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あなたのとりこ 301 [あなたのとりこ 11 創作]

「賃上げや一時金の額とか賃金式とか、あの回答書自体を考えたのは片久那制作部長だろうけど、片久那制作部長は渋ろうとする社長に、最低限あれくらいの回答をしないと、この先泥沼のような労働争議を抱える会社になるとか云って脅したんだろうな」
 均目さんが社長と片久那制作部長との間で行われたであろう遣り取りを想像するのでありました。まあ多分、そう云う話しも出た事でありましょう。
「でも、会社にあれだけの賃上げと一時金を出す余裕があるのは、事実よね」
 那間裕子女史が猪口を呷るのでありました。
「売り上げが落ちても、それをカバー出来るだけの社内留保が、未だたんまりあるんだろうな。俺達にはそんな事噯にも出さないで、会社が危ないと騒いで見せていたくせに」
 均目さんが舌打ちするのでありました。「一生懸命危機の演技をしていたけど、ここに来てあの回答でそれが嘘だった事がばれた訳だ」
「じゃあ、営業部の再編にしても、本当に必要だったんスかねえ」
 出雲さんが袁満さんの酌を両手で受けながら首を傾げるのでありました。
「そうだよな、今から考えれば単に俺達の危機感を煽って、一時金を出し渋った事の云い訳に、悪乗りの大騒ぎを演じて見せたと云うだけだったかもね」
 袁満さんが自分の猪口に手酌で酒を注ぎながら云うのでありました。
「でも営業部の再編と云うか、立て直しは、それとは無関係に必要な事よ」
 那間裕子女史は嫌にクールな目で袁満さんを見据えるのでありました。「効率とか生産性とか云う意味で、あたしが見ても生ぬるい感じだったもの」
 そんな那間裕子女史の指摘に袁満さんは苦った表情をして目を逸らすのでありました。即座に何か云い返したいところではあるものの、女史と自分の弁の巧拙とか頭の回転数とか、主に年齢差に由来するのであろう日頃の立ち位置の上下、それに自身の大らかさやら奥床しさ等に鑑みて、袁満さんとしてはここはグッと堪えるのでありました。
「でも営業部再編が一時金不払いを正当化するための後付けの単なる方便以上では無かったとしたら、それで会社を辞める羽目になった山尾主任は、その手ひどい犠牲者と云う風にも云えますよね。今となってはすごく気の毒なような気がしますけど」
 頑治さんが抑制気味ながら義憤に駆られたような口調で云うのでありました。
「そうだよな。別に会社を辞めるところまで追い込まれる筋合いは何も無かったんだ」
 袁満さんも大いに憤って見せるのでありました。
「でも山尾主任の場合、辞表を出すに当たっては個人的な理由もあったようだし」
 均目さんが袁満さんの憤りに水を差すのでありました。
「そうね。どちらかと云うとそっちが主だったような節があるわね」
 那間裕子女史も至極冷淡なのでありました。どうやら制作部のこの二人に関しては、同じ部署で仕事をしていてあれこれ思うところがあった故か、山尾主任に対しては然程の同情を寄せていないあっさりした態度のようでありますか。しかしまあそう云われると確かに、制作部に残っていたとしても山尾主任は早晩、均目さんの云うところの、個人的な理由、から会社を辞めていただろうなあと頑治さんは考えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 302 [あなたのとりこ 11 創作]

「まあ、会社を辞めた山尾主任の事はこの際置くとして、今回の回答を見る限り、気の滅入るような係争が延々と続くような気配は無くて、何となく妥結出来る線が見えるな」
 均目さんが故意になのか自然になのかは判らないながら、山尾主任の話題を脇に退けて先程の回答書の方に話しの重心を戻すのでありました。
「そうだね。概ねこちらの意を酌んでいるからね」
 袁満さんが同意するのでありました。
「後は額次第よ」
 那間裕子女史はあくまで回答書に示された額には不満のようでありました。
「その増額の点も含めて、もう一二回団交を重ねれば、妥結に至りそうだよなあ」
 袁満さんは楽観的な観測を述べるのでありました。「思いもしなかった労働組合結成とかで、妙に感情的になられたら面倒だなと思っていたけど、意外に対抗的な反応じゃなくて良かったよ。まあ、土師尾営業部長が前面に出てこないで、万事に事なかれ主義の社長と、片久那制作部長が主導しているのかこちらには好都合と云うものだよなあ」
「元々土師尾さんにはこんな事態への対処能力なんか何も無いわ」
 那間裕子女史は歯牙にもかけていないような云い草をするのでありました。
「片久那制作部長にしても土師尾営業部長の口出しを許す気は全くないようだから、交渉はこの後も屹度上手く運ぶんじゃないの」
 袁満さんが話しを締め括るようにそう云うと皆で同意の頷きをするのでありました。那間裕子女史は回答額に再三不満を表明するのでありましたが、袁満さんも均目さんも、それから出雲さんも、額について実は然程の不満は感じていないようでありました。賃上げ額も何時もの年よりも是正額が加味される分多いと云う事でありますし、夏の一時金も例年程度は保証を得たようでありますから。ま、頑治さんとしても同様でありました。
 それに片久那制作部長が交渉の実権を握って前面に在る限り、この後の紛糾は考えられないと云うものであります。社長が思いもかけない理由で急に臍を曲げない限りは。

 二次回答日を控えた数日前の日曜日に、夕美さんが愈々東京での生活を切上げて故郷に帰るので、頑治さんは東京駅迄見送りに行くのでありました。引っ越し作業やら卒業式やらでこのところずっと夕美さんはバタバタとしていて、頑治さんはなかなかゆっくりとは会えないのでありました。それでも引っ越し荷物の荷作りとか多少は手伝ったのでありましたが、充分に貢献したと云う気持ちは湧いてこないのでありました。
 列車の発車時刻までは未だ大分あるからと、夕美さんの誘いで二人は地下街の喫茶店に入って、この先暫くは儘ならない逢瀬の名残りを惜しむのでありました。
「叔母さんとかは、今日は見送りに来ないの?」
 頑治さんが訊くと、掌に暖を移そうとしてかコーヒーカップを両手で抱え上げた夕美さんが、唇にそれを当てる前に頷いて見せるのでありました。
「田舎の連中は何かあると必ず駅に見送りに来て、その場で急に大きな荷物を託したりしてげんなりさせてくれるけど、こっちの親類はクールであっさりしているから」
(続)
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あなたのとりこ 303 [あなたのとりこ 11 創作]

「博物館の仕事はいつから始まるの?」
「勿論、年度初めの四月一日」
「じゃあ、向こうに帰ってからも、時間が無いからその日迄はバタバタしそうだな」
「まあそうかも知れないけど、でも何が何でも四月一日までに片付けて仕舞わないといけない事は特に無いから、案外と気楽な心持ちよ」
「就職するに当たっての意気込みとかはどんなものかな?」
「気負いは無いけど、新しい環境には多少興味と不安はあるかもね。それに大学と共同の大掛かりな発掘調査の仕事が目前に控えているから、すぐにそちらの具体的な仕事に取り掛からなければならないようだし、あれこれ戸惑っている時間なんか無さそうよ」
「ふうん。まあつまり博物館側としても、大いに期待の持てる新人が好都合に折も良く入って来たぞ、とか云ったところかな」
 頑治さんとしては夕美さんの幸先が好からんことを願うばかりでありましたか。
「頑ちゃんの会社の方はどうなの?」
 夕美さんはコーヒーカップを持ち上げながら訊くのでありました。
「明後日が春闘の二次回答日指定日かな。ま、幸いにも、紛糾したり拗れたり、難しい局面が出来したりと云った可能性は低いと思うけど」
「それは、順調、と云う事?」
「まあ、変な風にはなっていないと云うところかな」
「頑ちゃんのお給料はグンと上るの?」
「グンとじゃなくて、まったりと上る、みたいな感じかな」
「まったりと?」
「賃金上昇率でみると例年並みかやや高、と云ったところみだいだし、暮れのボーナスがあんな風だったから、それだけ確保出来れば御の字と云う雰囲気かな。完全な年齢別賃金になるんで俺は是正分が付くから、やや高、の口になるかな」
「業務は他の職種に比べて割りが良くなかったのね」
「そうね、会社の売り上げに重大に関連している職種では無いからね。まあ云ってみれば縁の下で様々な雑用をする、みたいな仕事だし」
「でも、会社には無くてはならない仕事でしょう」
「それはまあそうだけど、でも正直、俺はそんなに自分の業務仕事にプライドを持っているかと云うと、なかなかそんな訳でもないしね。一定の配慮と忍耐さえ持っていれば、熟そうと思えば誰にでも熟せる仕事だよ。だから営業とか製作なんかに比べると給料が安いのは仕方が無いと思っていたし、年齢別賃金の恩恵を一番受けるのは俺かも知れない」
「でも地図とかの制作の仕事もさせられているんでしょう?」
「それはまあ、そうだけど」
「若しあたしが頑ちゃんの上司だったとしても、確かに頑ちゃんに業務の仕事だけをやらせておくのは勿体無いと感じると思うわよ」
 夕美さんは口元のカップを少し下げて真顔で頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 304 [あなたのとりこ 11 創作]

「俺としては複雑で面倒臭い仕事なんかよりは、物相手の単純労働の方が性に合っているけどね。従業員が少ないからそうも云っていられないと云うのが実情だよ」
「でも頑ちゃんには、これから先、色んな人と出会ってみたいと云う志望があるし、その志望のために、故郷に引っこむ事を潔しとしない訳だし」
 夕美さんはそんな事を別に恨みがましくも皮肉っぽくも無く、無表情に云うのでありました。ま、ほんの少しはそのような色が語調に含まれていたかも知れませんが。
「正確に云うと、出会ってみたいと云うよりは、単純に観てみたいと云う事かな」
「物を相手の仕事では、その志望も叶わないじゃない」
「それはそうだけど。・・・」
 確かに頑治さんは、どうせこの世に人間として生まれて来たからには、同時にこの世を生きる、出来るだけ多くの自己ならざる人供を実見したいと云うゆるぎない筈の願望があると当時に、煩瑣な人間関係とか、何かと生臭い人供の息の縺れ合いから遠く離れたところで、静謐一途に生きていたいと云う相反の願望も一方に持ち合わせているのでありました。そんな仙境のような処での生活なんと云うものは、夢のまた夢と何故か端から諦めているものだから返って雑多なる人混みの中に紛れ込もうとしているのかも知れません。
 ま、取り敢えず人間と云う動物が第一義的には情の世界で生きていると云う前提に立つといたしましょう。そうすると、こよなく人恋しい心情と人気の消えた無色無臭の世界に同時に魅かれる心情は、そんなに奇異なものでも不埒でも、不安定で落ち着きの悪いものでもないように思われるのでありますが、はてさて。・・・
「今ここでそんな事をあれこれ話していても始まらないけど」
 夕美さんはこの話しを切り上げようとするのでありました。それはその通りで、夕美さんが今正に東京での生活に区切りを付けて故郷に帰ろうとしていて、惜別の念を一方にそれを見送りに来ている頑治さんとのこの一場に於いては、これはどうしても話さなくてはならない話しと云うものでは確かにないでありましょうか。
「ゴールデンウィークには東京に来るんだろう?」
 頑治さんは冷めて仕舞ったコーヒーを飲み干すのでありました。
「そうね。四月の二十九日に来るわ。連休明けに大学の考古学の先生と打ち合わせがあっ
て、何だかんだで五月の十日くらいまでこっちに居る事になるかも」
「連休中は私用の旅行で、連休後は公用の出張と云う訳か」
「ま、そんな感じ」
「何だか帰ってから経費の清算が面倒臭そうだな」
 頑治さんは全く余計な心配をするのでありました。
「往復の旅費と五月六日からの宿泊費は経費で落とせると思うわ。五日までは叔母さんの家に泊まって、その後は御茶ノ水のビジネスホテルに泊まる心算よ」
「すると叔母さんの家に居る間は、俺のアパートには泊まらないと云う事かな?」
「ううん、何とでも理由を付けて泊まりに行くわよ。だって五月五日までがプライベートの遊びの時間なんだから、頑ちゃんとの逢瀬はその間がメインよ」
(続)
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あなたのとりこ 305 [あなたのとりこ 11 創作]

