足らない人でありましょうし。
「現実にそれで遣っていくとして、それにはどんな条件が付くのだろうか?」
 袁満さんは首を傾げるのでありました。
「まあ、今の人数では、売り上げとか利益の規模からして存続出来ないかな」
 均目さんがぶっきら棒に応えるのでありました。
「と云う事は、誰と誰を辞めさせる心算なんだろう?」
「それは結構はっきりしているわ」
 那間裕子女史がここで割り込むのでありました。「あたしと均目君と、それにまあ、唐目君の三人は確実でしょうね。制作部を解体しようとしている訳だから」
「まあそんなところかな。唐目君の真価も、片久那制作部長と違って土師尾常務はまるで判っていないようだから、屹度唐目君も辞めさせる心算だろうな」
「この前からの経緯から、先ず第一番目に業務の俺に目を付けたんだから、俺は当然馘首する人数の内の筈だ。ま、経緯で云えば、那間さんも俺の次に間違いないでしょうね」
 頑治さんは口元に薄ら笑みを浮かべて云うのでありました。
「そうね、あたしと唐目君は先ず間違いないわね」
 那間裕子女史も多少引き攣ったような笑みを片頬に浮かべるのでありました。
「すると残るのは日比さんと甲斐さんか」
 袁満さんが天井に目線を向けながら云うのでありました。
「袁満君も残る方に入るんじゃないの?」
 那間裕子女史がそう云って袁満さんの視線を水平位に戻させるのでありました。
「でも俺は土師尾常務に露骨に嫌われているし、組合の委員長だから土師尾常務にしたら如何にも面倒なヤツだろうし、屹度辞めさせたい方でしょうね」
「まあ、土師尾常務の下ではあくせく働いても、その甲斐は全くなさそうな按配かな」
 那間裕子女史は納得の頷きをするのでありました。
「俺もそんな会社に未練はないですしね」
 袁満さんはそう云って忌々しそうに舌打ちするのでありました。
「誰を残して誰を辞めさせる気なのか、そうやって会社を存続させたとして、残った社員の待遇はどうなるのか、その辺を社長と土師尾常務に訊き質してはどうですか?」
 頑治さんが提案するのでありました。
「そうね、そうすればひょっとしたら甲斐さんの不安も解消するかも知れないわね」
 那間裕子女史がビールジョッキを置いて甲斐計子女史の方を見るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 623 [あなたのとりこ 21 創作]

「あたしだって辞めさせる心算でいるのよ、屹度」
 甲斐計子女史は自棄気味に断言するのでありました。
「しかし会社の会計仕事を遣れる人は必要なんじゃないかな」
 袁満さんが甲斐計子女史のグラスのウーロン茶の残り具合を見るのでありました。
「でもあたしの遣っている仕事は、誰でも遣れるし、下の紙商事の女の子にでも見させれば済むとか、前に社長は云っていたんだから、それはつまりあたしが、会社にとって掛け替えのない人材だとは、全く思っていないと云う事なんでしょうからね」
「しかし社長の云う通りに、そうは上手くいかないんじゃないかな」
「社長がそう考えているんだから、何とかなるんじゃないの、知らないけど」
 甲斐計子女史にそう云う風につんけんしながら断言されると、袁満さんとしてはその後には強く否定出来ないのでありました。まあ、袁満さんも実は、甲斐計子女史の仕事はそれ程に専門的でも熟練が要る仕事でもないと考えていると云う事でありましょうか。
「とまれ誰を残して誰を辞めさせる心算なのか、それにそうなった後の会社の将来像を、残った者の待遇面の事も含めてどう云う風に描いているのか、それで会社を続けて行けると云う自信とか確証があるのか、明日にでも団交を申し入れてちゃんと訊き質してみると良いんじゃないかな。当面そう云うアクションしかなさそうだし」
 均目さんが結論するように云うのでありました。
「でもそれでは向うの云い分を、こちらが一定程度認めたと云う事にならないかな?」
 頑治さんが反論するのでありました。
「しかし他に、こちらの取れるアクションはないと思うけどね」
「それは均目君が、もう会社を見限ったからそう云う風に云えるんだよ」
 そう頑治さんが云うのは尤もだと云うように袁満さんが横で頷くのでありました。
「でも労働組合案件だと啖呵を切って全体会議をボイコットしてきた以上、何らかのアクションを早々にこちらから起こさないと、何だか迫力に欠ける事になるんじゃないの」
