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あなたのとりこ 391 [あなたのとりこ 14 創作]

「どう云う経緯からか、話しが変な隘路に入り込んで二進も三進も行かなくなったようだけど、ちょっと落ち着いて一息入れた方が良いかな」
 袁満さんが社長に同調して場を落ち着かせようとするのでありました。
「あたしは誰かさんと違って、別に始めからずっと落ち着いているけど」
 那間裕子女史が土師尾常務を一睨みした後に、今度は仲裁役の袁満さんの方に険しい視線を送りながら、未だそう云う憎まれ口を叩いているのでありました。しかし場の大勢としては一息入れる事に皆異論は無いようで、気を利かせて席を立って茶を入れるためにであろう、傍らの流し台の方に移動する甲斐計子女史を制止する声は何処からも上がらないのでありました。均目さんと那間裕子女史、それに出雲さんは茶を断って、事務所を出てすぐの、駐車場の傍らにある自動販売機で缶コーヒーを買ってくるのでありました。 

 十五分ほどの休憩を挟んで、全体会議は再開されるのでありました。
「さてところで唐目君、特注営業については何か考えるところはないのかな?」
 社長が頑治さんにそんな風に話しを向けるのでありました。これは先程の出雲さんや袁満さんの仕事の話しの折に、些かなりとも具体的でクールな意見をものした頑治さんを見込んでの名指しでありますか。頑治さんは突然の指名にたじろぐのでありました。
「いやあ、そう云われましても特注営業となると、・・・」
 頑治さんとしては日頃から考えている腹案が全く無い訳ではないのでありましたが、土師尾常務が頑治さんの話しなんぞに意を動かすとは到底思えないので、社長の諮問に面食らった様子を前面に出して云い渋るのでありました。
「君は業務の仕事に限らず、営業にも製作にもなかなかちゃんとした考えを持っているようだから、何か良い方策でも考えていないかと思ってね」
「いやあ、僕如きが妙案なんか到底考え付きませんよ。僕が考え付くような案なら、疾うに土師尾常務や日比課長が考え付いていらっしゃるでしょうし」
 これは頑治さんの謙譲の言と云うよりは、それを聞いた後の土師尾常務の意地になって頑治さんの話しを一蹴しようとする態度からの、予めの逃避と云う意味合いが強いでありますか。どうせ何を云っても真剣に聞きもしないでありましょうし、ひょっとして頑治さんの何かの言葉に不意に沽券を傷付けられたと感じたら、また目くじら立てて逆襲しようとムキになってくるでありましょうから。そんな鬱陶しさは平に願い下げであります。
「ああそうかね。特注営業については特に意見は無いと云う訳かね」
 社長はそれでも頑治さんに何か云わせたいような気配でありましたか。しかしそれに気を良くして迂闊に何か喋り始める程、頑治さんはお調子者でもおっちょこちょいでもないのでありました。まあ、会社の将来を真摯に憂えているのなら、拙い意見でもここでちゃんと披露するのが愛社精神ではありましょう。しかしその愛社精神も土師尾常務の前では竟々出し惜しみして仕舞うのは、これはさて、是と非のどちらでありましょうや。
「唐目君は時々都内の得意先に車で納品に行ったりする機会があるけど、その折に、先方と接触して何か感じる事とかは無いのかなあ」
(続)
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あなたのとりこ 392 [あなたのとりこ 14 創作]

 日比課長が身を乗り出しながらそう訊くのでありました。
「いやあ、特には何も。ありきたりの挨拶を交わす程度で」
「ああそうか。まあ、それはそうだろうけど」
 日比課長は乗り出した身をまた背凭れの方にゆっくり戻すのでありました。ひょっとしたら結構本気で、頑治さんがこれから喋るであろう事に何やらの期待を秘かにしていたのかも知れないと、日比課長のそう云う所作を見ながら頑治さんは思うのでありました。
「単に云い付けられて納品に行くだけなんだから、唐目君にそこの会社とウチとの営業上の機微なんかが判る筈がないし、先方だって単に納品に来ただけの作業服を着た人間に、何やかやと営業上の話しを態々する筈もないだろう」
 土師尾常務もひょっとしたら頑治さんと同じ感触を日比課長の所作に感じて、日比課長のある意味迂闊な期待を窘めようとしてそう云うのかも知れませんし、或いは頑治さんのものす言葉に対して、社長も含めてこの場に在る皆が過剰に期待する向きがあるのを面白く思わないで、ちょいとばかり水を差そうとしてそう云うのかも知れません。
「土師尾君も日比君も、出来るだけ頻繁に見込みのある会社にコツコツと出向いて、兎に角どんな小口でも、何かしら仕事を取って来る心算でいないとね。ある意味先方に煩がられるくらいでないと、このご時世、なかなか仕事は貰えないだろうよ」
 これは嘗てリヤカーに紙を積んで、足を遣ってあちらこちらと回って売り歩いたと云うこの社長の、経験から身に付けた営業流儀でありましょう。
「餌は蒔いているんですけど、不景気ですからなかなか食い付いてくれません」
 土師尾常務が色々方策を講じているところを社長に訴えるのでありました。「景気が好い時は照会も見積依頼も頻繁に来るんですけどねえ」
「そう云う、ご時世のせいにするのは営業としてのプライド上、どうなのかねえ」
 社長がやんわりと土師尾常務の言葉に反発を呉れるのでありました。
「そう仰いますけど、現実にはなかなか。・・・」
 土師尾常務はゆっくり首を横に何度か動かすのでありました。「ウチの今の商品ラインアップでは、思うような展開が見込めないですしねえ」
「売り上げが伸びないのは営業力ではなく商品に問題があるから、と云う事ですか?」
 ここで那間裕子女史が土師尾常務の言葉に突っ掛かるのでありました。
「特注営業的に魅力のある商品が自社製品に少ないのは事実だ。だから利益が薄いけれど他社商品に頼らざるを得ない。実際の営業する側としての要望とかアドバイスを制作サイドに伝えても、こちらの意向にはさっぱり無関心のようだから営業意欲も削がれる」
 これは土師尾常務の制作部への、延いては片久那制作部長に対するストレスの表明でありますか。営業サイドの意を充分酌んだ商品開発をしてくれないから積極的で闊達な営業活動が出来ないし、だから結局売り上げが恒常的に落ちていったんだという論でありますか。その真偽は置くとしても、土師尾常務の思いはそうであるのでありましょう。
「売り上げがじり貧になったのは制作部が良い商品を作らないからで、自分の意気込みや営業力が無いせいじゃないと云うような繰り言を、要するに主張したい訳ですね」
(続)
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あなたのとりこ 393 [あなたのとりこ 14 創作]

 那間裕子女史が聞き捨てならないと云った風に土師尾常務を睨むのでありました。均目さんも多少は柔らか目ではあるけれど同じ制作部の人間として、土師尾常務に向ける目付きに於いて那間裕子女史にすっかり同調するのでありました。
 土師尾常務としては、社長にじんわり仄めかしたい事を、そうもはっきり那間裕子女史に言葉にされたものだから、女子以上に不愉快気に眉根を寄せた表情を作るのでありました。まあしかし、要はそう云う思いに間違いはないと云う事でありますか。
「利益率の点から云っても、勿論他社商品よりも自社商品を売り上げる方が良いに決まっているじゃないか。でも特注営業ではウチの製品よりも他社のものの方が色んな面で魅力的で、圧倒的に引き合いが多いのは紛れもない事実だ」
 確かにこう土師尾常務が云うのは一理あって、元々自社の製品は地図類にしても他のものにしても、地方出張営業用に作られた旅行関連の商品が割合としては多いと頑治さんは思うのでありました。しかし首都圏や他の地区の交通図とかペーパークラフトのペンスタンドとか正多面体商品等は、カレンダーとか他の用途に加工したりする事で、特注営業に展開出来るように作られたものであります。最近の制作部の仕事はどちらかと云うと、こう云った特注営業関連の商品開発の方が多いかなと云う頑治さんの感触であります。
「いや、最近は出張営業用の商品よりも、特注営業用のものが多い筈ですよ」
 均目さんも同じような事を考えたようでこう反駁するのでありました。「しかも廉価で大部数の注文を狙って開発したものが。その代表格が首都圏や近畿圏の交通案内図で、これは常務の要望を取り入れて片久那制作部長がデザインして、今でもより良いものにしようと漸次改良を重ねている商品でしょう。一昨年はこの首都圏交通案内図カレンダーで、損害保険会社のキャンペーン商品として、大量部数の発注があったじゃないですか」
「そう云う事も偶にはあるけど、でも他社商品に圧倒的に依存している点はあんまり変わらない。得意先の傾向としても、矢張り先ずそちらの方に先方の目は向かう」
「そこを自社商品重点で営業するのが常務の腕でしょう。それをさて置いてまるで制作部の商品開発力が無いためのように云うのは、営業として明らかに無能よ」
 この那間裕子女史の言は自分の営業手腕を見縊ったものだと土師尾常務は、案の定この人のお決まり通りにそう捉えて、甚だしく自尊心やら体裁やらを傷つけられたようで、そ目尻が眼鏡越しにみるみる吊り上がるのがはっきり判るのでありました。
「失礼な亭な事を云うな!」
 土師尾常務は声を荒げるのでありました。しかし那間裕子女史は迫力満点の心算の土師尾常務の喧嘩腰を始めから嘗め切っているものだから、ちっとも尻込みしないのでありました。寧ろ落ち着き払って口角に不敵な笑みなんぞを浮かべて、土師尾常務を逆に怯ませようとするのでありました。なかなかに腹の座った不遜千万な態度であります。
「そんなに真っ赤な顔をして興奮しないでも良いですよ」
 那間裕子女史は憫笑を浮かべて冷めたように云うのでありました。片久那制作部長程の迫力や凄みは、その童顔と細身の体躯からだけではなく日頃の嘘や誇張の多い言動からしても、どう足掻こうが土師尾常務には到底真似出来る代物ではないようであります。
(続)
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あなたのとりこ 394 [あなたのとりこ 14 創作]

 まあ、土師尾常務としては常に片久那制作部長を意識して、それに決して劣らない迫力と存在感を社員の前で醸し出そうと必死なのでありましょうが、なかなかご当人の狙い通りにはいかないようで、それがまたこの御仁にとっては慎に腹立たしい事なのでありましょう。この欲求不満が、この人を余計にいじましく見せて仕舞うのでありますけれど。
「そんな事を云うのなら、僕の代わりに那間君が営業に出れば良いじゃないか」
「そんな子供が駄々を捏ねるような事を云わないでくださいよ、みっともない」
「まあまあ、那間君ももう少し冷静になって」
 全く怯まないで益々嵩じて土師尾常務と言葉の遣り取りで対抗しようとする那間裕子女史を、社長が宥めるのでありました。「土師尾君もそんなに興奮しないで」
 ここでも仲裁役を演じる社長の魂胆としては、まあ、場の空気から、そう云う役回りを演じざるを得ない点はあるとしても、しかしどちらかと云うと天性の八方美人的にエエ格好をしたいためであろうと、頑治さんは人の悪い解釈をするのでありました。実は社長としては内心、こういう役回りを演じる事態が無性に好きなのでありましょう。
「常務は片久那さんに対しても、業績が悪いのは自分の営業力が無いためじゃなくて、制作部で作る商品が悪いためだと云えるんですね?」
 社長の取り成しも意に介せず脇の方にさて置いて、那間裕子治氏は土師尾常務を睨みながら挑むような口調で訊ねるのでありました。急に片久那制作部長の名前が出て来たものだから土師尾常務は一瞬たじろぐのでありましたが、すぐにここが自分の自尊心と体裁を守るための正念場と体勢を立て直して、那間裕子女史を睨み返すのでありました。
「勿論、片久那君とはそう云う話しはもう既に頻繁にしている」
「へえ。あたしは片久那さんから常務とそんな話しをしているとは全く聴かないけど」
「それは那間君なんかに云う必要が無いからだろう」
「ああそうですかねえ」
 那間裕子女史は頬に冷笑を浮かべて懐疑の顔をして見せるのでありました。「まあそれに関しては、片久那さんに確認してみればすぐに判る事だけど」
「何をそんなに可愛気の欠片も無い、挑みかかるような事ばかり私に云うんだ?」
「勝手にあたしに可愛気とか期待しないで貰いたいですね」
 那間裕子女史は土師常務から目を背けてつれなく往なして見せるのでありました。その態度に益々土師尾常務は逆上するのでありました。
 しかし幾ら可愛気も愛嬌も皆無で、人一倍勝ち気でキツイ性格のヤツであろうとも、会社での地位が自分より下の女性に対してこうまで熱り立って仕舞うのは余りにも見た目が悪かろうと思い直したのか、或いはそれともこれ以上言葉の応酬を続けても那間裕子女史には結局叶わないし寧ろ立場が不利になると見極めたのか、土師尾常務は云い返したいのは山々なれどここはぐっと、強いて自分の感情を押し殺すように、奥歯を噛みしめるような不本意気な顔をして口を噤むのでありました。なかなかの演技派の顔でありますか。
「これ以上ここで、売り上げ低迷の原因が営業力にあるのか、それとも制作部の商品開発力にあるのか議論していても無意味なんじゃないかな」
(続)
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あなたのとりこ 395 [あなたのとりこ 14 創作]

