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養神館-新宿初期の頃Ⅰ [合気道の事など 1 雑文]

 当時の或る理事の方の誘致により、新宿区落合に合気道養神館新宿道場が開館したのが昭和五十九年であります。平成元年に本部を小金井から新宿に移し、小金井道場は閉館となるのでありますが、この間は小金井の本部道場と新宿道場が並存した時期になります。
 木の香も新しい新宿道場の真新しい壁や天井の白さ、綺麗な更衣室、まだ幾つかの机を並べただけの事務室、色も艶やかな道場の畳等からは、これからこの道場の歴史が創られていくのだという初々しい期待が匂ってくるようでありました。当時の仕事場からは新宿の方が通いやすかったと云う事情もあって、拙生は早速此方へ稽古の本拠を移したのでありました。
 開館間もない頃は入門者も少なく、指導員が四名で稽古生一名などと云う、なにやら前にこの一文で紹介した池袋演芸場の出演者と観客の比率のような、稽古生にとっては極めて贅沢とも云える夜の一般稽古の日もありました。落合に住んでおられた関係で新宿道場の事務を引き受けられた小金井道場以来の事務長T波さんが、場所がいいからその内人数も増えるよと楽観的に笑っておられましたが、確かに間もなく続々と入門者が増えはじめました。小金井からの移籍組も多数あり、また塩田剛三館長先生の精力的な各方面での演武披露、各メディアへの露出が功を奏して目を見張るような活況を呈しはじめていったのであります。先のT波さんから登録人数が二百人を超えたとうかがったのは、前に氏の楽観的観測をお聞きしてからさほどの時間が経過していない頃でありました。その後も皇太子殿下のご来館、格闘家の前田日明氏や、まだやんちゃでなかった頃のボクシングヘビー級チャンピオンのマイク・タイソンの訪問等あって、世間の耳目を集め、入門者数は増加の一途を辿っていったのであります。
 入門者が増え始めた頃、合気会本部とも近かったせいか合気会に籍を置いたまま養神館にも入門される方が幾人かおられました。この方達はある時を境に皆示しあわせたように急にお顔を見なくなってしまいましたが、それはいったいどう云う事情であったのか未だに不可解なままであります。その中のお一人が「養神館の技法に五教と云う技はないのですか?」と千田務先生に尋ねられたことがありました。千田先生は明確に「ないです」とお答えになられ、その後「普通に短刀取りと云います」と続けられるのでありました。その質問をされた方はなんとなく不承であるような顔をされていましたが、技の分類にも夫々の会派の性格があるようで、拙生は面白くそのやり取りを聞いておりました。
 小金井本部と新宿道場が並存していた頃、竹野高文先生が退職されて山梨で支部活動を始められるまでの間は、明確な分担ではなかったようですが、小金井が竹野先生、新宿が千田先生の担当と云う風でありました。千田先生は小金井の頃は出張指導が多かったため、あまり頻繁にご指導を仰ぐことが叶わなかったのでありますが、当初の新宿道場では殆んど常駐と云った感じで、より親しくその緻密な合気道を学ばせて頂くことが出来ました。稽古後に稽古仲間のY生さんや、女性のS西さん、H野さん等と先生を囲んで飲食をご一緒させて頂く機会も増えて、千田先生のお人柄に心地よい安心感のようなものを感じるのでありました。当時の寒稽古や暑中稽古は連続十日間、朝の七時から八時まで行われるのでありましたが、前日の夜稽古後に飲んでほとんど酔いの覚めやらぬ間に朝稽古に突入し、指導する千田先生を始めとして幾人か上気したのとはまた違った赤ら顔で汗を流していたのは、ま、ご愛嬌でありましょう。そう云えばこの頃の暑中稽古、寒稽古では皆勤すると賞状と一緒に「合気即生活」の文字が入った手ぬぐいを頂いておりました。
 新宿道場の館長室でもお客様が見えた時などささやかな宴が持たれることがありました。塩田剛三館長先生が小金井より寿司はこっちの方が旨いな等と仰いながら、あの独特のやんちゃ坊主のような人を和ませる笑顔でビールを飲まれていたのを思い出します。お客様がない時でも気が向けば件のY生さんや、時に井上強一先生や竹野先生、理事のT内先生、千田先生等と館長室でちょいと飲みながら稽古後に談笑され、拙生も同席を許されたりしました。館長先生は「いつものメンバー」と仰って愉快そうにコップを傾けられておられましたが、貴重なお話を伺うことの出来るまことに有り難い時間でありました。
(続)
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