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合気道の事など 1 雑文 ブログトップ

合気道は「優雅な舞」か [合気道の事など 1 雑文]

 これは随分前に当時の養神館本部道場で出されていた「養神」という、単色刷り数ページの季刊誌に投稿した文章であります。

 合気道は他のどの武道よりも、対する相手の力をいかに効果的に処理するかに、多大な思考と方法を有する武道であります。ですからその動きは、あたかも「優雅な舞」のように、相手の攻撃線のすぐ脇を滑るように捌き、瞬時に、そして捌き続けることによって常時に相手に対して絶対的に有利な位置関係を確保しようとします。
 勿論どのような局面にあっても「絶対的に有利な位置関係を確保」出来るようになるためには、それこそ数十年単位の真摯な修錬の堆積が絶対必要であることは言を待ちません。はたまた数十年を費やしたとしても、必ず出来るようになるとも限りません。
 ところで、ああでもないこうでもないと野暮ったく、基本が第一と、かなり地味に、不器用に基本技の稽古に精を出す身であってみれば、どこが「優雅な舞」か、というところではありましょう。また、武道とはそんな甘っちょろいものじゃないとの反論もあるでしょう。しかしこの「優雅な舞」と云う言葉は、表層的ではあるにしろ、比喩としてよく合気道の動きの印象を語っていると思います。
 瞬間ひらりと相手の猛撃を捌き、涼しげな顔をしておもむろに手を差し出せば、相手は崩れて地にへたりこむなどと云う「技」を、合気道を修錬している者であれば、一度は実現したいものであります。当然これは、在りし日の館長先生(塩田剛三先生)のあの美しい動きをイメージしているのであります。厳つく相手と対峙するのではなく、あくまでも静かに「優雅な舞」のごとく動いて、しかし必ず相手を制する。あの館長先生の動きこそ、合気道のもつ優美さそのものであり、見る者をして感動すら抱かせる極致のものであると思うのであります。
 さてそれではこの出来るか出来ないかの優美さを、何時の日か我がものとするを期して、いつものごとく野暮ったく、地味で不器用な稽古に励むといたしましょう。

 この文章を書いてから随分と時間が経ちましたが、まだ野暮です。ちっともうまくならないのはまことにもって困ったことであります。
(了)
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合気道の当身についてⅠ [合気道の事など 1 雑文]

 これも以前に「養神」に投稿した一文であります。頭の中で生煮えのまま書いたために明快な結論を導き出せないまま終わった文章で、いつかちゃんとまとめたいと思いつつ今にいたっております。

 合気道では「当身七分、投げ三分」と云われます。そうであるならば、稽古をしていない技は使えないという公理の上からも、当然当身の稽古は合気道にとって必須のものと云う事が出来ます。当て技を専らにしている武道と対峙した時に「当身七分」を公言する合気道がひたすらたじろいでいては、その言葉はいったい何だったのかという事になります。
 また投げ技の要諦は当て技の理合を使用しているとも云われます。そうであるから当身の意識が特に無くても投げ技の稽古で、自然に当て技の稽古にもなっているではないかという意見もあるでしょう。しかしそういう予定調和的な考は、これも当て技を専らにしている武道との対峙を考えた場合、あまりにも楽観的過ぎるように思われます。「意識」が技を創るのであってみれば、当てる「意識」がなければ、やはり当身技は我がものとは成りにくいでしょう。
 ならば当身の「意識」を合気道総体の中で如何に公然化するか、体系上に如何に明解たらしめるか、また普段の稽古の中で如何に現実的に学んでいくかという事が問題となります。当身の修得に稽古の内実を過度にシフトさせるのでもなく、且つ合気道にとっての当身が必須のものであると云う認識化を修行者全体に徹底して、技として実践に耐え得るように創るためにはどのような修練が必要なのか、かなり緻密な稽古上の工夫が必要だと思われます。当然一方に時代逆行的のそしりはあるかもしれませんが。・・・・・・

 この一文を書いてからかなり時間は経っていますが、まだはっきりと自分の中で、合気道と云う武道の中に占める「当身」の位置を規定しかねているのが現状であります。合気道と云う技術の体系が膨大であり過ぎて、凡庸な修行者でしかない拙生には、その膨大な体系をなんとか人に遅れをとらぬようになぞるのが精一杯であるため、日々の稽古の中でなかなか当身を創ると云う意識が煮詰まってこないためであります。
(続)
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合気道の当身についてⅡ [合気道の事など 1 雑文]

 合気道においては当身と云ってもそれは少なくとも三つの種類があるのでしょう。まず捌きの途中で「当てるぞ」と云うメッセージを相手に伝えることによって、相手の意識をそちらに誘導し、その意識から離れた相手の身体部位に虚をつくりだすための当身。これは本当に当てる必要はなく、云わば当てるぞと云うこちらの意図を伝えれば済む「虚当て」であります。次に所謂「仮当て」と云うもので、決定的なダメージを与えないで相手の体の崩れを誘発する目的のために実際に相手の身体に触れる当身。これは投げる、或いは固めるまでの捌きを、安定して完了するための云わば途中の方便として使用するものであります。それに三つ目が「本当て」で、当身をもって相手を倒す、或いは制圧するものであります。
 まずこの三つの当てを合気道と云う武道体系の中にどう位置づけるのか、どう方法化するのかと云う問題があります。「虚当て」と「仮当て」はそれでもまだ、具体化し易い、いわば「合気道の技」として明確にすることが比較的容易なものでありましょう。事実、養神館合気道の幾つかの形の中には、このタイプの当てが組み込まれているものがすでに存在します。ただ「本当て」となると、様々な問題があります。第一、相手を決定的に傷つけないで制するのが合気道の在り方であるとするならば、このタイプの当てが合気道と云う武道に必要なのかどうかという疑問も提示されるでしょう。しかし同時に、合気道も様々な武道の中のひとつでしかないと云う相対的な存在であるのですから、「本当て」の技術をもつ合気道と云うものが、合気道を武道たらしめる条件として絶対に必要であろうと思われるのです。
 日々の稽古の中に「本当て」の修錬を取り入れなければならないと云う思いは、以前から一貫して持ってはいるものの、稽古の流れの中でどのようなタイミングで、どのような段取りで取り入れたらいいのか、まったく普段の稽古と独立した形で稽古するほうがいいのか、未だ結論を見出せないでいます。
 前の文と合わせるとちいと、当身に対する考察が長くなり過ぎたので、尻切れトンボでなんとなく胃の入り口辺りが不快な感じのままでありますが、この後は別の文章でと云うことにします。
(了)
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館長先生のことなど [合気道の事など 1 雑文]

 合気道養神館初代館長塩田剛三先生は実に洒脱で、為さること総てが小気味のよい後味の方でいらっしゃいました。飄然とした態度と周りへの細かい気遣い、くだけた話しっぷりと話題の転換の素早さ、天真爛漫な大笑いとその後のどこかどすの利いた眦の凄さ、接しているとその尽きぬ魅力に圧倒されてしまうのであります。
 館長先生はいつも深々と礼をされるのでこちらの方がどぎまぎしてしまいます。慌ててもっと深く頭を下げてその頭を起こすと、すでに目の前には居られずに、袴の前紐に両手の親指をかけたいつものお姿で少し前のめりにすたすたと先を歩かれています。
 そう云えば館長先生が道場を歩かれると、道場全体が振動するのであります。正座している脛にその揺れを感じて、無為に歩かれているように見えるけれど、館長先生の一歩がいかに重いかを実感するのでありました。しかも歩調でその振幅を増幅しておられるように、我が脛に感じる揺れは次第に大きくなってくるのであります。合気道では相手と一体となる、と云うような表現がよく使われるのですが、館長先生は道場という無機的な構築物とまでも一体になることが出来る方なのだと、愚かな頭で考えて妙に納得しながら座っていた記憶があります。
 警視庁機動隊専修生の入所歓迎等、折にふれて宴会がよく小金井の道場であったのでありますが、宴も最後の方に差し掛かると決まって、養神館前館長で当時警視庁師範でいらした井上強一先生が「桃太郎」を唄われ、それに合わせて館長先生が踊られるのでありました。この唄の中に、後ろから来るやつぁ呼吸投げ、前からくるやつぁ入り身突き、とか云うフレーズがありますが、当時内弟子だった山梨養神館館長の竹野高文先生、合気道錬身会最高師範の千田務先生辺りが、唄に合わせて館長先生に突進し、それを館長先生が切れ味鋭く投げ飛ばすと云う、かなり強烈な余興をしばし見せていただきました。
 稽古後に居酒屋で数名屯しているところへ館長先生が急に顔を出されたことがあります。館長先生は我々の居る小部屋に上がられ、上座に胡坐をかいて座られます。いつもはほとんど正座されるのでありますが、寛いでいる我々のことを気遣ってわざと胡坐をかかれたのでした。館長先生は大いに語られ大いに寛がれている様子でありました。最後の締めにおにぎりを食ったのでありますが、館長先生は話しに夢中と云った風情で食いかけのおにぎりを床において技について語られ、語り終わったらまたそのおにぎりをとってなんの躊躇いもなく口にもっていかれるのでありました。
 稽古時の怖い印象や技に対する厳しい姿勢、それと相反する宴席などでのお茶目な物腰、懐かしい館長先生の思い出がふとした折に、このところよく頭の中に浮かんできます。
(了)
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合気道家の矜持 [合気道の事など 1 雑文]

 養神館合気道を志す者、愛好者にとって初代館長塩田剛三先生のお名前は云わば絶対的なものであります。養神館合気道は総て塩田剛三先生から発しているのです。これは自明の理であります。そうして塩田剛三先生の師である植芝盛平大先生のお名前も、養神館合気道修行者、愛好家にとってとても大切なものであります。この偉大なるお二方は合気道史的に通時的に存在されているのであり、共時的な観点からどちらかの優越を論じるのは意味のないことであります。
 巷間よく闘わされる養神館と合気会の技術比較論においてもそれは同様であります。乱暴に云えば武術としての優劣は試合ってみなければ判らないものであるし、指導体系の優劣は優秀な弟子をいかに多く出したかによるしかないのですから。しかも勝ち負けが技術論に合致するためには、試合する者同士がそれぞれの立場で同等の実績、戦歴を持つと云う条件の上において証明されることであります。また勝負は兵家の常と云われるように、結果が必ずそれぞれの技術の優劣を保証するとは断じられないのです。
 優秀な弟子を輩出出来るかどうかと云う点も、当然多くの修行者、愛好家があれば多くの優れた人材が存在する可能性が高く、幾ら技術が優れていても学ぶ人材が少ないなら、それは可能性が低いと云うのは統計学的に自明のことであります。しかしこれもあくまで可能性の問題と云うもので、決定要因としては不確実であります。それに愛好者の多寡のみで語れる話でもありません。何れにしろ優劣は俄かには断じられないのであります。
 ここで断っておくのでありますが、差異について論ずるのはこの限りではないでしょう。あくまで狂信的なまでの自派絶対化が、論ずる人の思考にかさぶたのように被さっていないと云うこと、それに自派の宣伝と云う下心がないと云うことが前提条件でありますが。
 技術の優劣を論じたがるのは養神館合気道の愛好家に多いように見受けられます。曰くより護身術的であるとか、大先生の一番強い時期の弟子たる館長先生は武道としての合気道を継承しているとか云ったものです。これは上記のような理由から根拠が希薄であると云うしかありません。館長先生と云う個人が強かったからと云ってそれが即ちその一派に属する自分も強いわけではないのです。また大先生は各時期において個別に、まったくの別人として存在されていたわけはなく、一個の人格、個体の時間的な流れとして緩やかに変化されたので、これはその人の生の過程では当然なことであり、後の方が前より劣っていると誰が断定出来るのでしょうか。感覚的な技術優越論を展開するのはかえって、合気道愛好者として矮躯な自分の姿を曝け出しているだけでしかありません。自戒をこめてそう断言し弾劾しておきます。合気道を志すなら合気道と云う偉大な体系と同じ位の矜持を持って稽古を積み重ねたいものです。
 最近養神館合気道を愛好する人とこう云った話をする機会があり、ちと感じたことがあったので書いてみました。前後して合気会のある派に属する人とも同じような話をししたものですから、尚更書いてみたくなったのであります。次の機会にその合気会のある派の人との話で感じたことを記してみようと思います。
(了)
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養神館と合気会の差異Ⅰ [合気道の事など 1 雑文]