「ああ成程。それは道理だ」
「でもまあ、五月六日から先も、多分毎日、夜は頑ちゃんと逢うでしょうけどね」
 夕美さんはそう云ってニンマリと笑むのでありました。
「お茶の水のビジネスホテルに泊まるのなら、逢うには好都合かな」
 頑治さんも笑み返すのでありました。
「あたしが東京を引き払った後も、一か月後にはまたすぐに逢えると云う事ね」
「今迄だって一か月くらい逢えない時もあったし、そういう意味では今後も二人の逢瀬に関しては、少し不自由にはなるけれど今までとあんまり変わらないって事になるかな」
 頑治さんが云うと夕美さんは頷くのでありました。しかしそれは、矢張りこれ迄とは決定的に違う状況が二人の間を隔てる事になる、と云う儘ならなさを何とか二人して認めたくないものだから、多少無理な理屈で以って現実の無聊を糊塗しようとしているようなものかなと、頑治さんは気持ちの底の方でそこはかとなく考えるのでありました。何とも潔くない二人でありますが、ここでは潔さなんか糞喰らえ、と云う心境でもありましたか。まあ要するに、二人共後少しに迫った別れの瞬間が怖くて堪らないのであります。

 列車がホームにゆるりと滑り込んで来ると、夕美さんは一旦車内に入って自分の指定席に旅行カバンを置いてから、頑治さんが扉の外で待っている車両の出入り口に戻って来るのでありました。未だ発車迄少しの余裕があるのでありました。
「一か月後にまたすぐ逢うんだけど、でもまあ、これで取り敢えずお別れね」
 夕美さんは車内から車外に居る頑治さんの手を取って固く握るのでありました。
「一か月後にまたすぐ逢うんだけど、でもまあ、取り敢えずそれ迄元気で」
 この今の別れに然したる意味は無いと云う事を、こう云う軽口めいた云い方でお互いに強調しながら念を押すのでありました。と云う事は、認めはしないものの実は矢張り思いの外、しめやかな心のダメージがあると云う事の左証でもありますか。それはそうでありまっしょう。これからは逢いたい時すぐに逢う事は叶わないのでありますから。
 発車のベルが鳴り響いて、扉から離れろと云うアナウンスが流れると頑治さんは握っていた夕美さんの手を離すのでありました。その離れる頑治さんの手に縋るように、少し夕美さんの手は前に伸びるのでありましたが、発車のベルが止むとその手はそれ以上の伸長を思い止まって、未練がましい素振りで夕美さんの胸元に戻るのでありました。
 無情に閉じた扉の小窓の向こう映る夕美さんの顔が歪んで、頑治さんに何やら切羽詰まった視線を送る両目から涙が一筋零れるのでありました。それを見て、矢張り、別れは別れなんだと頑治さんは思い知るのでありました。
 どうせ一か月後には逢う事が出来るのだし、その後もなるべく頻繁に会う了見ではあるけれど、しかし矢張り間違い無く夕美さんは東京から居なくなるのでありました。二人の間を隔てる気の遠くなるような現実の粁程の、何と忌々しい長さである事か。
 実に呆気無く、頑治さんの前から夕美さんを乗せた列車は消えるのでありました。そのあまりの呆気無さが、頑治さんの喪失感を妙に混乱させるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 306 [あなたのとりこ 11 創作]

 ホームに一人取り残された頑治さんは、夕美さんを乗せた列車の後尾がみるみる遠ざかるのを虚しく見送っていたのでありましたが、遂に車両の一点の欠片も視界から消え失せて仕舞うと、もう春だと云うのに、急に辺りの空気の冷たさが全身に染みてくるのでありました。その寒さに同調して、頑治さんが立っているホームの気配が、嫌に他所々々しい顔をするのでありました。早々にここから立ち去れと促されているようでありますか。
 夕美さんがもう東京から居なくなったのだと云う喪失感は、東京駅から自分のアパートに戻って来て、一人で座布団の上に座っていると余計に重く肩上にのしかかって来るのでありました。一か月後にはまたすぐ逢えるんだと何とか意を励ましても、寂しさは一向に収まらないし、寧ろ益々増幅してくるようでありました。
 本棚から夕美さんが残していったネコのぬいぐるみが、頑治さんを無表情に見下ろしているのでありました。それは夕美さんから頑治さんを監視する役目を仰せつかっているのでありましたから、頑治さんにとっては何となく鬱陶しい存在の筈でありました。
 しかし居なくなった夕美さんの名残りのネコだと思えば、寧ろ愛おしくもなると云うものであります。頑治さんはこの部屋に残った夕美さんの痕跡をあれこれ考えてみるのでありました。このネコもそうだし、野呂邦暢の小説と伊東静雄の詩集、それから何冊かの料理本や英語の童話とかもそうであります。それにヘアドライヤーもあるし、数枚の衣類も残っているのでありあます。考えてみればなかなかに豊富と云うものであります。
 そう考えると頑治さんは幾分気持ちが和らぐのでありました。夕美さんの遺していった痕跡に囲まれてこの一か月を遣り過ごすのは、芯に虚しさはあるものの、何とか出来なくもない気がするのでありました。当面、そうっするしか術は無いのでありますし。

 春闘要求に対する二次回答は少しの進展があるのでありました。夏季一時金が基準内の二か月分に一律二万円プラスと云うその一律のところが、三万円のプラスと増額されているのでありあました。それから就労時間に関して、完全週休二日制にする代わりに、月曜から金曜までの終業時間を三十分延長すると云う件が、それより六分短くして、二十四分の延長とし、終業時間を十七時二十四分とするとされているのでありました。
「十七時三十分が十七時二十四分と云う半端な時間になったのはどう云う事ですか?」
 袁満さんが片久那制作部長の意図が読めないと云う顔をして訊ねるのでありました。
「週に三十分、更に労働時間を短縮するためだ」
 片久那制作部長が無愛想に応えるのでありました。
「週にたった三十分ですか!」
 袁満さんはその渋ちん加減に呆れたように云うのでありましたが、片久那制作部長が眉根をピクリと動かして、なかなかに迫力満点の不愉快を表明するのでありました。袁満さんは怯んで片久那制作部長から外した目をオドオドと宙に泳がせるのでありました。
「そう云うが、週に三十分が限界だ」
 片久那制作部長は鮸膠も無い云い方をするのでありました。「大体週休二日にした時点でもう既に時短になっているんだからな」
(続)
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あなたのとりこ 307 [あなたのとりこ 11 創作]

「ベアの部分はもう動かせないのですか?」
 袁満さんが意を励まして少し粘るのでありました。
「週に三十分時間短縮した分、時給は上がる計算になる」
「何だか申し訳のような、当て擦りのような回答ですね」
「申し訳でも当て擦りでもない。ギリギリの線だ」
「一時金にしても二十割と云うところは動かないのですね」
「繰り返すがギリギリの線だ。つまらない駆け引きをしようと云う気は無い。大体ウチの一時金の算定に、今迄は一律金と云う考えは無かったが、歳の若い者、基準内の低い層を手厚くすると云うそちらの発想だろうから、それにはちゃんと則っている心算だ」
 この片久那制作部長の、つまらない駆け引きをしようと云う気は無い、と云う言葉の前には、社長や土師尾営業部長のように、と云う言葉が屹度省略されているのでありましょう。勿論社長も土師尾営業部長もそれにはとんと気付かない様子で、片久那制作部長と同じような深刻顔を必死に装っているのみでありましたが。
 それに矢張りこの二次回答には、片久那制作部長の社員への当て擦りが濃厚に込められているように頑治さんには思われるのでありました。春闘要求の回答として最低限の誠意は見せるけれど、しかしそれ以上の誠意は示す心算なんか毛頭無いと云うそれとない態度も然り、それにこの自分に誠意を要求する社員達の方に、それなら今迄、自分の仕事に全力で誠実に対してきたのかと云う逆質問が物腰の裏に用意されているような気配も然りであります。それ故の片久那制作部長の無愛想であり、語調の冷ややかさであり、どこかしら取り付く島も無いようなつれなさであり、不愉快そうな佇まいなのでありましょう。
 そんな片久那制作部長の気分も、頑治さんは判るような気がするのでありました。ただ春闘の団体交渉の席でそれを持ち出して話しを態々無責任に紛糾させるような、まあ、土師尾営業部長的な愚行を犯さないクールさと云うのか抑制力と云うのか、それにしたたかさと周到さなんかを片久那制作部長は持ち合わせていると云う事でありますか。
 一次回答の時と同じに、組合員はまた一旦席を外して別室での内部協議に入るのでありました。組合員は三階の事務所を出て一階の倉庫に向かうのでありましたが、夫々の胸中に一次回答の時のような感奮は無いのでありました。一次回答ではある種の勝利感があったから、倉庫に向かう足取りも大いに弾んだ調子があったのでありましたけれど、二次回答は思っていた程の強い手応えが無くて肩透かしされた感じでありますか。
「どうする、これで妥結する?」
 倉庫の作業台代わりの机を囲んだ一同を袁満さんがグルリと見回しながら、あんまり弾まない声で訊くのでありました。
「なんかちょっとがっかりだわね」
 那間裕子女史が気落ちした素振りで云うのでありました。
「これ以上粘っても、もう上乗せは期待出来ないかな」
 均目さんも項垂れるのでありました。「この二次回答をどう思います?」
 均目さんは目を上げて横瀬氏に問うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 308 [あなたのとりこ 11 創作]

「まあ、善処しているところを見せようとする意図は伝わって来るかな」
「でも実質は殆ど動かす気は無いと云う意図も読み取れますけど」
 均目さんは眉間に皺を寄せるのでありました。
「多分向うとしても、本当にこれがギリギリかもよ」
 那間裕子女史が口を挟むのでありました。「原則である同一年齢同一賃金の補正もかち取ったし、それを加えれば組合員平均では例年以上の賃上げになるだろうし、夏の一時金もまあ、例年並みと云う事になるようだし、結構上出来と云えるんじゃないかしら」
「暮れのボーナス、じゃなかった、一時金の事を思えば、確かに御の字かな」
 袁満さんも那間裕子女史に同調するのでありました。
「もう一回粘れば、もう少し金額が上るんじゃないっスかねえ」
 出雲さんが笑いながら冗談めかして言うのでありました。
「その可能性もあるかな」
 袁満さんがこちらも笑いながら受け応えるのでありました。「でも、小出しにしてこちらの出方を見ているような気配でも無いしなあ」
「片久那さんも、つまらない駆け引きをする気は無い、とか云っていたしね」
 那間裕子女史が頷くのでありました。「土師尾さんがそう云ったとしたら胡散臭さプンプンだけど、片久那さんは本当に駆け引きする気はないと思うわ」
「じゃあ、これで妥結する?」
 袁満さんがまたそう聞きながら一同を見渡すのでありました。
「でも二次回答くらいで妥結して仕舞うと、嘗められないかな」
 均目さんは未だ何となく不承のようであります。
「まあ、組合を結成して最初の団交だから、今後の事を考えれば、その辺の粘りとか遣り取りも戦術として確かに重要になってくるかも知れないわね」
 那間裕子女史が均目さんの不承に理解を示すのでありました。つまり片久那制作部長は駆け引きする気は無いと云っているのに、こちらは駆け引きする気満々、と云う事でありますか。頑治さんはそう思うのでありましたが、そんな皮肉っぽい事を敢えてここで口にして那間裕子女史の勘気を態々買う心算なんか更々無いのでありました。
「唐目君はどう思う?」
 袁満さんが頑治さんに発言を求めるのでありました。
「実質が動く気配が見えないなら、これ以上粘っても無意味じゃないですかね」
「でもひょっとしたら、また一時金の一律部分が微増するかも知れないし」
「どうですかね、それは」
 頑治さんは首を傾げて見せるのでありました。「獲得した実質はそこそこ満足出来る水準なんですから、変に頑固な態度に出るより、誠意を感じればこちらも誠意で応えると云う辺りを見せておくのも、寧ろ今後のためには無難なのじゃないですかね」
「まあ、獲得分を増やすより、そう云う風な考え方もあるかな」
 袁満さんは無表情で浅く頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 309 [あなたのとりこ 11 創作]

