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大きな栗の木の下で 67 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 沙代子さんは顔を上に向けて古木の下枝の暗がりを見上げるのでありました。
「矢岳君のお父さんは横浜の方で、輸入食材を扱う商社を経営していたの。お父さんはかなりの遣り手で、事業は順調に推移していたんだって。矢岳君は相当裕福な家庭に生まれたのよ。それが、矢岳君が大学一年生の頃、本業以外の株で大きな欠損を出して、それを契機に、本業の業績まで急激に悪化して仕舞ったんだって」
 沙代子さんはそこまで云って顔を元へ戻すのでありました。「お父さんは会社を立て直そうとして色んなところに借金を作って、結局それがどんどん膨らんでいって、二進も三進もいかない状態に陥ったんだって。で、会社は倒産して、借金だけが残って、お父さんは逃げるように矢岳君のお母さんの実家のある新潟の方に、一先ず身を隠したの」
「ふうん。・・・」
 御船さんはそう云って沙代子さんの横顔を見るのでありました。沙代子さんの顔にはなんの表情も浮かんではいないのでありました。
「そう云う経緯があって、矢岳君はお父さんやお母さんと別れて、大学の近くで一人暮らしを始めたの。お父さんはその時、矢岳君に大学を卒業するまでの学費と、それからかなりの生活費をくれたのよ。借金塗れのくせにそう云うお金はちゃんと工面出来るんだって、矢岳君はちょっと不思議な気がしたんだって。でも、それは親として最大限子供に煩いをかけまいとしてのことで、お父さんもかなり無理をしてこさえたお金だったんだろうって、そんなこと矢岳君は云っていたわ」
「そんな風な話は、まあ、聞かないこともないか。それが世間でよくある話だとは、云えないかも知れないけど」
 御船さんは抑揚を抑えた云い方でそう沙代子さんの話に相槌を入れるのでありました。
「色々面倒なことも起こると思うから、新潟の方にはお父さんの方から指示が出るまで、来ないようになんて云われたらしいわよ、矢岳君。お父さんが落ち着いて、生活の目途が立ったら、その時は連絡を入れるからそれから逢いに来いって、それはまるで今生の別れの言葉みたいな感じだったんだって」
「兄弟はいなかったのか、その矢岳と云う男には?」
 御船さんが聞くのでありました。
「五歳年上のお姉さんが一人居るんだけど、高校を出た後はカナダの大学に留学して、大学出た後もそっちの方で就職して、生活の拠点はもう日本にはなかったんだって。年に一度、日本には帰ってくるか来ないかって感じだったらしいわ」
「そんな話を聞くと、矢岳と云う男の境遇には、ちょっと同情出来ないこともないか」
 御船さんは顎を摩りながらそう云って、先程沙代子さんが見上げた栗の木の下枝を見上げるのでありました。
「でも矢岳君は、意外にさばさばした気分だったんだって」
 沙代子さんが云うのでありました。「それは唯一で最大のパトロンを失ったのは衝撃で、途轍もなくこの先が不安だったけど、でも、お父さんから貰った学費と生活費があったから、一方で一人暮らしが出来ることに、呑気な解放感みたいなものもあったんだってさ」
(続)
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