 これはあくまで養神館、合気会のそれぞれの稽古におけるねらい処を考察したもので、前の文にも記したようにその優劣を述べようとするものではないことを、まず断っておきます。また、養神館の技法が戦(第二次世界大戦)前、合気会の技法が戦後のものと、細かいところでは異論もあるでしょうが、一応分けることとします。この辺の話を始めるとまた別項をたてなくてはならなくなるので、とりあえずご了解ください。それに、拙生は養神館合気道を長く稽古してきた者でありますが、その前に少しの期間ではありますが合気会の稽古も経験しております。これも念のため記しておきます。
 養神館合気道の場合先ず最初に習うのが前重心で正面をとる構えであります。それからその姿勢を保持したまま正座法、礼法、膝行法へと進んでいきます。ねらいは自分の垂直方向の中心軸意識を強めるためであります。この後に基本動作六本を習いますが、これは中心軸を意識したままそれがブレないで前進後退、回転、重心移動を行えるようにするための稽古であり、手足腰の動作を一致させて、発する力を一つに纏める稽古であります。これはまず単独動作で修得し、後に相対動作として相手との関係の中で体感していきます。これにかなりの稽古時間を費やします。それから後に技の稽古に入っていきます。合気会の場合は特にそう云った所作や動作の厳格な決め事はなく、すぐに技から入っていきますが、それは初めから相対的な環境の中で体軸であるとか重心移動とかを、体感的に身につけようとしてのことでありましょう。
 この養神館合気道の稽古では自分の中の非合気道的な個性を徹底的に排除されます。云わば自分を合気道の稽古に適するようにつくり変えることを要求されます。かなりの難関を先ず最初に与えられることになります。しかしここをクリアすると技の稽古に入った後に比較的スムーズな稽古が出来るようになります。最初に習った所作や基本動作の組み合わせと変化が技を構成していることが判るためです。また強い中心軸、崩れない姿勢等の体を錬ると云う意識が強くなり、これが後の技における威力等に反映していきます。ただ、硬い稽古になるので往々にして固まるような動きになりがちです。力が出ると云うよりはこもる感じであります。それが強引な技として結果する危険性は大いに孕んでいます。
 一方合気会の稽古ですが、養神館の稽古が先ず自分を錬ることを念頭に置くのと異なり、あくまで相対的な関係の中で技を捉えようとする意識が養成されるでありましょう。対する相手の情報を瞬時に察知しようとする感覚は鋭くなります。相手の一歩にどう合わせるかとか、相手の動きの初動をどう捉え返すかとか。云わば先ず相手に対する武技上の配慮が養成されるでありましょう。半面、配慮するが故に結果初動に遅れをとって、動きの主導権を相手に握られてしまう危険もあります。
 養神館が技の前に体なり中心線をつくる作業から始めるのに対して、合気会では最初から技そのものを行うことによって、そして技を繰り返すことで体とか中心の意識をつくっていこうとするわけで、稽古のとりかかりからしてすでに、稽古をしようとする「主体」の認識に違いがあると云えるでしょう。この違いは当然技の解釈にも反映されます。
(続)
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養神館と合気会の差異Ⅱ [合気道の事など 1 雑文]

 ではこれから技における差異について述べたいと思います。合気会では二代目道主である植芝吉祥丸先生が云われた「入り身一足」と云う表現があります。単に「入り身」ではなく「入り身一足」であります。『合気道のこころ』(講談社刊)によりますと「互いに触れあおうとする一瞬、半身の構えから、相手の動きの延長線をはずしてその動きとすれ違うかたちに自分の体を相手の死角に入れるのが<入り身>であり、そのさい足の移動がきわめて速やかにおこなわれなければならないゆえ<入り身一足>と称するわけである」とあります。確かに合気会の技法では例えば正面打ち一教と云う技の場合、手刀が触れあったと同時に表技なら相手の振り下ろされる手刀と同側の足が、裏技なら逆側の足が相手の正面を外すように横方向に進められます。手刀が触れた時には自分の体は相手の正面にはないと云う位置関係です。その後に表技なら相手側に大きく切りこむように歩み足で踏み出し、裏技なら「円転」して螺旋回転に相手を巻きこんで制します。
 これが養神館合気道の場合、呼称も正面打ち一ヶ条抑えとなりますが、相手の手刀打ちを正面で、同側の手刀で先ず受け止めます。もっとも一ヶ条の一(表技)の場合は仕手より打ち込むのでありますが、とまれ一見ぶつかりに見えてしまいます。しかし真っ向からぶつけるのではなく、体の中心を利かせた強固な線と手刀の返しで相手の力の線を上に浮かせるように受け止めます。この後に軸となる前足=重心足を表技は手刀と同側斜め前方に大きく進め、相手に膝をつかせて、まるで蹲らせるように相手の肘を制圧します。裏技なら前足=重心足を横移動することなく、受け止めた位置から体を回転させ螺旋回転に相手を巻き込みます。この裏技(養神館では「二」の技)が象徴的に両派の技の違いを表していると云えるでしょう。
 合気会では「一足」の分軸が横に移動します。その動いた軸をもって回転をかけるのですからその軌跡は楕円を描きます。そうすると回転そのものの速度は犠牲になりますが、力の拮抗を避ける分安定感はあるでしょう。但しこの「一足」の場合、もしこの一歩を誤れば速く重い相手の手刀にこちらの初動が負けて体軸に歪みが生じますので、もう次の動きに移れないと云う危険性があるでしょう。技が成立しなくなるのです。養神館の場合はこの「一足」がないために手刀を受け止めた状態から一気に正円の軌道で円運動を開始することになります。正円の軌道ですから一旦円運動に入ったらそれは強力な遠心力、求心力を発揮出来るでしょう。但し基本動作の反復により、よほど強い中心線と体幹を確立していなければ、やはり初動で負けることになります。
 合気会の技は相手の打つ手刀と自分の初動を合わせるタイミングに、技の成立がかかっていると云えるでしょう。ですからまずはゆっくりと動きを合わせる稽古になります。技の完了までなるべくゆっくりと途切れ目なく動く稽古です。しかしそう云う稽古に終始しているのではなく、次第に速く強く打ちこんでもらって「一足」の運びを錬らなければ、技の完成度は上がらないでしょう。速い合わせが出来るなら遅い合わせも出来ますが、遅い合わせしか稽古していなければ、早い合わせは出来難いでありましょう。
(続)
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養神館と合気会の差異Ⅲ [合気道の事など 1 雑文]

 再度繰り返しますが、つまるところ合気会と養神館の差異はこの手刀が触れ合う一瞬に象徴的にあると思うのであります。合気会の技法では「一足」をもって相手の正面を外して触れ合い、養神館の技法では強い中心軸と瞬間的な手刀の返し等でもって、触れた相手の手刀を無力化しようとするのであります。
 これは戦前の、強固な体躯と素早い動きで技を繰り出されていた大先生と、戦後の、到達された高い境地を技で表現しようとされた大先生の在りようの違いでありましょうか。当然、戦争の前と後では情勢や社会の規範が劇的に変化したのですから、そい云った要素も当然、大先生の変化を観る時に考慮しなければならないところでありましょう。また大先生の年齢による変化と云った要素も大きいのでありましょう。
 昭和七年に大先生に師事され、昭和十六年まで大先生の壮年期の武道的な在りようを身をもって学ばれ、その後は独自に合気道の道を歩まれた塩田剛三先生は、その合気道観も戦前の勇壮果敢なものを持っておらたのであります。養神館合気道には独特の構えがありますが、この構えは心の備えを体に表したものであり、構えると云うことは言葉を代えれば対する相手へのある種の威嚇行為であります。確たる自己を誇示することによって、先ず相手の攻撃しようとする気持ちを挫こうとする意図であります。ですから構えた以上、打ち出された相手の手刀を「一足」をもって避けるのではなく、強固な線、力の浮かしや集中力等々の錬られた合気道的技術をもって、一見、真っ向から受け止めるのであります。最初の接触で相手にある種の「目算違い」や「戸惑い」を一瞬感知させれば、後はこちらのペースに引き込めるのであります。ですからそのための中心線とか体軸の確立、全身の力の一致した発動等々の、合気道技を繰り出すための自分の体を錬る稽古が先ずあって、その後に所謂合気道の技の稽古へと入っていくわけであります。体を錬る稽古は初心の内だけではありません。どんなに高段者になろうと、どんなに年齢を重ねようと養神館合気道の稽古を止めない限り続けられます。
 誤解のないように云い添えておきますが、養神館の構えも高段者になると威示的な色合いが薄れてきてどこか典雅な趣が出てくるように思います。なにか高度に纏まったごく自然な所作のような感じであります。また師範クラスの方々の演武では、あえて構えをせずにそれこそ「一足」の動きを使って相手とすれ違い、技を繰り出すと云う瞬間が見られます。しかしそれが出来るのも長い年月錬られた、合気道技を繰り出すための体があってこそのものでありましょう。技の発動の一瞬に強い体軸、集中力が利いているための強烈な技なのであります。
 一方合気会の「一足」についてでありますが、この「一足」について高い認識を示されている方のお一人に、西尾昭二先生がいらっしゃると思います。西尾先生はその著書『許す武道 合気道』(合気ニュース刊)で「入身は半歩です」と仰っておられます。ずい分昔に演武を拝見させて頂いた折もそう云うお言葉をお聞きしたことがあります。
(続)
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養神館と合気会の差異Ⅳ [合気道の事など 1 雑文]

 西尾昭二先生の『許す武道 合気道』によると「合気道の稽古での手取り、これは一般の武道の稽古にはありません。なぜなら格闘技では<手を持つ>ということ自体考えられないからです」とあります。確か塩田剛三先生も手を持たれたら、その時点で負けだと仰っていたことを思い出します。西尾先生は「合気道は<取られた>のではなく<与えた>のです」と続けられます。「取ってこいと手を取らせるのではなく<どうぞ>なのです。与え導くのが合気道です」となります。大先生の戦後に標榜された理念と一致するものと思われます。
 塩田剛三先生が手を持たれたら負けと仰ったのは武技上のお話であり、戦前の合気道の考え方そのものと云えるでありましょう。云わば武道とは凌ぎあいであり、一分の隙や妥協なく相手を制圧するものと云う厳しい認識であります。戦後の大先生はそういった嘗ての対抗的な合気道の在り方ではなく、西尾先生によれば「与えた以上は最後まで、植芝先生が云われたように"導き"なのです」と、技が制圧を目的に発動されるのではないことを強調されます。あくまで親和的な合気道の在り方の提唱であります。
 ここで一応紹介しておくのですが、塩田剛三先生も晩年は対抗的な心境ではなく大先生の"和合の道"的な発言をされています。何故かこのところ妙に有名になっている「合気道の最強の技とは自分を殺しに来た相手と友達になること」と云う合気道観であります。
 とまれ、これが西尾先生をして「許す武道」と合気道を規定させるところの理念であり、而して「構えない」と云うことが導き出されるのであります。備えはすれど構えず、と云うことでありましょう。よって合気会には構えらしき構えがありません。
 そして「一足」です。「入身は半歩」であり「触れ合う前に勝負は決まっているという理合は、この半歩にあるのです」と西尾先生は云われます。構えるとこのスムーズな半歩が踏み出せないため構えないのであり、相手の攻撃の発動を捉えて「その触れ合い一瞬の中に、一度は当てるという形をとり、合わせて相手の攻撃を一切受けない位置に立つ」ため半歩動くのであります。その半歩の位置でもって相手との接触を持つために、始めから相手に勝っている関係を結べるわけです。しかしあくまで"導き"でありますから、制圧目的でははなく、その後は、この攻撃であなたは私を制圧できないと相手に「分からせてあげる」ための捌きを駆使することになります。相手がそれを判ったらその時点で投げを打つことによって相手との関係を切るのであります。ですから投げは制圧手段としての技ではなく、いやもう、技と云うものでもなく、ではお元気でと云って手を振るような仕草と同一だと云えるでしょう。
 この理念を支えるために西尾先生は実技において当てを多用されます。「合気道の技は一つの技で四回五回といつでも相手を倒せるようになっています」とありますが、これは捌きの局面局面で本当てを打とうと思えば何時でも打てると云うことでありましょう。しかし"導き"でありますからあくまで仮当てを使用することになるのであります。 
 戦後派の合気道の理念と実技は西尾先生によって、一つの見事な理論として高い地平で纏め上げられたように思います。が、しかし・・・・・・。
(続)
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養神館と合気会の差異Ⅴ [合気道の事など 1 雑文]