「第一、団交の回を重ねれば重ねるだけ、少しずつでも獲得分が増えると云う確実な目算があるなら粘る甲斐もあるけど、それ程向こうも甘くはないでしょうし」
「それもそうだなあ。・・・」
 袁満さんの心中にある針が少し、これで妥結の方向に振れたようでありました。
「でもう一回だけ粘ってみる方が、今後の展開に於いて色々好都合だと思うけど」
 均目さんが袁満さんのぐらつきにそれとない叱咤を呉れるのでありました。
「そうね。向こうが甘くないと観測する前に、こっちが甘くないところを先ず見せておかないとね。あたしもここはもう一粘りする方が良いと思うわ」
 那間裕子女史も考えとしては均目さんに同調するようでありました。
「どうしますかねえ?」
 袁満さんが横瀬氏に意見を求めるのでありました。
「まあ、向こうの回答がこれ以上動く可能性は低いと思うけど、しかし、この回答を突っ返して三次回答を要求するかどうかは、当該が判断する事だからねえ」
 どうやらこの件に自分の意見はものさないと云う了見のようであります。
「じゃあ、決を採ろう」
 袁満さんはもう一度全員を見回すのでありました。「妥結する方に賛成の人は?」
 先ず頑治さんがおずおずと手を挙げるのでありましたが、それに続いて躊躇いがちな素振りで出雲さんも挙手するのでありました。
「三次回答を要求するのに賛成の人は?」
 これには均目さんと那間裕子女史が即座に賛意を表明して、それを見定めてから袁満さんも徐に右掌を肩の辺り迄挙げるのでありました。と云う訳で、二対三でこの二次回答は拒否して三次会等を求めると云う意志に決するのでありました。
 三階の事務所に戻ると袁何さんが代表してその旨を社長に通告するのでありました。社長は腕組みして、下唇を突き出して渋い表情をして見せるのでありました。土師尾営業部長はそんな社長の様子を見てから同じような渋面を作り、片久那制作部長は如何にも不愉快そうに眉根を寄せてから、眼鏡の奥の瞼を閉じるのでありました。
「団交の回数を重ねれば重ねるだけ、段々と額が増えていく訳じゃないよ」
 社長は忌々しそうな語調で精々の嫌味を云うのでありました。
「そんなつまらない駆け引きをしようとしているんじゃなくて、この二次回答でも未だ々々、我々の希望する妥結額には遠く及ばないと云う事ですよ」
 袁満さんはそっぽを向きながら、如何にもクールな物腰を装ってそう云い放つのでありましたが、社長の嫌味は、狙ってかそうでないかは置くとしても、ちゃんとこちらの魂胆をたじろがせる程度に的を射ていて、袁満さんは思わずどぎまぎして仕舞って、そのための目の動揺を見せまいとしてそっぽを向いたのでありましょう。

 二回目の団交も結局決裂で終わるのでありました。反省会及び次の三次団交に向けての打ち合わせのために、組合員はこの後件の居酒屋に流れるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 310 [あなたのとりこ 11 創作]

「社長と片久那制作部長は、調子に乗るなよ、と思っているだろうな」
 袁満さんが乾杯の後、溜息を一つ吐いてから云うのでありました。
「別に調子に乗っている訳じゃないわ。あくまで最初の要求を貫きたいだけよ」
 那間裕子女史がビールの泡を少量乗せた儘の上唇を動かすのでありました。しかし要は回答書に記載される金額のあわよくばの微増を狙っての事であり、最初の要求を貫きたいとか云う意志的な決裂と云うよりは、上乗せ交渉の手練手管の一種と云うべき様相であろうと頑治さんは思うのでありました。まあ、ここで態々そんな那間裕子女史に対する皮肉っぽい挑発なんかをして、女史の剣突を頂戴する了見は全く無いのでありましたが。
「少しくらいは金額が動くでしょうかね?」
 その日は珍しく居酒屋に迄同行してきた横瀬氏に袁満さんが訊くのでありました。因みに第二次団交には一次団交の時と同じく来見尾氏も顔を出したのでありましたが、その日はこの後にプライベートな用があると云うので、団交が終了した後は一人、一団から離れて錦華公園を抜けて御茶ノ水駅の方に帰って行ったのでありました。
「どうかな」
 横瀬氏は懐疑的な表情に少し不愉快が混入したような顔付きでありましたか。氏の感触としては徒に組合の方が妥結迄の途を長引かせていると云う印象なのかも知れません。
「まあ、二次回答の内容でも、我々にとっては充分勝利と云えるんじゃないのかな」
 そんな横瀬氏の気配を察してか、均目さんが云うのでありました。「横瀬さんも二次回答を以って妥結しても良かったとお考えなんでしょう?」
「明快な年齢別賃金の体系が出て来たし、その賃金体系に則るための是正も出すと云っているし、回答額そのものにも一定の誠意は感じられるし、欲をかいてこれ以上態と拗らせる必要は無い気もするなあ。ま、妥結するかどうかは勿論当該が判断する事だけど」
「でも取れる時にギリギリ取れるだけ取っておかないと、後が期待出来ないと云う見方もあるんじゃない。特にあちらには判らんちんの社長と土師尾さんが居る事だし」
 那間裕子女史は組合員の中で一番粘り強い闘争的な姿勢の保持者でありますか。
「でもあの三人の中では片久那制作部長が圧倒的に主導権を持っているから、社長や土師尾営業部長の出る幕は先ず無いんだろうけど」
 均目さんは片久那制作部長だけを交渉相手として見ているようで、社長や土師尾営業部長の存在は殆ど眼中に無いと云った様子であります。
「でも、社長に決定権があるわよ、最終的には」
「そうであるけど、社長は片久那制作部長に逆らえない」
「社長は片久那制作部長には、弁に於いては全く歯が立たないからね」
 袁満さんが均目さんに同意するのでありました。
「それだけじゃなくて、社長としては若し片久那制作部長に臍を曲げられて、組合の側に走られては一大事と危惧しているんじゃないのかな」
「片久那瀬利作部長が組合の側に走る?」
「部長職ではあるけど、従業員である点は俺達と変わりは無いし」
(続)
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あなたのとりこ 311 [あなたのとりこ 11 創作]

「部長でも組合に入る事が出来るんですか?」
 袁満さんが横瀬氏に怪訝な顔で訊ねるのでありました。
「まあ、組合に依るけど。排除しないところもあれば、課長迄とか制限しているところもあるかな。でも均目さんが云うように従業員であると云う点は間違いない」
「社長は片久那制作部長を畏れているし苦手にもしている。それに自分の側の人間として全幅の信頼を置いている訳でもない。寧ろ経歴を考えれば、労働組合側にシンパシーを感じているようにも思える。だから、片久那制作部長が組合側に付くかも知れないと云うのは、社長にとっては結構リアリティーのある危惧と云う事になるかな」
「ああ成程ね。そう云われればそうかも知れない」
 袁満さんがこの均目さんの社長の了見分析に大いに頷くのでありました。「だったら機嫌を損ねないためにも、社長は片久那制作部長の意向に逆らえない訳だ」
「だからこちらも同様に留意しておくべきは、社長や土師尾営業部長なんかより、片久那制作部長の機嫌という事になる。そう云う意味で云うと、あんまりガツガツして片久那制作部長の労を簡単に無意味にして仕舞うのは、あんまり上手いやり方ではないかな」
 均目さんはそう云いながら那間裕子女史の方をチラと窺い見るのでありました。これはつまり均目さんとしては先の那間裕子女史の、取れる時にギリギリ取れるだけ云々、と云う意見には賛同しないとの表明でありましょう。均目さんと那間裕子女史を比較すると、均目さんの方がやや穏健派的な考えを持っていると云う事になりましょうかな。
「ひょっとして片久那制作部長が組合に入る事になれば、何だかこっちも、ちょっと嫌な緊張感があったりして身構えて仕舞いますよね」
 出雲さんが少し話題をズラして苦笑うのであありました。
「確かにあの行動力と迫力で、俺達より随分前に突出される恐れがあるかな。俺達の意見なんか甘っちょろくて聞いていられないと云った感じで、組合を大いに戦闘的左派みたいにして仕舞うに違いない。嘗ての新左翼運動家の情熱を以ってさ」
 均目さんが冗談口調で云うのでありました。「でもまあ、片久那制作部長が俺達の組合に入ると云う目は、全くと云って良い程無いと断言出来るよ」
「ああそうですかねえ」
 出雲さんは均目さんの断言にやや安堵の表情をして見せるのでありました。
「片久那制作部長は全共闘の闘士だった学生時代、同じ左翼であるはずの或る政治政党にひどい裏切りをされて以来、その政党の匂いのある団体には敵意丸出しだからね」
 均目さんは遠慮がちに横瀬氏と来見尾氏の方に横目をして見せるのでありました。要するに、その政党の匂いのある団体、と云うのが、全総連である事をそれなく出雲さんに仄めかそうと云う魂胆でありますが、出雲さんはそんな込み入った示唆には無頓着と云った鈍い表情で、均目さんのものす事情が良く呑み込めないようでありました。
「要するに全総連にその政党の匂いがあるから、その傘下での組合活動は、片久那制作部長は絶対しないだろうと云う事かな、均目さんが云わんとしている事は」
 出雲さんより、寧ろ当然、横瀬氏の方が均目さんの言を聞き咎めるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 312 [あなたのとりこ 11 創作]