 袁満さんが土師尾常務の口がようやく閉じたのを見極めて云うのでありました。
「まあ、総括として、出雲君と袁満さんの今後の仕事の遣り方が少し具体的になったと云うのは、今日の会議の収穫ではないですかね」
 均目さんが荒れた場の空気を一端沈めるようにそう纏めるのでありました。
「確かにそれは良かったかな」
 袁満さんが力強く頷いて出雲さんの方を見るのでありました。その袁満さんの目に出雲さんも大きな頷きを以って応えるのでありました。
「常務が人をへこませる事ばかりに矢鱈に熱心で、建設的な意見は欠片も持っていないと云う事が判った事も収穫の一つかしらね」
 気の強い那間裕子女史は未だ土師尾常務に対する侮蔑を止めないのでありました。しかし土師尾常務の方はと云えば、天敵を睨むような目付きで凄んで見せて、力を入れた頬の小さな波打ちで奥歯の噛みしめを表して口惜しさを覗かせはするけれど、唇は引き結んだ儘で言葉は一切発しないのでありました。何だか自分の立場が段々不利になるような按配だから、那間裕子女史とこれ以上言葉で遣り合う心算はないようであります。
「もう、時間も時間だからこの辺で今日の会議はお開きにしますかね」
 好い加減億劫になったようで社長が腕時計を見ながら提案するのでありました。確かに当初の予定に反してかなり長時間の会議となっているのでありました。皆もかなり疲れているようでありますから、社長のお開き提案は慎に以って好都合でありましたか。
「今後も定期的に、今日のような全体の会議を開くようにすれば、意思疎通も図れるし思わぬ辺りから妙案が出たりもするから、実に有意義なんじゃじゃないですかねえ」
 社長がそう云いながらチラと頑治さんの方に目を遣るのでありました。
「全員がちゃんとした意識を持って意思疎通が図れれば、ですけどね」
 那間裕子女史が未だ土師尾常務を標的にした揶揄を止めないのでありました。
「那間さんも敢えてそう云う事は云わないで、社長の提案を一先ず尊重して、今日の会議を終える事にしたらいいんじゃないですかね。また今後近い内に改めて集まるとして」
 これくらいにしておかないとまたすぐに感情的になる土師尾常務が、またもや性懲りも無く皆の疲労感を無視して那間裕子女史と遣り合おうとするのはうんざりだから、予め均目さんが那間裕子女史の言葉を脇に整理するような事をものして、二人の間に予防的に割って入るのでありました。均目さんも実は結構疲れているのでありましょう。
 まあその疲労感は、総じて土師尾常務の子供じみた判らんちん発言に依っていると思われるのでありますが、この場に片久那制作部長が居れば、彼の人の口もこうも勝手放題に開かれる事はないでありましょう。と云う事は今日の疲労感は片久那制作部長の欠勤に依ると、そうも云えるのかも知れないと頑治さんは半分は冗談で考えるのでありました。
「じゃあ、今日は一先ずこれで終わることにして構いませんかね?」
 袁満さんが社長の意を受けて一同を見回すのでありました。
「それ程大した実りは実際は無かったけど、でもまあ、このくらいにしておこうか」
 土師尾常務がそんな横着を云って早々に立ち上がろうとするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 396 [あなたのとりこ 14 創作]

 本来ならばこういう締め括りの発議は、袁満さんよりは土師尾常務辺りがするべきところではありましょう。しかし当人としてはこの会議に然したる思い入れも期待も無いものだから、それに元々気が利かない性質でもあって、ケチを付ける事はするけれどそんな役割なんぞは全く興味も無さそうで、さっさと立ち上がろうとするのでありますか。

 反省会と云う程のものではないけれどこの会議の後、甲斐計子女史を除いた従業員一同は馴染みの神保町駅近くの居酒屋で例に依って一献傾けるのでありました。酒杯を取り交わす時の話題としては、先程の土師尾常務の重職の者にあるまじき子供じみた振る舞いや発言に対する鬱憤晴らしが先ずあって、それから次には那間裕子女史の土師尾常務に対する寸分の遠慮も無い食って掛かりようへの驚嘆等でありましたか。
 土師尾常務への欠席裁判的批判や論いは何時もの事と云えば何時もの事でありますが、一同は那間裕子女史の豪胆さと、ある意味での義侠心と正義感を大いに持て囃すのでありました。女史としては、後でそんなに感心するくらいならその場で不甲斐無く沈黙していないで、一同にすぐさま土師尾常務攻撃に参加して欲しかったようでありました。女史に男共の意気地の無さを詰られれば、全員おどおどと目を逸らすのみであります。
 男共としては土師尾常務に対して寸分の畏怖も敬服も無いし、その人間性は買うに値しないし大いに見下げているのは間違いないけれど、何故かいざとなったら忌憚して仕舞うその意気地の無さと云うものは、我が事ながら実に情けない次第でありましたか。一体土師尾常務の何を憚っているのかと云うと、地位の上での憚りとか会社に於ける年季の長短とか、まあ人様々に如何にも尤もらしい理由はあろうけれど、要は言葉を遣り取りするのが面倒臭くてうんざりであると云うところでありましょうか。なるべく関わり合いたくない、共通の忌避の対象としてその人はこの会社に存在していると云う事になりますか。
 しかし見下げる対象としての認識は男共と共通ながら、那間裕子女史は彼の人を只管忌避するよりも、寧ろ遣り込めたり怒らせたりして面白がる対象として認識しているのかも知れません。それは一種の彼の人への異性なるが故の興味と捉える事も出来ましょうか。しかしそんな事を口にすると那間裕子女史に烈火の如く怒られるであろうと、頑治さんは徳利の日本酒を女史から猪口に注して貰いながら考えているのでありました。
「社長は今日の会議で、唐目君の事が大いに印象的だったんじゃないかしら」
 那間裕子女史は頑治さんの猪口に注ぎ終えた徳利を立てながら、頑治さんに向かって笑みながら小声で呟くように云うのでありました。
「そうそう。俺もそう感じた」
 これは頑治さんの右横に座っている均目さんの言葉でありました。要するに頑治さんは那間裕子女史と均目さんに左右から挟まれた位地に座っているのでありました。
「土師尾さんの一々下らない反応のお蔭でちっとも捗らない話しに、或る方向性と具体的な解決策を一言二言でスカッと与えたんだから、大いに見直したんじゃないかしらね。単なる新しく採用された倉庫番のお兄さんと思っていたのが、これはなかなか隅に置けない社員だと、従来の考えを改めたと思うわよ、今日の唐目君を見ていて」
(続)
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あなたのとりこ 397 [あなたのとりこ 14 創作]

「それはどうですかねえ。ただ俺の言葉を停滞していた会話を少し活性化させる好都合な接ぎ穂だと捉えて、上手く社長が利用しただけじゃないですかねえ」
 頑治さんは謙譲からだけではなく、実のところあの社長には、人を見る目とか好機を的確に捉える目とかをあんまり期待しない方が無難だろうと云う読みかあるものだから、そんな風に冷えた語調で応えるのでありました。
「まあ何事にも敏くピンとくるタイプじゃないけど、それでも唐目君の発言にちょっと瞠目したような様子は充分あったよ。それにあの社長だけじゃなくてあの場に居た殆どが、唐目君の発言にグッと引き込まれたのは間違いない。まあ、一人を除いて」
 均目さんに除かれた一人とは土師尾常務に間違いないでありましょう。
「そうね。確かに唐目君の発言にはあたしも、おお、とか思ったもの」
 那間裕子女史が頑治さんの方に向けた目を、まるでその時を再現するように少し大袈裟に見開いて見せるのでありました。「なかなか頼もしくて見直したわよ」
「いやあ、何とも恐れ入ります」
 頑治さんは頭を掻きながら如何にもお道化た風に照れて見せるのでありました。
「唐目君に倉庫仕事とか配達とか駐車場の掃除とか、それに製作の手伝いとか、そんな事をさせておくのが勿体無いよなあ。もっとちゃんとした地位に着けて、片久那制作部長の将来の後継者みたいな立ち位置を目指して貰いたいくらいだね」
 満更法螺でもないような均目さんの口振りであります。
「片久那さんみたいに高圧的で薄情で素っ気ない感じは困るけど、でも会社内での管理の力量としては、将来片久那さんレベルにはいくんじゃないかってあたしは思うわよ」
「いやあ、それはおべんちゃらが過ぎますよ那間さん。第一俺には片久那制作部長程の素早くて深い思慮も、果敢な行動力も、それに威厳も人望もまるで無いですからねえ。ここで幾ら俺を褒めても何も出ませんよ、念のために云っておきますけど」
「いやいや、それでもあの出雲君と袁満さんの晴れやかそうな顔は、唐目君が齎した今日の収穫に違いないよ。このところ二人共塞ぎ込んでいたけど、今は見違える程生き々々している。唐目君のお蔭でここに来てやっと仕事の具体的な目途が立ったんだよ」
 均目さんはそう云ってこっそり日比課長と戯れる出雲さんと袁満さんを指差すのでありました。確かに二人の表情には最近に無い精気が見て取れるのでありましたか。

   久し振りの逢瀬

 この、片久那制作部長を除いた全社員に依る会議の後に、これ迄に無い大激震が会社を襲うのでありました。それはゴールデンウィークに夕美さんが仕事絡みで東京に出て来た後の事でありました。その後に控えた大激震の事なんぞ全く欠片すら思いもしていなかったから、夕美さんとの久し振りの逢瀬を頑治さんは大いに楽しむのでありました。
 東京駅の新幹線ホーム迄頑治さんは夕美さんを迎えに行くのでありました。頑治さんは車両から下りて来た濃紺のスーツ姿の夕美さんをすぐに見付けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 398 [あなたのとりこ 14 創作]