 その知人は合気会のある会派で長年稽古を続けている人で、もう二十五年ほど前に拙生に西尾昭二先生の存在とその考えを教えてくれたのでありました。彼は西尾先生の実践されている合気道とその考え方にぞっこんと云った風でありましたが「なんとなく顔の前にぶら下がっている柵」から西尾先生の会派に移ることが出来ずに、今も所属している別の会派で稽古をしておりました。彼の合気道歴はもうかれこれ三十有余年と云うことになります。最近は体調を崩してほとんどこの一年は稽古に出ていないとのことです。
 彼が云うには「養神館は実戦的だとかなんだとか云うが、最初の接触時の<一足>に対する考察がないようだから、結果として入り身の重要性があんまり認識されていないんじゃあないかねえ。最初ガツンとぶつかるよりも、ぶつからないような位置に足を運ぶ方が考え方としてまともだと思うがね。それを<入り身>と云うんじゃないかね」
 養神館合気道では最初の接触時にいつもガツンとぶつかっているのではなくて、動きの完成段階に近づいてくると、相手の攻撃線ぎりぎりをすれ違うように捌くのであります。それこそ<一足>以内で。<一足>と云うのは足の裏のサイズのことであります。西尾先生は半歩と仰いましたが合気会各派でその<一足>に対する認識がまちまちのように見受けられます。あるところは一歩大きく動くし、あるところでは半歩だし。それなら<入り身一歩>とか<入り身半歩>と云う方が具体的であろうと思います。<一足>と云うならほとんど足をその場で踏みかえる程度でしょう。それはむしろ養神館合気道の捌きであります。養神館合気道の自由技を見れば、相手の狙うこちらの一点をかわすだけの捌きから技を打っているのが判ります。彼がガツンとぶつかっていると思えた場面は、云わば地稽古の時のことで(この「地稽古」と云う言葉は養神館合気道の体系の中にはありません。拙生がそう云っているだけです。念のため)基本動作とそれ以前の所作でつくった強い体軸、中心軸、集中力と云ったものを利かせて実際に相対的な関係の中で技を身につけていく第二段階の稽古のものでありましょう。それから更に進めば先ほど云ったような<一足>を使った、速い攻撃に対する速いすれ違いの稽古になるのであります。速いすれ違いから技を出すためには強固な線と崩れない姿勢が要求されるのであります。ただ意図して一足或いは半足動いているのではなく、云わば動作に即して足を踏みかえた結果の一足或いは半足であります。意識では軸は些かも動かしていないのであります。
 西尾先生の半歩は「合わせて相手の攻撃を一切受けない位置に立つ」ための半歩として重要な理合なのでありましょう。躊躇いなくすれ違うか、当てを打つと同時に安全に一旦相手の攻撃正面を外すかの違いが養神館合気道と西尾先生の違いかもしれません。
 次にその一足(一歩或いは半歩)の精度を保証するものは何かと考えてみると、これは強い体軸、中心軸、集中力ではなかろうかと思われます。言葉を代えれば錬られた体をもってこの一足(一歩或いは半歩)を磨かなければ、その完成度が至高に達することは難しかろうと思われるのであります。
(続)
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養神館と合気会の差異Ⅵ [合気道の事など 1 雑文]

 西尾先生ご自身は、柔道、空手、居合、杖道等も修められてたと云うことですので、合気道で体を練る稽古を積まれてはおられずとも、例えば柔道で強固な足腰をつくられ、空手で強靭な体軸を磨かれておられるはずであります。その体をもって触れ合う一瞬に半歩の入り身の理合を実現されたのであります。またそれをもって剣の動き、または杖の動きと可能性を敷衍されたものでありましょう。ですから西尾先生の触れ合う一瞬の理合を追い求めるなら、体を錬る鍛錬を避けることは出来ないと考えるのであります。勿論単に筋力をあげると云う風な体の鍛錬ではないことは、あえて云うまでもないことであります。
 一方、養神館合気道の場合は構え及び基本的な所作、基本動作と云う体を錬る鍛錬が重要な稽古として確立しており、これをもって身体各部位の動きと力を一つに纏める端緒がすでに開かれているのでありますから、その到達点を明確に意識してこれを行うことが肝要であろうかと思われます。こうして磨いた体をもって軸足を動かすことなく先に述べた第二段階としての「地稽古」を繰り返します。動きに慣れたら次第により速く、より強く技を行うと云う稽古の流れになるでありましょう。同時により速くより強くの段階で、強固な線と同時に手首の返しや後ろ足の張り、前足の膝の使い方等の細かい技術を学ぶのであります。その後に今度はすれ違いの捌きを修錬していくこととなります。体軸の動揺が起こらない一足或いは半足の捌きであります。ここまできてようやく自由技の稽古の意義が出てくるものと考えます。
 こうして書いてくると養神館と合気会の差異そのものが(それは技術と云う側面でのことでありますが)今後どのような推移をしていくのかが、おぼろげに見えてくるような気がしてくるのであります。つまり合気会の技は「入り身一足」を磨くために、相手のある相対稽古の前の段階で、体を錬るための単独稽古が取り入れられてくるのではないでしょうか。合気道に力など要らない、などと大雑把なことを云いながら、相変わらず超能力を夢見るような稽古では多の中の一武道である合気道が、その武道としての精度を上げることは不可能であろうと思われます。合気道に力など要らないのではなく、合気道に「余計」な力など要らないのであって、必要な力はあるのだと思います。
 そうして養神館合気道の場合は「地稽古」の段階でこと足れりと勘違いしていれば、やはり武道としての精度の上昇は望めないのではないでしょうか。一足或いは半足のすれ違いを磨くために、段階としていきなり速い技の稽古に行かず、ゆっくりとした体の乱れのない「合わせ」の稽古が先ずあって、その後にこれも「地稽古」の場合と同じように次第に速く強くの稽古に進む方が、結果として理に適った稽古となるのではないでしょうか。
 養神館と合気会の差異はどちらに擦り寄るともなく、稽古法にしても技そのものにしても段々となくなっていくのであろうと思います。遠い先かも知れませんがこうして差異がなくなってしまえば、別々の流儀として在る必要もなくなるのではないでしょうか。ま、稽古法や技の面においてのみのことではあります、と一応断りを入れておきます。
 未熟者のくせして身のほど知らずに、なにやら大そうなことを述べておるとお叱りもあるでしょうが、拙生の未熟故の畏れを知らない粗忽さと寛容にご容赦ください。また養神館合気道と云ってもそれは現在の養神館本体だけのことではなく、そこから分かれた流派も含めて塩田剛三先生の遺された養神館合気道を稽古する総ての会派を指すのであること、合気会と云っても総ての合気会各派を指すのではなく、拙生の知っているごく限られた会派を指しているのであることを、これも一応お断りさせていただきます。また養神館、合気会以外の流派についてはとりあえず述べませんでしたが、その辺までカバーしようとすると膨大な字数になることを恐れたと云うだけで、他意はなにもないのであります。
(了)
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養神館-小金井の頃 [合気道の事など 1 雑文]

 合気道養神館道場が代々木から小金井に移転したのが昭和四十八年で、拙生が入門したのが昭和五十五年であります。小金井道場が養神館合気道の聖地として順調に発展していた頃でありましょうか。
 中央線の武蔵小金井駅から徒歩で十分強の住宅街にある地上二階、地下一階の立派な建物で、大道場は百八十畳以上あったでしょう。建物で思い出すのは地下にあった更衣室のシャワーが栓を捻ると、お湯になったり水になったりでなかなか気難しかった事であしましょうか。夏場はそう苦にもならなかったのですが、冬にはこのシャワーのご機嫌を取り結ぶのに苦労いたしました。しかしシャワーがあると云うだけで有り難くはありましたが。
 当時の指導陣は塩田剛三初代館長先生は別格として、現在山梨養神館館長の竹野高文先生、合気道錬身会最高師範の千田務先生、現養神館宗家の塩田泰久先生、合気道SAの桜井文夫先生、今は整骨院を経営されているN野先生と錚々たる顔ぶれでありました。中でも竹野先生の溌剌たる稽古、千田先生の緻密な指導、N野先生の元気一杯の稽古は稽古後の充実感がひとしおでありました。先生方も若かったから、合気道に対する気概や熱意が広い道場も狭く思えるくらい稽古空間に充満しておりました。
 後はフランス支部長のムグルザ・ジャック先生、御互道の三枝誠先生、養神館合気道龍の安藤毎夫先生、山梨振武会の保坂巧二先生、今は確か京都で合気道を指導されているレユニオン島出身のフランス人P・Jさん、養神館本部の千野進先生、オーストラリアの森道治先生と、この辺りまでが小金井道場を知る方々でしょうか。森先生は入門は新宿で、内弟子となってから小金井で生活されていました。名前は挙げませんでしたが、この他にも今は合気道から離れられた何人かの内弟子の方々がいらっしゃいました。また拙生は新宿に現本部となる道場が出来た時にそちらへ稽古の比重を移してしまったので、小金井と新宿が並存していた頃に小金井で合気道を始められた方々とはあまり面識がありません。
 異色の顔ぶれとしては、P・Jさんの後辺りであったでしょうか、イギリスから若者二名が内弟子として入門していた時期がありました。始めは日本語も殆んど喋ることが出来ずに、いつも緊張した硬い表情と、万事に当惑したような色を眉間に浮かべて道場で過ごしていましたが、一年もすると過酷な稽古に耐えた自信に溢れ、見違えるような逞しい顔つきに変貌しておりました。当時朝日新聞の多摩版に写真入でこの二人が紹介され、たどたどしい日本語と赤い頬をよけい赤くして照れておりました。惜しいかなこの二人も今は合気道から遠ざかってしまっています。
 外国人で印象に残っている方では、アメリカから合気道を習うためにやってきたLさんと云う女性がいらっしゃいました。彼女の稽古に対する熱心さは日本人見習うべしと云うべきもので、稽古していてちょっとでも疑問に思うことや腑に落ちないことがあると、深刻な表情でそこだけを容赦なく何度も繰り返して、相手を辟易させること暫しでありました。しかし拙生はこの稽古態度は好きでありましたが。稽古時間以外で相撲の話になると目を輝かせて、あの力士は技が綺麗だとか、あの勝負では一方の力士に気合が足りなかったなどと不自由な日本語を汗しながら駆使して口角に泡を溜めて話していらしたのを思い出します。
 このLさんに、ある時山岡鉄舟の墓は何処にあるか教えろと聞かれ、谷中の全生庵にあると教えると、どう行くのかと重ねられ、拙生は地下鉄千駄木駅で降りて歩いて数分であると紙に書いて、ローマ字でルビをふって渡したことがありました。なにやら連れて行って欲しそうな表情でありましたが、折悪しく拙生は別の用事があったので同道は出来ませんでしたが、拙生の渡した紙切れを頼りに武蔵小金井から電車に乗ってきっと出かけられたに違いありません。Lさんは今はアメリカに帰られているのでしょうが、彼女は日本語がことの他下手っぴいであったので同道してあげればよかったかなと、今頃思っている拙生であります。
(了)
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養神館-新宿初期の頃Ⅰ [合気道の事など 1 雑文]

