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あなたのとりこ 411 [あなたのとりこ 14 創作]

「今出雲君から、会社を辞めたいと云う電話があったんだ」
「会社を辞めたい?」
「休み明けに退職願いを出す心算のようだよ」
 頑治さんは唸るのでありました。しかしこれは実のところ、全くの青天の霹靂とか驚天動地の情報と云うものでもなく、前から何時かはこの様な話しを聞く事があるかも知れないと云う思いは抱いていたから、一応袁満さんへの儀礼的反応として唸りはしたものの、その割には結構冷静にこの話しそのものは受け止められるのでありました。
 頑治さんが困じたような唸り声をあげたものだから、夕美さんがワインを飲む手を止めて不安そうな目を向けるのでありました。しかし声の深刻さの割に頑治さんの表情が、どちらかと云うと気持ちの激しい波立ちを感じさせない無表情に近いものだったから、この唸り声は電話を掛けてきた相手への一種のサービスであろうすぐに理解したようでありました。夕美さんは頑治さんを見る目の力を緩めて一口ワインを飲むのでありました。
「今日の水戸行きで何かあったんでしょうかね?」
 頑治さんは少し動揺して見せるような物腰で訊くのでありました。
「土師尾常務と一緒に今日一日行動して、相当参ったんじゃないかな」
 袁満さんは陰鬱な声で返すのでありました。「例に依って箸の上げ下ろしまで逐一難癖をつけるような事を一日中されて、我慢の限界に達したんだと思うよ。出雲君はさっきの電話ではあんまり詳しくは云わなかったけど、そうに決まっている」
「電話で袁満さんに詳しい経緯を語らなかったんですか?」
「そうね。もう辞めるとなったら今更ごちゃごちゃ云うのが面倒になったのかな」
 確かに出雲さんは何に依らずあっさりしたところがあって、決断に至るまでは様々憤慨したり恐怖したりしても、一端決断するとその過程にあった様々な感情を引き出しから無造作に取り出して、さらっと遺棄して仕舞うようなところがありましたか。これを潔さと見るか、自棄っぱちの思考放棄と見るかは何とも云えないところではありますが。
「出雲さんの決意は固そうですかね?」
「電話の声からはそう云う風に感じたけど」
「袁満さんとしては一応慰留したんですか?」
「もう少しじっくり考えたり、色んな人に相談してから、改めて冷静になって会社を辞めるかそれとも留まるか、決めた方が良いんじゃないかとは云ったけど、・・・」
「で、その袁満さんの意見に対して、出雲さんはどんな反応でした?」
「もうしっかり決断しているためか、素っ気無くて上の空と云う感じだったかな」
 確かに兆候はあったと云うべきで、会社を辞めようかしらと云う一種の願望はかなり前から、態度をはっきりさせる機会がこれ迄偶々無かっただけで、出雲さんの頭の中に埋み火のようにずっとあり続けていたのでありましょう。だからこの土師尾常務と一緒の日帰りの小旅行に依って、きっぱりと踏ん切りが付いたと云うところでありましょうか。
「もうここに至っては、出雲さんの決心は固いと云うところですかねえ」
「俺はそう云う風に感じたけど」
(続)
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