 夕美さんも頑治さんをほぼ同時に見付けて、逸る気持ちを弄ぶように足手纏いに絡む両手に下げた大きな旅行バッグを持て余しつつ、頑治さんの方に向かって小走りに駆け寄って来るのでありました。その前に勿論、この荷物共は、先ずは見付けた頑治さんに手を挙げて見せる挨拶の動作をも忌々しく邪魔したのでありました。
「見慣れないフォーマルな格好をしているから、見違えるところだったよ。ま、実際はどんな格好をしていても、夕美を見違える事なんか絶対にしないんだけど」
 頑治さんはそう云いながら、傍まで来た夕美さんの如何にも重そうな方の荷物を受け取るために片手を差し伸べるのでありました。
「一応仕事絡みでの上京だからね」
 夕美さんは素直に頑治さんに大きな方の旅行バッグを手渡して、それから頑治さんの顔をまじまじと見るのでありました。「変わり、なさそうね」
「一か月ちょっとでの再会だから、そんな短い時間では変わり様がない。でも夕美の方は一か月ちょっと前より大分大人びたような気配があるかな」
「スーツを着ているからでしょう」
「それもあるけど、何か雰囲気がさ」
「そうかしら。ひょっとしたらそれは社会人になったからかもね」
 夕美さんはそう云いながらその社会人振りを見せるように、心持ち胸を反らして姿勢を正してから、一直線の視線を頑治さんに投げるのでありました。そうやって見つめられると、何とはなしに頑治さんはどぎまぎとして仕舞うのでありました。久しぶりの夕美さんの一直線の視線にちょっと狼狽えたのか、それとも学生時代には感じなかった一種の成熟を、このごく短期間で身に付けたような風情の夕美さんにちょっとばかり気圧されたための狼狽なのか、そこの辺りは頑治さん自身も良く判らないのでありました。
「今日の宿泊先は、叔母さんの家じゃないんだよね?」
 頑治さんは秘かに波立った気持ちを仕切り直すように話頭を変えるのでありました。
「ううん、お茶の水の錦華公園近くのビジネスホテルよ。明日早速大学の方に顔出ししなければならないから、今日から三泊はそこに泊まるの」
「ああそうか。大学の近所の方があれこれと便利ではあるか」
「そう云う事。勤め先にもそう云ってあるし。まあ、一応建前としては、この上京の前半は仕事での出張と云う事なんだから、宿泊先が頑ちゃんの本郷のアパートと云う訳にもいかないしね。大学での仕事が済んだら、後はプライベートで五月五日まで過ごすから、その時には頑ちゃんのアパートに転がり込む予定よ。その折はよろしく」
「勿論大歓迎だよ。でも、世田谷の叔母さんの家の方には顔出ししなくて良いの?」
「取り敢えず東京に出て来る事は云ってあるけど、でもまあ、ちょっと立ち寄って実家から預かって来たお土産を渡すだけで、叔母さんの家には泊まる予定は立てていないわ」
「じゃあ、後半の三日間は一緒に居られる訳だな
「そう云う事。前半の四日間も仕事が終わってからは頑ちゃんと一緒よ。まあ、明日だけは久し振りと云う事で、先生と大学院の後輩と夜一緒に食事する事になっているけど」
(続)
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あなたのとりこ 399 [あなたのとりこ 14 創作]

「まあ、それは仕方が無いか」
 頑治さんは少し落胆の表情をして見せるのでありました。
 と云う事で、二人はその儘駅構内の通路を歩いて中央線のホームに移動するのでありました。もう夕方に近い時間になっていたから通路は急ぎ足に行き交う人で非常に混み合っていて、夫々が一つずつ下げた夕美さんの持ってきた大きな旅行カバンが、二人横に並んでのスムーズな足の運びを苛立たしく邪魔するのでありました。

 御茶ノ水駅で電車を降りて改札を抜けると、夕美さんはこの地を去ってから然して長い時間が経過していたと云う訳でもないのに、斜陽にやや赤みを増した駅前の交差点の雑踏に懐かしそうに目を細めるのでありました。もう自分はこの地の人間ではないと云う思い做しが、前に見慣れたこの光景への懐かしさをいや増すのでありましょうか。
 二人は大学の裏手にある、今宵夕美さんが泊まるビジネスホテルの方に向かって、矢張り手に下げた荷を持て余しながら坂をダラダラと下るのでありました。
 夕美さんがホテルのチェックイン手続きを終えるまで、頑治さんは然して広くもないロビーの片隅で床に置いた二つの荷を守りながら待つのでありました。手続きを終えて受け取った部屋のキーを、別に大した意味は無いのでありましょうが、見せびらかすような仕草をしながら近寄って来る夕美さんを待って、頑治さんもエレベーターに一緒に乗り込んで夕美さんの部屋に向かうのは、荷物運びの役を最後まで全うするためであります。
 ホテルのフロント係も宿泊者でもない頑治さんの行動を注意する事も無いばかりか、一瞥も呉れず別に何の関心も寄せないような態度であるのは、まあ、ホテルの仕来たりからすれば大らかと云えば実に大らかな様子と云えるでありましょうか。単に自分の仕事に熱心でないか、或いは至ってものぐさな性質だと云うだけかも知れませんが。
 一旦部屋に荷物を運び終えた後、頑治さんと夕美さんはすぐにまたエレベーターで下に降りるのでありました。夕美さんが部屋のキーをフロントに預ける間、頑治さんはまたロビーの片隅で今度は手ぶらで待っているのでありました。この後、少し早いけれどどこか近くの飲食店で夕食を一緒にしようと云う算段であります。
「何か食いたいものはあるかな?」
 頑治さんが訊くと夕美さんは少し首を傾げるのでありました。特段今宵の夕食として口にすべき特定のものは無いと云ったところでありましょうか。
「未だ夕食の時間にはちょっと早いから、あんまりお腹も減っていないわね」
「それもそうだなあ」
 頑治さんは首を一つ縦に動かすのでありました。「じゃあ、懐かしいこの街の近辺を、久し振りで少しの間ブラブラ散歩と洒落込もうか?」
「懐かしいと云ってもそんなに久し振りと云う訳でもないけどね」
 さっき御茶ノ水駅に降り立って駅前の交差点の光景を眺め遣っていた夕美さんのその目に思いを遣って、頑治さんはふと思い付いて散歩を提案したのでありましたが、その割には夕美さんの意外にすげない返事でありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 400 [あなたのとりこ 14 創作]

「さてそうなると、未だ夕食には早いからどうやって時間を潰すかな。・・・」
「散歩なんかより、これから頑ちゃんのアパートに行く、と云うのはどう?」
「まあ、それでも構わないけど、でも俺のアパートに上がり込んでまったりしていると、肝心の夕食の時間を逸するかも知れないなあ」
「別に良いじゃない。夕食の時間がきっちり決められている訳じゃないんだから」
「ま、それはそうだけど」
 夕美さんが泊まるのはビジネスホテルであり、観光地の観光旅館のように夕食が宿泊プランに付属しているのではないのだから、何時に何処で夕食を摂ろうとそれは随意でありますか。頑治さんの心配は的外れで間抜けなもののようであります。
「こっちに出て来てあたしが先ず行きたい処って云ったら、頑ちゃんのアパートと云う事になるものね。他は後回しで良いもの」
「ウチに置いていった見張りのネコの報告も聞きたいから、と云うのもあるか」
「そうそう」
 夕美さんは笑って何度か頷くのでありました。
 と云う事で、二人は先程降り立った御茶ノ水駅の方にまた来た道成りに並んで坂を上って、駅を横目にお茶の水橋を渡って、外堀通りを左に折れて神田川沿いにほんの少し歩いて、交通量の多い本通りを避けて順天堂大学横の脇道を抜けて、本郷給水所近くの頑治さんのアパートに辿り着くのでありました。この道筋は頑治さんの嘗ての通学路であり今の通勤路でもあります。だから夕美さんも当然これ迄何度も、この日のように頑治さんと一緒に、或いは一人で、頑治さんのアパートを訪うために歩いた路程でありました。
 時々夕美さんが神田川の土手下に目を落としたり、順天堂大学の建物を見上げたりするのは、多少の懐かしさからでありましょう。成程夕美さんにとっては、東京のこの界隈の風景は、今ではすっかり他所の地として認識されていると云う事なのでありますか。
 アパートの部屋に上がり込むと夕美さんは先ずは最初に、本棚の上に置いてあるぬいぐるみのネコを手に取って抱き竦めるのでありました。これはつまり自分の留守中の頑治さんに対する見張り役の労を慰撫してやっているのでありましょう。夕美さんはその後ネコを抱いた儘、テーブル代わりにしている布団の無い炬燵の傍らに座るのでありました。
「案外綺麗にしているわね」
 夕美さんはネコの背を撫でながら部屋を見回すのでありました。
「夕美が故郷に帰って未だ一か月くらいだから、そんなに汚す時間も無かったし、ひょっとしたら夕美が今日来るかも知れないと思って、昨日念入りに掃除したんだよ」
「殊勝な心掛けね」
 夕美さんはネコの背を撫でるのを止めないで満足そうに笑むのでありました。「ひょっとして部屋が散らかしてあったら掃除しようと思っていたけど、その手間は省けたわ」
「せっかくこっちに遣って来るのに、夕美にそんな不届きな厄介は掛けられないよ」
 頑治さんは一つ頷くのでありました。「コーヒーでも淹れる?」
「そうね、久しぶりに頑ちゃんのコーヒーが飲みたいわ」
(続)
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あなたのとりこ 401 [あなたのとりこ 14 創作]

 まあ、然程に熟達したコーヒー淹れの腕前は特にはないながらも、頑治さんは手動のミルで豆を挽き、紙ドリップで二杯分のコーヒーを丁寧に淹れるのでありました。夕美さんは久し振りの頑治さんの手になるコーヒーの立ち上る湯気に嬉しそうな表情をしてから、恐る恐るコーヒーカップの熱い縁に口を近付けるのでありました。
 結局夕食を摂るために頑治さんのアパートを二人して出たのは、それから三時間程経ってからでありました。その三時間てえものは、コーヒーが熱過ぎたので飲むのに三時間を要したとか、久し振りの再会にすっかり時を忘れて三時間、この間の二人夫々の身に起こった何やかやの出来事を、交互に飽かず喋り合っていたと云う訳でもないのでありましたけれど、まあ待ちに待った邂逅でありましたから、あれこれ色々、と云うか、それ程色々でも無いのでありますが、まあ何やら、やる事もあったと云う事でありましたか。・・・

 こちらに出て来たら先ずはこれを食べてみたい、と云う殊更のものは夕美さんには無いと云う事なので、二人は以前に偶に二人で入った事のある、お茶の水の山の上ホテル別館にあるレストランに入るのでありました。席に着いてから先ずは改めて再会を祝すためグラスワインで乾杯して、運ばれてきた料理にナイフを入れるのでありました。
「頑ちゃんの仕事の方はどんな感じなの?」
 夕美さんがワイングラスを口に運びながら訊くのでありました。
「まあ、ぼちぼちやっているよ」
「労働組合が出来て、この四月の給料からぐっと待遇改善されたんだっけね」
「多少、ね。そんなに、ぐっと、と云う程じゃないのかな」
「組合が出来た事で、件の両部長さんとの関係がギクシャクとかしていない?」
「その二人だけど、四月一日付けで取締役になったんだよ」
「へえ。つまりその二人も出世したのね」
 ワインを一口飲んでから夕美さんはグラスをテーブルに戻すのでありました。
「自分達の待遇に関して従業員と同じ賃金体系の中に居るのは不都合だから、そこから出るために役員になったのが第一の理由だと云う推察だけど、まあ、そうなんだろうな」
「じゃあ、その二人は従業員よりももっと大幅に待遇が改善されたと云う訳ね」
「具体的にどのくらいの待遇になったのか判らないから何とも言えないけど、しかしまあ当然、従業員の待遇にもう少し色を付けた好待遇なんだろうなあ」
「報酬がどのくらい上がったかとか、その辺ははっきり判らないの?」
「別に向こうからは何も云わないし、迂闊に訊けるような筋合いの事でもないし」
「まあ、それはそうか」
「組合員の中には、屹度社長を脅かして自分達より遥かに好い待遇を得たに違いないと云う推測もあるし、売り上げが芳しくないのが今次の組合結成やら何やらのすったもんだの元なんだから、経営陣として体裁上そんなに勝手放題に自分達の待遇を上げられないだろう、と云う推測もあるけど、まあ、その辺はどんな具合か俺にはさっぱり判らないな」
 頑治さんも一口飲んだワイングラスをテーブルに戻すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 402 [あなたのとりこ 14 創作]