 当時の或る理事の方の誘致により、新宿区落合に合気道養神館新宿道場が開館したのが昭和五十九年であります。平成元年に本部を小金井から新宿に移し、小金井道場は閉館となるのでありますが、この間は小金井の本部道場と新宿道場が並存した時期になります。
 木の香も新しい新宿道場の真新しい壁や天井の白さ、綺麗な更衣室、まだ幾つかの机を並べただけの事務室、色も艶やかな道場の畳等からは、これからこの道場の歴史が創られていくのだという初々しい期待が匂ってくるようでありました。当時の仕事場からは新宿の方が通いやすかったと云う事情もあって、拙生は早速此方へ稽古の本拠を移したのでありました。
 開館間もない頃は入門者も少なく、指導員が四名で稽古生一名などと云う、なにやら前にこの一文で紹介した池袋演芸場の出演者と観客の比率のような、稽古生にとっては極めて贅沢とも云える夜の一般稽古の日もありました。落合に住んでおられた関係で新宿道場の事務を引き受けられた小金井道場以来の事務長T波さんが、場所がいいからその内人数も増えるよと楽観的に笑っておられましたが、確かに間もなく続々と入門者が増えはじめました。小金井からの移籍組も多数あり、また塩田剛三館長先生の精力的な各方面での演武披露、各メディアへの露出が功を奏して目を見張るような活況を呈しはじめていったのであります。先のT波さんから登録人数が二百人を超えたとうかがったのは、前に氏の楽観的観測をお聞きしてからさほどの時間が経過していない頃でありました。その後も皇太子殿下のご来館、格闘家の前田日明氏や、まだやんちゃでなかった頃のボクシングヘビー級チャンピオンのマイク・タイソンの訪問等あって、世間の耳目を集め、入門者数は増加の一途を辿っていったのであります。
 入門者が増え始めた頃、合気会本部とも近かったせいか合気会に籍を置いたまま養神館にも入門される方が幾人かおられました。この方達はある時を境に皆示しあわせたように急にお顔を見なくなってしまいましたが、それはいったいどう云う事情であったのか未だに不可解なままであります。その中のお一人が「養神館の技法に五教と云う技はないのですか?」と千田務先生に尋ねられたことがありました。千田先生は明確に「ないです」とお答えになられ、その後「普通に短刀取りと云います」と続けられるのでありました。その質問をされた方はなんとなく不承であるような顔をされていましたが、技の分類にも夫々の会派の性格があるようで、拙生は面白くそのやり取りを聞いておりました。
 小金井本部と新宿道場が並存していた頃、竹野高文先生が退職されて山梨で支部活動を始められるまでの間は、明確な分担ではなかったようですが、小金井が竹野先生、新宿が千田先生の担当と云う風でありました。千田先生は小金井の頃は出張指導が多かったため、あまり頻繁にご指導を仰ぐことが叶わなかったのでありますが、当初の新宿道場では殆んど常駐と云った感じで、より親しくその緻密な合気道を学ばせて頂くことが出来ました。稽古後に稽古仲間のY生さんや、女性のS西さん、H野さん等と先生を囲んで飲食をご一緒させて頂く機会も増えて、千田先生のお人柄に心地よい安心感のようなものを感じるのでありました。当時の寒稽古や暑中稽古は連続十日間、朝の七時から八時まで行われるのでありましたが、前日の夜稽古後に飲んでほとんど酔いの覚めやらぬ間に朝稽古に突入し、指導する千田先生を始めとして幾人か上気したのとはまた違った赤ら顔で汗を流していたのは、ま、ご愛嬌でありましょう。そう云えばこの頃の暑中稽古、寒稽古では皆勤すると賞状と一緒に「合気即生活」の文字が入った手ぬぐいを頂いておりました。
 新宿道場の館長室でもお客様が見えた時などささやかな宴が持たれることがありました。塩田剛三館長先生が小金井より寿司はこっちの方が旨いな等と仰いながら、あの独特のやんちゃ坊主のような人を和ませる笑顔でビールを飲まれていたのを思い出します。お客様がない時でも気が向けば件のY生さんや、時に井上強一先生や竹野先生、理事のT内先生、千田先生等と館長室でちょいと飲みながら稽古後に談笑され、拙生も同席を許されたりしました。館長先生は「いつものメンバー」と仰って愉快そうにコップを傾けられておられましたが、貴重なお話を伺うことの出来るまことに有り難い時間でありました。
(続)
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養神館-新宿初期の頃Ⅱ [合気道の事など 1 雑文]

 新宿道場の運営が軌道にのりはじめてからだったでしょうか、千田務先生はもとより竹野高文先生も新宿道場に指導に来られ、その切れ味鋭い技を披露されておりました。その頃になると活況という点では地の利があるためか、小金井道場より新宿道場の方が勝る観がありました。塩田剛三館長先生以下、竹野先生、千田先生、桜井文夫先生、N野先生がローテーションで小金井と新宿を回られるようになると、指導者の陣様は小金井となんら変わることはなくなり、両道場伴に本部と云った感じでありました。
 その頃、現在オーストラリアのブリスベン道場で活躍されている森道治先生が入門されましたが、森先生は拙生にとってことのほか思い出に残る方でありました。最初道場で見た時は随分な優男が入門してきたなあと云った印象でありました。もの静かな人柄で入門当初は顔見知りの稽古仲間も少なく、今ひとつ道場の雰囲気にしっくり馴染めないと云う風で、戸惑い気味に道場の隅の方で人の動きを見ていると云った感じだったでしょうか。まだ森先生は十九歳だったと思います。
 ちょうど拙生の愚妻が(まだ当時は結婚してはいませんでしたが)、同じく入門後日が浅く森先生と同じ初心者コースで稽古をしていましたから、なんとなく森先生と言葉を交わすようになり、その関係で拙生とも話をするようになりました。ちなみにこの愚妻ですが、日本武道館で杖を振り回していたり、大学時代からずっと合気会の方で合気道を稽古していたのを、拙生が養神館に見学に来るよう促し、見学後すぐに養神館に鞍替えしたのでありますが、まあ、それはどうでもよろしいであります。
 当時の森先生は寡黙で稽古熱心でしかし秘めた覇気があって、結構頑固で、しかし若者にありがちな無用な邪気とか悪意とかは微塵もなく、照れたような笑い顔にまだあどけなさを残している、今時めずらしい好青年と云った印象でした。話していても不遜な言辞や態度はついぞ見ることはありませんでした。拙生が森先生にとって意ならぬことを云ったとしても、片頬にほんのりと不承であると云いたげな気配を浮かべながらも、決して年嵩の者に対する敬意を失うことはなかったのでありました。
 不幸にもこの森先生、六級の審査を件の愚妻と仕手受けで受験することになりました。と云うのは愚妻の身長が百五十五センチ、森先生は百七十五センチ以上と云う身長差でありまして、これで四方投げ等を行うとしたらかなり森先生に不利なるに違いありません。森先生にしたらさぞややりにくかろうと思いつつその審査を見ておりましたが、審査を終えた愚妻が「やりにくかった」などとほざくのを聞きつつ、そりゃ向こうはもっとやりにくかったに違いないわいと腹の中で云う拙生でありました。
 塩田剛三先生が逝去される前辺りに、ちょっとしたごたごたが養神館の機構の中であったのでありますが、そのごたごたを機に森先生はオーストラリアへ、本当はご自身の意に副うことではなかったようですが、赴かれて合気道を指導することとなりました。まあ、住めば都で新天地でも頑張るしかないなと励ましたのでありますが、「人ごとだと思って皆そんな風に云うんですよね」と返されて、拙生はちょっと動揺いたしました。ありきたりの送別の言葉として軽く云ったに過ぎないのでありましたが、森先生の心境を察すると如何様軽々しく無神経な言葉であったようでありました。
 しかし平成十七年にあった養神館創立五十周年演武大会で、森先生はオーストラリアからお弟子さんを引き連れて参加され、その折久しぶりに挨拶をさせてもらおうと席まで伺ったら、森先生には拙生の姿を認めると自ら立ち上がり深々と先に礼をして頂いたのでありました。拙生は十年以上も気持ちのささくれに引っかかっていた瘡蓋が、ようやく落ちたような気が、なんとなくしたのでありました。
 塩田剛三先生ご逝去前のそのごたごたの時期に、竹野先生、桜井先生も辞められ、N野先生も道場へは立たれなくなり、千田先生も中心指導をされなくなった新宿道場(その頃はもう本部道場)での稽古がかつての虹彩を失いつつあるような気がして、拙生はなんとなく場を失ったような気がしておりました。ちょうど折があって東芝府中工場の中の体育館で、千田先生のご協力もいただき、東芝の社員の方達と週に一度合気道の稽古をしていたのでありますが、拙生はそちらの活動に力点を移すことにしたのであります。色々な出来事があった養神館での稽古に未練はあったのでありますが、森先生の万分の一の悲壮な決意でもって、養神館新宿道場(本部道場)に別れを告げることにしたのでありました。
(了)
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合気道南多摩倶楽部の立ち上げ [合気道の事など 1 雑文]

 当時の新宿道場での稽古仲間であったKさんと話しをていたら、東芝府中工場の体育館は柔道場があるにはあるが、あまり使われてはいないと云うことでありました。Kさんは東芝の社員でその頃府中工場横にあった東芝の寮に住まわれていました。せっかくの畳のある稽古場を使わない手はないと云うことで、Kさんのお骨折りで、その柔道場で合気道の稽古をすることになったのであります。
 まずは千田務先生をお招きして、後輩になるH君とS君に手伝ってもらって、Kさんの同僚の方約三十名を対象にデモンストレーションを兼ねた講習会を開くことになったのであります。合気道がどう云うものか殆んど知らない人、昔少々齧った人と様々な人に養神館合気道の基本動作、二ヶ条、三ヶ条、四ヶ条、小手返し等を危険のない範囲で体験してもらったり、千田先生に個別の技や自由技、それに三人取り等を演武していただき大変好評を得たのでありました。こうして定期的に稽古を実施する下地が出来て、約十五名程度で火曜日の終業後に件の柔道場で合気道の稽古を行うようになったのであります。
 Kさんの、稽古着を態々購入することにすると皆来なくなるのではないかと云う危惧もあって、当初は体操服での気楽な稽古でありました。気楽な分、やはり稽古に今ひとつ締まりがなく、拙生としてはなにやらこのままの雰囲気で定期稽古を続けても、結局先細りに終わるのではないかと云う思いがありました。それでタイミングを見て、なるべく早く皆さんに稽古着の購入をお願いすることにしたのでありますが、成る程Kさんの危惧の通り稽古に参加される方が六名程に減ってしまいました。拙生としては残念ではありますが、これも将来のことを考えれば致し方なしであると思うのでありました。
 合気道を稽古するとこは、云わば日本に独特に発生した武道と云うものの歴史性を身をもって学ぶと云うことに他ならないのであり、単なるスカッと爽やか汗かき運動とか、武技の手足抹消の技術修得プログラムを消化することだけではなく、云わば文化性のある営為であると気負っていた時期でもありますから、拙生としては合気道を学ぶためには文化としての稽古着の着用がまずもっての前提条件であると考えていたのであります。今も基本的には稽古着の着用を含めてこの考え方に変更はありませんが、ま、合気道を学ぶ動機は人夫々で自由でありますから、取り掛かりはなんでもよろしいと考えております。健康、礼儀、リフレッシュ、稽古後の宴会等々、とりあえず合気道に興味を持って頂ければ、まずはよしであると思います。しかしいつまでもそれだけでは合気道と云う巨大な体系総体の表層部分を上滑るだけで、いかにも勿体無い。それに武道としての合気道、文化としての合気道そのものを学んだ結果として健康や礼儀等を手に入れることが出来るのだし、そういう稽古の後の充実感がリフレッシュに役立ち、稽古後の宴会をより楽しくするのではないでしょうか。ま、こう云う硬い話はこの文の主題ではないのでこれくらいにして。
 とまれ合気道を学ぶ環境が一定程度整ったのを機に、平成五年に養神館本部に同好会認可を頂いて、その名を養神館南多摩倶楽部とし千田先生にも定期指導をお願いしたのでありました。少ない人数で千田先生に合気道を指導して頂くのは、これはもう大変な贅沢であると考えていたのでありますが、養神館合気道の同好会認可を受けた以上は普及活動と云う側面も、重要な南多摩倶楽部の活動目的であります。よって東芝府中工場の中の体育館で閉じられた活動をしているのでは、とても普及と云う目的は達成出来ない環境なのであります。稽古参加人数も一桁に留まり、このままでは活動自体が停滞してくるのは避けられません。南多摩倶楽部は次の展開を試みる段階に入ったのであります。
(了)
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合気道南多摩倶楽部の展開 [合気道の事など 1 雑文]

