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大きな栗の木の下で 86 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 云いそびれたで済ませる話でもなかろうにと、御船さんは沙代子さんの笑い顔を見ながら思うのでありました。しかしひょっとしたら沙代子さんにはなにか、その辺の詳しい事情をどうしても語りたくない理由があるものだから、そうやって笑いで、御船さんの指摘する矢岳と云う男の怪しさや胡散臭さのその実態を、有耶無耶に隠そうとしているのかも知れないと気を回すのでありました。
「まあ、要するに何につけてもちゃらんぽらんだったんだろうな、その矢岳と云う男が」
 御船さんはそう云って何度か小さく頷いて見せるのでありました。
「誰でも人に話したくない色んな影を、どこかに引きずっているものかもね」
 沙代子さんがぽつんとそんなことを云うのでありました。なんとなくその沙代子さんの不鮮明で意味ありげな言葉が宙に舞った儘、不自然に消え残るのでありました。
 それは沙代子さんに、御船さんに対しては口を噤んでいたい何かが屹度あると云うことの、明らかな査証のようにも思えるのでありました。御船さんはその辺の事情について少なからず好奇心をそそられるのでありましたが、しかしだからと云って、それを根掘り葉掘り沙代子さんに聞く勇気はないのでありました。
 若しそんなことをしたなら、沙代子さんの話は益々深く長くなるであろうし、第一、沙代子さんに話す気がないのに、こちらがしつこく絡みついていけば鬱陶しく思われるではありませんか。それは実に以て不本意至極なことであります。沙代子さんはその矢岳と云う男のことをすっかり、御船さんに話さなければならない義務等ないのでありますから。まあ、それにしても、先程の沙代子さんの言葉が、刺さった小骨のように、謎として御船さんの喉の奥に何時までも止まるのでありましたが。・・・
 海から強い風が高台の公園に吹き上がってくるのでありました。漣のように葉擦れの音が御船さんの耳の中に長く響き続けるのでありました。
「離別の事後処理なんと云うものは、なんか面倒臭くてちっとも楽しくなくて、無粋で、気が滅入るような陰鬱なことばかりだろうな」
 御船さんは街の光景を見下ろしながらそう云うのでありました。
「そうね。だから実家の父は当事者のあたしを、そう云った話しから遮断していたんだと思うわ。あたしが余計傷つくと思ってさ」
「沙代子はその話しには、全く与れなかったのか?」
「そんなこともないわよ。あたしの要望とかは、すっかり弁護士さんに話しておかなければなあなかったし、逐一話しあいの内容はあたしにも報告されていたし」
「そりゃそうだよな」
「でも、あたしの要望って云っても、別に何を矢岳君や向こうのご両親に求めれば良いのか、あたしなんとなく茫としてよく自分でも判らなかったけど。だから弁護士さんや父に良しなにやってください、なんて感じだったかしらね」
「沙代子の中で、もうその件は終わったことなんだから、出来るなら考えたくもないし、関わりあいたくないって気持ちが働いていたのかな」
「まあ、そう云うところもあったかも知れないわね」
(続)
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