「これ迄に聞いていた頑ちゃんの話しに依ると、その二人は自分達の待遇を差し置いてでも頑ちゃん達の好待遇を考えるような、献身的な人でも義に篤い人でもお人好しでもないみたいだし、屹度従業員よりも遥かに好条件を獲得したんじゃないの」
「組合の中の推察も、大体そんなところだけどね」
 頑治さんは冷ややかな笑みを浮かべながら頷くのでありました。「ところで、明日の夜は大学時代の友人と会食だったよね?」
 頑治さんは表情を改めて話題を変えるのでありました。
「そうね。仕事の打ち合わせの後で教授も交えて、新宿の住友ビルの中にある何とかって云う土佐料理の店で食事する事になっているわ」
「ふうん。皿鉢料理かな。鰹のシーズンの最盛期には少し早いように思うけど」
「何だかよく判らないわ。博士課程に進んだ同級生がその宴会を仕切ってくれるみたいだから、あたしはそれに乗っかるだけで、魚料理でもジンギスカンでも何でも良いの」
 夕美さんは恐らくそこで出されるであろう料理に対して、あんまり執着しているような風ではない口振りでありました。頑治さんと夕美さんの生まれ育った故郷は造船業を主体産業とする海の街で、近隣に大きな漁港も数多い事から子供の頃から海産物は、まあその中に鰹と云う魚類はあんまり見お目にかかった事はなかったとは云うものの、厭きる程食していたのでありましたから、魚介を使った料理に対する殊更の餓えはないのでありました。夕美さんはこの四月からその故郷に帰ったのでありますから尚の事でありますか。
「でも故郷ではそれこそ魚料理は珍しくもないけど、でも鰹とか赤身の肴なんかは、子供の頃からあんまり見た事はなかったよなあ」
「それはそうだけど、でもどちらかと云うとあたしはお肉の方が好きだし」
 夕美さんはあくまで無愛想で可愛気の無い事を云うのでありました。「あたしとしては明日の夜は頑ちゃんと一緒に過ごせない分、結局つまらないもの」
 これは頑治さんにとっては何よりの可愛気ある言だと云えるでありましょう。
「明日の宴会は何時に終わるの?」
 頑治さんはデレッと目尻を下げて訊くのでありました。
「そうね、七時始まりでそれから二時間として、九時くらいかしら。通例から二次会はないと思うけど、話しの盛り上がりに依ってはもう少し時間は延びるかも知れないわ」
「じゃあ九時頃、新宿に迎えに行こうか?」
「本当?」
 夕美さんは嬉しそうな顔をして見せるのでありました。「でも頑ちゃんが態々新宿に出て来るのは大変だから、それなら御茶ノ水駅で待ち合わせと云う事にしない?」
「別に俺としては新宿まで出て行くのはそんなに億劫でもないけど、でもまあ、お茶の水の方が夕美はホテルがすぐ近くだから何となく気楽かな」
「宴会が終わる頃に電話するわ」
 夕美さんは軽く握った左手の拳を頬の横に添えて、右手の人差し指で電話のダイヤルを回す真似を宙でして見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 403 [あなたのとりこ 14 創作]

「判った。八時には家に居るようにするよ」
「ところで五月一日は、頑ちゃんはメーデー行進に参加しなくて良いの?」
 夕美さんが話題を変えるのでありました。
「ああ、参加しなくて良いよ。大体、そんな七面倒臭いものなんか、誰も意欲的に参加したいとは考えていないから、ウチの組合内部の話し合いで、一応の義理から役員を含む三人が貧乏籤、と云う事になったんだ。全員強制的に参加と云う事になれば、ちょうど夕美がこっちに出て来る時だから困るなと心配していたんだけど」
「ああそう。あたしの仕事の方は五月の二日迄に取り敢えず片付く事になっているし、後は五日迄ずっとプライベートの時間になるから、三日間は丸々頑ちゃんと一緒に過ごせるわね。その前も、五月一日を含めて、まあ、仕事の後は一緒に過ごせるけどさ」
「そうだな。若しメーデー行進参加の予定が入っていたら、五月一日が丸々台無しになるかも知れないところだった。まあ、何か理由を付けてサボる事も出来なくもないけど」
「義理堅い頑ちゃんの事だから、そうなっても屹度サボりはしないと思うけど」
「いやいや、夕美との時間のためなら、躊躇いなく突然の腹痛にでも何にでもなるさ」
 頑治さんは別にその時、腹に痛みを感じた訳でもないけれど、掌を胃の辺りに添えて背を丸めて蹲るような仕草をして見せるのでありました。
「ふうん、そう」
 夕美さんは端から頑治さんのその言を信用していないようでありあした。「まあ良いや。兎に角後半の五日間はみっちり頑ちゃんと過ごせそうで楽しみよ」
 夕美さんはそう云ってグラスに残ったワインを飲み干すのでありました。

 翌日、頑治さんは仕事が終わると会社の近くの洋食屋で夕食を済ますと、七時前にアパートに帰って来て、そわそわしながら夕美さんからの電話を待ちながら過ごすのでありました。昨日の夕美さんの言に依れば、電話がかかってくる時間は宴会終了後の九時過ぎと云う事でありますが、そうすると未だ二時間もある訳であります。その間、取り敢えずシャワーを浴びてその後は本でも読んで時間を潰すとしても、それでも結構な待ち時間でありますか。まあ、それに苛々しても全く以って詮無い事ではありますけれど。
 電話のベルが鳴ったのは九時を四十分以上過ぎた頃でありましたか。頑治さんがベルの鳴り端を捉えて素早く受話器を取るのは、余程待ちに待っていた故でありましょう。
「ああ、あたしよ。遅くなって御免なさい」
 夕美さんが先ず謝るのでありました。
「遅かったところを見ると、宴会での話しが随分と盛り上がっていたのかな」
 そう云う頑治さんには別に皮肉を云ってやろうと云う気は全く無いのでありました。
「本当に御免なさい」
 夕美さんの声は恐縮で消えも入りそうでありました。
「今、お茶の水かな?」
「ううん、未だ新宿なの」
(続)
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あなたのとりこ 404 [あなたのとりこ 14 創作]

「ああそう」
「御茶ノ水駅に帰り着くのは十時を過ぎちゃうかもね」
 これはやんわりと夕美さんが、頑治さんが態々御茶ノ水駅に迎えに来てくれるのを遠慮しようとして発した言葉のようにも聞こえるのでありました。
「今日は疲れたかい?」
「ううん、別に疲れてはいないけど」
「だったら折角待っていたんだから、一応御茶ノ水駅に逢いには行くよ」
「面倒臭いんじゃない?」
「別に俺としては億劫でも何でもないけどね」
「でもそれは何となく悪いわね。これから逢ったとしても、精々ちょっとの時間、喫茶店か何処かでお喋りするくらいしか出来ないんじゃないかしら」
「それでも構わないよ。俺としては一応夕美の顔を見て今日を終わりたいから」
 その頑治さんの言葉を聞いて夕美さんがほんの少し黙るのは、然程大袈裟なところではないにしろ、ちょろっと感動したためかも知れないと頑治さんは手前味噌に推察するのでありました。しかし夕美さんの感動を喚起する魂胆で頑治さんはそんな事を巧んで云ったのではなく、これは頑治さんの素直な思い以外ではないのでありましたけれど。
「じゃあ、御茶ノ水駅に着いたら、その儘頑ちゃんのアパートに行こうかしら」
「いや、そうしたら多分、その儘ずるずる、結局俺の家に泊まる事になるんじゃないかな。それは拙いだろう。夕美は明日も朝から大学で仕事だろうから。だったらお茶の水で逢って、その後はちゃんと夕美の泊まるべきホテルに帰る方が無難じゃないかな」
「まあそれはそうだけど。・・・」
 夕美さんは今度は感動ではなく落胆からまた少し黙るのでありました。と、頑治さんは受話器の向こうの夕美さんの心情を、前と同じく手前味噌に推し量るのでありました。
「じゃあ、まあ、取り敢えず御茶ノ水駅の改札辺りで待っているよ。」
 頑治さんはそう云って電話を切るのでありました。
 その日はそんな束の間の逢瀬で我慢するとしても、明日も明後日も夕方以降は一緒に居られるし、その後五月三日からは夕美さんは頑治さんのアパートで、東京滞在の残り三日間を頑治さんと一緒に過ごすのであります。今日の我慢は、云ってみれば明日以降に訪れる歓喜の濃度をいや増すための、一種の演出だと心得れば良いのでありますか。
 頑治さんはそんな事を考えるともなく考えながら出掛けるために玄関で靴を履くのでありました。アパートの扉を開けると、ほんの少し夏の匂いの雑じった夜風を頬に受けるのでありました。頑治さんは足取り軽く御茶ノ水駅に向かうのでありました。

 五月一日はメーデーで従業員は日比課長を除いて全員有給休暇を取るのでありました。年次有給休暇とは別にメーデーは特別の休暇とするように先の団交で要求したのでありましたが、それは叶わないのでありました。まあどうせ、毎年有給休暇を使い果たせないのが恒でありましたから、組合員全員この要求に然程の拘りはないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 405 [あなたのとりこ 14 創作]

 メーデー行進に参加するのは委員長の袁満さんと書記の那間裕子女史、それにどうせ暇だからと参加を引き受けた出雲さんの三人でありましたが、一応の義理から頑治さんと均目さんも、行進には参加しないながらもメーデー中央集会が行われる代々木公園には出向くのでありました。新人組合員の甲斐計子女史はそれも免除、と云う事でありました。
 那間裕子女史は昨日までの名残の寒気が、夜が明けると同時に嘘のようにすっかり緩んで、初夏晴天の好日となったが五月一日をこんなイカさない行事で潰されるのは、全く以ってげんなりであると愚痴を零すのでありました。しかし袁満さんと出雲さんは多少のお祭り気分があるようで、全総連から手渡された、徴兵制を許すな! 等と小銃を持った兵士の絵にバッテンが描いてある手書きのプラカードを、もの珍し気に眺めたり両手で差し上げたりしながら、ただ只管閉口するのみと云う風でもないのでありましたか。
「こんなつまらない行事に動員される日に限ってこんな絶好の行楽日和になるんだから、何となく悔しくなっちゃうわね」
 那間裕子女史がプラカードに描かれた小銃を持つ陰鬱そうな表情の兵士に向かって愚痴を云溢すのでありました。当然ながらそんな事を云われても兵士は女史に向かって銃をぶっ放す事もなく、陰鬱気な表情を更に沈鬱に曇らすと云う事もないのでありました。
「結局行進中に持つ事なったプラカードはこれですか?」
 均目さんが袁満さんの持つプラカードの兵士に向かって皮肉な視線を投げながら云うのでありましたが、別に兵士は恐縮する事も当然ないのでありました。
「もう一つ、米軍基地撤廃、と書いてあるプラカードとどっちにするかと担当の人に訊かれて、基地撤廃の方はこれより大判で重そうだったからこっちの方にしたんだよ」
 袁満さんは兵士に同意を求めるような視線を向けて返すのでありました。勿論絵の兵士はこれにも無言無表情を貫くのでありました
「労働運動とは直接関係ない、全くの政治的なスローガンですよね」
 均目さんが小さな舌打ちの音を立てるのでありました。
「こんなのを持って街中を行進するのはうんざりだわ」
 那間裕子女史が袁満さんが胸元に抱えているプラカードを指で弾いて見せるのでありました。この挑発行為に対しても兵士は何も反応せずに堪えるのでありました。なかなか冷静沈着で相当の忍耐力を有する、慎に頼りになる有能な兵士と云うものであります。
「ま、労働組合の中でも、組織の中の人は決まって否定するものの、客観的な目線に依れば、政治党派性の極めて強い全総連だから仕方が無いと云えば仕方が無いけど、でも建前上は組合員の政治的考えは自由だと云っているんだから、こういうプラカードを持って行進するのは政治的に右翼の自分としては嫌だと、断ろうと思えば断れる筈だよなあ」
「別にあたしは右翼でも左翼でもないもの」
 那間裕子女史はそう云う、人をすぐに政治的に色分けしようとする考えには全く以って無関心であると云う冷ややかさを、均目さんを見る視線に込めるのでありました。確かに那間裕子女史の口からは、普段の会話の中でも政治性の高い話題は殆ど漏れてこないのでありました。まあ、袁満さんにしても出雲さんにしてもそうでありますが。
(続)
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あなたのとりこ 406 [あなたのとりこ 14 創作]

