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大きな栗の木の下で 65 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 自分は未だフォークシンガーとして大成とは云わないまでも、地歩も固めてもいないと云うのに、そんな折りに、もっともっと先に予定していた筈の自分の子供が誕生するなんて云う事態は、俄かには容認できない事柄だったのよ。それは、自分に充分な気持ちのゆとりが出来てから発生するべきことであったの。
 勿論ひどく楽観的で、確実な根拠も見通しもない、矢岳君の自信だけから描き出された勝手な将来の見取り図には違いないんだけど、でも矢岳君にすれば見取り図通りの順調な推移の果てに、輝かしいフォークシンガーとしての未来が、全くの既定事実として思い描かれていたはずなの。その輝かしい未来、まあそこまでいかなくとも、輝き始めた将来に自分の子供がこの世に誕生するのならば、矢岳君は間違いなく良い父親になる筈の人なのよね。自分の予見が裏切られないで、その線に則って事態が推移する限りにおいてはね。
 でもその見取り図が、少し歪んだって云うのか、考えようによってはやや停滞しているって云うのか、まあ、そういう時期に突発した、将来のことである筈の自分の子供の誕生って云うのは、矢岳君にとっては、それは上手く許容出来ないことだったの。つまり赤ちゃんが誕生したってこと自体も矢張り、破綻の一つに思えたのよ。
 矢岳君は基本的に聡い人だし、現実主義者の側面もちゃんとあったから、自分の見取り図が自分本位の、勝手な、根拠のない願望であることは自分でも一応判っていたと思うの。でも相当の自信家である側面の方が優位に働き続けたの、見取り図を描き上げる段階では。だからその見取り図は、或る意味ですごくリアルな細部を持っていたし、まるで間違いのない事実のように硬直したものに出来上がっていたの。まあ自分の将来像を描く時って、結構そう云うものよね、多分。良い気になって色々細かく描けない見取り図なんか、逆に魅力も何もないものね。でも、矢岳君はその傾向がちょっと強過ぎたみたい。
 それに矢岳君は大学に入学するまでは、まあ、裕福な家庭に生まれて、自由な気風の家庭で何不自由なく育って、学校の成績も良くて、感受性も豊かで、それに運動も出来て、皆の憧れの存在で、誰からもちやほやもされて、将来を嘱望されて、望むものは強引にでも今まで殆ど手に入れて来たって云う、強い自信もあったと思うの。だからそう云う人がちょっとした破綻や停滞に一端陥ると、驚くくらい脆いだろうなって、なんとなく想像出来るじゃない。つまり矢岳君は、そのタイプなのよね。・・・>

 御船さんは草を摘むのでありました。
「つまり、要は、お坊ちゃん、と云うことかな?」
 御船さんは自分が矢岳と云う男をこう云う風に短絡に評することで、沙代子さんがどのような目で自分を見返すのかを少々心配しながら、その横顔を窺うのでありました。
「そうね。早く云うと、そう云うことになるわね」
 沙代子さんは御船さんの方を見ないで、遠くの海に視線を馳せているのでありました。
「まあ、俺も自分の将来の見取り図は、大いに無責任に、甘々に描く方だな」
 御船さんは続けるのでありました。「俺は屹度大物になるってさ。何の大物になるのかは特にないけど。まあ、そんなぼんやりしているのは、見取り図とは云えないか」
(続)
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