 先ずは開かれた稽古場を確保したいと云うことで、府中市の総合体育館の空き時間を調べたところ、水曜日の夜と土曜日の午前の時間が適当かと云うことになりました。毎週定期的にこの時間帯を押さえるのは、当初予算の都合で無理であったので、土曜日の午前を優先的に確保して、余裕があれば水曜日の夜も使うと云う感じでした。千田務先生には月に一度お出で頂いて稽古をつけて頂きました。それでも予算は限られていたし初期の頃は赤字が当たり前の活動でありました。
 当時の東芝は土曜日出社の日があって、時には拙生一人しか稽古場に居ないと云う時もありましたが、そう云う場合は剣と杖を振り回して一時間半を過ごすこともあったのであります。ただ稽古後に体育館に使用人数を報告するのでありますが「一名です」と云う時の敗北感と云うのか、その遣る瀬なさは今でも思い出すと気持ちが萎えるようであります。体育館に来たら稽古場を覘いて、一人でも会員が居れば拙生としては密かにほっと胸を撫でおろすのでありました。四名も居れば、それはもう拙生は有頂天であります。
 平成七年の十一月二三日に千田先生にお出で頂き、新入会者確保のための講習会を開催しましたが、これには当時の養神館本部の事務長でいらしたI嵐さんも、人が集まるかどうかと心配されて当日態々体育館までお見えになったのであります。明治学院大学の学生諸君や当時内弟子だったF君なども応援に来てくれて、まあ、拙生の努力不足でさして一般の方はお見えにならなかったのですが、この時参加された方二名がその後入会されました。それに不思議なものでこの講習会を境に、亀の歩みと云うと亀がせせら笑うくらいの遅々たる速度ではありますが、入会者がぽつりぽつりと集まるようになったのであります。
 この時入会されたWさんは年齢が七十二歳で、この歳になって始めて大丈夫かしらと入会後も大いに心配されていましたが、なんのなんの、毎朝負荷を背負って十キロメートルくらいをジョギングされるような方で、ゴルフや山歩きなどを趣味とされているのでありますから、充分に合気道の稽古にも耐え、翌年の演武大会で壮年者演武に出場されて見事に奨励賞を獲得されたのでありました。今はもう合気道から遠ざかっておられますが、まだ年賀状のやりとりは続いており、それによるとジョギングは今も続けていらっしゃるとのこと。拙生脱帽の後、最敬礼であります。
 次第に入会者が増え始めると、今度は初期から居た東芝の社員の方達が次第に稽古に顔を見せなくなるのでありました。一人去り二人去り、ついには倶楽部立ち上げ当初からの盟友であるK氏も体調やその他の理由により姿を見せなくなってしまいました。今は当時の生き残りは一名のみであります。
 とまれ、こうして南多摩倶楽部は次第にその面容を変えつつも活動を続けてきました。平成十六年からは多摩市の総合体育館でも稽古を開始し、少年部も創設して、総勢五十名の団体になりました。平成二十年からは長年お世話になった合気道養神館から止むをえぬ事情により離れて、千田先生の合気道錬身会に所属して活動を継続しております。
 この合気道錬身会とは、やはり止むをえぬ事情から養神館から独立された千田先生と、先生を慕い、長年その薫陶を受けた団体や個人で創始した、千田先生の合気道を学ぶための団体であります。千田先生の合気道を通して養神館合気道創始者である塩田剛三先生の教えを真摯に追求することがこの団体の目的であります。これからの南多摩倶楽部は合気道錬身会と伴に新しい合気道界の歴史を創る気概を持って、これまで以上に直向きに合気道と云う体系に誠実に歩を前に進めていくでありましょう。
(了)
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合気道錬身会について [合気道の事など 1 雑文]

 合気道錬身会は平成二十年に出来たばかりの団体です。千田務最高師範を模範として戴き、故塩田剛三先生の遺された合気道を深く追及することを目的とする団体であります。この団体が出来た経緯はとりあえず置くとして、千田先生とその合気道について等々少し語ってみようと思います。
 千田先生は歴代の内弟子の中で最も長く身近で塩田剛三先生の薫陶を受けた方であります。云わば塩田剛三先生の技は云うまでもなく、その合気道的な立ち居振る舞いや考え方の機微を、側で感じる貴重な機会を最も多く持たれた方であります。よって塩田剛三先生の合気道的なもの総てを、最も色濃く受け継がれておられる方だと云えます。
 塩田剛三先生は生前、惜しみなくその会得された技の要諦を指導されましたが、その境地があまりにも高遠であったため、拙生のような鈍いことでは人後に落ちない凡人には、それを再現すること等到底能わざるものであるとしか思えませんでした。例えば二ヶ条の稽古で「力の線はこう流れて、それが手首肘肩とこう伝わって腰を通って云々」とご説明を受けて、さていざやろうとすると相手の肘や肩からこちらの力が抜けていって、なかなか腰まで伝わらないのであります。仕舞いには極まらないことに焦って手首のみを傷めようと力に頼るような二ヶ条になると、相手も力で余計踏ん張るものだから結局力の捏ねあいに終始する始末。そこを塩田剛三先生が拙生の背中と腰に手を添えられ「攻める方の体が一つに纏まらにあゃいかん」と仰って体の歪みを修正され、その纏められた力を相手の手首に流すように操作して頂くと、進入を阻止されていたこちらの力がふわりと相手の中に入り始め、相手の膝がかくんと前にのめって、途端に二ヶ条が極まりだすのであります。「結局相手の膝に効かさにゃあいかん」と、なにやら今しがた展開したばかりの攻防をうまく自分の中で納得出来ないでいる拙生に、先生は笑って仰るのでありました。確かに塩田剛三先生の技は受けの膝の踏ん張りを抜いて崩すような感覚でありました。しかしまたもや再現しようとするとうまくいかないのであります。体の歪みと癖、微妙に読み損なった相手の力の線とこちらの線の関係、塩田剛三先生の生前に行われていた黒帯会は、こう云ったことを我々に解らせようとする稽古でありました。
 幾人かの非凡な才能と卓越した探究心を持つ先生方が、その困難な塩田剛三先生の技をついに我がものとされたのであります。千田先生もその中のお一人であります。しかも千田先生はその解説するのに困難な技の感覚を明晰な頭脳と努力で一般化され、我々にも解り易い表現でそれを惜しみなく展開されます。またそう云う技の拠って立つ体や力の纏まりを修錬する方法を、これも惜しみなく教導してくださるのであります。
 塩田剛三先生のあの技の見事な冴えは塩田剛三先生の体の特性とか身体感覚等に拠って立つものであり、それは云わば塩田剛三先生と云う代えの利かない個体に帰すべき要素の素晴らしさであります。これはいくらその動きや印象等を感覚的に真似たところで、拠って立つ体の条件が違っていれば羊質虎皮との謗りは免れないでありましょう。大事なことは塩田剛三先生の技の見栄えを感覚的に再現しようとすることではなく、その技の冴えを保障する条件を抽出し、一般化し、それを直向きな稽古によって自分の技にこめることであると思われます。
 千田先生の講習会を受講した方は、千田先生がそういったことをやっておられるのが充分お分かりになるでありましょう。指導者として、また合気道家として千田先生は掛替えのない方であり、その錬身会は拙生にとって同じく掛替えのない稽古空間なのであります。
(了)
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合気道と筋力Ⅰ [合気道の事など 1 雑文]

 合気道愛好者一般にとって最も忌避されている(!)話題であるところの、筋力についての考察であります。以前の記事で合気道に「余計」な力は要らないが必要な力はある、と云うようなことを記述しましたが、それを少し敷衍する文章であります。
 そも、体を動かす=骨運動を起こすと云うことは、意識するしないに関わらず筋肉の収縮と弛緩がなければ起こりえない現象であります。人体を構成する二百を越える骨を動かすために、五百を数える筋がシステマティックに働くことによって、我々は身体をある範囲において自在に動かすことが出来るのであります。この所与たる現象に異を唱える方はまず居ないでありましょう。
 合気道と云う運動(キネシス)が当たり前のこととして人体の営為である以上、この事実から逃れることは出来ません。であるならパワー(筋力×スピード)とその巧緻な使用に優れた者が、より高度な合気道のパフォーマンスを発揮出来る可能性があることは言を待ちません。合気道愛好者もやはり他の武道愛好家、スポーツ愛好家と同じく「筋」を鍛えなければならないのであります。一人合気道愛好者のみが「筋」に対する認識に傲慢なまま、或いは鈍いままで居たなら、多の中の一でしかない合気道は他の武道やスポーツの到達した、或いは到達するであろう運動性の高みを、遥か下の方から羨ましげに眺めるような結果になるやもしれません。
 パワー(主に筋力×スピード)を鍛えると、相手の力に逆らわないで技を施すところの合気道の特性から逸脱して、力に頼るような合気道になってしまうと云う指摘があります。これは人間の有する繊細な運動システムに対してあまりにも無理解な意見かも知れません。単純に考えても、元々ない力は出しようもありませんが、有る力を出さないようにすることは可能なのであります。また相手に逆らわないで技を施すとは云うものの、その相手と云うのが相対的な関係の中では千変万化に動く相手でありますから、いちいちその変化に逆らわないで技を繰り出そうとすれば、これはもう忙しくて叶いません。相手の力に逆らわないと云うのは実は関係の中で動きを主導するのは此方であって、動く相手に此方が合わせるのではなく、此方の動きに相手が合わせざるを得ないような関係を構築することであります。これは「後の先」と云う考えと深く関係するもので、筋力に関する考察を主眼とするこの項では差し当たりこれ以上の深入りは避けます。
 合気道はさしたる力を必要としない武道で、老若男女誰にでも出来ると云う合気道の紹介文もよく見受けます。確かに合気道に長けた者には筋力をさして使っているような気はしないのでありましょうし、十の力でぶつかってくる相手を十の力で受け止めるような技法は合気道には存在しません。しかしそれは合気道に限ったことではなく、自分よりも体格体力に優れた者に拮抗するための術として「技」と云う概念が発生するのでありますから、これはあらゆる武道が標榜するところであります。また「武道」と云うものが存在する意味であります。ですから、或いは、であるなら、その「技」を支えるための筋力は要るのであります。合気道を始めた当初は非力でもいいでしょうが、長年修練を積んでもまだ非力なままで好いと云うことではありません。その間に合気道に必要とされる筋力が充分に養成されていなければ「技」の精度や強さは保証されないでありましょう。
(続)
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合気道と筋力Ⅱ [合気道の事など 1 雑文]

 ですからまず「合気道は」ではなく「合気道も」と前の紹介文を云い換えるべきであります。それに老若男女誰にでも「出来る」のではなく、誰にでも「始められる」武道であるとも云い換えるべきでありましょう。合気道の修錬においては、体を鍛えることなど放擲しても構わないと云うあらぬ誤解が生じないためにも。
 人間の潜在能力を表す言葉として「火事場の糞力」と云うものがあります。普段は体の破壊を引き起こさないために、持っている筋力の総てを発揮しないような抑制がはたらいているのですが、一旦バイタルな危機に遭遇するとその脳の抑制が外れて、本来持っている筋力が発揮されると云うのであります。これは合気道の集中力の大きさを表現する場合にしばし用いられます。しかしそう云う一生に一度あるかないかの非常時に発揮されるところの筋力を頼みに、普段の筋力トレーニングを怠けていいはずがありません。第一「火事場の糞力」がそう簡単に発揮できるなら、火事で死傷する人など殆ど居ないでありましょうに。平常の、冷静な判断力の及ぶ範囲の中で発揮出来るところの筋力を地道に養成する方が、余程正当な鍛錬と云えます。また地道な鍛錬に倦んで「潜在能力開発」的な稽古に走ることも、或る意味で鍛錬の遠回りにしかならないようであります。それによって獲得したその潜在能力なるものが、時間の経過を経た客観的評価として、通常の鍛錬を地道に行ってきた人の数倍見事な運動性を発揮し続けていると云うことを、拙生は寡聞にして未だ知らないのであります。
 ここで断わっておくのでありますが、筋力トレーニング(パワー・トレーニングと云うべきか)を含む合気道の様々な鍛錬の効率を上げることに異を唱えているのではありません。また地道な鍛錬の中で閃く鍛錬効率を上げるための発想にまで否定的な見解を述べているのでもありません。この辺りは念のため申し述べておきます。ただ合気道愛好家も筋力トレーニングを含む地道な鍛錬が必要であると述べたいだけであります。
 さて、では合気道に必要な筋力、合気道の技を支える筋力とはどのようなものか、またその鍛え方等大雑把ではありますが具体的に述べてみたいと思います。せっかくですから稽古の流れに沿ってそれを記述していきます。
 まず「構え」であります。これは強固な中心線を必要とします。しかも力みがなく安定していて或る種威圧感があり姿勢が美しくなければなりません。必要とするのは抗重力筋、体幹のインナーマッスルの筋力であります。頸半棘筋、脊柱起立筋、大臀筋、大腿部後面のハムストリングス筋群それに下腿三頭筋と、頸半棘筋を除いて全て体の後面にある強い筋肉であります。これに下腿前外側面の前脛骨筋、それから腹直筋と大腿四頭筋が加わります。つまり脊柱の安定と骨盤の前傾、上後腸骨棘間の締り(これは意識のレベル)、前重心のため膝がやや緩んだ前足と膝を張った後ろ足のバランス、足関節の安定に寄与する筋肉であります。殆どがアウターの筋群であります。また体の揺れを防止するためには体幹の深部にある大腰筋・小腰筋・腸骨筋(合わせて腸腰筋)、腰方形筋と云うインナーマッスルを主に使います。アウターの筋肉は強い力を出せるものでこれは構えにおいては表層的な力みをなくして、どちらかと云うと芯を強く保つように使います。つまり芯を強化するような筋力トレーニングが必要なのであります。
(続)
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合気道と筋力Ⅲ [合気道の事など 1 雑文]