 全体行進が始まってそれを免除されている事に多少の後ろめたさを覚えるものだから、頑治さんと均目さんは街区一区画分くらいを、東京駅迄の全路程に参加する予定の袁満さんと那間裕子女史、それに出雲さんと一緒に付き合い歩きするのでありました。
「じゃあ、申し訳無いけど唐目君と俺はこの辺でばっくれる事にするよ」
 均目さんがそう云って全路程参加組の三人に片手を挙げるのでありました。
「ああ判った。態々代々木公園迄出て来て貰って有難う」
 袁満さんが慎に人の好い礼辞を述べるのでありました。
「折角だから東京駅まで付き合えば良いのに」
 那間裕子女史がこれで放免となる頑治さんと均目さんに対して、恨みがましさの大いに籠った云い草をして見せるのでありました。
「そうしたいのは山々ではあるけど、前に云っていたように今日は随分以前から予定していた、どうしても外せない用があるから、これで勘弁してください」
 均目さんが那間裕子女史に向かって合掌するのでありました。何時もと違ってここで語尾を敬語にしたのは、申し訳無い心情の表れと云うところでありますか。
「唐目君は?」
「ええ、済みません」
 頑治さんは少し深めにお辞儀して見せるのでありました。
 青山通りに差し掛かった行列から態とはぐれた頑治さんと均目さんは、原宿駅の方に向かって元来た道を戻るのでありました。
「唐目君はこの後すぐに用があるんだっけ?」
 均目さんが原宿駅が見えた辺りで横を歩く頑治さんに訊くのでありました。
「いや、実はすぐにと云うのではなくて、用と云うのは夕方からなんだけどね」
 その日夕美さんは仕事で朝から大学とか文部省とかに行く予定でありました。依って、それが夕方の五時には終わる筈だから、その頃に大学近くの喫茶店のレモンで待ち合わせてどこかで一緒に夕食を、と云う段取りなのでありました。
「あの三人には云っていないけど、実は俺の用と云うのも夕方からなんだ」
 均目さんはそう云ってチョロっと舌を出して見せるのでありました。「じゃあ、新宿にでも出て、昼にはちょっと早いけど何処かで飯でも食うか」
「ああ良いよ」
 均目さんが原宿駅の近くではなく、新宿にでも出て、と云うのは普段から代々木や原宿辺りには生活圏として殆ど縁が無い故でありましょう。まあ、頑治さんもこちらの方面には、偶に渋谷迄行く事はあっても、何故か殆ど足を止めた事はないのでありました。

 別にこれと云って行きたい店は無かったから、頑治さんと均目さんは靖国通り沿いの何時も行く洋風居酒屋近くの、雑居ビルの地下一階にある洋食屋に入るのでありました。そこは五人掛けのカウンター席と椅子席が三つと云う小振りの、前に一度酒の前の腹拵えと云う心算で、那間裕子女史と均目さんと三人で入った事のある店でありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 407 [あなたのとりこ 14 創作]

「メーデーのデモ行進に参加しないでこうして寛いでいるのは、何となくプラカードを持って歩いているあの三人に対して申し訳無いような気もするよなあ」
 頑治さんはオムライスにスプーンを刺しながら云うのでありました。
「いや別に申し訳無く思う事はないんじゃないかな。あの三人はもの珍しさから、自分の意志で行進に参加しているんだし」
「しかし那間さんはどういう了見で参加したんだろう。大体あの人はああいうのはちょっと軽蔑気味に億劫がって、真っ先に一抜けたを表明するタイプじゃなかったなか」
「それはそうだな。どう云う気紛れを起こしたのかな」
 均目さんが自分の前のハンバーグにナイフを入れながら応えるのでありました。「ま、後日その辺は少し詳しく聞き質してみても良いけど」
「出雲さんも明日は土師尾常務と一緒に水戸に営業回りに出るんだし、そう云う気が滅入るような仕事を直前に控えていて、良く東京駅まで行進する気が起きるよなあ」
「まあ、明日はうんざりでも、明後日からは三連休だからと云う浮かれがあるのかな」
 均目さんはそう云った後、ハンバーグの一欠片を口の中に運ぶのでありました。
「しかし明日の土師尾常務と一緒の水戸行きは、当人としてはかなり気が重そうだったけどなあ。倉庫に来て何やかやと俺に愚痴を零していたし」
「それはそうだろうよ。あの土師尾常務と一緒に営業回りするとなったら、出雲君に限らず誰だって気が滅入るし、平に願い下げと云うところだろう。どうせ道中、あの土師尾常務の事だから、お辞儀の仕方とか電車の乗り方とかの殆ど無意味な事に関しても、得々として聞いた風な事を宣わってご指導に及ぶ心算なんだろうからなあ」
「出雲さんは今日の行進よりも明日の方が、より疲れて帰って来そうな雰囲気だな」
「まあ、間違いなくそうなるだろうな」
 均目さんは頷いて、口の中にハンバーグが入っているものだから、少しモゴモゴと喋り辛そうに口を動かしてから諾うのでありました。
「ところ均目君は、明後日からの三連休は何処かに旅行にでも行くの?」
 頑治さんはスプーンに大盛りのオムライスを口に運ぶのでありました。
「いや、別に遠くに出掛ける予定はないよ。三連休初日に前から那間さんに誘われていた映画を見に行くくらいで、後は家でのんびり過ごすよ」
「ほう、明後日は那間さんとデートかい?」
「いやそんなんじゃなくて、切符が二枚手に入ったからって誘われていて、それでまあ、どうせ暇だから付き合う事にしたと云うだけだよ」
「それで充分、デートとして成立するように思うけど」
「そうかな。実感としてはそんな感じじゃないけどね。そう云う事は前にもあったし、単なる友達付き合いと云う雰囲気以上のものは何も無いよ」
 均目さんは特段照れるでもなく、或いは態と照れる風を隠そうとしてか、さり気ない口調で云うのでありました。まあ、均目さんと那間裕子女史がお互いどのようなスタンスで映画を一緒に観に行くのかは、頑治さんにはどうでも良い事ではありましたけれど。
(続)
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あなたのとりこ 408 [あなたのとりこ 14 創作]

「唐目君は彼女が故郷から出て来るとか云っていたよなあ、ゴールデンウィークに」
 均目さんが自分と那間裕子女史の事から話題を逸らそうとしてか、フォークに載せたライスを口に運びながらながらそう訊くのでありました。
「うん。仕事絡みでね。もう既にこっちに来ているけど」
「彼女は何の仕事をしているんだっけ?」
「博物館の学芸員だよ」
「その、仕事絡み、と云うのは何だい?」
 再び自分と那間裕子女史の事にこの場での話しを戻らせないようにするためか、均目さんは頑治さんへの質問を畳みかけるのでありました。
「今度大学の考古学研究室と組んで、故郷にある弥生遺跡の大掛かりな発掘調査をするんで、その打ち合わせとか関係省庁への挨拶とかで出て来ているんだよ」
「ふうん。でもゴールデンウィークは大学も官庁も休みだろう?」
「仕事は明日までで、後はプライベートで五日迄こっちに居る訳だよ」
「ああ成程ね。明後日からの三日間は唐目君と二人でイチャイチャして過ごす訳ね」
 均目さんは目元に笑いを溜めて、からかうような口調で云うのでありました。そうだともそうじゃないとも返事するのが何となく面倒だったから、頑治さんは首を縦横何方にも動かさないで、均目さんから目を逸らしながら曖昧に笑うのみでありました。まあ実際、イチャイチャするのはほぼ百パーセント間違いないのではありますがけれど。
 それはさて置き、実のところ均目さんと那間裕子女史の仲てえものは、一体どのような感じなのでありましょう。随分前からかなり親密な恋仲のようでもあり、単なる会社の同僚で気の合う酒飲み友達と云う風でもあり、俄かには判じ難いところであります。頑治さんとしても二人への礼儀と、結局自分には無関係な事柄でしかないと云う無精から、これ迄も敢えてそこを均目さんに煩く問うたり詮索したりはしなかったのでありました。
 ここでも頑治さんは夕美さんとの今夕の逢瀬もあるから、均目さんと那間裕子女史の仲がどのようなものなのであろうかと云う究明は、まあ云ってみれば無関心且つ上の空状態に違いないのでありまして、会話が込み入って一種の退きづらい停滞が生じる前にそそくさと切り上げる心算なのでありました。頑治さんはオムライスの最後の一口を口中に放り込むと、未だ頬を咀嚼に動かしている最中ではあるけれど、スプーンを皿に置いてテーブルの上の紙ナプキンを取って口の周りをつるっと一拭いするのでありました。

 翌五月二日は、翌々日からの連休を控えた出社日でありましたから頑治さんは平常通り会社に向かうのでありました。何時もは殆ど毎日と云って良い程得意先直行の土師尾常務が珍しく朝から既に自席に座っていて、何やら書類に目を通しているのを目撃して全く意外に思うのでありましたが、そう云えばこの日は土師尾常務は指導と視察を兼ねて出雲さんと一緒に、水戸に特注営業に行く予定だったと云う事に思い当たるのでありました。
 しかし一方の出雲さんの姿は未だ見えないのでありました。土師尾常務の意気込みとは逆に、出雲さんとしては大いに気が重いと云う事なのでありましょうかな。
(続)
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あなたのとりこ 409 [あなたのとりこ 14 創作]

