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大きな栗の木の下で 74 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 あたし、なんか苛々してきてそう云ったんだけど、それはまるで詰問口調になっていたと思うのね。あたしどうしてだか、急に苛々してきたの。
「そうだったかな」
 矢岳君は持って行こうとしていたデモの入ったカセットテープを弄びながら云うの。「前に話しておいたとばっかり思っていたけど。それに、想像もつくだろうし」
「そんなこと、聞いてなんかいないって云っているじゃない」
 あたし段々腹が立ってきて、語気がきつくなるのが自分で判ったわ。それは単にその時の矢岳君のもの云いに腹が立ったんじゃなくて、今までの矢岳君への不信感って云うのか、赤ちゃんに対しての無責任さって云うのか、そんなことに対する腹立ちが急にあたしの中に溢れてきたからなのよ。
「いや、だからさ」
 矢岳君があたしの態度に少し対抗するように語調を変えるの。「今度のレコードは、本当に俺達にとって正念場になるんだ。だからグループの三人共事務所の一室に寝泊まりして、歌詞や曲の修正とか細部の編曲とか、それに勿論曲を完全なものにする猛練習とかにずっと打ちこんでいるんだよ、三人で他の大概のことは犠牲にしてでもって申しあわせてさ。もう、レコーディングまで間がないから、今がピークなんだ」
「さっきも聞いたけど、だからってあたしに一本の電話も入れられないわけ?」
「俺は今、曲のことで頭が一杯なんだ」
 矢岳君はうんざりしたようにそう云って、それから無愛想にあたしから目を背けたわ。
「つまりあたしのことも赤ちゃんのことも、その犠牲にする大概の事の中に入るわけね」
「おい、そんな判らないこと云うなよ。正念場なんだから、俺は今、今度の曲のことで頭の中が一杯だって云っているだろう。他のことで俺を煩わせないでくれよ」
「あたしと矢岳君のことだって、今が正念場よ」
 あたしがそう云うと矢岳君は眉根を寄せて、あたしから少し顔を遠ざけたわ。
「要するに、俺が一言云わなかったから、そんなにムクれているわけだな。確かに一言って云うか、始めに事情をしっかり説明しなかったのは俺が悪いのかも知れないけど、でも、俺としては云った積りだったんだけどな、本当に」
「だから、聞いてないって、何度も云っているじゃない」
 あたし矢岳君の繰り返す弁解が、その時本当に頭にきたの。
 あたしさ、本当に矢岳君からそんなこと何も聞いていなかったのよ、一言も。ひょっとしたら矢岳君としては、なにかの折りに、事の序でみたいな感じでそれらしいこと云ったのかも知れないけど、そうだとしても、それじゃあ矢張りダメでしょう。ずっと家を空けるから、適当にやってくれなんて、そんな軽く云われたとしても、前とは違って赤ちゃんもいるんだし、あたしがはいそうですかって、あっさり頷けるわけはないでしょう。
 自分の逼迫した状況や、今度のレコードが矢岳君にとって本当に正念場になるってこと、だから申しわけないけど家の事や赤ちゃんの事は宜しく頼むって、予めそんな風にちゃんと相談してくれれば、あたしだって多分納得はしたわ。でも、そうじゃないんだもの。
(続)
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