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大きな栗の木の下で 61 [大きな栗の木の下で 3 創作]

「小さな口なんだけど、子供のくせにきりっとしていて、口の端が少し上に跳ねていて」
 沙代子さんは子供の口元の様子を知らせてくれるのでありました。
「ふうん。それも可愛いらしそうだな」
 御船さんはそう云って、一応愛想をするのでありました。
「そうね。でも、見ようによってはちょっと色っぽい感じがするかも知れないわよ。お父さんの口元みたいにね」
 可愛かろうが色っぽかろうが、その子の父親に似ていると云うところの口元の様子は、御船さんにはどうでも構わないのでありました。沙代子さんの子供なら、沙代子さんだけの特徴を受け継いでいればそれで充分なのであります。矢岳と云う男の面影等、この際一切不要なのであります。ま、そんなことにいくら御船さんが熱り立った所で、遺伝と云う見地からは有り得ないことでもありましょうし、それこそ、御船さんのあらま欲しき思い等、全く以って赤の他人の一顧にも値しないいちゃもん以外ではないのでありましたが。

 <ことあるにつけ実家の母も兄嫁も、頻繁に手紙に添えて色んなものを送ってくれたり、電話もしてくれたり、あたしすごく二人を頼りにしていたの。何かあったら母なんかすっ飛んで来てくれるだろうしね。だからあたし、少し気持ちの余裕みたいなものも出来て、矢岳君と赤ちゃんとそれにあたしの三人の生活が、順調に動き出したんだって思えたの。
 曲がりなりにも矢岳君にはやりたい仕事があって、それは未だ充分な収入はないんだけど、当面事務所からの、ま、前借だけど、月々のお給料みたいな生活費もちゃんと入るし、あたしの実家からの仕送りもあるし、だから、一時的だけど安定感みたいなものも感じることが出来たのよ。後は矢岳君がフォークシンガーとして売れてくれて、あたしの実家との仲が丸く収まればもう、明るい未来に向かって、大方順調ってところ。
 でも、そんな甘い感触なんか、本当に、ほんの一時のことだったわ。良い時期はすぐに終わって仕舞うし、悪い時は良い時期のすぐ後ろで、少しでも早く前に出ようと、フライングするランナーみたいに、勢いこんで待っているものよね。ああ、こんな例えは如何にも陳腐かしらね。それと、悪い時期は良い時期よりもうんとうんと長いし。
 と云うのはね、矢岳君の様子がね、前に比べてちょっと変わってきたのよ。それは兄嫁が帰って間もなくだったわ。
 なんかさ、何につけても無愛想な感じになっちゃったのよ。実家の母とか兄嫁がたて続けに暫く居座って、ずうっとあたしと赤ちゃんのことに感けていたたでしょう。矢岳君にはその間なんとなく引け目とか緊張があったろうし、それに赤ちゃん第一のあたしに自分の存在が如何にも軽んじられているって感じて、その辺が綯交ぜになってさ、それでちょっと臍を曲げているのかなって、あたし最初はそう云う風にとっていたの。
 ま、それも本当に、大いにあった筈なの。あたしの出産から兄嫁が大阪に帰るまでの間、矢岳君がどんなことを考えていたのかちゃんとは判らないけど、でもその間、あんまり面白くなかったのは事実だったろうと思うのよ。自分に充分な収入のないことや、あたしの実家の不興を買っていたことは、母や兄嫁に対してすごい負い目だったろうしね。
(続)
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