 始業時間ギリギリに出社して来た出雲さんは、早速土師尾常務に手招きされるのでありました。自分と一緒に営業回りをする日なんだから、恐懼してもっと早く会社に出て来いと云う土師尾常務の高飛車で身勝手なお説教が、マップケース越しに頑治さんの耳にも聞こえてくるのでありました。何時もにも況してこの日は気重の出社だと云うのに、出社して早々のお小言とは出雲さんとしては幸先が慎によろしくないと云うものであります。
 少しの打ち合わせの後揃って会社を出て行く二人と、ちょうど下の倉庫に向かおうとして偶々扉の辺りで並んだ頑治さんは、一タイミング歩を遅らせて二人を見送るのでありました。先に扉の外に出る土師尾常務の後から少し背中を丸めて出て行く出雲さんの後ろ姿に、これから先の気重が気配として滲み出しているような風でありましたか。
 この二人が水戸での特注営業を終えて社に帰って来たのは、夕方の六時を少し過ぎた頃でありましたか。土師尾常務は出て行く時とあまり変わらない、然して疲れてもいない様子で事務所の扉の内に入って来るのでありましたが、その後ろから現れたた出雲さんは、明らかに疲労困憊の色をその表情に濃く宿しているのでありました。
 頑治さんは丁度その日の仕事を切り上げて帰宅しようとして、未だ残っている袁満さんに挨拶の言葉をかけている時にこの二人の帰社を出迎えた格好でありました。先ずは土師尾常務にお帰りなさいと声を掛けるのでありましたが、土師尾常務はちらと頑治さんに一瞥をくれて、尊大な風情で僅かに頷いて見せるのでありました。同じく出雲さんにも声を掛けるのでありましたが、何故か出雲さんは驚いたように頑治さんを見て、すぐにおどおどと目を逸らして仕舞うのでありました。どこか尋常ならぬ素振りでありましたか。
 しかしこの後、頑治さんは喫茶店のレモンで夕美さんとの待ち合わせの約束があったものだから、帰社した出雲さんの様子が気にはなりながらも、そそくさと会社を後にするのでありました。まあ、明日からの三連休が明けてから、この水戸での特注営業道中の二人の遣り取りやら営業のあり様やら成果やらを聞く事もあろうと云うものであります。頑治さんとしては当面は夕美さんとの逢瀬の方が何より優先であります。
 喫茶店のレモンに夕美さんは既に来ていて、奥まった四人掛けの席に座って何やらの書類を眺めながらコーヒーを飲んでいるのでありました。夕美さんの座っている横には数日前に東京駅に迎えに行った時に見覚えた旅行カバンが二つ、椅子の上に窮屈そうに並べて載せられているのでありました。と云う事はつまり、どうやら既にそれ迄宿泊先としていたビジネスホテルをチェックアウトしてきたと云う事でありましょう。
「早々にホテルは引き払って来たのかな?」
 頑治さんは向かいの席に腰を下ろしながら訊くのでありました。
「そう。今日から頑ちゃんのアパートに転がり込む予定よ」
 夕美さんは手近にある方の旅行カバンの中から書類ホルダーを取り出して、今迄見ていた書類をその中に仕舞いながら云うのでありました。
「仕事の方は大方終わったのかい?」
「そうね。各方面とのの打ち合わせとか挨拶とか、この出張でやるべき仕事は今日のお昼で片付けたわ。だからこの後は、プライベートの旅行って事になるわね」
(続)
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あなたのとりこ 410 [あなたのとりこ 14 創作]

「それは重畳」
 そう云い終るタイミングで店のウェイトレスが近寄って来たので、頑治さんは訊かれる前にコーヒーを注文するのでありました。この、頑治さんとウェイトレスの遣り取りが間に挟まったものだから、頑治さんとの会話のテンポが微妙に乱れたような具合になった夕美さんは、何となく居心地悪そうに頑治さんに黙した儘笑って見せるのでありました。
「旅行カバンが横にあるって事は、ホテルの方も引き払ってきたと云う事だよね」
 頑治さんは仕切り直すような感じでそう質問を発するのでありました。
「そう。まあ今日の分の宿泊費迄は自前でなくても構わないんだけど、だからと云って、仕事はもう片付いたんだから、今日の夜も律義にホテルに泊まる必要なんかないもの。あたしとしてもさっさと頑ちゃんのところに転がり込みたいんだし」
「ああ成程。それはそうだ」
 頑治さんとしては夕美さんのその思惑が嬉しいと云った顔で頷くのでありました。
「じゃあ時間が勿体無いからここで愚図々々していないで、さっさと腰を上げて何処かで手早く夕食をやっつけて、なるべく早い目に俺のアパートに辿り着く事にするか」
 頑治さんは早速腰を上げるような素振りをするのでありました。
「未だ注文したコーヒーが来ていないわよ」
「そんなものはキャンセルすれば良いし」
「でももう出来上がっているんじゃないかしら。だとしたら店に悪いわよ」
「それもそうだけど」
「まあ、コーヒー一杯飲むくらいの時間はここでまったりしても良いんじゃない」
「うん。別に早く帰って観たいテレビがあると云う訳でもなし、それはそうだよな」
 頑治さんは改めて椅子に腰を落ち着けるのでありました。しかしコーヒーが来ると急かされるように、頑治さんは熱いコーヒーを早急に喉の奥に流し込む作業に四苦八苦するのでありましたか。それを見ながら夕美さんは笑っているのでありました。

 その日の夜、既に十時を回った頃電話のベルがけたたましく鳴るのでありました。頑治さんも夕美さんももう風呂から上がって、帰りがけに買ったワインのコルク栓を開けて、寝る迄の時間を久方ぶりに二人差し向かいで寛いでいる時でありました。
 電話の主は袁満さんでありました。
「ああ、遅い時間に申し訳無い」
 袁満さんは先ずそう謝るのでありました。しかし何となくただならぬ気配が受話器から聞こえてくる袁満さんの声に籠っているのでありました。
「何かありましたか?」
 これから袁満さんの口から陰鬱で面倒な事件が語られるのではないかいかと、頑治さんは聞く前からうんざりした気分になるのでありましたが、それを声に表わさないように気を遣いながら、寧ろやや呑気そうな語調で訊ねるのでありました。
「出雲君から今電話があって、会社を辞めると云うんだ」
(続)
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あなたのとりこ 411 [あなたのとりこ 14 創作]

「今出雲君から、会社を辞めたいと云う電話があったんだ」
「会社を辞めたい?」
「休み明けに退職願いを出す心算のようだよ」
 頑治さんは唸るのでありました。しかしこれは実のところ、全くの青天の霹靂とか驚天動地の情報と云うものでもなく、前から何時かはこの様な話しを聞く事があるかも知れないと云う思いは抱いていたから、一応袁満さんへの儀礼的反応として唸りはしたものの、その割には結構冷静にこの話しそのものは受け止められるのでありました。
 頑治さんが困じたような唸り声をあげたものだから、夕美さんがワインを飲む手を止めて不安そうな目を向けるのでありました。しかし声の深刻さの割に頑治さんの表情が、どちらかと云うと気持ちの激しい波立ちを感じさせない無表情に近いものだったから、この唸り声は電話を掛けてきた相手への一種のサービスであろうすぐに理解したようでありました。夕美さんは頑治さんを見る目の力を緩めて一口ワインを飲むのでありました。
「今日の水戸行きで何かあったんでしょうかね?」
 頑治さんは少し動揺して見せるような物腰で訊くのでありました。
「土師尾常務と一緒に今日一日行動して、相当参ったんじゃないかな」
 袁満さんは陰鬱な声で返すのでありました。「例に依って箸の上げ下ろしまで逐一難癖をつけるような事を一日中されて、我慢の限界に達したんだと思うよ。出雲君はさっきの電話ではあんまり詳しくは云わなかったけど、そうに決まっている」
「電話で袁満さんに詳しい経緯を語らなかったんですか?」
「そうね。もう辞めるとなったら今更ごちゃごちゃ云うのが面倒になったのかな」
 確かに出雲さんは何に依らずあっさりしたところがあって、決断に至るまでは様々憤慨したり恐怖したりしても、一端決断するとその過程にあった様々な感情を引き出しから無造作に取り出して、さらっと遺棄して仕舞うようなところがありましたか。これを潔さと見るか、自棄っぱちの思考放棄と見るかは何とも云えないところではありますが。
「出雲さんの決意は固そうですかね?」
「電話の声からはそう云う風に感じたけど」
「袁満さんとしては一応慰留したんですか?」
「もう少しじっくり考えたり、色んな人に相談してから、改めて冷静になって会社を辞めるかそれとも留まるか、決めた方が良いんじゃないかとは云ったけど、・・・」
「で、その袁満さんの意見に対して、出雲さんはどんな反応でした?」
「もうしっかり決断しているためか、素っ気無くて上の空と云う感じだったかな」
 確かに兆候はあったと云うべきで、会社を辞めようかしらと云う一種の願望はかなり前から、態度をはっきりさせる機会がこれ迄偶々無かっただけで、出雲さんの頭の中に埋み火のようにずっとあり続けていたのでありましょう。だからこの土師尾常務と一緒の日帰りの小旅行に依って、きっぱりと踏ん切りが付いたと云うところでありましょうか。
「もうここに至っては、出雲さんの決心は固いと云うところですかねえ」
「俺はそう云う風に感じたけど」
(続)
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あなたのとりこ 412 [あなたのとりこ 14 創作]

「ところでその出雲さんの件は、俺以外の人にはもう話したんですかね?」
「先ず均目君に電話を掛けたんだけど、留守みたいで出なかったよ。それから那間さんのアパートにも電話したけど、こっちも出ない。だから組合員じゃないんだけど同じ営業部だから日比さんに電話したら、こちらは家に居たんだ」
「で、日比課長はどう云う反応でしたか?」
「すごく驚いたようだけど、でもすぐに出雲君の件に関して何か動こうと云う心算は無いようだったかな。明日から奥さんと娘さんと三人で信州の白骨温泉に家族旅行に行く予定らしくて、休みが明けてから会社で出雲君に話しを聞いてみるとか云っていたかな」
「ああそうですか」
 頑治さんがそう応えて少し黙るのは、何だか嫌な予感が頭の隅にモヤっと兆したからでありありました。「で、袁満さんはどうする心算なんですか?」
「俺に電話をくれたのにその儘放って置く訳にもいかないから、明日の昼に出雲君と逢って詳しいところを聞いてみる事にしたんだ」
「ああそうですか、明日逢う事になったんですか。・・・」
 袁満さんが均目さんと那間裕子女史、それから日比課長と電話をしてその後に頑治さんにも電話してきたと云うのは、複数の誰かに一緒に出雲さんの話しを聞いて貰いたいからでありましょう。前の三人が、留守で電話に出ないか、或いは出てもつれない態度であったから、頑治さん一人にそのお鉢が回って来たと云う寸法でありますか。
 それは判るとしても頑治さんだって、折角久し振りに東京に出て来た夕美さんとの楽しかるべき時間が予定されているのであります。頑治さんがチラと夕美さんの方を伺うと、頑治さんの相手に対する言葉から何となく話しの経緯を推察していると、あんまり良好とは云えない風に会話が推移しているような具合を夕美さんも薄々察したようで、上目遣いで頑治さんの方を見る夕美さんの表情に不安の色が浮いているのでありました。
「唐目君は明日、都合が悪いかな?」
 袁満さんが矢張りそう聞いてくるのでありました。
「明日何時に何処で出雲さんと逢うんですか?」
「午後二時から池袋の喫茶店で、と云う事になっているけど」
「ああそうですか。・・・」
 頑治さんはその返事の後にまた少し沈黙するのでありました。
「そんなに長い時間は掛からないと思うよ。ただ話しを聞くだけだから」
 袁満さんは頑治さんの色好い返事を促すためかそんな事をものすのでありました。しかしそうは云っても、会社を辞める決断に至った経緯を出雲さんから縷々事情を聞くとなると、結構な時間が掛かるのではと予測されるのでありました。
「池袋の何と云う名前で、どの辺りにある喫茶店ですか?」
 頑治さんはそう電話の向こうに言葉を送りながら、肚の内で秘かな溜息を吐くのでありました。今日の明日では都合が付かないとか何とか云ってきっぱり断れば良いのに、自分のお人好し加減に自分でうんざりして、これも肚の内で舌打ちするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 413 [あなたのとりこ 14 創作]

