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大きな栗の木の下で 80 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 要するにあたし、矢岳君との仲を修復しようとなにもしなかったことになるのよね。あたし、もうすっかり諦めていたのかしら。そうでもなかったと思うんだけどね。でも、なにもあたしから積極的に動かなかったのは事実だし、そこを責められるとあたし俯くしかないんだけど。
 で、幾ら積極的に動かないと云っても、幾らただ待っている態度だけだと云っても、何時までも音信不通の儘にして置くわけにもいかない気がしたから、あたしの方から一度、事務所の方に電話を入れてみたことがあったの。そうしたら、矢岳君、事務所を辞めていたのよ。まあ、専属契約と云うだけで、事務所に就職していたわけじゃなかったから、辞めると云っても、単に専属契約を打ち切るってことなんだけどね。
 矢岳君が事務所から貰えるはずになっていたお金も、もう随分、ちっとも家に入れなくなっていたから少しは変だとは思っていたの。まあ、お金に関してはあたし実家から仕送りみたいなことして貰っていたし、困り果てるなんてことがなかったから、それは不実だとは感じたけど、そんなに不安で堪らないわけじゃなかったのよ。始めから、あたしの気持ちの中では、あんまり当てにしていたんでもなかったしね。
 でも、矢岳君が事務所を辞めていたと云うのには、驚いたわ。だから、矢岳君の行方はもうすっかり判らないわけ。辞めた後は、事務所には連絡なんかないって云うんでさ。二枚目のレコードの話と云うのも、そう云う話は出てはいたけど、でも決定したと云うことではなかったらしいのよ、実際は。具体的には未だなにも決まってはいなかったわけ。
 あたしすごく混乱したわ。でも、相変わらずその電話の後も、あたしはなにもしないのよ。ただ矢岳君が電話して来るとか、あたしの前に姿を現すとか、ひょっとしたらもうないのかも知れない、なにかしらの展開が起こるのを全くの受け身の儘に待っているだけ。日々の赤ちゃんの世話にかまけてさ。あたし、何を考えていたんだろうね、その時。
 ま、つまり要するに、なにも考えていなかったんだけどね。ううん、考えようとしなかったと云うのが当たっているのかな。考えることが、多分すごく怖かったのよね。馬鹿で間抜けで鈍感でいると、気持ちに波風が立たないし、とんでもない恐怖に襲われることもないってさ、はっきりじゃないけどそう思っていたの。
 母とか兄嫁からは結構頻繁に電話は入っていたの。あたしはあたしが置かれている状況を、何時までも二人には何も話さなかったの。でも、いくらあたしが無難な受け答えばかりしている積りでも、結局なんとなく雰囲気で判って仕舞うようでさ、先ず兄嫁にあたしがなんか変だって気づかれて仕舞ったわけ。
 兄嫁に問い詰められる儘、あたしはその時のあたしの状況を訥々って感じで話したわ。兄嫁の驚きようと云ったらなかったわ。あたしは兄嫁にそんなに驚かれたことに、あたし自身の妙にクールな気持ちの外観とは違ったものを感じたりしたの。それから、兄嫁から実家の母に連絡が行って、父も知って、それから大変な騒動ってことになったの。
 母がすぐに東京まで出て来て、すぐ後に父までやって来たのよ。母はあたしの姿を見た途端、オロオロと泣くの。父はあたしがなにも知らせなかったことを、すごい剣幕で詰ったわ。あたしはその時は、なんとなく二人の姿が大袈裟過ぎるように感じていただけ。
(続)
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