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大きな栗の木の下で 77 [大きな栗の木の下で 3 創作]

「ああ、そうか、無理矢理繋げるとね」
 沙代子さんがそう云って御船さんから少し顔を遠ざけて口の端を上げて笑うのでありました。その仕草は御船さんの戯れ言がまたもや、まわりくどくてややこしくなることを嫌っての仕草のように御船さんには見えるのでありました。

 <奥で寝ていた赤ちゃんが急に泣きだしたの。それを潮に、矢岳君はあたしの追求じみた言葉から逃げるみたいに家を出ていったわ。また今度ゆっくり話そうなんて云って。その時の、あたしから目を逸らせる瞬間に見せた矢岳君の横顔には、あたしの意外に強硬で対抗的な態度に、動揺してたじろいだ色がはっきり表れていたの。
 あたしさ、その矢岳君の困り顔を見ながら、秘かに、ほんのちょっとだけど胸がすっきりしたの。そんなこと今までなかったなって思ったわ。それからあたし、ちょっと落ちこんだの。だってつまりそれって、あたしの中で矢岳君の存在が希薄になったってことの証拠なんでしょうしね。
 あんなにあたしは矢岳君を好きだったはずなのに、今ではそんなでもないんだなって判ったようでさ、少し寂しくなったのよ、そんな自分の変わりようが。でも、仕方ないの。もう、赤ちゃんがいるんだもの。赤ちゃんが、奥であたしを呼んで泣くんだもの。・・・
 その日以来、矢岳君は日に一回は電話を寄越すようになったわ。でも同時に、その日以来帰ってはこなくなったけどね、遂に。一応は矢岳君なりにあたしに気を遣っているんだろうけど、でも電話なんかじゃ、あたしと矢岳君が話さなければならないことなんか、ちっとも話せないじゃない。
 矢岳君としてはあたしと顔をつきあわせて、あたしと赤ちゃんのことで重要でこみ入った話なんかしたくはなかったんだと思うの。だって矢岳君は自分の二枚目のレコードの事で頭が一杯なんだろうって思ったし、取り敢えずそれに全精力を傾注したかっただろうからさ。だから帰ってはこなかったの。多分その代わりの電話なわけ。
 なんか矢岳君のその辺の、あたしに云わせれば卑怯な魂胆みたいなものが透けて見えたから、電話に対するあたしの対応はすごく冷淡だったわ。けんもほろろって感じ。今ふり返るとそんなあたしの対応が、多分矢岳君にもあたしと張りあうような気持ちを持たせたんだろうし、あたしの気持ちが自分から決定的に離れたって、矢岳君にそんな風に判断させたんだと思うの。
 実はさ、ここにきてこんなこと云うのも妙かも知れないけど、あたしさ、そんなでもなかったのよ。矢岳君のことを見下げたりとか、憎んだりとか、それに大嫌いになんてなったりなんか全然してなかったのよ。ただ、薄まったの、矢岳君の影が。
 矢岳君が恍けた顔して戻ってきて、それにあたしと重要でこみ入った話をちっともしようとしないとしても、でも、ちゃんと当然のように毎日家に帰ってきてさえくれれば、もうそれで、別に良かったのよ。一切不問に付すって、そんな高飛車な態度じゃないんだけど、でもそれまでの矢岳君の仕打ちとか経緯とか、あたしの愉快でなかった気持ちとかは括弧に括って、あたしの方も知らん顔して棚上げにしても良かったの。
(続)
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