 袁満さんが先に電話を切るのを待ってから頑治さんが受話器を架台の上に戻すと、それとほぼ同時に夕美さんが言葉を発するのでありました。
「明日何処かに出掛けるの?」
「うん。会社で一番歳若の人が突然会社を辞めると云うんだよ。で、どうして急にそう云う決断をたのか、明日直に逢って聞き質す事になったんだよ」
「今のはその人からの電話?」
「いやそうじゃなくて、辞めると電話をしてきた当人の先輩格の別の人。その先輩格が当人に逢って話しを聞くから、一人じゃ心細いので一緒に居てくれと云う事なんだ」
「ふうん。明日は用事が出来たって事ね」
 夕美さんの声が如何にも不機嫌そうに変化するのでありました。「折角久し振りに東京に出て来たあたしを放って置いて、別の用事を今の今、態々作った訳ね」
「そう云う意図じゃ更々ないけど、でも、申し訳無い」
 確かに外形的にはその通りであるから、頑治さんは夕美さんから目を逸らしてしおらしく項垂れるのでありました。すぐに電話を折り返して矢張り明日は行けないと袁満さんに断りを入れようかと思うのでありましたが、それも何となく不細工な話しであります。
「まあ、仕方が無いわ」
 夕美さんが少しは緩んだものの未だ不愉快さを宿した声で呟くのでありました。「何だか無神経に断れそうもない、緊急事態、と云った感じみたいだから」
「申し訳無い」
 頑治さんは先程と同じ言葉を恐縮の色を一層込めて繰り返すのでありました。「その代り用が済んだら一目散に帰って来るよ」
「何処で何時に待ち合わせしたの?」
「池袋の喫茶店で午後二時からと云う話しだよ」
「それで話しは、見込みとしてどのくらいで済むのかしら?」
「一時間か、まあ、もう少しかかるかも」
「じゃあ、話しが終わる頃に池袋にあたしも行こうかしら。前に池袋でデートした事なんか多分無かったから、それも面白いかも知れないわよ」
「池袋でデートねえ。・・・」
 確かに二人共通の場所として、池袋と云う街には今迄殆ど縁が無かったと云えば縁が無かったのでありました。まあ、頑治さんは偶に一人で、随分前の事ではありますが池袋演芸場に落語を聴きに行った事はありましたが、それもほんの数度の事でありましたか。
「サンシャイン水族館とか云ってみるのはどうかしら」
「サンシャイン水族館、ねえ。確かにこれ迄行った事はないけど、でもそれはつまり敢えて行きたいと思った事もないと云う事ではあるんだけどね」
「それから高層ビルのレストランで夜景を見ながら食事、とかさ」
「まあ確かにそれも悪くないけど、何となく池袋と云う街には馴染みが薄いからなあ」
「だから、寧ろ好都合と云う訳じゃない」
(続)
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あなたのとりこ 414 [あなたのとりこ 14 創作]

「じゃあ、そうするか。午後二時から丁度一時間で切り上げて、駅の地下街で三時に待ち合わせと云う感じで良いかな。あんまり池袋駅の構内事情を知らないから、どこかの改札口辺りを待ち合わせ場所にすると判り易いかな」
「一時間で話しは終わるかしら?」
「何が何でも切り上げるようにするよ。この後大事な用があるからとか云って」
 頑治さんとしては夕美さんの不興と我慢へのせめてもの慰撫として、一時間以内で袁満さんと出雲さんとの話しはきっぱり切り上げる心算なのでありました。
「ところで、池袋駅は改札口ってあちこちにあるんじゃないの?」
「ああそうだな。地理不案内なら返ってまごまごしそうだな」
「だったら西武百貨店の正面玄関、とかなら何となくちゃんと落ち合えそうかな」
「俺としては間違いない場所と云うなら池袋演芸場の前とかの方が確かだけど、でもそれじゃあ夕美の方が良く判らないだろうからね、あの辺はゴチャゴチャしているし」
「そうね、池袋演芸場なんて知らないわ」
「じゃあ矢張り西武百貨店の正面玄関前、と云う事にするか。何となく池袋での待ち合わせ場所としては、変な云い方だけど、嫌に素人っぽい感じではあるけど」
「映画館の文芸坐は知っているわよ。こっちの方が通っぽいかも」
 夕美さんが頑治さんの軽口に調子を合わせてくれるのでありました。
「そこは俺が知らない。名前は聞いた事があるけど」
「じゃあ、西武百貨店にする方が、ずぶの素人の待ち合わせ場所としては無難かな」
 池袋での待ち合わせに於いて、素人だろうが通だろうが別にどうでも良いと云えばどうでも良い事でありますけれど、ま、そう落着するのでありました。
 頑治さんは夕美さんに臍を曲げられなくて良かったと思うのでありました。お返しに夕食はうんと奮発するしかないとも考えるのでありました。

 立教大学の図書館が見える辺りにあるその喫茶店に少し迷った上で、ほぼ時間通りに到着してみると袁満さんと出雲さんはもう来ているのでありました。出入り口近くの四人掛けのテーブル席に向かい合わせで座っていたから、すぐに見つけるのでありました。
「よお、お疲れさん」
 袁満さんが片手を挙げて見せるのでありました。「ここはすぐに判ったかい?」
「ええ。立教の図書館を目標に来たら、意外にすんなりと来る事が出来ました」
 頑治さんは袁満さんの横に腰を下ろすと、水とおしぼりを運んできた学生アルバイト風のウェイトレスにホットコーヒーを注文するのでありました。
「お休みだと云うのに俺のために態々済みませんっス」
 出雲さんが頭を掻きながら真顔で、頑治さんに向かって首をヒョイと前に出すような仕草で礼をして見せるのでありました。
「いやまあ、別に大丈夫ですよ。ただ一時間くらいしか居られませんけど」
 頑治さんは夕美さんの顔を頭の隅に思い浮かべながら首を横に振るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 415 [あなたのとりこ 14 創作]

「どうも済みませんっス」
 出雲さんがさっきと同じ事を云って今度はやや丁寧にお辞儀するのでありました。
「出雲さん、会社を辞めるんですか?」
 注文したコーヒーが来る前に頑治さんは出雲さんに聞き質すのでありました。出雲さんはその問いに対して、笑って見せるだけで敢えて言葉では応えないのでありました。
「昨日の水戸での営業で何かあったんですかね?」
 頑治さんのその問い掛けに今度も出雲さんは首を縦にも横にも動かさないで、口を形だけ引き攣るように笑いに動かすのみでありました。この問いにも言葉では応えないのかと思いきや、出雲さんは少しタイミングを遅らせて喋り始めるのでありまあした。
「仕事が終わって帰りの列車の中で、ちょっと許せないような事を云われまして、もうこの人の下で働くのは限界だと悟ったんスよ」
「何を云われたんですかね?」
 頑治さんが畳みかけると出雲さんは出ようとした言葉を口の中に押し止めるためか、巾着の紐を絞るように口を窄めて発声を少し躊躇するのでありました。その代りか、頑治さんの横に座っている袁満さんが口を開くのでありました。
「この仕事でこの先何の成果も上げられないのなら、のほほんと会社に居座って給料をもらっていても人間として仕方が無いんじゃないか、てな感じの言葉みたいだよ」
 自分の事はさて置いて土師尾常務なら他の人に向かってそんな事くらい平気で口にすると云うのは、昨日今日に限った事でないのは出雲さんだけではなく会社の誰もが知っている事であります。だから出雲さんにもそんな土師尾常務に対して一種の耐性が出来ている筈で、さらっと聞き流す事も易く出来ただろうにと頑治さんは思うのでありました。
 頑治さんは出雲さんの会社を辞めると云う重い決断と、土師尾常務のこれ迄にも屡聞いた事のあるこの軽率な難癖との振り合いが、何となく取れていないような気がするのでありました。だから慮ってみると、一日中、面白く思っていないヤツの監視付きで、大した目途も無く飛び込み営業に歩き回ってほとほと疲れ果てて、その上に帰りの列車の中でも延々と、言葉遣いやらお辞儀の仕方とか、向後の身の置き所とかに関して小言を云われ続けていれば、遂に堪忍袋の緒も切れる限界を迎えたと云うところなのかも知れません。
 何時もなら上の空に聞き流す類の土師尾常務言葉も、急に出雲さんの気持ちの堰に引っかかって仕舞ったのでありましょう。まあ、そのように推察出来るのであります。
「で、列車の中で、出雲さんは土師尾常務にきっぱり歯向かったんですかね?」
 頑治さんは出雲さんの顔を遠慮がちに覗き込むような目付きで聞くのでありました。
「この儘会社に居て給料を貰っていても仕方が無い、とか云う言葉を聞いた時には、カチンと来て迂闊にも土師尾常務の顔を睨み付けましたけど、まあ唐目さんも知っての通り、俺はそんなに気が強い方では無いから、すぐに目を外したっスけどね」
 出雲さんは面目無さそうな笑いを頬に浮かべるのでありました。しかし出雲さんは、背はそんなに高くはないけど体格はがっちりしている方で、土師尾常務の貧相な体格と比較すれば、遥かに押し出しは強そうな印象と云えるでありましょうけれど。
(続)
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あなたのとりこ 416 [あなたのとりこ 14 創作]

 それに確かに、出雲さんは滅多に人に逆らったりしないし、口数も少ないし、何時も円満そうな笑いを頬から絶やさない人であります。がしかし、案外頑固な一面も、自分に対する理不尽さに遭遇したら怒気も見せる意地も持っているし、普段は温厚そうにしていても、怒ったらなかなかに怖い人に変貌するタイプに違いないと頑治さんは前から見做しているのではありました。腕っ節も、揮ったらそこそこ強そうでもありますし。
「それに前に、・・・」
 出雲さんは続けるのでありました。「唐目さんから酒の席か何かで、土師尾常務と片久那制作部長は俺と日比課長と云う二番手を辞めさせたがっているんじゃないか、とかそんな話しを聞いたのを、家に帰ってからふと思い出したんですよ。そうしたらここで自分が会社を辞めるのが、まあ、間違いのない選択かなと、そんな風に思ったんです」
 そう云えば確かにそんな観測を披露した事があったと頑治さんは思うのでありました。しかしそれは均目さんと那間裕子女史の二人にであって、後日均目さんが皆で飲んだ時にその事を皆に開陳したのではありませんでしたっけ。まあ、頑治さんの観測でありますから、頑治さんがそう云ったと云われても仕方無いかも知れませんけれど、今思うとうっかりした事を思慮も無く無邪気にものしたものだと頑治さんは悔やむのでありました。
「しかしそう云う経営側の目論見を阻止する目的もあって、組合を創ったんだし」
 袁満さんが少し説得口調で喋り始めるのでありました。「経営側の身勝手な思惑に振り回されないための組合と云う事なら、ここは出雲君も軽々に会社を辞めると云う結論を導き出さないで、もう少し我慢と云うのか、頑張っても良いんじゃないのかな」
「それはそうかも知れないけど、・・・」
 出雲さんは俯くのでありました。それは袁満さんに慰留されて退職届を出す事に悩みが生じたと云う俯き方ではなく、決意を翻す気は無いけれど袁満さんの顔も潰したくはないと云う、そちら方面に対する憚りと気遣いのためのようでありました。ま、出雲さんは辞意を撤回する気は毛頭無いと、頑治さんはその俯き方から察するのでありました。
 何となく会話がここで滞るのでありました。重苦しい空気がテーブルの上に三つ載った飲みかけの白いコーヒーカップの周りに泥むのでありました。
「会社を辞めると云う決心は、どうしても変わらないのかねえ」
 袁満さんが先ず、重苦しさに堪え兼ねたようにそう呟くのでありましたし、それはもう説得を諦めたような云い草にも聞こえるのでありました。
「どうも済みません。突然勝手な事を云い出して」
 出雲さんは袁満さんに向かって深く頭を下げるのでありました。
「まあ、会社を辞めようと決心する直接の引き金は、今度の土師尾常務と一緒に行った水戸での営業だったかも知れないけど、屹度出雲君の中では、会社そのものや会社の将来、それに多分俺達同僚に対する愛想尽かしなんかも屹度あったんだろうしなあ」
 袁満さんはしみじみとそう呟くのでありました。
「いやあ、皆さんに対する恨み言は何も無いですよ、本当に。寧ろ今迄こんなちゃらんぽらんな俺に対して、親切にしていただいて感謝しているくらいです」
(続)
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あなたのとりこ 417 [あなたのとりこ 14 創作]