「いやまあ、あくまで匂いであって、まあ、はっきり全総連がその政党と繋がっていると云う確証を俺は持っていないし、巷間そのように云われると云った辺りですけどね」
 均目さんは曖昧に逃げるのでありました。
「前にも云った事があるかと思うけど、全総連は特定の政党と密接に繋がっていると云う事はないよ。全総連の組合員は個人的にどの政党を支持しようと自由だし、全総連がそれにあれこれ干渉する事は無い。全総連はあくまで労働組合なんだから」
 とは云うものの、与党である保守政党支持とか、宗教絡みの政党とか云う線は先ず無いでありましょう。それに第一、特定の政党と繋がっていると云う体裁は採らない方が、オルグや宣伝活動とか色んな意味で得策だから、表の顔は善良な無党派みたいに装っているけれど、しかしそれは矢張り、あくまで表向きの顔でしかないでありましょう。
 頑治さんは横瀬氏の公式論的な言辞を聞きながらそんな事を考えるのでありましたが、均目さんも横瀬氏の言に対して多分鼻を鳴らしているだろうと想像して均目さん方を見るのでありました。しかし均目さんは特段の顔色の変化を見せはしないで、無表情を貫いているのでありました。穏健派は、要らぬ紛糾は避ける心算のようでありました。
「片久那制作部長が組合に入るとなると、俺達も過激派の方に引っ張られていくかも知れないけど、俺としてはそれは勘弁してもらいたいなあ、出来れば。俺は何方かと云うと戦闘的な性格ではないし、万事出来るだけ穏便に済ませたい方だからねえ」
 袁満さんが先程の出雲さんと同じような感想を漏らすのでありました。こちらも本気で片久那制作部長の組合加入を懸念しているようであります。
「片久那制作部長は絶対、この組合には入らないから心配しなくても大丈夫ですよ」
 均目さんがここでも何だか妙な請け合いをするのでありました。しかし幾ら苦手にしている人だからと云って、加入を希望する従業員を敬遠する組合と云うのも、ケツの穴の小さいちんけな了見の労働組合と云うべきであろうと頑治さんは思うのでありました。
 そう云う均目さんを横目で見ながら、横瀬氏が不愉快そうに表情を曇らせるのでありましたが、別に口は開かず、この場では均目さんのある意味で無神経な言辞を聞き流そうと云う心算のようでありました。まあ、それが若し無神経な言辞と聞こえたとすれば、つまり全総連がその左翼政党と裏で繋がっている左証と云う風にも考えられると云うものであるかと、頑治さんはどちらかと云うと均目さん寄りの感想を持つのでありました。

 三次回答は書面も出てこないのでありました。二次回答から一歩も動かす意志が無いと云う経営側の明快且つ慎につれない態度表明でありますし、回答を重ねさせれば幾らでも譲歩するだろうと云う甘い観測も通用しないぞと云う、憤慨の表明でもありますか。
 確かに組合側としては虫の好い観測を以って二次回答を拒否した経緯もありますから、書面も出さない向こう側の態度に、がっかりはするもののそれ程の怒りは感じないのでありました。そんなに甘くはない事は既に承知していたのであります。依って先の二飛回答を以って妥結と云う事に、今次も下の倉庫での打ち合わせの時間を挟んだ後に、結局決するのでありました。結果として三日間と云う無駄な日数が挟まっただけでありました。
(続)
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あなたのとりこ 313 [あなたのとりこ 11 創作]

 まあしかし、昨年暮れからのすったもんだを考えれば、勝利宣言をしても良い春闘の結果であろうと組合員の皆は考えるのでありました。賃上げも人に依っては例年以上の額をかち取ったし、夏の一時金も一応の納得が出来るだけの割数は確保した事になったのでありますから。何より全従業員に適用される明快な年齢別賃金の体系が確立された事と、全総連小規模単組連合贈答社分会、と云う長々しい名前の自分達の労働組合が、社内で唯一労働条件交渉を行える労働組合だと経営に認めさせた点は大きいでありましょうか。
 社長にも土師尾営業部長にも大いに吠え面をかかせ得たし、二人をあたふたと慌てふためかせ得たでありましょうから、日頃溜め込んでいた鬱憤を大いに晴らしたと云う態でもありますか。何もしないし何も出来ない怠け者で無能な衆と片久那制作部長に見做されていたであろうところが、なかなかそうでもなくてやる時はちゃんとやるべき事をやる連中だと認識を改めさせたであろう点も、なかなか痛快であったと云うべきであります。
 贈答社の労働組合員は気分良くこの春闘を終えたと云う事になるのでありましたが、しかし全総連加盟の他の労働組合は未だ闘争継続中のところも残っているので、この後はそちらの社前集会やらデモやら緊急報告会等の応援に駆り出されるのでありました。面倒でそれ程気乗りもしないのではあましたが、全総連と云う上部組織の恩恵も充分感じていたし、浮世の義理もある事だし、これは致し方無い務めと云うものでありましょう。
 それに会社の中の仕事配置の面で、ここに於いてまた動きがあるのでありました。と云っても、一月の初出社の時のような電撃的で物々しく、慎に騒々しい全社員会議が催されたのではなく、制作部と営業部で個別にちょっとした打ち合わせ会議のような体裁で、土師尾営業部長と片久那制作部長の方からサラッと発表されたのでありました。
 頑治さんはその両方に出席しなければならないかと考えるのでありましたが、片久那制作部長の命で制作部の方にのみ顔を出せとの指示があるのでありまいた。経理の甲斐計子女史は今次の議題には特段関係が無いからと、両方の出席を免れるのでありました。
 山尾主任が唐突に会社を辞めた事で、社の柱たる特注営業配置の人員が土師尾営業部長一人になるのは如何にも不都合であるから、新たに立ち上げようとした地方特注営業の仕事は一時休止と云う事とし、日比課長は元の都内近郊の特注営業に暫く専念して貰うと云う決定は、まあ、当然考えられる配置戻りであろうと思われるのでありました。しかし出雲さんは将来展開予定の地方特注営業を視野に入れて、元の地方出張営業に戻る事なく、日比課長の下で特注営業の仕事を習得するべく励むと云う事になるのでありました。
 依って袁満さんは今次は変更なく、一月以来その儘一人で、命を受けた新たな地上出張営業の形態を模索すると云う仕事を続ける事になるのでありました。袁満さんは出雲さんが出張営業に復帰して前のように二人で日本全国を分担して、呑気と云えば呑気な営業仕事に戻る事を願ったようでありましたが、なかなかそうは問屋が卸さなかったのであります。出張の売り上げがじり貧であるからにはこの不本意は仕方無いでありましょうか。
「そう云う訳で、営業はまた変わるが、制作の方は一月以来特に変更はない」
 片久那制作部長はライトテーブルの三辺に一人ずつ立っている那間裕子と均目さん、それに頑治さんに向かって無表情に無抑揚な声で告げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 314 [あなたのとりこ 11 創作]

 片久那制作部長は労働組合が出来た事で、尚且つその労働組合とほぼ一人で春闘で渡り合ったのでありましたから、その後少しは社員に対する場合に、気兼ねとか遠慮とか、或いは何に依らず対抗的な物腰とか、より厳しい査定目線とかがが入ったりするのかと思われたのでありますが、外面的には前と何ら変わらない様子でありましたか。それはそれ、これはこれ、と云った気持ちの上での割り切りが明快にあるようであります。
 それに多少は社員の行動力みたいなものは見直したかも知れませんが、あくまで、多少の見直し、以上ではなさそうであります。確かに社員個々の仕事に於ける能力は、組合が出来たからと云って急に変わるものではないでありましょうしから。
 ところが土師尾営業部長の方は、袁満さんと出雲さんに対する時の態度が大いに変わったようでありました。勿論この人の事でありますから、袁満さんの言を借りれば、何に付け喧嘩腰で来るし、袁満さんや出雲さんの言辞や行動の粗探しをするような目線が露骨になって、益々始末に困る上司になって仕舞ったようでありました。
 それは多分団交の席で自分の残業算定での、曖昧で自分だけに都合の好い無基準な辺りを暴かれて、社長や社外の人の面前で大いに恥をかかされたのを逆恨みしてであろうと、これも袁満さんの観測に依る分析でありました。それに春闘での組合との交渉に於いては片久那制作部長の独壇場を許して、社長に自分が大いに頼りになるところやら、丁々発止と組合と優位的に渡り合っているところをさっぱり見せられなかったのを恨みに思って、と云う無念もありはしますか。こちらの方は均目さんの観測になりますが。
 まあ土台、土師尾営業部長には、互角以上に渡り合うだけの知識も経験も能力も俄然不足しているのだし、これまでに数々の団交に臨席してきた交渉の手練れたる横瀬氏や来見尾氏を相手に、優位的に議論を戦わせる事等は到底不可能と云うものでありましょう。しかしそう云う自己の不明を身の程知らずに棚上げして、片久那制作部長にある種の嫉妬のような感情を抱いて仕舞うのは、これはもう如何にもこの人らしい心根の卑しさと云うべきであると、これは那間裕子女史の均目さんの観測を受けての評価でありました。
 とまれかくまれ贈答社の従業員はこうして、一種目出たい気持ちと、久々に得たこれも一種の落ち着きを以って四月一日からの新年度を迎える心算でいたのでありましたが、なかなかそう上手く事態は進展しないのが世の常と云うものであります。寧ろここ迄はこの後のもっと大きな波乱の序章、と後に思えば思えるような一段落でありましたか。

   不測の事態

 新年度初日に、今迄そんな事等一切無かったようでありましたが、社長からインフォーマルに全従業員に酒席の誘いがあるのでありました。社長の腹としては組合結成やら春闘の団体交渉で少なからずギクシャクした社内の人間関係を、多少なりとも良好に修復したいと云う表向きでありました。これは社長のしおらしさの表出とも受け取れるのでありましたが、もっと他にうっかり乗れない何かの魂胆を疑えば疑えるのでありました。
「どうする、応じるかい?」
(続)
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あなたのとりこ 315 [あなたのとりこ 11 創作]

 袁満さんから終業時間直前に打ち合わせの集合が掛かって、組合員は倉庫に集まるのでありました。袁満さんは社長からの宴会の誘いを受けた事を報告してから、参集した組合員の顔を見回して諾否を問うのでありました。
「何だろう、今迄の従業員に対する悪行の数々を悔いて、罪滅ぼしでもする心算かな」
 均目さんがそんな冗談を云うのでありました。
「まさかそんな訳でも無いだろうけど、まあ、春闘も終わったので、一先ずの手打ちと云った気持ちからなんじゃないの」
 袁満さんが均目さんの顔を真顔で見ながら、その冗談を半分程は冗談だと受け取っていないような按配の返答をするのでありました。
「少しくらいは俺達へのおべっかの気持ちもあるんじゃないっスかねえ」
 出雲さんが社長の底意を推し量るのでありました。
「おべっかとは少し違うけど、まあ、慰撫しようとする気持ちはあるだろうな。これから先、組合に敵対されたくはないだろうからその辺も慮って」
 均目さんは、今度は冗談気抜きの口調で云うのでありました。
「良いんじゃないの、その誘いに乗っても。あの社長に何やら込み入った魂胆があるとは思えないし。勿論向こうから誘った限りは社長のポケットマネーで奢ってくれる心算だろうけど、それを特段こっちが恩に着る必要も無いんじゃないかしら」
 那間裕子女史は大いにただ酒に釣られているような気配であります。
「ポケットマネーかどうか判らないじゃないですか。ひょっとしたら会社の金で支払いをする心算かも知れない。あの社長はなかなかけちん坊だからなあ。若し会社の金となると特に名目も無い宴会の費用として出す事になるから、問題があるんじゃないかな。それに参加する者も参加しない者もいるとすれば、福利厚生名目としても不公平になるし」
 袁満さんが少し厳格な辺りを危惧するのでありました。
「大体、ポケットマネーだとしても、那間さんはそうでもないみたいだけど、俺は社長に借りを作るように思うから、何かちょっと、うっかり乗れない気がするけど」
 均目さんが警戒心を見せるのでありました。
「全従業員が参加するの?」
 那間裕子女史が袁満さんにその辺を質すのでありました。
「社長の云い草からするとその心算みたいだったけど」
「組合員だけじゃなく、片久那さんも土師尾さんも、日比さんも甲斐さんもね?」
「社長はあくまで全従業員参加の心算なんじゃないかのなあ」
 袁満さんははっきりに確認していないためか自信無さそうに頷くのでありました。
「土師尾さんと飲む気にはなれないわね。あの人らしい見当違いの身勝手な思い違いなんだけど、でもこの春闘ではあたし達を少なからず恨みに思っているだろうし、そんな人と楽しいお酒が飲める訳が無いじゃない。酔ったら喧嘩が始まるかもよ」
「そうなっても、あんなへなちょこに喧嘩じゃ負けませんよ」
 袁満さんが顔の前で拳を作って見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 316 [あなたのとりこ 11 創作]

