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合気道の当身についてⅠ [合気道の事など 1 雑文]

 これも以前に「養神」に投稿した一文であります。頭の中で生煮えのまま書いたために明快な結論を導き出せないまま終わった文章で、いつかちゃんとまとめたいと思いつつ今にいたっております。

 合気道では「当身七分、投げ三分」と云われます。そうであるならば、稽古をしていない技は使えないという公理の上からも、当然当身の稽古は合気道にとって必須のものと云う事が出来ます。当て技を専らにしている武道と対峙した時に「当身七分」を公言する合気道がひたすらたじろいでいては、その言葉はいったい何だったのかという事になります。
 また投げ技の要諦は当て技の理合を使用しているとも云われます。そうであるから当身の意識が特に無くても投げ技の稽古で、自然に当て技の稽古にもなっているではないかという意見もあるでしょう。しかしそういう予定調和的な考は、これも当て技を専らにしている武道との対峙を考えた場合、あまりにも楽観的過ぎるように思われます。「意識」が技を創るのであってみれば、当てる「意識」がなければ、やはり当身技は我がものとは成りにくいでしょう。
 ならば当身の「意識」を合気道総体の中で如何に公然化するか、体系上に如何に明解たらしめるか、また普段の稽古の中で如何に現実的に学んでいくかという事が問題となります。当身の修得に稽古の内実を過度にシフトさせるのでもなく、且つ合気道にとっての当身が必須のものであると云う認識化を修行者全体に徹底して、技として実践に耐え得るように創るためにはどのような修練が必要なのか、かなり緻密な稽古上の工夫が必要だと思われます。当然一方に時代逆行的のそしりはあるかもしれませんが。・・・・・・

 この一文を書いてからかなり時間は経っていますが、まだはっきりと自分の中で、合気道と云う武道の中に占める「当身」の位置を規定しかねているのが現状であります。合気道と云う技術の体系が膨大であり過ぎて、凡庸な修行者でしかない拙生には、その膨大な体系をなんとか人に遅れをとらぬようになぞるのが精一杯であるため、日々の稽古の中でなかなか当身を創ると云う意識が煮詰まってこないためであります。
(続)
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