 那間裕子女史はそう云った後に、ほんの少し間を空けて付け足すのでありました。「こう云っているけど、あたしもまあ、見限った方の口だから深刻ではないけどね」
「全総連の方には相談しないで良いのかな?」
 袁満さんが均目さんに訊くのでありました。
「まあ、しなくとも良いんじゃないですか」
 均目さんはどこか好い加減に聞こえるような感じで云い切るのでありました。
「組合案件だと云った以上、全総連に相談して、アドバイスを貰ってからこの後の遣り方を決める方が道理だし、無難なんじゃないの?」
 甲斐計子女史も相談賛成派のようであります。
「じゃあ、明日にでも相談に行ってみるよ。その後に何をするか会合を持つ事にした方が良いかな。まあ均目君ほど簡単に未だ会社を見限っていない俺としては、ちょっとこの後にどういう風に遣るべきか、考えあぐねて仕舞うところもあるからね」
 袁満さんは均目さんへの皮肉を込めたような云い方をするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 624 [あなたのとりこ 21 創作]

「まあその辺は袁満さんの遣り方に任せますよ。組合迄足蹴にして出て行く心算は毛頭ありませんからね。残る皆さんが残り易い状態で俺は辞めさせて貰いますよ」
 均目さんはそう云ってビールグラスを取り上げるのでありました。
「あたしも一定程度の解決策が見えてから、綺麗さっぱり会社を辞める心算よ」
 那間裕子女史が後に続くのでありました。
「那間さんも本気で辞める心算なんですか?」
 袁満さんは那間裕子女史の辞意は、ものの弾みで表明されたものだと受け取っているようであります。そこが那間裕子女史としては気に入らないようで、女史は袁満さんを怒気を含んだ目で睨み付けるのでありました。
「袁満君、あたしが伊達や酔狂で会社を辞めると云ったとでも思っているの?」
「いや、そんな事は、・・・」
 袁満さんはあたふたと弁解するのでありました。どうやら那間裕子女史の眼光に竟そわそわして仕舞うのは、土師尾常務一人だけではないようでありますか。

 次の日、出社してすぐに全総連に、昨夜居酒屋で話された相談事を持っていこうとする袁満さんを、土師尾常務がそう云う企図で袁満さんが外出しようとしているとは先ず知らない筈でありますが、寸でのところで引き留めるのでありました。
「袁満君、ちょっと良いかな?」
 声をかけられた袁満さんはドアノブにかけていた手をその儘そこに置いて、顔だけで土師尾常務の方に振り返るのでありました。
「何か用ですか?」
「今日の夕方にもう一度全体会議の場を持ちたいんだが、どうだろう?」
「今日の夕方、ですか?」
 そう繰り返されて土師尾常務は何時もの無愛想と高圧的な態度をどういう魂胆からか脇に置いて、どこか懇願するような慎みを湛えた風情で袁満さんに一つ頷いて見せるのでありました。これはどうした風の吹き回しやらと、脇でこの二人の遣り取りを見ていた頑治さんは、少しの警戒心を抱きながら二人の話しに耳を欹てるのでありました。
「昨日は尻切れトンボに終わって仕舞ったので、会社の将来像について具体的なところを交えて少し詳しく、こちらの話しを聞いて貰いたいんだよ」
「それは当然、社長も同じ考えなんでしょうね?」
「そう。これは社長の指示でもある」
「ああそうですか」
 袁満さんは土師尾常務に猜疑の目を向けた後、今度は自席で耳を欹てている頑治さんの方に視線を送って寄越すのでありました。どう応えて良いのやら考えあぐねていると云った困惑がその眼容に蟠っているのでありました。頑治さんはその視線を受けて一つ袁満さんに頷きを返してから、すぐに席を立って制作部スペースに行くのでありました。勿論この件について均目さんと那間裕子女史に意見を求めるためであります。
(続)
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あなたのとりこ 625 [あなたのとりこ 21 創作]

 制作部スペースに向かう頑治さんの背後で土師尾常務が袁満さんに向かって、昨夜会議を終えた後で社長と二人居残ってあれこれ協議して、家に帰ったのは午前零時を回って仕舞ったよとか、くだけた口調ながら恩着せがましく云っている声が聞こえて来るのでありました。それに対して、そんな事は別に頼んだ訳でもいないしそちらの勝手じゃないですか、と袁満さんが不愉快そうに返す声も聞こえて来るのでありました。