「どっちが喧嘩が強いかなんて事云っているんじゃないわよ」
 那間裕子女史は袁満さんを睨んでげんなりしたような口調で云うのでありました。
「いやまあ、それは判っていますけど」
 袁満さんはこちらも白けたような口調で云って、やおら拳を解いて腕を下ろすのでありました。ほんの冗談の心算で発した言葉だったのに、興醒めにも那間裕子女史に本気の言葉として受け取られたのは、ちょっと心外であると云うところでありますか。
「社長と少しじっくり話をするには、良いチャンスかもしれないですよ」
 頑治さんが声を上げるのでありました。「これ迄社長とは、皆さんはあんまり親しく話しをした事がないんでしょう?」
「まあ確かに。社長は普段も下の紙商事とは違ってウチの方には顔を滅多に出さないし、忘年会とかにも余程気が向かないと出てこないからなあ」
 袁満さんが頷くのでありました。
「親しく言葉を交わしてみたら、社長の意外な為人が判るかも知れませんよ」
「別に、社長の為人とかにはあんまり興味が湧かないけど」
 均目さんが憎まれ口調で云うのでありました。
「でも社長は俺達個々の為人とか考えとかを多少なりとも知りたいと思ったから、ここにきて一緒に酒を酌み交わそうと誘ったんじゃないのかな」
「成程、社長とのコミュニケーション、と云う意味ではこう云う機会は無意味ではないかもね。今までは両部長経由でしか社長の動静なんかは俺達に伝わらなかったから」
 均目さんが憎まれ口調を改めて、指先で顎を撫でながら云うのでありました。
「でも土師尾さんと片久那さんがその席に居ないなら、少しは意味もあるけど」
 那間裕子女史が少し愚図るように云うのでありました。
「そりゃそうだ、社長も土師尾営業部長や片久那制作部長が居たんでは、おいそれと羽目を外して色々喋り辛いだろうからなあ」
 袁満さんが那間裕子女史の意見に同調するのでありました。
「グッとくだけた四方山話しをするなら、二人が居ようと居まいと関係ないんじゃないですかね。別に会社の機密事項とかを聞き出す魂胆がこちらにある訳じゃないんだし」
 頑治さんがちっとも深刻ぶらない声で云うのでありました。
「でも社長とあたし達が何の話しをしているのかとか、その話す雰囲気とか仕草とか口調なんかを、片久那さんが傍で、全く興味が無いような振りをしながら、でもじっくり観察していそうで、そう云うのが何かちょっと鬱陶しいわね」
 那間裕子女史が顔を顰めるのでありました。
「別に観察されていても、こっちがあっけらかんとしていれば良いんじゃないかな。片久那制作部長に聞かれて困るような話しなんか、どだい社長とはしないし」
 袁満さんが、今度は頑治さんの気分に早速染まった風に云うのでありました。「折角のお誘いなんだから、それに乗った方が今後あれこれと好都合な事もあるかも知れない」
「まあ、それはそうだけど」
(続)
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あなたのとりこ 317 [あなたのとりこ 11 創作]

 那間裕子女史は不承々々ながらも頷くのでありました。
「じゃあ、日取りとか決めちゃっていいかな、俺の方で」
「出来たら水曜日辺りが都合が良いわね」
 那間裕子女史が希望を出すのでありました。
「これ迄の経緯から、水曜日の夜だったら大方大丈夫そうかな?」
 袁満さんがこう確認するのは、これ迄ずっと組合結成の準備会議を水曜日に開催していたから、その流れで水曜日なら全員私用が無いと踏んだ故でありましたか。「じゃあ社長の方に今度か次の水曜日ならって申し出ておくよ」
 こういう訳で、社長と社員一同の宴会が催される次第と相なるのでありました。

 宴会は社長の馴染みの、地下鉄九段下駅に近い蕎麦屋の二階の一角を借り切って、次の週の水曜日の夜に挙行されるのでありました。因みに費用は社長のポケットマネーで支払われるのでありましたが、袁満さんに依ればあのケチな社長にしたら大層な奮発だと云う事でありました。社長も自分から云い出した手前、費用の出し惜しみは出来ないでありましょうし、あんまりちんけな酒席では沽券に関わるでありましょうから。
 土師尾営業部長はその日私用があると云う事で出席しないのでありました。甲斐計子女史も来ないのでありました。片久那制作部長と日比課長は来るのでありましたが、片久那制作部長は自分が場に居ない方が、あれこれ社長と他の社員が話し易いだろうと云う配慮からか、三十分くらい蕎麦屋の二階で一緒に飲んでから、その後馴染みにしている神田駅近くの居酒屋で一人ゆっくり飲みたいからと早々に退席するのでありました。
 社長と杯を遣り取りすると云っても、従業員は今迄滅多に一緒の卓を囲む機会が無かったものだから、何となく言葉の交換がぎごちなくて、四方山話しに花が咲くと云う訳にはなかなかいかないのでありました。一人日比課長だけが、前には社長とごく偶に飲む事もあったようで、他の従業員よりは随分と屈託なく話しをしているのでありましたし、社長と他の従業員との間を取り持つような役割りも熟してくれるのでありました。
「ほう、那間君はケニア旅行に行く計画があるのかね?」
 何かの折にそう云う話しになって、社長は卓の向い側に座っている那間裕子女史に徳利を差し出しながら言葉を向けるのでありました。
「ええまあ。何時になるかはまだ判りませんけど」
 那間裕子女史は猪口を押し戴くような格好で社長の酌を受けるのでありました。
「僕は毎年正月に、五日間のパック旅行だけど女房とハワイに行くのが恒例行事だよ」
「ああそうですか」
 那間裕子女史は愛想笑いながら社長から徳利を受け取って、社長が取り上げた猪口に酌を返すのでありました。那間裕子女史はあんまりハワイ旅行とかグアム旅行とかに興味が無い、と云うよりはそう云うパックの海外有名観光地旅行を軽蔑している節があるので、それ以上社長との会話を敢えて続ける気は無いようでありました。
「那間君は何回か海外旅行の経験はあるのかね?」
(続)
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あなたのとりこ 318 [あなたのとりこ 11 創作]

 社長は那間裕子女史の気分には無頓着にそう言葉を重ねるのでありました。
「いえ、未だ何処にも行った事はありませんが」
「最初の海外旅行がケニアと云うのはちょっと重たいように思うけど。まあ、ハワイとかグアムとか台湾とかで少し海外旅行慣れしてから、その後でケニアにでもエジプトにでも行けば良いんじゃないかねえ。どうしてもケニアに行きたい理由でもあるの?」
「学生時代からアフリカに興味があったもので」
 那間裕子女史はそれだけ大雑把に云って後は口を噤むのでありました。
「那間さんはそのためにスワヒリ語の勉強をしているんですよ」
 日比課長が横から社長にそんな事を云い出すのは、那間裕子女史の社長に対する態度がちょっとつれないように見えたので、その手当ての心算でありますか。
「ほう。もう自由自在に喋れるの?」
「いえ未だ全然です」
「英語が出来れば、大概の土地では何とかなるんじゃないのかな。最もその英語も、私はさっぱり駄目なんだけどね」
 社長は哄笑するのでありました。那間裕子女史も愛想で笑顔を作るのでありましたが、全く気持ちは籠っていないのが丸判りの笑いでありましたか。那間裕子女史としては、英語が喋れれば大方事足りるような土地なんか関心も無いと云ったところでありますか。
 そう云う那間裕子女史の、信念、をここで態々社長に表明する事も無いのにと、頑治さんは那間裕子女史の非寛容、或いは高慢ちきを大人気ないと見るのでありました。まあ尤も、ちゃらちゃらお追従的に調子を合わせるだけの態度と云うのも、何やら精神の卑しさを竟々曝け出しているようで感心は出来ないのでありましょうけれど。
 しかしながら、那間裕子女史を含めたここに集う全員は社長に酒肴を奢られている訳であります。依ってそこいら辺はちっとは弁えた謙譲の態度を崩さないのが大人たる者の嗜みと云うものであろうと、頑治さんは那間裕子女史の社長と話す様子を見ながらそんな事をつらつら考えつつ、目の前の揚げ出し豆腐遠に遠慮がちに箸を刺すのでありました。
「へえ、社長は、正月は毎年ハワイで過ごされているんですか。流石に優雅ですねえ」
 日比課長がちゃらちゃらとお追従の言葉を社長に向けるのでありました。と、頑治さんにはそんな風に聞こえたと、まあ、そう云うだけでありましたが。
「女房の姉の一人が向こうに嫁いでいるんで、正月はそこに招かれてね。まあ、毎年と云っても、それはこちらの用で行けない年もあるけど」
「へえ、奥様のお姉様はハワイにお住いなんですか」
 日比課長は何だか妙に大袈裟に感嘆して見せるのでありました。
「向こうで農園を経営している人に縁付いてね。詳しい経緯は知らないが、その連れ合いさんは元アメリカ海軍の軍人さんで、横須賀に勤務していた時に姉と知り合ったと云う話しだ。それでハワイに転属になってその後退役して、ハワイでコーヒー農園を始めて成功したんだよ。なかなかの遣り手で、人を使って結構大々的にやっているよ」
「へえ、そうですか」
(続)
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あなたのとりこ 319 [あなたのとりこ 11 創作]

 日比課長はここも大袈裟な驚嘆をして見せるのでありました。それに先程迄つれなく社長との会話を聞いていた那間裕子女史が、矢庭に興味を惹かれたような顔で社長を見るのでありました。これは屹度社長の正月のハワイ旅行が、その辺の小金持ち連中の見栄っ張り海外旅行とは些か趣が違ってきたのに反応しての事でありましょう。
「じゃあ、ハワイでは社長はそのお姉さんの家に滞在されるのですか?」
 日比課長のこの質問には別に、殊更の大袈裟な表情は付属しないのでありました。
「姉の家と農園はハワイ島に在ってなかなかの大邸宅なんだが、そこへは一泊だけさせて貰って、後はオアフ島のワイキキのホテルで過ごす事にしているよ。別に特段の気兼ねは無いんだけど、どう云うものか女房があんまりそこに居たがらないものだから」
 話しを漏れ聞きながら、頑治さんは社長の奥さんがあんまりお姉さんの豪邸に居たがらないのは、お姉さんの暮らしぶりのゴージャスさに対する嫉妬からかと、ふとそんな事を考えるのでありました。まあ、頑治さんにはどうでも良い事柄でありましたが。
 恐らく那間裕子女史もそんなような想像をしたのでありましょう。そうなると社長のハワイ滞在に対する那間裕子女史の興味はまた薄らいで仕舞うのでありました。何やら急に世間擦れした俗っぽい印象を受けたのでありましょう。
「ところで君は、一番新顔の、倉庫の仕事をしている人だよねえ?」
 社長が対面する側の一番端に座っている頑治さんに話し掛けるのでありました。
「はいそうです。唐目と云います」
 頑治さんはそう返事して目礼するのでありました。
「時々ビルの周りを箒で掃いているところを見かけるが、前に比べて倉庫や駐車場周りが綺麗になったような気がする。前は紙屑とか飲み物の缶とかが随分汚く散らかしてあったけど、最近はそんな事はないし車の駐車の仕方も乱暴じゃないようだね」
 これは前任者の刃葉さんと比較しての事でありましょう。刃葉さんの頭の中には、整理整頓、と云うのは生成する能わざる語句のようでありましたし、私物や自分が手に触る物とかに対しては妙に気を遣って綺麗にしているのでありましたが、自分の所有にならない物とか、所有物であっても大切と見做さない物、手や目に殆ど触れない物等に対しては驚く程ぞんざいでありました。まあ、人に対しても、同様のところがありましたか。
「唐目君は片久那制作部長に気に入られて、制作の仕事も手伝っているんですよ」
 日比課長がそんな事を社長に紹介するのでありました。
「ふうん、そう」
 この社長の返事はその辺の事情や経緯にはあんまり興味が無い、と云った風でありましたか。兎も角、社屋の周辺を繁く掃除している頑治さんの姿が、大いに印象的に映ったのでありましょう。その社長の印象の在り処を敏く察して日比課長はすぐに、前言に頓着しないで業務社員としての頑治さんの仕事振りについて話しを継ぐのでありました。
「唐目君が入ってから倉庫の中も随分綺麗になりましたし、物も良く整理してあって、出し入れが格段に効率的になりましたよ。発送する荷物の造り方も丁寧だし、時間の管理もちゃんとしているし、何に付け凡ミスなんか絶対しないし、大変頼もしいですよ」
(続)
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あなたのとりこ 320 [あなたのとりこ 11 創作]

