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あなたのとりこ 320 [あなたのとりこ 11 創作]

 この日比課長の評言に頑治さんは些か尻の辺りがむず痒くなるのでありました。
「ほう。倉庫の仕事や商品管理、それに配達の仕事は、したたかな計算とか突飛な思い付きとか、或いは変幻自在の身の熟しとか、営業職のような派手な仕事振りは要求されないけど、何より篤実な人が向いている。君は真面目そうで几帳面でコツコツ仕事を熟すタイプの人みたいだから、屹度業務の仕事は適任と云うところなんだろうね」
「どうも恐れ入ります」
 社長の評言には、どうせ恐らく君に大それた仕事は出来ないのだろうけど、と云うような、端からの見縊りの前置きが省略されているように頑治さんは聞きながら感じるのでありました。篤実とか真面目とか几帳面とかコツコツとか、こう云い類の褒め言葉には、敬意が含まれているとは必ずしも限らないし、寧ろ往々にして或る種のおざなりと軽侮の気持ちを秘めているものであります。ま、しかしそれは兎も角として、頑治さんは愛想笑いなんぞを浮かべて社長に向かって篤実そうなお辞儀をして見せるのでありました。
 それを横目で見た均目さんが、社長に知れないように頑治さんに向かって吹いて見せるのは、頑治さんの人の悪さを然程敵意は無く笑ったのでありましょう。その笑いに対して頑治さんの方も笑い返すのでありましたが、この二人の隠れた笑いの遣り取りなんと云うものは、そうそう一筋縄ではいかないしたたか者振りと云うべきでありますか。

 まあそんなこんなで、この、社長と従業員との蕎麦屋の二階での親睦会は恙無く終了するのでありました。これで今まで交流が殆ど無かった両者が打ち解けたかと云うと、それは何とも評する事は出来ないのでありました。同席して和やかに過ごした体裁ではありましたが、たった一度くらいの飲み会で満遍無い辺りまで互いの気心が知れると云う訳にはなかなかいかないのは、これはもう仕方が無いと云うものでありますか。
「いやあ、大いに楽しかったよ。また時々こうして皆で飲もう」
 これは社長の別れ際の言葉でありましたが、後日談として云うと、この後にこう云う機会が持たれる事は二度と無かったのでありました。
 社長としてはこの振る舞い酒の意義は、社員個々の気心を知りたいと云う健気な意図は二の次であったでありましょう。それより何より、自分が大いに物分かりと気前の良い話しの判る社長であるところを見せ付けようと云う、一種のエエ格好しいの意図が大本のところだったでありましょうし、それに依って向後組合が自分に対して遣る瀬無い程敵対的になるのを予防したい、と云う気紛れの一策以上では無かったでありましょう。
 社員の方も社長と飲むのは話題も噛み合わないし気疲れもするし、そんなに楽しい一時では内心無かったのでありました。確かに普段の宴会よりは美味で豪勢な肴と、生一本の上等な酒に自分の懐の痛み無しでありつけたのは幸いだったとしても。
 依って社長を九段下駅に見送った後、日比課長の提案で神保町の方に戻って、頑治さんが入社した時の歓迎会が開かれたあの居酒屋で、気疲れ解消に皆で気兼ねなく飲み直そうと云う算段がすぐに纏まるのでありました。矢張り社長との同席は気骨の折れる事態であり、幾ら只酒とは云え、じっくり賞味すると云う訳にはいかないのでありました。
(続)
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