 インナーの筋肉はアウターのそれのように、使っていると云う感覚がないので鍛えにくい筋肉ではありますが、主に股関節を屈曲させるための筋肉と体幹を横に倒すための筋肉でありますから、自ずとそのトレーニング方法もその作用を強調するような動きを使って鍛えます。アウターの芯を鍛えると云う場合も、こと構えのような姿勢維持と云うことに限って鍛練するとすれば、力むような筋トレは避けるべきでしょう。強い負荷を使ってトレーニングするよりは自分の体重を使い、不安定なものの上に乗って或いは傾斜地で、アイソメトリックに、ただ構える、体の変更一の前に進んだ時の姿勢をとり続ける、臂力の養成一の前に出た時の姿勢をとり続けると云うような鍛錬になります。狙いは繰り返しになりますが強固な中心線の構築と体幹の揺れの補正、筋の力み(籠る力)の除去、安定感の獲得であります。抗重力筋、インナーマッスル共に全部をバランスよく鍛えることに留意する必要があろうかと思います。
 基本動作については、元々が本来の力の受け流し方や、自己の力の纏め方、纏めた力の集中的発動といった稽古の狙いとともに、特に下肢の筋力トレーニング的な要素もありますから、これはそのまま筋力トレーニングに見合うだけの数量をこなすと云うことになります。また筋トレを主眼に稽古をしたければ、臂力の養成一の前足と後足の重心配分を通常の七:三から八:二にしてより低く前足の膝をせり出すと云うことが有効であります。臂力の養成二は重心配分は元々八:二でありますから、これ以上足幅を広げると膝のせり出しが不十分になるため重心位置が前足の踵の上まで来ないで、前足の負荷が弱くなる可能性があります。よって八:二の重心配分を維持したまま、ゆっくり、時には姿勢が崩れない程度に早く不規則に繰り返すことになります。構えの鍛錬と同じく不安定なものの上か或いは傾斜地で各動作をゆっくり繰り返すことも有効でありましょう。特に臂力の養成二の場合、股関節左右の内旋外旋と屈曲伸展、膝関節左右の屈曲伸展の協調、同側の膝の向きと爪先の向きが同調して動いているかどうかに留意して行います。それによって臀部、大腿前面と後面、内側面と外側面、下腿の前側と後側の筋の連動性をトレーニング出来ます。鍛えられる筋肉は腸腰筋、小臀筋・中臀筋・大臀筋、深層外旋六筋、恥骨筋、各内転筋群、大腿直筋、大腿筋膜張筋とハムストリングス等であります。下方向に負荷をかけて、つまり体の前後に一定の重さのあるものを装着して行っても効果があるでしょう。
 構えの鍛錬では構えのための筋力トレーニングをしているのだと明確に意識して行いますし、基本動作の場合はこれもはっきりと基本動作と云う「動き」を鍛錬しているのだと意識します。ですから姿勢維持のための筋力トレーニングはアイソメトリックで、動きのためのトレーニングはアイソトニックで行うことが基本であります。
 個々の技に使用する筋に関してはこれもアイソトニックで鍛錬しますが、マシンを使う、ダンベル・バーベル・ゴムチューブ等を使う、鍛錬棒や木刀や鍛錬鉄扇を使う等様々です。それは個々の好みによって良いでしょう。しかし常に、この筋力トレーニングはどう云う技のどういう動きのためのパワーを上げるために行っているのかを意識しながら行わなければ、単にマシンの扱いが上手くなる、ダンベル・バーベルを上げるための技術が向上する、鍛錬棒や木刀、鍛錬鉄扇を振る動作が上手くなると云うだけに終わるでありましょう。
(続)
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合気道と筋力Ⅳ [合気道の事など 1 雑文]

 器具を使わないで自分の体重を利用する筋力トレーニングは手軽で、比較的実行し易いトレーニングであります。一般によく行われている腕立て伏せや腹筋運動やスクワット等、膝行法や筋トレ風にアレンジした膝行法であります。しかしこれもその筋肉を鍛えることによって、合気道のどう云う技のどう云う動きのパワーと精度を上げるのが目的であるのか、明確に意識して行う必要があります。別に腕立て伏せやスクワットの技術向上を目指しているわけではないのですから、その辺は器具を使う場合と同じであります。
 筋力トレーニングは単調であり、その分厭き易く疲労も感じやすいトレーニングであります。漫然とただノルマをこなすべく繰り返すだけでは、せっかくの筋力トレーニングが技術向上に資さないで終わることもあります。漫然と筋肉を鍛えても合気道のパフォーマンスを上げることに使えないのなら、そうやって養成した筋力は無駄なものであったという結果になります。これを防止するためには矢張り、まず意識です。合気道の技のイメージを常に忘却しないで、その技のどう云う動きを強化したいのかを筋出力するときに強く意識します。相手の十で来る力を十で受け止めるための筋力を養成しているのではなくて、捌いても崩れない姿勢と、技の威力の一要素としてのパワーを磨いているのだと云う明確な目的を忘れないことであります。
 また、器具を使うにしても自分の体重を使うにしても、一応目安にするのは一回三十程度の反復運動であります。これを一セットとして当初は三セット程度、その後筋力の向上に合わせて上限十セットまでとして次第にセット数を上げていきます。セットとセットの間には必ず六十秒のインターバルを置きます。取りかかりはゆっくりと行い、時々リズムを崩すように早い動きを混ぜます。技のイメージ、意識の散漫化を許さない意味でもこの一セット三十回と一分のセット間のインターバルと云う周期を守ります。また器具を使う場合はあまり重い負荷は避けます。時々早い動きを入れるので、筋の破壊が起こることを防止するためであります。その分物足りないのならセット数を増やすことになります。負荷のコントロールが出来ない自分の体重を使う場合には、動作の初動と終動のみの動きにします。例えば腹筋運動なら膝を曲げて仰臥して、上体を九十度以上起こすような運動ではなく、仰臥から肩甲骨が床を離れる程度の小さな動き、それと上体を起こした姿勢から後ろに二十度程度倒す動きの反復であります。腕立て伏せもスクワットも他の運動も同じであります。ストレッチ位からほんの少し収縮位に動かす、最大収縮位直前から最大収縮位まで動かすと云う低振幅の運動で行う方が鍛錬効率は高く疲労も少なくて済みます。
 繰り返しになるかも知れませんが筋力トレーニングを行うことによって、筋力に寄り掛かった合気道を目指しているのではありません。あくまで合気道の動きの強さと精度を上げるのが目的であります。筋力は年齢とともに衰えるのだから、それに頼っていたら合気道の技も衰えていくと云うことは暫し耳にします。しかしだからと云って、人間の動きが筋の収縮と弛緩によって引き起こされていると云う所与の事実がある以上、筋力を鍛えることが無意味であるとは云えません。それに筋力は八十歳になっても事実鍛えられるのです。鍛えた筋力をもって合気道を修錬し続け、また筋力そのものも鍛え続けることの果てに、筋力を超えた合気道の動きの妙を得ることが出来るのだと思うのであります。
(了)
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合気道錬身会 二〇〇八年Ⅰ [合気道の事など 1 雑文]

 昨年の初めに合気道錬身会が誕生したのであります。昨年の錬身会の活動とそれと連動した南多摩倶楽部の主要な活動を以下綴ってみたいと思うのであります。
 まず二〇〇八年最初の行事は一月十三日の合同稽古初めでありましょうか。南多摩倶楽部からも数名が参加いたしました。もっとも南多摩倶楽部は既に四日から当年の稽古を開始しておりましたから、我が倶楽部からの参加者は体のキレもよく、スムーズに参加出来たのではないかと推察したのであります。拙生は都合で参加出来なかったのですが、後日会員から当日の盛会の様子など報告を受けたのでありました。稽古後千田務先生は錬身会会員数名と一緒に養神館本部で開かれた鏡開き式に参加されました。前年末で養神館を退職されている千田先生は部外者として、いつもよりは気楽な様子で向かわれたとの報告も受けたのでありました。
 二月十日には養神館本部の職責を離れて、自らの新しい合気道の境地を開かんとされる千田先生を応援する会が新宿の京王プラザホテルで開催されました。四百名を超える方々が参集されたのは千田先生の御人徳であると云えるでありましょう。拙生も役職から胸に花飾り等つけて演壇の方に並んだのでありましたが、そこから見る会場の人々々の波は圧倒的でありました。翌十一日は中野体育館で講習会が開催され、申込者が多くて午前と午後の二回に分けて行われたのでありました。
 三月には千田先生が養神館から余儀なく独立をされたのでありました。当初千田先生は全日本養神館合気道連盟の下での活動を念願されたのでありますが、様々な部分で養神館本部との折衝が整わず結果独立と相成ったのでありました。よって南多摩倶楽部も連盟から離脱して千田先生の下で今後の活動をしていく選択をした旨、後日養神館に通知したのでありました。長くお世話になった養神館を離れるに於いては感慨一入ではありました。
 四月二十七日は錬身会所沢道場で演武会と千田先生の講習会か開かれました。近隣の道場と云うことで南多摩倶楽部に演武の招請があり、三名で演武を披露してまいりました。所沢道場は少年部の人数が多くて、子供達の元気いっぱいの演武は見ていて気持ちの良いものでありました。千田先生の講習会にも錬身会各道場から大勢の方が参集されました。
 四月二十九日は両国の錬身会本部道場で千田先生の講習会が開かれました。錬身会本体主催の講習会は当年これで二回目であります。この日に講習会を開くことは千田先生が養神館本部道場長時代から恒例になっており、当年は錬身会として開催したのでありました。毎年この日の講習会を楽しみにされている方々が大勢いらっしゃって、やはり各道場、各会派から九十名の参加があって、広い道場も狭く感じる程でありました。参加された方々の熱気は五月場所を前に、忙しげに両国の街を歩く力士のそれに勝る程でありましたか。
 五月二十五日は錬身会横浜道場(横浜合気道クラブ)へ南多摩倶楽部から二名で出稽古に行ったのでありました。この日は千田先生の横浜道場指導日であり、また昇級審査もあって、横浜道場の方々の気合いの入った稽古が印象的でありました。こうして時間の許す限り出稽古するのは、錬身会の技の統一を守るためにも、南多摩倶楽部へ刺激を注入するためにも欠かせない一方法と考えるのであります。稽古後は懇親会が開かれ、さすが横浜でありまして、並べられた料理は豪華な中華でありました。
(続)
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合気道錬身会 二〇〇八年Ⅱ [合気道の事など 1 雑文]