 この日比課長の評言に頑治さんは些か尻の辺りがむず痒くなるのでありました。
「ほう。倉庫の仕事や商品管理、それに配達の仕事は、したたかな計算とか突飛な思い付きとか、或いは変幻自在の身の熟しとか、営業職のような派手な仕事振りは要求されないけど、何より篤実な人が向いている。君は真面目そうで几帳面でコツコツ仕事を熟すタイプの人みたいだから、屹度業務の仕事は適任と云うところなんだろうね」
「どうも恐れ入ります」
 社長の評言には、どうせ恐らく君に大それた仕事は出来ないのだろうけど、と云うような、端からの見縊りの前置きが省略されているように頑治さんは聞きながら感じるのでありました。篤実とか真面目とか几帳面とかコツコツとか、こう云い類の褒め言葉には、敬意が含まれているとは必ずしも限らないし、寧ろ往々にして或る種のおざなりと軽侮の気持ちを秘めているものであります。ま、しかしそれは兎も角として、頑治さんは愛想笑いなんぞを浮かべて社長に向かって篤実そうなお辞儀をして見せるのでありました。
 それを横目で見た均目さんが、社長に知れないように頑治さんに向かって吹いて見せるのは、頑治さんの人の悪さを然程敵意は無く笑ったのでありましょう。その笑いに対して頑治さんの方も笑い返すのでありましたが、この二人の隠れた笑いの遣り取りなんと云うものは、そうそう一筋縄ではいかないしたたか者振りと云うべきでありますか。

 まあそんなこんなで、この、社長と従業員との蕎麦屋の二階での親睦会は恙無く終了するのでありました。これで今まで交流が殆ど無かった両者が打ち解けたかと云うと、それは何とも評する事は出来ないのでありました。同席して和やかに過ごした体裁ではありましたが、たった一度くらいの飲み会で満遍無い辺りまで互いの気心が知れると云う訳にはなかなかいかないのは、これはもう仕方が無いと云うものでありますか。
「いやあ、大いに楽しかったよ。また時々こうして皆で飲もう」
 これは社長の別れ際の言葉でありましたが、後日談として云うと、この後にこう云う機会が持たれる事は二度と無かったのでありました。
 社長としてはこの振る舞い酒の意義は、社員個々の気心を知りたいと云う健気な意図は二の次であったでありましょう。それより何より、自分が大いに物分かりと気前の良い話しの判る社長であるところを見せ付けようと云う、一種のエエ格好しいの意図が大本のところだったでありましょうし、それに依って向後組合が自分に対して遣る瀬無い程敵対的になるのを予防したい、と云う気紛れの一策以上では無かったでありましょう。
 社員の方も社長と飲むのは話題も噛み合わないし気疲れもするし、そんなに楽しい一時では内心無かったのでありました。確かに普段の宴会よりは美味で豪勢な肴と、生一本の上等な酒に自分の懐の痛み無しでありつけたのは幸いだったとしても。
 依って社長を九段下駅に見送った後、日比課長の提案で神保町の方に戻って、頑治さんが入社した時の歓迎会が開かれたあの居酒屋で、気疲れ解消に皆で気兼ねなく飲み直そうと云う算段がすぐに纏まるのでありました。矢張り社長との同席は気骨の折れる事態であり、幾ら只酒とは云え、じっくり賞味すると云う訳にはいかないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 321 [あなたのとりこ 11 創作]

「社長も、土師尾営業部長や片久那制作部長にだけじゃなく、新たにこれから組合の方にも気を遣わないといけなくなって、この先大いに大変な事だよなあ」
 飲み慣れた安酒に舌鼓を打ちながら日比課長が皮肉っぽく気の毒がるのでありました。社長の前では、見様に依っては太鼓持ち的なヨイショを連発していたくせに。
「社長も元々腹が座っていないから、何かオドオドしていたような印象だったなあ」
 袁満さんが先の宴会での社長の様子を振り返るのでありました。
「前からそうだったけど、土師尾さんにも片久那さんにもそう易々と気を許せないし、組合にも、下手な対応をすれば大袈裟に労働争議を起こされるかも知れないから、戦々恐々としているのよ。何かと云うと大物気取りするけど、気が小さいからね、あの社長は」
 那間裕子女史が袁満さんの社長評に続くのでありました。
「社長はウチの会社では孤立無援と云う立ち位置なんですか?」
 頑治さんが那間裕子女史と日比課長を交互に見ながら訊くのでありました。
「ま、そうとも云えるかな」
 日比課長は猪口の日本酒をグイと空けるのでありました。「両部長には実質的に会社を切り盛りしている俺達の待遇をもっと良くしろと、事あるに付けつっ突かれているし、それだけでも社長としては辟易としているのに加えて、今度は組合対応にも気を遣わなければならないとなると、もう投げ出したいくらいうんざりと云ったところだろうな」
「社長は両部長としっくりいっていないんですか?」
 頑治さんは空いた日比課長の猪口に酒を注ぐのでありました。
「結局会社の事より、自分達の待遇の方が第一番なんだろうと見做しているからね」
「両部長までも組合に入るんじゃないかと、屹度気を揉んでいるんだろうなあ」
 均目さんがそんな事を云い添えるのでありました。成程、両部長に自分の側に立つ人間として全幅の信頼を寄せていないとなると、それは確かに孤独でありましょう。
「それでも土師尾さんには片久那さん程の警戒心は無いんじゃないの」
 今度は那間裕子女史が猪口を空けてから云うのでありました。頑治さんは空かさず徳利を持つ手を伸ばすのであました。
「でもそちらはそちらで、取り入るような笑いをしながら、片久那制作部長の悪口もこっそり耳打ちしつつ、自分の方にもっと多く好待遇を寄越した方が得策だと、抜け駆けして強請っているに違いない。あの人はそう云う事を平気でする人だから」
 日比課長は酒臭い息と伴にそう吐き捨てるのでありました。
「確かに片久那制作部長の方はあの社長に対して、社長、と云う会社での立場に対する配慮はちゃんとしても、社長個人に対しては、単なる思慮の浅い俗物としか見做していないだろうし、人物を買ってもいないから、如何にも素っ気無い態度だよなあ」
 袁満さんが云いながら自分のウーロンハイのグラスを傾けるのでありました、こちらには未だグラスに半分以上中身が残っているような気配だし、抑々始めから酌の心配も無いので、頑治さんは何も手出しをしないのでありました。
「だから土師尾営業部長はその隙に付け込んで、こっそり自分を売り出している訳だ」
(続)
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あなたのとりこ 322 [あなたのとりこ 11 創作]

 日比課長が云い募るのでありました。「全くとことん見下げ果てたヤツだぜ、あの営業部長さんは。まあ、もう疾うに判ってい事だから、今更怒る気も無いけど」
 と云いながらも、結構な怒気ではないかと頑治さんは思うのでありました。
「そう云う日比さんも、今日の社長に対するお追従満載の遜り方を見させて貰うと、あんまり人の事は云えないと思うよ。実に格好良くなかったなあ今日の日比さんは。まあ、何時も万事にそれ程格良いと云う訳じゃないけどね、念のために付け加えると」
 袁満さんが狎れた口調でからかうのでありました。
「片久那制作部長と同じで、俺も社長と云う立場に敬意を表しているだけだよ」
「あのおべんちゃらたっぷりの話し振りは、それ以上の、卑屈さすら感じたけど」
「別に卑屈になんかなっていないよ」
 日比課長は憮然とするのでありました。「第一俺はあの営業部長さんのように、自分を社長に売り込もうなんて云う下心なんか毛程も無いし」
「どうだかね」
 袁満さんはあくまで皮肉っぽい云い方を止めないのでありました。
「勝手にそう思いたければ思えば良いさ。袁満君の心根なんか、俺にはどうでも良い」
「まあまあ日比課長」
 均目さんが両掌を日比課長に向けて、ゆっくり数度、低振幅で日比課長の前の空気を押すような手真似をするのでありました。「袁満さんも本気で日比さんを悪く云っているんじゃないし。ところでそれはそうと、日比課長は組合に入る気は無いのかな?」
 均目さんから急にそんな話しを振られたものだから、日比課長は瞠目して唇の前迄運んでいた猪口をその位置で止めるのでありました。
「俺が組合に、かい?」
「そうですよ。従業員なんだから組合に入った方が何かと有利だと思うけど」
「課長でも入れるの?」
「勿論です。部長でも多分大丈夫なんだから」
「とすると、土師尾営業部長と片久那制作部長も組合に入る心算なの?」
 若しも両部長迄もが組合に入ると云う事になっているのであれば、自分だけ置いてけ堀を食らうと云うのは何とも困ると思ったのか、日比課長は均目さんの言葉の、部長でも大丈夫、と云うその部分にちょいと引っかかってそう訊くのでありましょう。
「いや、流石に社長の手前、両部長は組合には入りませんがね」
 均目さんが片手を何度か横に振るのでありました。
「ああそう」
 日比課長はそれを聞いて何となく安堵したような顔をするのでありました。「俺も組合に入るのはちょっと躊躇うなあ、社長や両部長との腐れ縁もあるし」
 この、腐れ縁、とは、単に五人の組合員よりも前に社長や両部長と出会っていると云う程度の意味合いでありましょうか。自分が迂闊に組合に入れば、その腐れ縁の社長や両部長の機嫌を損ねるようで、何とはなしに及び腰になっていると云う事でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 323 [あなたのとりこ 11 創作]

「でもこの先全国組織に加盟している労働組合員にはなかなか、妙な手出しをするのは控えるだろうけど、組合の後ろ盾が無い日比課長には、社長や両部長が過酷な労働条件を課してきたり、待遇面でも色々無体な事を云ってくるかも知れないですよ。それを防ぐ手だてが、腐れ縁、だけと云うのならそれは如何にも頼りない気がするけど」
 均目さんがそれとなく脅すのでありました。
「新年早々の社員全員での話し合いでも、日比さんはこれ迄やって来た特注営業の実績を簡単に無視されて、将来の、海の物とも山の物とも未だ全く判らない地方特注営業とやらに回されそうになったんだから、社長や両部長は日比さん程にその腐れ縁とやらを大事には思っていないよ、屹度。そんなものをのんびり頼りにしているよりも、ここはちゃんと組合に入った方が、会社に於ける日比さんの身のためだと俺も思うけどね。」
 袁満さんも調子を合わせるのでありました。
「まあ、そうかも知れないけどね」
 日比課長は猪口をグイと傾けるのでありました。「でも何となく俺は、考え方が根っからの保守で、労働組合に入ると云うのは何となく抵抗があるし、・・・」
「労働組合は左翼的で、どうにも好きになれない、と云う事?」
 均目さんが首を傾げて日比課長の顔を覗き込むのでありました。
「ストライキとか座り込みとか街頭デモとか、そんなイメージか強いのかな?」
 袁満さんも日比課長の顔に視線を向けるのでありました。
「まあ、そうかな。俺はそんなの好きじゃないしね」
「俺だって好きじゃないですよ」
 均目さんが徳利の酒をテーブルの上の日比課長の猪口に注ぐのでありました。「でも、全総連は組合員個人の政治的な考え方や心情にはタッチしないのが原則ですよ。支持政党も自由だし。会社での労働環境と待遇の改善が組合活動の第一番目の目的だし」
 そんな事を云う均目さんその人が、実はこの組合員五人の中で一番、全総連の強い政治性に対して身を斜にしているのではなかったかしらと、頑治さんは日比さんへの均目さんの説得の言葉聞きながら思うのでありました。これはちょっと調子が良すぎると云うものだし、大いに無責任な云い草と云うべきでありましょう。
「まあそうかも知れないけど、・・・」」
 日比課長はそれでもなかなか頑ななのでありました。「俺は今の段階では組合に入るのは遠慮しておくよ。この先何か妙な事があったら考えても良いけどね」
 日比課長は先程均目さんが日本酒をなみなみと注いだ猪口を取り上げて、一定程度の高さで止めて、零さないように口で迎えに行くのでありました。