「今ちらっと聞こえたけど、今日の夕方に全体会議だって?」
 制作部スペースに入ると頑治さんが切り出す前に、均目さんが首を後ろに回してそう訊いてくるのでありました。
「そう云う土師尾常務の要望だけど」
 頑治さんは別にそれ程でもなかったけれど、機先を制されて驚いた、と云うような表情をして均目さんを見返すのでありました。
「で、その要望に応える心算なの?」
 これは那間裕子女史が訊く言葉でありました。
「それを確認したいんだけど」
 頑治さんは均目さんと那間裕子女史の顔を交互に見ながら云うのでありました。
「俺はとしては袁満さんの考えに従うだけだけどね」
 均目さんがどこか他人事のような調子で応えるのでありました。まあ、もう既に会社を辞めると決めた身としては、ここで敢えて自分の意見を云うところではないと云う考えなのでありましょう。那間裕子女史にしてもそこは同様でありましょうか。
「じゃあ、ちょっと下の倉庫で協議したいから、来てもらえるかな」
「今からかい?」
 均目さんがどういう了見からか少し躊躇いを見せるのでありました。
「今からじゃ何か都合が悪いのかな?」
「十時に下版したフィルムを受け取りに印刷屋が来るんだよ」
 そう云われたので頑治さんは自分の腕時計を見るのでありました。
「やるかやらないかの確認だけだから、二十分もかからないよ」
「それなら構わないけど」
 均目さんはそう云いながら立ち上がるのでありましたし、那間裕子女史も釣られるようにやや遅れて椅子から腰を浮かすのでありました。
 頑治さんは行きしなに甲斐計子女史も促して、袁満さんには下を指差して今から倉庫に集合と云うサインを送って、日比課長を除く一同は事務所を出て行くのでありました。
 未だ倉庫の扉に行き着くに、駐車場の辺りで止めてある車を擦り抜けながら、袁満さんが頑治さんに話しがけるのでありました。
「昨日の今日、またぞろ全体会議を提案してくるのは、どういう魂胆なんだろう?」
「どうしても全総連には出て来て欲しくないんじゃないですか」
「面倒な労働問題を抱え込みたくないと、そう云う事なのかな?」
「まあ、そんな考えからでしょうね」
(続)
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あなたのとりこ 626 [あなたのとりこ 21 創作]

 倉庫に入ると作業台を五人で取り囲んで、袁満さんが一同をゆっくり見渡して、最後に頑治さんに視線を留めて訊くのでありました。
「こちらとしてもこれは労働組合案件だと啖呵を切った手前、全総連の人を交えて団交と云う形式で話し合うと云うスタンスを貫くべきだと思うけど」
「まあ、そんなにこちらの啖呵や面目に拘る必要はないんじゃないですかね」
 頑治さんは悠長に聞こえるような口調で云うのでありました。そうだそうだ、是非とも全総連を巻き込んだ労働争議として対するべきだと、頑治さんが袁満さんに同調して大いに煽るものだと袁満さんとしては予め憶測していたようで、頑治さんのそんなどことなく呑気そうな応え方を聞いて、大いに調子が狂ったようであります。
「じゃあ、全総連にこの間の一連の話しを持ちこむ前に、もう一度全体会議の提案を受け入れると唐目君は云うのかな?」
「まあ、一端全総連にこの話しを持ちこんでしまうと、社長や土師尾常務と決定的に対立して、もう喧嘩腰だけの関係になって仕舞いますからねえ。その覚悟が我々組合員全員に出来ているのなら、この儘労働組合案件として突っ走っても良いでしょう。しかし、未だどこか腰が引けているところがあるんじゃないですか?」
 頑治さんはそう云いながら甲斐計子女史を見るのでありました。甲斐計子女史は頑治さんの視線からおどおどと目を逸らせて、胸の前で掌を合わせて右手の指を左手の指に絡めたりしながら何となく落ち着かない気配でありました。詰まるところ甲斐計子女史は一種の怖じ気と面倒を忌避したいと云う思いから、社長や土師尾常務と決定的に対立しても構わないと云う覚悟は未だしっかりとは出来てはいないのでありましょう。
 そんな甲斐計子女史の様子を見ながら、袁満さんは少し眉を顰めるのでありました。それなら袁満さんは断固決定的な対立を支持しているのかと云うと、生来の性質から、出来れば穏便に事を運びたいと、本心では思っているのだろうと考えるのでありました。別に見透かすとか、人の悪い侮りからそう疑っているのではないのでありましたが。
