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大きな栗の木の下で 90 [大きな栗の木の下で 3 創作]

「ま、いずれにしろ、色々あったけど今は、沙代子は矢岳と云う男に対する気持ちも整理出来て、すっかり元気に立ち直っているって理解でいいのかな、さっきの言葉は?」
「そうね、ま、そう云うこと。それだけ云えばよかったのかもね、あたし」
 沙代子さんが海の方へ視線を馳せるのでありました。話しがまたややこしくなるのを恐れて沙代子さんは結論づけるようにそう云うのかも知れませんが、御船さんとしてもこれ以上話しが微に入り細に入ることはなんとなく大儀に思えるものだから、沙代子さんの、話しを引き出しに仕舞うようなこの言葉を歓迎するのでありました。
「今はその矢岳と云う男とは、この街での沙代子の日々の生活とか云う側面では、すっかり縁も所縁もこと切れになっていて、もう関係ない赤の他人と云うことだ」
「そうね。子供の養育とかそんな面では未だ関係が続いているわけだけど、交渉は直接にはもうなにもないわ、今後なにか子供のことで突発的な出来事がない限りね」
「或る意味で、歪でもあるけど、ま、円満に片のついた過去の事、と云う位置づけだな」
 この自分の言葉は補足確認と云うよりは寧ろ、御船さんのあらま欲しきと願う沙代子さんの今の心境、と云うべきものであると御船さんは云いながら思うのでありました。
「そんなに全く円満でもなかったけどね」
「そりゃそうだ。まあ、しかし兎に角、片のついたことだと」
「そうね。一定の片は確かについたことね、あたしの中でも。それに今はもう、あたし確かに落ち着いた日常を取り戻しているしね」
 そうであるのなら、御船さんとしては未だ少々話の細部に不明な点とか疑問なところとかもありはするのでありましたが、しかしもう沙代子さんと矢岳と云う男のこの話は、これにてお仕舞いにすべきことだと思えるのでありました。古木の下枝の葉群れが、その御船さんの考えを肯うようにさわさわと音を立てるのでありました。
「漏れ伝わってくる話によると、矢岳君も今は新潟でお父さんの仕事を手伝いながら、地道に暮らしているみたいだし」
「へえ。音楽とはもうすっかり縁を切ってか?」
「そうみたいよ。でもそう詳しいことはもう判らないし、その後の矢岳君の消息を知る意欲も、あたしにはもうないし」
 沙代子さんはそう云って古木の下枝を見上げるのでありましたが、その視線は葉の密集を通り越して、高い空に浮かぶ一遍の雲を見ているようでありました。その沙代子さんの視線の先にある雲を、古木の梢の葉群れが風に揺れて掻き回すのでありました。
 葉擦れの音が少し小さくなった頃あいで、御船さんは沙代子さんの方に顔を向けて話しかけるのでありました。
「で、どう云う具合だい、沙代子の新規蒔き直しの今の生活は?」
「毎日楽しいよ、子供がいてさ」
「新しい彼氏とかは出来ないのか?」
「そう云うのは全然ないわ」
「もう、男は懲り々々と云うわけかな?」
(続)
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