「今の話しの流れから云うけど、甲斐さんはどうするのかしらね?」
 那間裕子女史が袁満さんも均目さんも出雲さんも、それに頑治さんも気が利かないものだから手酌で酒を自分の猪口に注ぎ入れながら、社内に居るもう一人の非組合員である甲斐計子女史の名前をここで出すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 324 [あなたのとりこ 11 創作]

 こういう場合では大概頑治さんが酌の手を伸ばすのでありましたが、うっかりして仕舞ったと頑治さんは反省するのでありました。だから那間裕子女史の猪口が空くと今度は空かさず両手で持った徳利を女史の方に差し向けるのでありました、
「甲斐さんは俺以上に、組合に入るのは抵抗があるんじゃないかな」
 日比課長がそう云って猪口を空けたので、頑治さんは那間裕子女史の猪口に差したその流れで、すぐに今度は日比課長の方に徳利を翳して見せるのでありました。
「どうして?」
 袁満さんが訊くのでありました。
「甲斐さんはそう云うのには今迄全く縁遠かったし、ストとかデモとかに対して生理的な嫌悪感と云うのか、アレルギーがあるみたいだしなあ」
「そう云えば鉄道とかバスのストライキがあった時なんか、如何にも迷惑そうに労働組合の事をすっかり悪者扱いして口汚く罵っていたっスからねえ」
 出雲さんがそんな事を云って笑いながら頷くのでありました。「俺なんかはストがあるとか聞くと、何とはなしにウキウキしたりする方ですから。公然と会社に遅れて行っても構わないし、ひょっとしたら欠勤してもお咎め無しっスからねえ」
「そのへんによく居る不良社員の考えだな、それは」
 袁満さんが咎めるような口振りで云うのでありました。「ま、気持ちは判るけどね」
「甲斐さんは、まあ確かに、組合に誘うのは妙な憚りを感じて仕舞うなあ。何となくあの人のキャラクターと組合と云うものが上手く結びつかない感じだし」
 均目さんが話しを甲斐計子女史の事に戻すのでありました。
「若い演歌歌手の追っかけをしているんだろう、甲斐さんは」
 日比課長が時々テレビの音楽番組やバラエティー番組に出て来る或る歌手の名前を出すのでありましたが、袁満さん以外は、その話しは初めて聞いた、と云うような顔をするのでありました。袁満さんは前に日比課長から聞いていたか、それとも甲斐計子女史本人から直接聞いたか、その件は疾うに知っていると云うような素振りでありました。
「ああ、どちらかと云うと若い女性よりは、主婦とか一定以上の年齢の女性に熱烈な人気のあるあの歌手ね。あたしなんか、何だかそう云う層に巧妙に阿ているのが、嫌に気持ち悪いと思って仕舞うけどね。ま、第一あたしは演歌なんか全く聴かないし」
 那間裕子女史がその歌手当人に対してか、それとも甲斐計子女史を含むその歌手を取り巻いて大騒ぎするファン連中に対してか、多少の軽侮を込めて云うのでありました。
「甲斐さんはジャスボーカルやっているから、アイツの歌は下らないと思うかな?」
 日比課長がそう云う事を云う那間裕子女史の、一種の高尚気取りを皮肉るような感じを、ほんの少し言葉の尻に交えて訊くのでありました。
「別にジャスボーカルは関係ないわ」
 那間裕子女史はそんな日比課長の云い草に不愉快を覚えたようで、そっぽを向きながらぞんざいに冷えた口調で返すのでありました。日比課長は那間裕子女史の不興を買った事に、そうと判っていながら云ったくせに、少しの狼狽を見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 325 [あなたのとりこ 11 創作]

「確かに甲斐さんのキャラクターと労働組合には、全く接点が見付けられないように思うけど、それでも一応、全くけんもほろろの返事が返ってくるとしても、組合加入を誘ってみる必要はあるかな。今この席で日比課長に、まあ断られたけどオルグを掛けたんだから、甲斐さんにも声を掛けないと何だか釣り合いが取れないように思えるからなあ」
 均目さんが何だか変な均衡意識を持ち出して甲斐計子女史をオルグする理由とするのでありました。「甲斐さんのオルグは、委員長である袁満さんにお願いしますよ」
「え、俺が声を掛けるの?」
 袁満さんが持っていた徳利を机上に置いて自分を指差すのでありました。
「まあ、甲斐さんと一番親しく口を利けるのは袁満君だものね、この中では」
 那間裕子女史が均目さんの提案に賛同するのでありました。
「じゃあ、判りましたよ。俺の方から一応声は掛けてみますけどね」
 袁満さんはあんまり期待しないでくれと云うような気後れの返事を以って請け負うのでありました。存外あっさり請け負ったのは、日頃から偶に冗談なんかも交わしている甲斐計子女史にオルグを仕掛ける事を、そんなに苦にしていないためでありましょうかな。

   止まぬ激震

 三月末の春闘の妥結から新年度初めの四月一日迄の一週間程が、前年暮れの一時金の件から続いた社内のゴタゴタの中で、ほんの暫し訪れた麗らかな日和のような時間でありましたか。しかし全総連小規模単組連合加盟の他の分会に於いては、未だ期日ギリギリ迄の賃金闘争が続いている組合もあって、贈答社の五人は闘争中の単組の社前集会やら街区デモなんかに、内心の終息感を脇に置いて駆り出されたりするのでありました。
 それでも自分のところは既に、概ね満足出来る妥結に至っていると云う気楽さが気持ちの底にあるものだから、五人の風情にはどこか緊張感が欠けているのは仕方の無い事でありました。まあ、他社の事はあくまで他社の事でしかないのでありましたし。
 大体がそれ程に労働運動に熱心、と云う連中ではないのでありまして、この間何やかやと大いに世話になったと云う浮世の義理から、仕方なく全総連の動員に嫌な顔を隠して付き合っている、と云った無精な気分が五人の共通の本心でありましたか。ま、頑治さんにはこういうデモや集会が物珍しくて些か興味津々なところもありはしましたか。
 集会ではハンドマイクを使って自分達の切羽詰まった窮状や自社経営陣の悪辣非道振りが縷々、声高に叫ばれるのでありました。しかし結局その窮状も生きるに困る程の悲惨さは無いから、些か迫真力に欠けるような気が頑治さんはするのでありました。経営陣の悪辣非道振りも、もっと落ち着いてクールに観察すれば、そんなに口汚く罵る程の非道と云うものでは無いようにも思われるのでありました。詰まり悪辣なるべき経営者の紋切り型のイメージを想起させるための、大袈裟な誇張と演出と云う事なのでありますか。
 ハンドマイクを持つ人の演出力と演技力の勝負と云う事であります。要はプレゼンテーション能力とかの、云わばセールスのような腕前が必要のようでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 326 [あなたのとりこ 11 創作]

 まあ、こんな事を云うと派江貫氏辺りに不謹慎千万だと怒られそうでありますが、それでも頑治さんは何となく、労働組合側の演説の中に嫌に古典劇的に悠長でありながら、それでいてかなり好い気で、如何にも狡賢そうな底意をどうしても聞き取って仕舞うのでありました。それに定式化されて今となっては少々綻びも目立ち始めた、典型的な労働者と経営者との対立構図を未だに使用している辺りが手腕として白々しく、寧ろそう云うステレオタイプは窮状を訴える迫力に欠けるようにも思えて仕舞うのでありました。
 まあ要するに、春闘、と云う賃金を改定するに当たっての祭儀と云うのか、定例儀式なのでありましょうから、このお祭りを盛り上げるためにはこう云う決まり事は労使共に尊重すべきものなのかも知れません。勿論、深刻な雇用の危機にある人達とか、決まった賃金さえ長く受け取る事が出来ない人達とか、会社が倒産の危機にあって先の目途も立たない人達とか、本当に酷薄な境遇も一方にある事は理解した上での感想でありますが。

 社長は労働組合が出来たとしても、それでも社内の人間関係を妙な波風が立たないように、なるべく良好に保とうとする気があるのであろうとばかり組合員は推察していたのでありますが、その当の社長発信になる不穏な策謀が急に明らかになるのでありました。それは非組合員である甲斐計子女史に向けられたものでありました。
 贈答社の春闘が一応の妥結を見て、件の社長の奢りになる酒席が設けられた日か然程経っていない或る日の昼前でありましたか。何の用事に行ったのか判らないけれど外から戻って来た土師尾営業部長より、今社長が呼んでいるから、との伝達があって土師尾営業部長共々甲斐計子女史は特に疑念も無く二階の社長室に向かったのでありました。
 普段甲斐計子女史は会計仕事上の必要から社長に印鑑を貰いに行ったり、事務処理のための社長の指示や裁可を受けに社長室に赴く事は偶にあるのでありました。この時も後の甲斐計子女史の言に依れば、土師尾営業部長の同伴と云うのは何時もと違って少し胡散臭いところもあったけれど、億劫ながらも特に強い引っ掛かりも無く、社長から仕事上の何かの指示があるのだろうと考えて社長室に向かったと云う事のようでありました。
 勿論袁満さんも、この日は未だ外回りに出ないで偶々事務所に居た出雲さんも日比課長も、別に何ら異変らしき気配なんぞは感じなかったし、単なる何時も通りの甲斐計子女史の社長室詣でであろうと思ったようでありました。頑治さんにしても、この時は倉庫ではなく制作部スペースにある自分の机で在庫帳を記入していたのでありましたけれど、何やらの異変の匂いは営業部スペースからは何も漂ってはこないのでありました。
 これは後に判明した事でありますが片久那制作部長にしても、甲斐計子女史がこの時どうして社長室に呼ばれたのかは関知の外であったようでありました。つまり片久那制作部長は、この策謀に関しては何も加担してはいないと云う事のようでありました。
 ぼちぼち昼休み時間になるほんの少し前に、甲斐計子女史は社長室から戻って来るのでありました。先ず甲斐計子女史に依って、事務所のドアがやけに荒々しく引き開けられたのに袁満さんが驚くのでありました。そう云うのは何時もの甲斐計子女史には無い所行でありましたし、甲斐計子女史の顔は憤怒に依って赤味を帯びているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 327 [あなたのとりこ 11 創作]

