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あなたのとりこ 404 [あなたのとりこ 14 創作]

「ああそう」
「御茶ノ水駅に帰り着くのは十時を過ぎちゃうかもね」
 これはやんわりと夕美さんが、頑治さんが態々御茶ノ水駅に迎えに来てくれるのを遠慮しようとして発した言葉のようにも聞こえるのでありました。
「今日は疲れたかい?」
「ううん、別に疲れてはいないけど」
「だったら折角待っていたんだから、一応御茶ノ水駅に逢いには行くよ」
「面倒臭いんじゃない?」
「別に俺としては億劫でも何でもないけどね」
「でもそれは何となく悪いわね。これから逢ったとしても、精々ちょっとの時間、喫茶店か何処かでお喋りするくらいしか出来ないんじゃないかしら」
「それでも構わないよ。俺としては一応夕美の顔を見て今日を終わりたいから」
 その頑治さんの言葉を聞いて夕美さんがほんの少し黙るのは、然程大袈裟なところではないにしろ、ちょろっと感動したためかも知れないと頑治さんは手前味噌に推察するのでありました。しかし夕美さんの感動を喚起する魂胆で頑治さんはそんな事を巧んで云ったのではなく、これは頑治さんの素直な思い以外ではないのでありましたけれど。
「じゃあ、御茶ノ水駅に着いたら、その儘頑ちゃんのアパートに行こうかしら」
「いや、そうしたら多分、その儘ずるずる、結局俺の家に泊まる事になるんじゃないかな。それは拙いだろう。夕美は明日も朝から大学で仕事だろうから。だったらお茶の水で逢って、その後はちゃんと夕美の泊まるべきホテルに帰る方が無難じゃないかな」
「まあそれはそうだけど。・・・」
 夕美さんは今度は感動ではなく落胆からまた少し黙るのでありました。と、頑治さんは受話器の向こうの夕美さんの心情を、前と同じく手前味噌に推し量るのでありました。
「じゃあ、まあ、取り敢えず御茶ノ水駅の改札辺りで待っているよ。」
 頑治さんはそう云って電話を切るのでありました。
 その日はそんな束の間の逢瀬で我慢するとしても、明日も明後日も夕方以降は一緒に居られるし、その後五月三日からは夕美さんは頑治さんのアパートで、東京滞在の残り三日間を頑治さんと一緒に過ごすのであります。今日の我慢は、云ってみれば明日以降に訪れる歓喜の濃度をいや増すための、一種の演出だと心得れば良いのでありますか。
 頑治さんはそんな事を考えるともなく考えながら出掛けるために玄関で靴を履くのでありました。アパートの扉を開けると、ほんの少し夏の匂いの雑じった夜風を頬に受けるのでありました。頑治さんは足取り軽く御茶ノ水駅に向かうのでありました。

 五月一日はメーデーで従業員は日比課長を除いて全員有給休暇を取るのでありました。年次有給休暇とは別にメーデーは特別の休暇とするように先の団交で要求したのでありましたが、それは叶わないのでありました。まあどうせ、毎年有給休暇を使い果たせないのが恒でありましたから、組合員全員この要求に然程の拘りはないのでありました。
(続)
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