 七月二十一日には中野体育館で錬身会講習会であります。四月の講習会と同じく九十名の参加者があり、千田先生の指導を待望されている方々が如何に多いかと云うことを、講習会の度にひしひしと胸に迫るがごとく感じるのであります。千田先生はこの講習会の後に研修稽古、文京合気道クラブの稽古、夜は岐阜や関西地区から参加された方々との懇親会と大忙しの日でありました。夏場でありますから講習会を終えて控室でクーラーに稽古着を当てられながら、今日は稽古着の乾く暇もないと仰っておられました。錬身会の組織の勢がもっともっと拡大したら、もっともっとしとどに汗で稽古着を濡らしていただき、乾いた稽古後など着たことがないと云うくらい、更に更にご活躍を願うのであります。
 九月十四日は第一回合気道錬身会演武大会が、両国のいつも錬身会が本部道場として使わせて貰っている中学校格技場と同じ建物のアリーナ階で開催されました。記念すべき第一回演武大会でありますから是非とも成功させんかなと云うのが、錬身会全会員の声には出さない合言葉のようなものであります。関東の各道場は勿論、中部、関西、中国、九州の錬身会各道場、友好道場の参加もあって大変な盛会でありました。前年まで養神館の演武大会で採用されていた基本技の競技演武が導入され、しかも一級以下の部だけではなくて初段以上の部も行われ、日頃練磨した技の冴えを各選手はここぞと披露されておりました。また小中学生演武、ファミリー演武、自由技演武、壮年者演武等演目も多彩で、拙生は以前に中野体育館で行われていた養神館の演武大会の雰囲気を思い出すのでありました。南多摩倶楽部からも総勢二十五名が参加して、盛り上げに大いに一役買ったものと思います。拙生も団体指導者演武に出場して拙い演武等披露させてもらったのは、これはまあ、ご愛嬌と云うことでご容赦を願った次第であります。
 これは錬身会の行事とはまったく違うのでありますが、十一月一日に養神館の総合演武大会が開かれたので、当年より部外者となりましたが見学をさせて貰いに駒沢体育館まで出掛けたのであります。例年九月に行われていたものが当年は十一月に開催と云うことで、それだけでも前年までとは様変わりしたなあと云う印象であります。演武は競技演武形式が総てなくなり、各道場の稽古風景の披露が主題であると云う感じでありましょうか。演武の間中BGMとして尺八や三味線の音色が流れ続け、スポットライト証明も駆使され、スモークが焚かれ、合間にダンスのアトラクションが披露され、宗家の入場時にはビートルズのレット・イット・ビーが響くと云う演出で、昨年までの演武会とはまったく変わってしまった雰囲気に、拙生としては大いに戸惑いながらの見学でありました。つまり、新しい養神館の新しい演武会の形を模索されたと云うことでありましょうか。
 さて、錬身会でありますが、十一月二十三日は両国で講習会であります。講習会では技そのものと云うよりは、その技を成立させる理合いを学ぶと云うところに力点が置かれていて、毎度のことながら相手の動きばかりか、自分で自分の身体をも持て余すと云う実態に向き合わされるのであります。しかしここで堪忍袋の緒をぐっと締め、自分の身体を持て余すその自分の心身の構造を地道に解明し改善し、動きを再構築することで新しい地平が開けるのであろうと考えます。日々の弛まぬ地道な技の反復稽古と同時に、こう云う考えさせられる稽古を積んでいくことも上達への必須の道程でありましょう。
(続)
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合気道錬身会 二〇〇八年Ⅲ [合気道の事など 1 雑文]

 十二月二十三日は本年の合同稽古納めと云うことで、中野体育館に八十名が参集いたしました。四方投げ、一ヶ条から四ヶ条、肘締めまでの締め技、側面入り身投げ、正面入り身投げ、小手返し、天地投げ、呼吸法まで基本技を一通り、相手を換えて次々に繰り返すのでありますが、なかなか動き応えのある稽古となりました。
 千田先生が稽古の前に「他道場の人でもおかしいところがあったら遠慮なく指摘しながら、緊張感のある稽古にしましょう」と仰いましたが、これは技の統一と云う観点からとても重要なことであろうかと考えます。同一会派の中で技の理解に相違があれば、当然それは解決されなければならない課題であります。云うまでもなく技が高度に統一されていると云うことが、その会派=流派のレーゾン・デートルであります。組織が単なる傘下道場の利益調整団体、組織の拡大を望むあまり過剰な許容度を示し、技の系統の差異すら無視して来る者拒まず、技の理合いもその理解もなんでもあり的な団体に堕することは、結局会派=流派が他と異なってそこに存在する意義を、自ら捨てる行為であろうと思われるのであります。
 組織の中で組織運営上如何に重きをなす地位にある人に対してであっても、こと技に関しては間違った理解があれば遠慮なく指摘出来る環境、また組織のヒエラルキーの上層に居る人もそう云う作風を是とする認識があってこその、技術を追求することを第一の目的として組織された会派=流派であります。年齢にも関係なくそれは共通に認識されていなければならないでしょう。長く合気道に親しみ齢を重ねてきた人であっても、自己の技に自ら限界を設定して上達を諦めてしまうことは自己の為にならないばかりか、自己の所属する組織にも害を与えると云うことを理解しておくべきであります。技に関しては会派=流派内の総ての成員が同一地平で謙虚でなければならないと考えるのであります。指導者であっても、もし疑問が生じたらすぐさま千田先生に質す態度が必要でありましょう。千田先生はそれに明確に答えを提示出来る方であります。いやまあ、話が横道に逸れてきたようなので、この話は一旦置くとして。
 さて、稽古納めの後の納会は地下鉄落合駅近くの、養神館時代から稽古生の間でよく利用されていた定食屋さんで、ここを借り切って六十名程が参加して行われました。拙生の養神館新宿時代はこの定食屋さんで飲むことは稀で、別の居酒屋さんによく行っていたのでありますが、参集された方々は馴染みの方も多く、しかも借り切り状態でありますからその盛り上がり方は異様と思えるくらいのものでありました。ここで一年間の活動やらを皆で振り返りながら、痛飲談笑は何時果てるとも知れず続くのでありました。
 こうして錬身会の二〇〇八年は終幕したのでありますが、明けてすぐに錬身会二年目の始動であります。二年目からは錬身会の真価が問われるのであります。先に高波横波が押し寄せてくることもありましょうが、錬身会に参集したそのそもそもの動機を忘れずに、会員一丸となってこの船の容儀を美しく保ち、何時も莞爾として集い、稽古に精を出して千田先生を旗手に、合気道界の旗艦となる気概を高く保持してこれから先の長い航海をいたしましょう。その一年目として順調な滑り出しを獲得したと思えるのでありますから。
(了)
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再び、合気道の当身についてⅠ [合気道の事など 1 雑文]

 以前の文章で合気道の当身を「虚当」「仮当」「本当」と云う三つに分類致しましたが、もう一度その区分を記してみます。
 まず「虚当」でありますが、これは当てるぞと云う此方の意図を相手に伝えるのが目的であり、相手の意識を其方に誘導することによって、その意識から離れたその身体部位に虚を作り出すためのものであります。よって実際に当てる必要はないものであります。「仮当」は相手に決定的なダメージを与えないで、しかし実際に当てることによって相手の身体の崩れを誘発する目的で発動されるものであります。云わば「虚当」は、相手の気持ちの崩れを誘うものであり「仮当」は、相手の体の崩れを誘うものであると云うことが出来るでありましょう。「本当」は、その一打によって相手を制するための当身であります。また「本当」は当の威力をもって相手を昏倒させるだけではなく、例えば目や喉を突く或いは金的を蹴ると云うことならさほどのパワーを必要とはしませんから、その当身によって相手が戦闘不能に陥れば、それも一応「本当」の内とします。云うまでもなく、相手の「死」をもってその終結とするような時代ではないのでありますから。
 この三種は適時に発動されるものであって、一連の捌きのこの局面では「虚当」を使い、この局面では「仮当」を使用するなどと、捌きの中の局面毎に規定されているものではありません。同じ局面であっても「虚当」も使用出来るし「仮当」を打つ場合もあるのであります。場合によっては「本当」を用いるしかないこともあるでしょうし、それは相手の力量との相対的な緊張関係に依るのであります。
 ここで「本当」について述べておけば、合気道が一般的に「投げる」「抑える」を技の完結形態とする武道である以上、当身によって相手を制圧することは、その本義からも妥当な完了を導き出したとは云えないでありましょう。ですから「本当」を以て相手を制することが出来たとしても、それは合気道を修錬する者としての制圧をかち取ったことにはならないかも知れません。こう云う表現はあまり好まないのでありますが、つまり合気道の美意識に反するのではないかと思うのであります。
 ですから合気道技の完結形態である「投げる」「抑える」を完了するための補助として当身を規定するなら、それは「虚当」「仮当」の使用比重が殆どであろうかと考えます。ただあらゆる場合、万が一の場合を考慮するなら「本当」の修錬も必要であろうかとは思われます。それに「本当」の意識をもって当身を錬らなければ有効な「虚当」「仮当」も創れないのかも知れません。
 当身に使用する身体部位は手だけでも正拳、平拳、一本拳、裏拳、手刀、掌底、貫手、背刀、猿臂等があり、この他にも散手、熊手等様々な種類があります。足も主なものだけでも足底、足刀、背足、爪先、踵、脛、膝があり、また頭突き、肩当等を含めると身体のあらゆる部位が使用出来ることになります。そう云えば塩田剛三先生が背後から抱きつきに来た相手を、触れた背の一突きで弾き飛ばす場面等を思い起こします。しかし主に合気道で使用されるのは正拳、裏拳、手刀、掌底、猿臂、足底、背足、膝程度をその使用部位としますが、正拳が平拳や一本拳や貫手に、裏拳が散手等に変化出来ることは敢えて申し述べるまでもないでありましょう。
(続)
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再び、合気道の当身についてⅡ [合気道の事など 1 雑文]

 では幾つかの例を引いて当身を考えてみたいと思います。
 正面打ちの技の場合、まず正面打ちそのものが当技であります。塩田剛三先生の技法は表技の場合仕手より打ちこむのが技の取り掛かりでありますし、大先生の『武道』と云う技法書にも「我ヨリ進テ攻撃スルコト云々」とあります。塩田剛三先生は戦前のこの大先生の教えを踏襲されておられます。この仕手より打つ正面打ちは「虚当」であります。此方の正面打ちを防ごうとして挙げた受の腕を例えば一ヶ条等に取るのであります。
 正面打ちそのものは「虚当」でありますが、同時に受の肘を取るもう一方の手が肘に向かわず『武道』にあるように受の脇腹を正拳で突くとしたら、其方の方は「仮当」であります。しかし以前から疑問に思っていたのは、この脇腹への「仮当」を出すと反射的に受は脇腹を庇うように身を屈し、後方へ身を引き、正面打ちを防ぐために挙げた腕を下げて脇に引きつけようとするのではないかと云う点でありました。そうなるとこちらへ延びてくる相手の力の線が消えて、寧ろその後に彼の腕を一ヶ条に取ることを難しくさせるのではないかと思うのであります。ですからこの脇腹への「仮当」は、技の補助として有効かどうか疑問が残るのであります。仕手は接触の端緒では、その正面打ちの「虚当」のみに徹した方がいいのではないかと思うのであります。此方へ出てくる力の線を回転によって受け流す裏技に於いても、受の延び来る線をそのまま出させるためには、脇腹への「仮当」は繰り出さない方がよいように思われます。
 横面打ちの場合は受より仕手の横面を打ちこみます。外避けに取る場合は仕手は受が繰り出す手刀側へ、手刀の発動の出端を捉えて横方向に体を移動し、受の手刀を此方の逆側の手刀で受け止めますが、この時受の手刀と同側の手で裏拳を受の顔面へ繰り出します。内避けの場合も受の手刀の軌道と同一の方向に、受の手刀を受け流すように回転してその手刀を逆側の手で受けますが、やはり同側の手は裏拳を作って当身を受の顔面へ繰り出します。この場合の裏拳は、当てるぞと云う意図を受に伝えることによって、受の手刀に籠められていた意識を顔面の方へ誘導し、その横面打ちの威力を半減させることにありますから、これは「虚当」であります。ですから当てるぞと云う此方の意図を見せるべく動作することになります。しかしまだ相手の体の崩れはそう大して引き出してはいません。ですからすぐに次の崩しの動作に移る必要があります。
 同じく横面打ちの技法で「仮当」としてこの裏拳を発動するなら、防ごうとする受の逆側の手の反応を引き出さないためにも、此方の当てる意図を見せずに、裏拳も下から受の胸元を滑るように死角を衝いて繰り出す必要があります。この場合裏拳よりは寧ろ正拳、散手、掌底等が有効でありましょう。要は受の仰け反るような反応を引き出すのが目的であります。仰け反らせた上でそれに乗じて一ヶ条抑え等の技や、受が元に戻ろうとする動きを捉えて入り身して投げ技に取る動きを開始します。
 これが「本当」であるなら、人中への一本拳、目への一本拳か貫手、喉への貫手、顎への縦猿臂等の気力の乗った打撃となるでしょう。当然、充分に威力ある打撃として錬った当身で必倒するのですから、そう云った鍛錬も日頃から必要となります。また内避けに捌くと当然対抗的な打撃になりませんから、威力が減少して「本当」とはならないでしょう。
(続)
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再び、合気道の当身についてⅢ [合気道の事など 1 雑文]

