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大きな栗の木の下で 68 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 海からの風がまた御船さんと沙代子さんの前髪を乱すのでありました。
「案外肝が太いのかも知れないな、その矢岳と云う男は」
 御船さんが前髪を掻き上げながら云うのでありました。
「お父さんの借金や会社の整理に関しての累は、幸いにも矢岳君自身にはなにも及ばなかったみたい。だから一人暮らしを始めて暫くは、矢岳君が云うには格段に快適だったんだって。どれだけ本当かは知れないけど」
「まあ確かに、気儘だよな一人暮らしは。俺も大学を出てこっちに帰って来て、また高校生の頃と同じに親と暮らし始めたら、色々な面で随分窮屈に感じたもの。そりゃあ、食事や洗濯や掃除とか、そんな細々とした生活上の面倒さからは解放されたけどさ」
「でも、矢岳君は自分は計画性がないからなんて云っていたけど、つまりお父さんから貰った生活費は、気儘な生活を続けていたらあっと云う間に尽きちゃって、それからはすっとアルバイト三昧と、それに余った時間に音楽と偶に大学の勉強なんて云う生活になっちゃったんだって」
「まあ、それでも大学は卒業出来たんだから、つまり学費の方には感心にも手をつけなかったわけだ。計画性がないんじゃなくて、実は根は手堅い性質の男なのかもしれないな」
「まあ、それでも矢岳君ひどく苦労をしたみたい、それから後は色々と」
 沙代子さんが云うのでありました。
「お父さんとの交信は、大学を卒業する時になっても、途絶えたような儘だったのか?」
 御船さんが聞くのでありました。
「多分、そうなんでしょうね、あたしを紹介するためにお父さんやお母さんの処に連れて行ってはくれなかったわけだからね、矢岳君は」
「ふうん。・・・」
 御船さんはそう云って頷くのでありました。
 一際強い風が吹き上がって来て、頭上の葉群れが盛んに騒ぎ立てるのでありました。その騒ぎに公園全体の木々が呼応して、辺り一面が騒然となるのでありました。これではとても、普通の声では会話が出来ないような具合なのでありました。だから御船さんと沙代子さんはその騒ぎが収まるまでの間、口を噤んでいるのでありました。
「・・・で、だから、矢岳君は、つまりアパートに帰ることを、避けるようになったの」
 騒ぎが去ってから、沙代子さんが静かに話を元のところに戻すのでありました。

 <つまりあたしと赤ちゃんが居るアパートの中に、矢岳君は自分の居場所がないように感じたんだと思うのよ。だからそこは、自分が安らぐべき場所ではないってさ。だから、帰ってくる気が突然、失せたの。
 そうよね。随分勝手よね、そんなの。でもあたしは実はあんまり腹も立たなかったのよ。腹を立てないあたしもあたしよね、全く。でもあたし、なんか矢岳君の思いみたいなものが、それはそれで了解は出来たから、だから取り乱したりしなかったの。矢鱈に悲しくはあったけどさ。勝手に涙がポロポロ零れてきたけどさ。
(続)
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