「袁満さんも、下手に全総連を巻き込んで労働争議化して、社長や土師尾常務とこの先延々と争っていくのはうんざりなんじゃないですか?」
 頑治さんは袁満さんを下から嘗め上げるような目をして訊くのでありました。
「そう訊かれると、それは確かにそんな厄介事を背負い込みたくはないけど、・・・」
 袁満さんは陰鬱な小声で応えるのでありました。
「俺だってご免ですよ」
 頑治さんがそう云って息を抜くような笑いをすると、袁満さんはどこかホッとしたような表情になって、下げていた目線を上げて頑治さんの顔を見るのでありました。
「じゃあ、全体会議の提案を、蹴るんじゃなくて受けるのね?」
 那間裕子女史が焦れったそうに袁満さんに訊くのでありました。
「ええまあ、どうしたものか。・・・」
「ま、あたしや均目君はどうせこの会社を辞めていく身だからどっちでも良いけど」
 那間裕子女史が袁満さんの曖昧な態度を侮るような云い方をするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 627 [あなたのとりこ 21 創作]

「唐目君は土師尾常務の全体会議の提案を受け入れる心算かい?」
 均目さんが倉庫の備品の、黄色いビニールバンドを結束するための金具を取って、所在なさ気にそれで手混ぜしながら訊くのでありました。
「まあ、そうだね」
「昨日労働組合案件だからこうこれ以上全体会議を続ける訳にはいかないと、社長や土師尾常務に啖呵を切って真っ先に席を立ったのは唐目君じゃなかったかな」
 均目さんは猜疑の色を湛えた上目遣いをするのでありました。
「そうだけど、だからと云ってこの儘全総連を巻き込んだ団体交渉に持って行くには、俺もそうだけど、こちらの気構えが未だ確立出来ていない状態だから、ちょっと無理があるかと考えたんだよ。それならもう一度、会社の将来像とかを具体的なところも交えて話しを聞いて貰いたいと、まあポーズなんだろうけどあの土師尾常務が下手に出てきているんだし、頼まれる儘それに乗ってもこちらの不利にはならないんじゃないかな」
「そうかなあ」
 均目さんは頑治さんのその言に納得しないようでありました。「まあ、袁満さんや甲斐さんや唐目君がそう云う目論見なら、別に俺はそれに従うけどね」
「俺も唐目君の意見に賛成だな」
 袁満さんが均目さんを横目で見ながら云うのでありました。「確かにこの儘労働組合と経営側の対立として事を運んでいくのは、あまりに性急に過ぎるような気がする。この前まで春闘ですったもんだしていて、曲がりなりにもやっとそれが片付いたのに、また同じようなすったもんだの繰り返しかと考えると、正直げんなりしてくるよ」
「春闘が片付いたって袁満君は云ったけど、それが反故にされようとしているんだから、未だちっとも片付いていない訳じゃないの」
 那間裕子女史が少しからかうような語調で云うのでありました。
「それはそうだけど、またあの社長や土師尾常務と一悶着遣り合うのかと思うと、気持ちが陰鬱になってきますよ。そう云う気持ちは那間さんも判るでしょう?」
「まあ、それは判らなくもないけど、でもやっと勝ち取った成果が台なしになりそうなんだから、ここは踏ん張りどころで、強い対抗力を見せるべきじゃない」
「この会社を辞める人が、そんな事を嗾けるのは烏滸がましいんじゃないの?」
 甲斐計子女史が那間裕子女史を睨みながら言葉を挟むのでありました。那間裕子女史は甲斐計子女史に、女史と同じくらいの険を含んだ鋭い目を向けるのでありました。
「そう云う風に云われれば、もうあたしには云う言葉はないわ」
 那間裕子女史は聞えよがしに舌打ちするのでありました。「どうせあたしは辞める人間だから、後の事は残る人達であれこれ考えれば良い事だしね」
 結局、辞めていく均目さんと那間裕子女史はこの件に関してつべこべ云う資格はないと自らも認めるところなので、袁満さんの決定に皮肉な笑いを返して態度を保留するのでありました。袁満さんは頑治さんと甲斐計子女史の同意を確認して、土師尾常務の今夕の二度目となる全体会議提案を飲むと結論して、倉庫での集会を解散するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 628 [あなたのとりこ 21 創作]

