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養神館と合気会の差異Ⅳ [合気道の事など 1 雑文]

 西尾昭二先生の『許す武道 合気道』によると「合気道の稽古での手取り、これは一般の武道の稽古にはありません。なぜなら格闘技では<手を持つ>ということ自体考えられないからです」とあります。確か塩田剛三先生も手を持たれたら、その時点で負けだと仰っていたことを思い出します。西尾先生は「合気道は<取られた>のではなく<与えた>のです」と続けられます。「取ってこいと手を取らせるのではなく<どうぞ>なのです。与え導くのが合気道です」となります。大先生の戦後に標榜された理念と一致するものと思われます。
 塩田剛三先生が手を持たれたら負けと仰ったのは武技上のお話であり、戦前の合気道の考え方そのものと云えるでありましょう。云わば武道とは凌ぎあいであり、一分の隙や妥協なく相手を制圧するものと云う厳しい認識であります。戦後の大先生はそういった嘗ての対抗的な合気道の在り方ではなく、西尾先生によれば「与えた以上は最後まで、植芝先生が云われたように"導き"なのです」と、技が制圧を目的に発動されるのではないことを強調されます。あくまで親和的な合気道の在り方の提唱であります。
 ここで一応紹介しておくのですが、塩田剛三先生も晩年は対抗的な心境ではなく大先生の"和合の道"的な発言をされています。何故かこのところ妙に有名になっている「合気道の最強の技とは自分を殺しに来た相手と友達になること」と云う合気道観であります。
 とまれ、これが西尾先生をして「許す武道」と合気道を規定させるところの理念であり、而して「構えない」と云うことが導き出されるのであります。備えはすれど構えず、と云うことでありましょう。よって合気会には構えらしき構えがありません。
 そして「一足」です。「入身は半歩」であり「触れ合う前に勝負は決まっているという理合は、この半歩にあるのです」と西尾先生は云われます。構えるとこのスムーズな半歩が踏み出せないため構えないのであり、相手の攻撃の発動を捉えて「その触れ合い一瞬の中に、一度は当てるという形をとり、合わせて相手の攻撃を一切受けない位置に立つ」ため半歩動くのであります。その半歩の位置でもって相手との接触を持つために、始めから相手に勝っている関係を結べるわけです。しかしあくまで"導き"でありますから、制圧目的でははなく、その後は、この攻撃であなたは私を制圧できないと相手に「分からせてあげる」ための捌きを駆使することになります。相手がそれを判ったらその時点で投げを打つことによって相手との関係を切るのであります。ですから投げは制圧手段としての技ではなく、いやもう、技と云うものでもなく、ではお元気でと云って手を振るような仕草と同一だと云えるでしょう。
 この理念を支えるために西尾先生は実技において当てを多用されます。「合気道の技は一つの技で四回五回といつでも相手を倒せるようになっています」とありますが、これは捌きの局面局面で本当てを打とうと思えば何時でも打てると云うことでありましょう。しかし"導き"でありますからあくまで仮当てを使用することになるのであります。 
 戦後派の合気道の理念と実技は西尾先生によって、一つの見事な理論として高い地平で纏め上げられたように思います。が、しかし・・・・・・。
(続)
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