 土師尾営業部長は甲斐計子女史と一緒には帰って来ないのでありました。恐らく社長室に居残って社長と今後の事をあれこれ打ち合わせしているのでありましょう。
「どうしたんだい、甲斐さん?」
 日比課長が自席に座った甲斐計子女史の方を振り向いて気後れ気味に声を掛けるのでありましたが、甲斐計子女史からは何の返答も返ってこないのでありました。
「甲斐さん、社長室で何かあったの?」
 妙に重苦しい空気である事を心配して、袁満さんが席から立ち上がって甲斐計子女史の方に近寄りながら、やや深刻そうな声音で訊くのでありました。
「あたしは馘首なんだってさ!」
 甲斐計子女史が普通に返答をする間としてはやや不自然に長い間を空けて、嵩じた声で如何にも捨て鉢でありながら無理にあっさりを装って吐き捨てるのでありました。
「馘首、って、そのう、・・・」
 袁満さんは一瞬、甲斐計子女史が今発したその言葉が上手く呑み込めないと云う困惑顔をして、つんのめるようにその場に居竦むのでありました。それから暫しの後、深呼吸してから甲斐計子女史の傍まで進み寄るのでありました。日比課長もいきなり生じた異様な緊張感に気圧されながらも、甲斐計子女史の横に進むのでありました。
 制作部スペースにもマップケース越しこの甲斐計子女史の言葉が聞こえて、片久那制作部長を始め、そこにいた均目さんと那間裕子女史、それに頑治さんもほぼ同時に俯いていた顔を起こすのでありました。頑治さんが片久那制作部長の方を見ると、その視線に気付いて片久那制作部長も頑治さんの方にチラと顔を向けるのでありました。
「社長にそんな事を云われたの?」
 袁満さんがそう訊いているのでありましたが、制作部の四人もその袁満さんの質問と、その後に発せられる筈の甲斐計子女史の返答に耳を敧てるのでありました。
「今度から新しい賃金体系になるんだけど、その適用外を納得すれば今まで通り働いて貰うけど、そうじゃないなら辞めて貰いたいんだってさ」
 甲斐計子女史の声は大袈裟に云えば泣き声に近くなっているのでありました。
 そこ迄聞いてから片久那制作部長が椅子から立ち上がるのでありました。それから急ぎ甲斐計子女史の机の方に姿を消すのでありました。
 これは仕事どころではないと、均目さんが片久那制作部長の後を追うのでありました。那間裕子女史もすぐに均目さんの行動に倣うのでありました。頑治さんは、一緒になってそちらにガヤガヤと全員押しかけるのは、何だか必要以上に事を騒然とさせて仕舞うような気がしたのでありましたが、しかしここでのんびり座しているのは同僚に対する情義に欠けると思って、少し遅れて甲斐計子女史の机の方に向かうのでありました。
「ひどいなあ、それは」
 日比課長がそう云ったところに片久那制作部長が現れたので、日比課長と袁満さんは片久那制作部長に甲斐計子女史に一番近い位置を譲るために脇に退くのでありました。ここは一番、自分達よりも片久那制作部長の出番と見取った故でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 328 [あなたのとりこ 11 創作]

 出雲さんは自席から動かずにこちらに視線を投げているのでありました。何となく出遅れたようでありますし、自分迄もが事態の深刻さを内心面白がりながら、甲斐計子女史を取り囲んで必要以上に騒ぐのはどう云うものかと尻込みしたのでもありましょう。
「さっき云った事をもう少し正確に云ってくれるか」
 片久那制作部長は立った儘で甲斐計子女史を見下ろして、なるべく穏やかな口調で女史を徒に威迫しないように、しかしながら厳とした物腰で云うのでありました。厳とした云い草は勿論、甲斐計子女史ではなく社長に向けている事を滲ませながら、であります。
「あたしがやっている仕事に、この四月分から適用する事になったお給料は見合わないと云うのよ、あの社長は。でも組合員には約束だから払わなければならないけど、組合に入っていないあたしは、その適用外で構わないと云うの。だからあたしは賃上げは無しで、今貰っているお給料の儘で我慢しろって。それが嫌なら会社を辞めろってさ」
 甲斐計子女史は激した気持ちを何とか抑えてここ迄云うと、後は声を詰まらせて、悔しさに堪え切れなくなったようにハンカチで目頭を押さえるのでありました。
「ひでえな、それは」
 袁満さんが唇の端からそう漏らすのでありました。
「俺もこの後呼び出されて、同じ事を云われるのかな」
 日比課長が心配そうに片久那制作部長を見るのでありました。片久那制作部長はそんな日比課長に視線を向ける事無く唇を引き結んだ儘、迫力満点に目元を怒らせて事務所から急ぎ足に出て行くのでありました。社長室に談判に向かったのは明白であります。
「袁満さんも一緒に行った方がいいんじゃないですか?」
 均目さんが茫然として動かない袁満さんを促すのでありました。
「そうね。社長のルール違反の目論見は組合としても看過出来ないわね」
 那間裕子女史も均目さんに同調するのでありました。
「それはそうだけど、・・・」
 袁満さんが躊躇いを見せるのでありました。
「ほら、袁満君、あたしも一緒に行くから」
 気後れて袁満さんが動きを失くしているのに焦れて、那間裕子女史が袁満さんの腕を取って決然たる行動を促すのでありました。「全従業員の待遇に関して、組合が一元的に会社と交渉すると云う事は向こうも認めたんだから、組合も今すぐ社長室に行くべきよ」
「でも確かに甲斐さんは組合員じゃないし」
 袁満さんはなかなか決然たる意気込みを見せないのでありました。
「全従業員、というのは、組合員と非組合員に限らず、と云う事よ」
 那間裕子女史は焦れったそうに続けるのでありました。
「ああ、確かにそれはそうだよな。じゃあ、判りましたよ」
 袁満さんがやっと頷くのを見て、那間裕子女史はその腕を取って先導するようにそそくさと事務所を出るのでありました。余計事ながら、袁満さんの日頃の弱気と那間裕子女史の強気が見事に対照された一場面だなと頑治さんは秘かに思うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 329 [あなたのとりこ 11 創作]

 急場に於いては那間裕子女史の方が袁満さんより頼もしく見えるのでありました。より行動的だし、滅多に怖気付かず豪胆だし勇気もあるし、ひょっとしたら野間裕子女史の方が委員長として相応しいのかも知れません。いや、リーダーは一人先走るタイプよりは、多少呑気に構えている方が良いと云う意見もありましょう。どちらが良いのかは組織の性格にも依るでありましょうし、他の組合員との兼ね合いもあるでありましょうが。

 片久那制作部長を追うように出て行った袁満さんと那間裕子女史は、何故か程なく二人だけで事務所に戻って来るのでありました。
「二人で社長室に駆け付けたら、片久那制作部長から、取り敢えず社長と両部長の三人だけで話しをさせてくれって云われてね」
 袁満さんがあっさり戻って来た理由を説明するのでありました。
「なんだかお呼びでないって雰囲気だったわ」
 那間裕子女史も先程の勢いは何処にいったのか、何となく冷めた云い草でそんな事をものすのでありました。調子が狂ったと云う按配でありましょうか。
「それで云われる儘に帰って来たんだ」
 均目さんが少し呆れたように呟くのでありました。「しかし、従業員の賃金とか解雇に関する問題を提起された訳で、そうなら組合も当事者なんだから、袁満さんも那間さんも、あるいはどちらか一人でも、そこに立ち会うべきだったんじゃないのかな」
「後で片久那さんから組合の方に説明すると云う話しよ。それで納得出来ないようなら、改めて組合との団交の場を設けると云う片久那さんの意向みたいね」
 那間裕子女史が説明するのでありました。
「ここは先ず経営陣の会議、と云うのか、話し合い、だと云う位置付けみたいかな」
 袁満さんの弛緩した表情には立ち合いを免れた安堵が見て取れるのでありました。
「ふうん、そう云う事かねえ」
 均目さんは納得はしていない様子ながら、腕組みして一先ず首を縦に小さく一度動かすのでありました。「まあ、今更また向こうに戻っても如何にも間抜けな感じだけど」
 それから均目さんは甲斐計子女史の方を向いて語調を変えるのでありました。「こうなったら甲斐さん、今すぐ組合に入った方が良いよ」
「そうね。その方が良いわね。組合に入れば一人で対処するより遥かに心強いし」
 那間裕子女史も賛意を示すのでありました。「組合員じゃない事が、こんな理不尽な目論見の根拠らしいから、組合に入ればたちまちその根拠は消滅するわ」
 那間裕子女史はその後頑治さんの顔を窺うのでありました。頑治さんも賛同の言を発しろしろと云うサインがその目から頑治さんに向かって射られているのでありました。
「そうですね。こうなったら社長や両部長とのこれ迄の経緯もあるでしょうけど、組合に入った方が会社の中では何かと心強いですよね」
 頑治さんは那間裕子女史に促されたからと云うだけではなく、会社に長く居る先輩に対して不謹慎な云い草かも知れませんが、そう自分の意見を述べるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 330 [あなたのとりこ 11 創作]

「俺もその方が良いと思うっスね」
 この間漸く自席を立ってこちらに来ていた出雲さんも、別にこちらは那間裕子女史から何かサインを送られたのでもないのに、自ら賛意を表明するのでありました。
「別に社長なんかに遠慮する義理は何も無いけど、・・・」
 甲斐計子女史はそう云ってから少し思い煩うような表情をするのでありました。
「何となく組合と云うものに胡散臭さとか警戒心を抱いているのかな?」
 袁満さんが甲斐計子女史の心の内を察するのでありました。
「そう云う訳じゃないけど、今迄そんなものに縁遠かったから少し抵抗があるのよ」
「社長や両部長の横暴に対して、一人一人で個人的に文句を付けるのはしんどいから、従業員全員で当たろうと云う趣旨で組合を創ったんだよ。だからさっき唐目君が云った通り何かと心強いよ、今回みたいな問題が起こったりした時には」
「デモとかやるんでしょう?」
「まあ、場合に依っては、ね」
「あたし嫌いなのよね、そう云うのって」
「デモとか決起集会とか、そんなに頻繁にやる訳じゃないし」
「でも、最終的には共産主義運動なんでしょう?」
「そんな事はないですよ、全く」
 これは均目さんの言葉でありました。「どこの政党を支持しようと、どんな政治信条を持っていようとそんなのは個々人の自由ですよ。そこ迄組合は干渉しないし。ただ会社の中で弱い立場の者が団結して強い者の横暴に立ち向かおうと云うのが主旨ですよ」
 この均目さんの云い草を聞きながら頑治さんは、これは日頃の均目さんの組合に対する了見とちと違うんじゃないかなあと首を傾げるのでありました。
 均目さんは全総連の濃厚な政治性とか、後ろに付いているであろう政治政党に対して大いに批判的な事を常々云っていた筈であります。それをここではさて置いて、幾ら甲斐計子女史をオルグするためとは云え、こう迄も横瀬氏や派江貫氏のコピーみたいな言辞を弄して憚らないのは、些か不謹慎、或いは軽佻浮薄と云うものでありましょう。
「そうだよねえ、唐目君」
 頑治さんが自分に対して呆れたような笑いを送っているのを見咎めて、均目さんは頑治さんに向かってそんな同調を求めるようなもの云いをするのでありました。
「ま、建前としてはそうには違いないけどね、一応は」
 頑治さんは苦笑いながら皮肉っぽく返すのでありました。
「変な心配しなくても大丈夫よ。組合は会社の事だけをあれこれ対策するだけで、会社を離れた私生活には全くタッチしないものだから」
 那間裕子女史も甲斐計子女史の説得に掛かるのでありました。
「組合に入らないと、孤立して社長の云いなりになるしかないよ」
 袁満さんが半分脅しに走るのでありました。自分に向けられる諸々の説得や脅しや宥め賺しに、甲斐計子女史は悩まし気な表情で身を縮めているのでありました。
(続)
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