 事務所に戻ると袁満さんは早速、土師尾常務に今夕の全体会議を受け入れる旨通告するのでありました。土師尾常務は安堵六分と会心四分の笑みを湛えて、袁満さんに数度頷いて見せてから、早速社長に報告するために事務所を出て行くのでありました。

 土師尾常務はその日の夕方の二度目の全体会議の冒頭に、頑治さんにニヤニヤと勝ち誇ったような笑みを投げて寄越すのでありました。
「労働組合案件だから、もう全体会議と云う形式では話し合いに応じないと云い切って
昨日敢然と席を立った事を、唐目君は家に帰ってから反省したのかな?」
「別に反省した訳では全くありませんが、常務が昨日の自分の態度が気に入らないと未だおっしゃるのなら、またここで席を立ってあげても構いませんよ」
 頑治さんが無表情で一睨みすると土師尾常務は、例の目玉の微揺動を見せてから視線を逸らして慌てて口を噤むのでありました。頑治さんがその儘じっと目を釘づけている間、何度かその目に対抗しようと視線を合わせてくるのでありましたが、しかし土師尾常務はどう仕様もないように目が合うとその都度すぐに、あたふたと視線を横にずらすのでありました。どうやら昨日来の苦手意識が拭い去られていないような様子でありますか。
「いやいや、再度の話し合いを提起したのはこちらなんだから、未だ会議が始まってもいない内にまた席を立たれて仕舞っては困るよ」
 土師尾常務ではなく社長が冗談交じりの口調で、頑治さんを取り成すような事を云って笑い顔を向けてくるのでありました。何やら魂胆があるような風情でありますが、まあ、魂胆と云っても要は従業員に社長と土師尾常務の提起する勝手な会社再建案を呑ませると云うもので、頑治さんに向かって愛想笑いを繰り出す必要は別にないでありますか。
 それとも、あっと驚く秘策を胸の内に秘めていて、頑治さんの怒りを一応抑えて置く必要があるのでありましょうか。ま、その辺も話しを聞けば判るでありましょう。
「で、態々そちらから再び社員だけの会議を持ちかけてきたその意図は何ですか?」
 袁満さんが社長に向かって無愛想に訊くのでありました。
「それは組合対我々の団交と云う事になると、日比君一人が話し合いに参加出来なくなると云う事になるからね。これは拙いからね。社員全員で話し合うのが大原則だから」
 社長は尤もらしい事を真顔で云うのでありました。
「いや、日比さんに話し合いに参加して貰う手立ては、何とでもなりますけどね」
 袁満さんはさらっと受け流すように返すのでありました。 
「兎も角、組合対我々と云う対立に持って行く前に、全員の参加に依る率直な話し合いが絶対必要だと判断したからだよ」
「要するに全総連に出て来られると事が大仰になって、自分達に分が悪いと思ったからでしょうけど、まあ、その辺は脇に置くとして、早く具体的な話しに入りましょうよ」
「そうかね。それならこれから土師尾君の方から説明して貰う事にするよ」
 そう云われて今まさに全員の耳目を集めている事にピント外れの昂揚感でも覚えてか、土師尾常務はそれとなく居住まいを正して咳払い等して見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 629 [あなたのとりこ 21 創作]

「先ず話さなければならないのは、・・・」
 土師尾常務は何となく上目遣いになって、皆の気配を窺うような風情をするのでありました。なかなか話し辛いのでありましょう。
「変な間を空けないで、さっさと話してくださいよ」
 袁満さんが先を促すのでありました。土師尾常務はそんなぞんざいな言葉で急かされるのにカチンときたようでありましたが、袁満さんを一睨みしただけで、それにイチャモンを付けるのはグッと我慢するような様子を見せるのでありました。
「話さなくてはならないのは、つまり、賃金とか待遇の事だ」
「賃金と待遇を、どう切り下げようと云うのですか?」
 そちらの魂胆なんかは疾うに推察が付いているよ、と云うような見縊りの笑みを湛えて袁満さんは更に先を促すのでありました。
「つまり、・・・賃金は今の基本給を全従業員二十パーセントカットして、住宅手当は廃止として、家族手当と役職手当は現行の儘と云う風にしたいと考えている」
「家族手当と役職手当の支給を受けるのは日比さんだけと云う事ですから、要するに他の我々は諸手当を全部カットすると云う事になる訳ですね?」
「まあ、結果としてそうなるかな」
「何が、結果として、ですか。すっかり組合員だけを狙い撃ちにする目論見のくせに」
