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あなたのとりこ 399 [あなたのとりこ 14 創作]

「まあ、それは仕方が無いか」
 頑治さんは少し落胆の表情をして見せるのでありました。
 と云う事で、二人はその儘駅構内の通路を歩いて中央線のホームに移動するのでありました。もう夕方に近い時間になっていたから通路は急ぎ足に行き交う人で非常に混み合っていて、夫々が一つずつ下げた夕美さんの持ってきた大きな旅行カバンが、二人横に並んでのスムーズな足の運びを苛立たしく邪魔するのでありました。

 御茶ノ水駅で電車を降りて改札を抜けると、夕美さんはこの地を去ってから然して長い時間が経過していたと云う訳でもないのに、斜陽にやや赤みを増した駅前の交差点の雑踏に懐かしそうに目を細めるのでありました。もう自分はこの地の人間ではないと云う思い做しが、前に見慣れたこの光景への懐かしさをいや増すのでありましょうか。
 二人は大学の裏手にある、今宵夕美さんが泊まるビジネスホテルの方に向かって、矢張り手に下げた荷を持て余しながら坂をダラダラと下るのでありました。
 夕美さんがホテルのチェックイン手続きを終えるまで、頑治さんは然して広くもないロビーの片隅で床に置いた二つの荷を守りながら待つのでありました。手続きを終えて受け取った部屋のキーを、別に大した意味は無いのでありましょうが、見せびらかすような仕草をしながら近寄って来る夕美さんを待って、頑治さんもエレベーターに一緒に乗り込んで夕美さんの部屋に向かうのは、荷物運びの役を最後まで全うするためであります。
 ホテルのフロント係も宿泊者でもない頑治さんの行動を注意する事も無いばかりか、一瞥も呉れず別に何の関心も寄せないような態度であるのは、まあ、ホテルの仕来たりからすれば大らかと云えば実に大らかな様子と云えるでありましょうか。単に自分の仕事に熱心でないか、或いは至ってものぐさな性質だと云うだけかも知れませんが。
 一旦部屋に荷物を運び終えた後、頑治さんと夕美さんはすぐにまたエレベーターで下に降りるのでありました。夕美さんが部屋のキーをフロントに預ける間、頑治さんはまたロビーの片隅で今度は手ぶらで待っているのでありました。この後、少し早いけれどどこか近くの飲食店で夕食を一緒にしようと云う算段であります。
「何か食いたいものはあるかな?」
 頑治さんが訊くと夕美さんは少し首を傾げるのでありました。特段今宵の夕食として口にすべき特定のものは無いと云ったところでありましょうか。
「未だ夕食の時間にはちょっと早いから、あんまりお腹も減っていないわね」
「それもそうだなあ」
 頑治さんは首を一つ縦に動かすのでありました。「じゃあ、懐かしいこの街の近辺を、久し振りで少しの間ブラブラ散歩と洒落込もうか?」
「懐かしいと云ってもそんなに久し振りと云う訳でもないけどね」
 さっき御茶ノ水駅に降り立って駅前の交差点の光景を眺め遣っていた夕美さんのその目に思いを遣って、頑治さんはふと思い付いて散歩を提案したのでありましたが、その割には夕美さんの意外にすげない返事でありましたか。
(続)
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