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養神館と合気会の差異Ⅲ [合気道の事など 1 雑文]

 再度繰り返しますが、つまるところ合気会と養神館の差異はこの手刀が触れ合う一瞬に象徴的にあると思うのであります。合気会の技法では「一足」をもって相手の正面を外して触れ合い、養神館の技法では強い中心軸と瞬間的な手刀の返し等でもって、触れた相手の手刀を無力化しようとするのであります。
 これは戦前の、強固な体躯と素早い動きで技を繰り出されていた大先生と、戦後の、到達された高い境地を技で表現しようとされた大先生の在りようの違いでありましょうか。当然、戦争の前と後では情勢や社会の規範が劇的に変化したのですから、そい云った要素も当然、大先生の変化を観る時に考慮しなければならないところでありましょう。また大先生の年齢による変化と云った要素も大きいのでありましょう。
 昭和七年に大先生に師事され、昭和十六年まで大先生の壮年期の武道的な在りようを身をもって学ばれ、その後は独自に合気道の道を歩まれた塩田剛三先生は、その合気道観も戦前の勇壮果敢なものを持っておらたのであります。養神館合気道には独特の構えがありますが、この構えは心の備えを体に表したものであり、構えると云うことは言葉を代えれば対する相手へのある種の威嚇行為であります。確たる自己を誇示することによって、先ず相手の攻撃しようとする気持ちを挫こうとする意図であります。ですから構えた以上、打ち出された相手の手刀を「一足」をもって避けるのではなく、強固な線、力の浮かしや集中力等々の錬られた合気道的技術をもって、一見、真っ向から受け止めるのであります。最初の接触で相手にある種の「目算違い」や「戸惑い」を一瞬感知させれば、後はこちらのペースに引き込めるのであります。ですからそのための中心線とか体軸の確立、全身の力の一致した発動等々の、合気道技を繰り出すための自分の体を錬る稽古が先ずあって、その後に所謂合気道の技の稽古へと入っていくわけであります。体を錬る稽古は初心の内だけではありません。どんなに高段者になろうと、どんなに年齢を重ねようと養神館合気道の稽古を止めない限り続けられます。
 誤解のないように云い添えておきますが、養神館の構えも高段者になると威示的な色合いが薄れてきてどこか典雅な趣が出てくるように思います。なにか高度に纏まったごく自然な所作のような感じであります。また師範クラスの方々の演武では、あえて構えをせずにそれこそ「一足」の動きを使って相手とすれ違い、技を繰り出すと云う瞬間が見られます。しかしそれが出来るのも長い年月錬られた、合気道技を繰り出すための体があってこそのものでありましょう。技の発動の一瞬に強い体軸、集中力が利いているための強烈な技なのであります。
 一方合気会の「一足」についてでありますが、この「一足」について高い認識を示されている方のお一人に、西尾昭二先生がいらっしゃると思います。西尾先生はその著書『許す武道 合気道』(合気ニュース刊)で「入身は半歩です」と仰っておられます。ずい分昔に演武を拝見させて頂いた折もそう云うお言葉をお聞きしたことがあります。
(続)
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のりすけ

う~ん。勉強になりました。

by のりすけ (2008-10-11 15:21) 

汎武

のりすけさん、コメントを有難うございます。クレージーキャッツの「悲しきわがこころ」と云う歌を思い出しました。つまらんことを云ってどうも済みません。(書きながら、でこちんに窄めた指を当てています)
by 汎武 (2008-10-11 19:20) 

のりすけ

あっ、そんな事ないです。
本当にためになりました。

最近、合気道(合気会)をはじめたばかりですが、合気会と養神館のどちらに行こうか迷ってました。
結局近場の合気会を選んだ訳ですが、なんとなく武術とは離れた内容な気がしていたのですが、自分の取り組む姿勢が重要と気づかされました。

表現が違っているかも知れませんが、剛の養神館、柔の合気会、といったところでしょうか。

体力(身体能力)的に、僕には合気会の方が合っている気がします。

またお邪魔させて頂きます。有難う御座いました。
by のりすけ (2008-10-11 19:39) 

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