 袁満さんはこれ見よがしに舌打ちして見せるのでありました。
「しかし基本給の二十パーセントカット、と云うのは組合員も日比君も同じだ」
「何を無意味な、と云うのか、ふざけた云い訳をしているんですか」
 袁満さんが蔑むような視線を土師尾常務に送って鼻を鳴らすのでありました。
「別にふざけてなんかいないよ」
 土師尾常務は不快感を露わにそうに云うのでありました。
「本気でふざけていないと云っているのなら、その神経を疑いますね」
 袁満さんはこれ見よがしに溜息を吐いて見せるのでありました。「まあいいや。それで、賃金の関連ではそれだけですか?」
「あとは今年の冬のボーナスも全額カット、と云う事にしたい」
「まあ、そう云う事も云うだろうとは想像が付いていましたけどね」
「会社を存続させるためには、そのくらいしないと年を越せないよ」
「で、そうする事で今の従業員の雇用は保証されるんですか?」
「それでも未だ厳しさは軽減されないかも知れない」
 土師尾常務は調子に乗るのでありました。そんな土師尾常務の芝居じみた深刻顔から、社長と日比課長を除いた全員が、呆れてこれ以上会話を続けるのもうんざりだと云うような顔をして目を背けるのでありました。
「じゃあ、待遇とは別の件として、一体誰と誰の首を斬る気でいるんですか?」
 袁満さんがうんざり顔の儘もう一つの問題を持ち出すのでありました。
「勿論こちらとしては全員会社に残って欲しいと云う気持ちはある」
(続)
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あなたのとりこ 630 [あなたのとりこ 21 創作]

「そう云う勿体ぶったまどろっこしい云い回しは抜きにして、要するに誰と誰を会社から追い出す心算でいるんですか?」
「そんな云い方はないだろう。袁満君が考えている程こちらも非情ではないよ。どうして猜疑の目でしか見る事が出来ないんだ?」
「だから!」
 袁満さんは例によって例の通りの土師尾常務の話し振りに苛々して、眉根を寄せて聞えよがしの舌打ちをするのでありました。「そっちの妙な方向に故意に話しをはぐらかさないで、端的に誰と誰なんですか?」
「袁満君は僕の事を一体どういう風に思っているんだ? 僕だって会社の将来像と社員の事を真剣に考えて、僕なりに誠実に対処しようとしているんだ。僕は僧侶と云う顔も持っているんだから、誤解に基づく変なイメージであんまり見ないで欲しいな」
「はい々々判りましたよ。で、誰と誰ですか?」
 袁満さんはげんなりして土師尾常務から目を背けるのでありました。
「俺と那間さんは勿論、辞めさせる口に入っているんでしょう?」
 土師尾常務の本筋から完全に脱線した無関係で身勝手窮まる抗議をこれ以上続けさせないためか、均目さんが言葉を差し挟むのでありました。
「まあ、自分から辞めたいと申し出ているんだから、こちらが辞めるなとは云えないだろうね。それは均目君と那間君の自由意志なんだから」
「何となく無責任な云い草に聞こえるけど、ま、こちらの意志を曲がりなりにも尊重していただけるようだから、その点は感謝しますがね」
 均目さんは土師尾常務に憫笑とも取れる笑いを投げるのでありました。
「勿論あたしにも、辞めないでくれとは云わないんでしょうね」
 那間裕子女史も続くのでありました。
「君達二人が営業社員として会社に残りたいと云うのなら、考えるよ」
「まっぴらご免だわ」
 那間裕子女史は哄笑するのでありました。「残ってくれと懇願されてもお断りよ」
「懇願する気は毛頭ないよ、その点は安心してくれ」
 土師尾常務は薄ら笑いを浮かべて那間裕子女史を挑発するのでありました。
「それは良かったわ」
 那間裕子女史も負けまいとして鼻を鳴らして見せるのでありました。
「序にここで話しておくけど、この二人が辞めると云うのだから、制作部の廃止の話しはこれで自然に解決、と云う事になる訳だな」
 土師尾常務は、これは実に思う壺だと云う風に畳みかけるのでありました。
「本当に自社製品を棄てて仕舞う心算なんですか?」
 袁満さんが念を押すのでありました。
「営業的に見て、制作部を存続させても、もう売れる製品は生み出せないだろうからな。今ある書籍や地図類の版権を売れば、多少は急場を凌げるだろうし」
(続)
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