 とは云うものの、袁満さんの呟いた事も満更当たっていない事も無いと頑治さんは考えるのでありました。何となく昨年の暮れからここまで、陰鬱とか不安とか不信とか憤怒とか落胆とか、そんなネガティブな感情ばかりが会社での諸事に纏わり付いていたような気もするのでありました。勿論それとは反対の好もしき感情も全く無い事もなかったでありましょうが、概観すると矢張り気の滅入る事の方が多かったような印象であります。
 出雲さんはそう云うあんまり心躍らない感情の波間に、自ら好んでと云う訳ではなく浮かんでいる内に諸事に愛想尽かししていた訳で、今次の土師尾常務と一緒の水戸での営業活動が会社を辞す決断の決定打となったのでありましょう。だから早々にこの場から遁走を図って、次の全く新たな展開に期するところ大なるものがあるでありましょう。出雲さんのこれから先の方便の道は、結局出雲さんだけが決定出来るものでありますし。
「あーあ、俺ももう辞めたいよ」
 袁満さんが少し捨て鉢な口調で愚痴るのでありました。しかしその愚痴にはリアリティーが然程無いと頑治さんは感じるのでありました。どんなに多く見積もっても四分程度の願望で、残り六分は辞める気は無いと云う事でありましょうか。
 そんな袁満さんの心根も然る事ながら、この言葉は出雲さんの辞意に対して、それを確定的に認める事を表明したと云う風にも捉えられるでありますか。つまり袁満さんは説得を諦めたと云う態であります。まあ、袁満さんが認めようが認めまいが、この件に関しては畢竟、出雲さんだけにしか最終的決定権は無いのでありますけれど。
「すみませんねえ、本当に」
 出雲さんはまた訪れた暫しの重苦しい沈黙の時間を破るようにそう云って、再び袁満さんと頑治さんに向かって深くお辞儀するのでありました。
「いやまあ、仕様が無い事ですよ」
 もう袁満さんは意を表したと云う事になるでしょうから、これは頑治さんが説得を放棄すると表する科白と云う事になるのでありあした。

 出雲さんが一足早く席を立つのでありました。喫茶店に残された袁満さんと頑治さんは隣り合って座った儘、冷めたコーヒーをしめやかに口に運ぶのでありました。
「これで組合員は、五人、と云う事になるのか」
 袁満さんが寂しそうに云うのでありました。「この春に旗揚げして、あたふたしながらやっと春闘を一度経験しただけと云うのに、もう二人も組合員が減った訳だ」
 出雲さんは兎も角、恐らく袁満さんの計算には組合旗揚げ前に会社を辞めた山尾主任が入っているのでありましょうが、それは計上すべき人数かどうか頑治さんは少し迷うのでありました。まあ、だからと云って敢えてその事を云いはしないのでありますけれど。
「でも甲斐さんが新たに入ったじゃないですか」
「それはそうだけど、若し甲斐さんが入らなければ四人の組合と云う事になっていて、これじゃあ経営三人に対してあんまり体裁がよろしくないし、迫力が無いよなあ」
「いや、人数だけが組合の拠り所と云う訳ではないでしょうけれど」
(続)
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あなたのとりこ 418 [あなたのとりこ 14 創作]

「でも、今の組合員は誰も、組合活動に対してそれ程積極的でもないし」
 袁満さんはやや上目で頑治さんの方をチラと見るのでありました。何となく自分が組合活動に熱心でない事をやんわり批判されているような気がして、頑治さんは少し申し訳無いような、面目無いような気分になるのでありました。
「そう云われると恥じ入るしかありませんが。・・・」
[それに急進的な左翼的信念でグイグイ組合をリードするような人材も居ないし」
「まあ確かにそうですけど、でも寧ろその方が組合の中に於いても対外的にも、妙な軋轢やらいざこざが発生しなくて、好都合と云えば好都合なんじゃないですか」
「しかし経営と対峙する時に、何となく弱いよなあ」
「急進的左翼となると片久那制作部長の顔が思い浮かびますが、それなら、もう今となっては無い話しですが、若し片久那制作部長が役員になる前に組合に入る事になったとしたら、それこそ我々を置いてけ堀にしてもグイグイとリードして行って、全総連の方針なんかとも無関係に、組合をドンドン闘争的な組織にして仕舞うかもしれませんよ」
「ああそうだなあ。そうなるとちょっと付いていけないかなあ」
 袁満さんは尻込みするように席の背凭れに身を引くのでありました。まあ、片久那制作部長も今では家庭もあるし年齢も重ねているし、全共闘時代のようにそうそう過激な熱意は多分無いでありましょうけれど。でもなかなかに頑迷ですから、経営と対峙する局面では、他の組合員がちょっと引いてしまうくらいに闘争的にはなるかも知れません。
「ところで袁満さんとしては出雲さんの辞意を容認すると云う事で良いんですね?」
 頑治さんは出雲さんの件に話題を戻すのでありました。
「まあ、仕方ないだろうなあ。出来るものなら俺だって辞めたいくらいなんだから」
 袁満さんは一種の弱気を吐露するのでありました。「辞めたいと云うのを無理に引き留めるような権利は俺達には無いもの。組合の都合で、辞めるなとは云えない」
「それはその通りです」
 袁満さんはそうは云うものの、狎れ親しんだ同僚と云うのか、同じ営業部の弟分に身近を離れられる事に気の毒になるくらい寂しそうな佇まいを見せているのでありました。その袁満さんの姿から目立たぬように視線を離して、頑治さんは俯いて腕時計にそれとなく目を遣るのでありました。ぼちぼちこのしめやかな場を切り上げて、夕美さんと待ち合わせている池袋駅東口の西武百貨店正面玄関に向かった方が良い時間であります。
「ああ、一時間くらいしか居られなかったんだよね、唐目君は」
 袁満さんは頑治さんのそわそわしているような風情に気付いたようでありました。
「ああ、ええ、まあ。・・・」
 頑治さんが妙に言葉を濁すのは、何となくがっかりしている傷心の袁満さんを残してこの場を去る事が、如何にも不人情な振る舞いのように思われるからでありました。
「じゃあ、俺もぼちぼち帰るかな」
 袁満さんが立ち上がるのでありました。まあ、頑治さんは勿論断然夕美さんの方が優先でありますから、ここはグッと無愛想の振る舞いに徹するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 419 [あなたのとりこ 14 創作]

「忙しいのに態々呼び出したようで悪かったなあ」
 袁満さんがレジまで一緒に歩く間に云うのでありました。
「いや、そんな事はありませんけど」
 頑治さんはそう云いながらも、申し訳無さ解消に頑治さんのコーヒー代を持ってくれると云う袁満さんの申し出を、大いに遠慮を見せながらも結局断らないのでありました。
 喫茶店を出た後、そこですぐに袁満さんと別れた頑治さんは池袋駅東口の西武百貨店に歩を向けるのでありました。夕美さんとの待ち合わせ時間迄には未だ余裕があるのでありました。気が急いていたとは云え、喫茶店での滞在は思っていたより短時間で済んだのでありました。とは云っても、優に一時間は過ぎてはいましたけれど。

 西武百貨店の正面玄関脇に夕美さんはもう来ているのでありました。頑治さんはすぐに遠目ながらも行き交う人波の向こうに立つ夕美さんの姿を見付けるのでありました。
 頑治さんは手を挙げて夕美さんの目に自分をアピールしながら近付いて行くと、夕美さんもすぐに頑治さんを見付けて破顔して手を振り返すのでありました。
「かなり待ったかな?」
「ううん、今さっき来たところ」
 夕美さんは俯いて自分の左手の腕時計を覗くのでありました。「意外に早く済んだみたいね。ひょっとしたら深刻な話しだから長引くんじゃないかって思っていたけど」
 夕美さんは一旦左手を下ろしてから、頑治さんの右手を改めて握るのでありました。
「いやまあ、成るべく早切り上げを秘かに心掛けて、こちらから根掘り葉掘り訊き質す事は控えたからね。ま、人の決心は変えられないだろうし」
「会社を辞める気持ちは固そうだったの、その人?」
「まあそうだね。それに関して他の者が容喙出来そうな感じは無かったかな。まあ、今後の事は総て連休明けに、と云う事になるかなあ」
「ふうん。なんだか色んな懸念が次から次に発生するわね、頑ちゃんの会社」
「そう云えばそうだなあ」
 頑治さんはやれやれ云った風に、顔をゆっくり低振幅で横に何度か動かして見せるのでありました。「でも取り敢えず夕美がこっちに居る間は、もう何も無いと思うけど」
「そうなら良いけどね」
 夕美さんは少し不安そうに眉根を寄せるのでありました。
「じゃあ、サンシャイン水族館に向かおうか」
 頑治さんは気分を変えるように夕美さんと繋いだ手を一振り動かすのでありました。
「あたしもそうだけど、頑ちゃんも初めて行くんでしょう。行き道は判るの?」
「前に仕事でこの辺に納品にも来た事があるから、朧気には判っているよ」
「ああそう。それにまあ、頑ちゃんの会社は地図も扱っているようだから、その社員たる者が道に迷ったりすると会社の信用に関わるわよね」
「それはあんまり、この際関係が無いような気がするけど」
(続)
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あなたのとりこ 420 [あなたのとりこ 14 創作]

 頑治さんは夕美さんの冗談を何時になく案外真面目にあしらうのでありました。
「考えてみれば水族館なんて行くのはどのくらい振りかしら」
 夕美さんは結構嬉しそうな風情でありました。「ずっと前だったか、頑ちゃんと上野動物園には行った事があるわよね、確か」
「まあ、上野は云ってみれば俺のアパートからの散歩コースの一つだから、上野公園迄は良く歩くし、その流れで動物園にも夕美と一緒に何度か入った事があるよなあ。でも水族館は東京に出て来てから一度も入った記憶がないかな」
「あたしは前に江の島の水族館に行った事があるわ」
「ふうん。俺以外の男とデートで、かい?」
 頑治さんは冗談めかしてそう訊ねるのでありました。
「そんなんじゃなくて、前にお父さんとお母さんが東京に出て来た時に、観光ではとバスに乗って、あたしも一緒に来いと云うんでそれにお付き合いしたのよ」
「そう云えば、お母さんの様子はどうなんだい?」
 頑治さんは急に話題を変えるのでありました。
「あんまり良くないかな。もうすぐ手術だけど」
「病院に入院しているんじゃないの?」
「手術までは家に居るわ。手術の一週間前に入院と云う手筈になっているの」
「ふうん、そうか。・・・」
 頑治さんは少ししめやかな顔になるのでありました。「手術が上手くいって、経過もずうっと順調で、その儘前のように元気になってくれるといいね」
「まあ、そうだけどね」
 夕美さんは頑治さんの顔を見て笑むのでありましたが、その笑みは頑治さんの心配への感謝と云うだけで、その冴えない表情からお母さんの容体はなかなか捗々しくはないのだろうと想像するのでありました。夕美さんも色々大変そうであります。
 サンシャイン水族館見学の後、頑治さんと夕美さんは高層ビルからの夜景を楽しみながら都内では結構名前の通った懐石料理店の出店で、頑治さんにすれば大いに豪勢な食事を楽しむのでありました。その日の昼に夕美さんには不如意に時間を潰させて仕舞ったと云う思いがある手前、頑治さんがそこは奮発して奢る心算でありました。
「先の話だけど、今度こっちに来るのは夏休みと思っていたんだけど、仕事の関係でその前にもう一度、多分六月の終わり頃に出て来る事になりそうよ」
 夕美さんが水菓子のレモンのシャーベットを口に運びながら云うのでありました。
「へえ、じゃあまた二か月もしない内に逢える訳だ」
「そうね。その後は夏休みもあるから、当面ちょくちょく逢える事になるわね」
「夕美ばかりがこっちに出て来るのは交通費とかが大変だろうから、夏休みは俺が向こうに行こうかな。考えていればもう何年も帰っていないし」
「それは良いわね」
 夕美さんが目を輝かせて乗り気を見せるのでありました。
(続)
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