 先にも記しました通り「本当」を打てばそこでその攻防は終了するのであります。そしてそうした終幕をかち取ったとしても、それを「合気道」と呼ぶかと云う、合気道を修錬する者にとっての根源的な疑問がここに立ち塞がるのであります。一撃必倒の技を求めるなら、矢張りそれを追求する技法を専ら研鑽する武道を選ぶ方が、合気道を修錬するよりも近道であろうと考えます。
 さて「本当」が発動されればそこで攻防が終了するのであるのならば、「仮当」は相手の体の崩れに乗じて施す合気道技への前段階措置であり、「虚当」はそのまた前の、次の崩しなり捌きへの前段階措置と云うことも出来るでありましょう。合気道が相手に決定的なダメージを与えないで制することをその武道理念として標榜するなら「本当」を使用することは下策であり、「仮当」の使用は中策、「虚当」が上策と云うことになります。云いかえれば「本当」はその一撃で勝負を決するし、「仮当」は次の捌きの後合気道技で相手を投げるか固めることとなり、「虚当」は延々と捌き続けると云うことであります。
 西尾昭二先生は『許す武道 合気道』の中で「合気道の技は一つの技で四回五回といつでも相手を倒せるようになっています。それを止めながら次の段階にはいり、最後に相手に<どうでしょう>という形を表現して相手に分からせてあげる、これが許す武道-合気道の理念です」と仰っておられます。ここで西尾先生が標榜された理念は、拙生の当身の分類に即せば「本当」を打つチャンスはあっても、それを打たずに「相手に分からせてあげる」ために「虚当」を駆使しながら捌き続けると云うことであります。これは「虚当」ではあるが、もしこれを此方が「本当」として使用するなら、途轍もなく危険な結果を招来させることになるかも知れませんよと、そう云う迫力や気配を相手に意識させるまで捌き続けると云うことであります。理念とそのための当身技の統合と云う点に於いて、西尾先生は合気道の当身について見事な到達点をお示しになられたと云えるでありましょう。
 しかしそこまで到達するためには途方もない時間と稽古量が必要でありましょうし、はたして幾人の合気道を修錬する者が到達出来るでありましょうか。西尾先生は修錬半ばの者がもし身の危険に遭遇した場合、先に記した相手の力量との相対的な緊張関係から「本当」を使用せざるを得ない状況になった場合は、その時はそれを許容されるのでありましょうか。身の程知らずで無礼千万であることは重々承知ではありますが、西尾先生の理念に強く惹かれる者として、もし機会があったら一度お伺いしたかった点でありましたが、惜しくも故人となられた今となっては云うも詮ないなことであります。
 余談として、塩田剛三先生の投げ技は鋭い切れ味とその豪快さから拙生の憧れでありました。特に入り身突きの苛烈さは見ているだけで背筋に緊張が走るのでありました。この入り身突きは相手に対抗的な打撃を打つのではなく、それに決して強打するのではなく、下から顎を突き上げて相手を浮かす、入り身の妙とタイミングと集中力が見事に結実した合気道技の典型でありました。塩田剛三先生の投げ技は実は効果として「本当」に近いものであったと思われます。こうなると投げ技自体が「本当」的な苛烈さを保有しているのであって、当技が自然に合気道化しているのであります。これもまた合気道の一方の到達点と云えるでありましょうし、戦前の合気道の峻厳な考え方の一端でありましょう。
(了)
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合気道の武器技についてⅠ [合気道の事など 1 雑文]

 体格や体力、筋力に勝る相手にどう対峙するか、そう云う相手をどう制するかと云う時、云わば窮地に於いて初めて「技」と云う概念が現出するのであり、その前提の優劣を逆転するための方法がつまり我々が修錬している合気道の「武技」と云うものであろうと考えます。であるならこれを武器の方面に敷衍してみると、上位の武器に対して下位の武器を以って対する時に、これも武器に於ける「技」と云う概念が捻出されると云うことであります。
 よく合気道の演武会等に於いて剣や杖の演武が見られますが、例えば杖を構えた者に向かって無謀にも(!)素手で掛かって行って、結果、予想通り見事に、杖を持った者に素手の者が投げられたり固められてしまうと云う演武を見せられる場合があります。これは先の表現の延長で云えば上位の武器が下位の武器(いや、武器すら実は持ってはいないのであります)を制すると云う現象でありまして、これは合気道の「武技」を表現する演武に於いてその「技」を表示したことになるのかと、何時ももやもやとした疑問を感じていたのでありました。
 勿論その演武が素手の延長としての武器の使用と云う表現であること、素手の体捌きが武器を駆使する場合にも汎用性があると云う術理表現であることは重々承知しております。塩田剛三先生の昔のビデオで、先ず素手の技で相手を投げ、その後に杖を使って同じ捌きで相手を投げると云ったものを見たことがありますが、これ等は何をその演武で表現しようとされているのかが明白に理解出来るもので、拙生としても何の異論もない演武であります。
 しかしそう云った術理の説明も、表現しようとしている意図も明確にすることなく、いきなり杖を構えて素手の相手に掛かってこいと催促するような演武は、それはいかにも演武として稚拙で不親切で強引で、合気道の門外の人が見て、武道の演武としては少々奇異の感を抱くとしても、それは無理からぬことであろうと思うのであります。上位の武器を持つ相手に下位の武器、あるいは素手の者が掛かって行って、結果予想通り上位の武器に下位の武器が制せられるのは実に以って当り前の現象ではありませんか。「技」と云う概念も、術理の汎用性と云う表現意図も何も介在しない、ごくごく当然の現象を見せられたに過ぎないわけであります。
 これが逆に下位、あるいは素手の者が上位の武器を持つ者を制すれば、容易に出来るかどうかはひとまず置くとして、それは「技」の表現としてはまだ妥当性があるでありましょう。見ていてまだ居心地の悪さを感じる程度は少ないのであります。つまり短刀取り、剣取り、杖取りの術理でありますが、これなら相当な時間的覚悟の上で、磨くに値する「技」と云えるでありましょう。但し武器を扱う者がその武器の使用に熟達していなければ、合気道稽古者の中だけでしか通用しないお手盛りの稽古に終始するのみであります。そう云う熟達者の武器に対してそれを素手で捌けるまでに練られた「技」でなければ、その術理を明らかにし、また演武する意味はないでありましょう。大先生や塩田剛三先生、その他の達人方の演武ならばともかく稽古数年の修行者がそれを演じたところで、それは合気道の真の迫力を伴わない殺陣以上のものではないであろうと思われます。
(続)
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合気道の武器技についてⅡ [合気道の事など 1 雑文]

 上位の武器に対する下位の武器による対峙及び制圧の術を「技」と呼び得るものとしましたが、同等の武器による対峙、制圧もあり得ます。この域に於いても充分「技」と云う概念が成り立つものであります。剣道やなぎなた等の試合はこの線に立って成立しているものであると云えます。
 同等或いは不利の状況下で如何にその前提を突破するかと思考され、試行され、会得されたものを「技」と云うなら、先に述べた徒手の延長としての武器の演武であっても、少なくともそれをはっきり明示出来るように行うか、或いは同等が下位の武器を以てする武器対武器の演武の中でそれを表現する方が如何様妥当な演武であろうと思えます。そうでないと合気道の武器による「技」を表現したことにはならないでありましょう。
 また、かなり重い斤量で稽古上でも演武の場合でも考慮しておかねばならないと思われるのは、当身技に於いてもそうでありますが、剣を使うことを専らにする武道、杖を使うことを専らにする武道等、合気道以外の武道への畏怖であります。そう云った諸専門武道は自分達の修錬する武道の術理研究の長い試行錯誤の歴史を有しており、そこで行われている「技」が、一合気道家が片手間にあしらい得るような生易しい「技」ではないと云うことであります。
 徒手も行えば剣も操るし杖も振るし短刀の操作もこなすと云う汎用武道としての合気道は、総ての武器が徒手と同じ術理によって操作可能なのだとして、総てに熟達出来ると考えるのは、あまりに短絡的で楽観的に過ぎます。一つでもその域に達するには長い厳しい稽古が必要であることは言を待ちません。一つが出来れば後は応用と云い切れるのは長い修錬の末に達人の域に到達した、ほんの一握りの方々の「感慨」でありましょう。お手軽に徒手の術理を以ってなんでも御座れと胸を張っても、実は全てが諸専門武道の足元にも及ばない中途半端な「武技」でしかない可能性もあるわけであります。合気道の武器技が合気道稽古者の中だけでしか通用しないのであれば、多の中の一である合気道の武器技が、諸武道に対して誇れるような到達点を獲得しているとは云い難いでありましょう。
 ですから我々合気道を修錬する者が武器技を稽古する上で心しておかなければならないのは、それが合気道の術理の応用が可能であり妥当と云える「技」であるのかと云うことと、諸専門武道の武器技に対して充分拮抗出来るかと云う客観性であります。少なくともこれを保障出来る域に達して初めて演武として公に出来るものではないでしょうか。
 さて、にも関わらず剣や杖の稽古は、合気道上達に資するものがあるとここに表明するのであります。それは剣や杖を振る、伸筋を主にする筋肉の使い方にあると思うのであります。この筋肉の使い方は合気道の投げ技や捌く体の動かし方に共通するものがあると実感出来ます。また剣や杖が振り下ろされる、或いは突き出されるのを一寸の間隔で入り身し、此方の剣や杖を相手の眉間に突きつけるような稽古は、体捌きを鋭利に磨く助けとなるでありましょう。また相手の剣や杖の起こりを捉えて先を取る稽古も、此方の動きの発動を錬る上で素手の稽古よりは鋭い感覚を養成出来るでありましょう。こう云った鍛錬上の意味に於いて武器技の稽古が合気道の修練に資するわけで、引いては剣や杖の専門武道に見劣りしない鋭敏な操方をも修得することになると思うのであります。
(了)
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合気道の少年指導と言葉 [合気道の事など 1 雑文]

 少年部の指導は気骨が折れるものであります。第一彼等は合気道に魅せられて自ら進んでその門に入ってきたのではなく、親に勧められてとか友達がやっているのでとか云った動機が殆どでありますから、こちらが注意をしていないととたんに稽古に飽きて、気が何処かへ散じてしまうのであります。冗談を云うとすかさず乗ってきて、ふざけ合いに少ない稽古時間を潰されてしまうし、少し厳しい口調を使えば時に泣き出すで、彼等の興味を稽古時間一杯喚起し続けるのはなかなか至難の業であります。
 また合気道で使用される言葉が彼等には難解で、体の変更とか臂力の養成とか云われても、その動作がいま一つ鮮明にイメージ出来ないのであります。一ヶ条抑え、二ヶ条抑え等と技名がこれまた歴史的、抽象的、便宜的な名称でありますから、とても小学生のたち打ち出来るものではないのであります。まあ、技の実態と「ヒリキノヨウセイ」「イッカジョウオサエ」等とその言葉の音で関連づけて覚えて貰うしかないのでありますが、これは妙に言葉の意味を斟酌しようとする大人よりも、返って彼等の方が得意であるかも知れません。時たま「イノキノヨウセイ」になったり「ミッカジョウオサエ」になる可能性はありますが。
 体の変更二で九十五度回転せよと指示する場合、小学校一年生に九十五度と云っても判るわけがないので、横向きになるまで回れと指導するのでありますが、これは正確には横向きともうチョイ回れと指示しなければなりません。その「チョイ」がなかなか「チョイ」では収まらなくて、百八十度近くの回転になってしまうことが間々あります。そもそもこの九十五度とは、相手が押してくる場合、九十度の回転で止まると直角に相手の押力を受けることになり、その力を受け流すことにはならないのでそれよりはほんの少し行き過ぎる程度に回転する、と云った意味合いの数字であります。それを注意喚起的な云い方で「九十五度」と云うわけでありますが、相手の押す力を受け流せる最少角度と云うことであります。これを小学一年生に説明して理解してもらおうとするのは、これはもう無理と云うよりは無意味であります。ですから九十度と云った指示の方が角度的には此方の狙いに適合させ易いので「横向き」と云う風に云うわけであります。
 余談ですがこの九十五度を、ではどうして九十四度とか九十六度ではだめなのですか、それにそんな正確に九十五度の角度を出せるのですか等と、真顔で聞いてくる大人の稽古者が嘗て居ました。拙生は苦笑いながら先に述べたことを説明して、何故「九十五度」と云う言葉かを理解してもらうよう努めたのでありました。
 さて、軸足、中心、固定、重心、継ぎ足、歩み足、振りかぶり、切りおろし、手刀を返す等々、合気道の稽古で使われる言葉はどれも子供にはとても難解なものであります。云い換え可能なものは云い換えるとしても、云い換えると意味あいがずれてしまうものもあります。また、日々新しい言葉が生成され、中には意味不明な言葉が指導者の思いつきによって造語され、一般の理解を無視して乱用されたりしている合気道界の現状があります。子供と云う対象を念頭に置く時、この言葉の乱れ、或いは言葉の不統一はその指導に弊をもたらすと考えられます。一考を要すると思われますが、少年指導に限らず、合気道指導一般に於いても言葉の問題はもう少し掘り下げて考えてみたい課題であります。
(了)
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