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大きな栗の木の下で 71 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 でも、結局矢岳君はそれが出来なかったの。ううん、要するに、しようとしなかったの。あたしと赤ちゃんは、自分の音楽や、音楽で身を立てようとする志とは対立するものだって、そう見做すしかなかったのよ。屹度成功すると思っていたレコードデビューが、なんかさっぱりだったその挫折感とか焦燥感とか悔しさとか腹立たしさとか苛々とかから、気持ちの歪みが矢岳君に起こったの。その歪みの際に、赤ちゃんを抱いたあたしが立っていたの。そんな風に矢岳君には見えたの。
 だから、あたしと赤ちゃんを自分の将来の見取り図から切り離そうとしたの。その儘では自分も、あたしも赤ちゃんも、要するに幸せにはなれないと矢岳君なりに思ったから。
 矢岳君が居なくなったアパートの部屋で、あたしの方はただ、赤ちゃんの世話にかまけていたの。だって赤ちゃんの世話は待ったなしだもの。
 なんか矢岳君の気持ちが、あたしには、それは不条理だとは思うけど、でも妙に納得は出来ていたの。だから矢岳君を必死になって探したり、探し出してなんで帰って来ないのか問いつめたり、なんて云うことはなにもしなかったわけ。それは勿論、その時は未だ矢岳君が気持ちの歪みに或る程度の修復とかをつけて、その内、近い内、あたしと別れるのか、それとも前のようにまたあたしと、それに新たに赤ちゃんを加えた三人の生活を立て直するのか、それは判らないけど、でもそう云った結論みたいなものを持ってあたしの前に現れるだろうって、そう思って、あたしはつまり静かにして矢岳君を待っていたのよ。
 そう云うのって、変? あたしのその時の気持ち、判る? あんまりよくは判らないわよね、そんなの。見様によってはあたしの態度は、結局事態にたじろいで何も出来ないでいる消極的で卑怯な態度にも見えるわよね。そんな気もするわ、今考えると。・・・>

 辺りがほんの少し暗くなるのは、やや西に傾いた太陽を、流れる雲の断片が一時隠したからでありました。しかし雲はすぐに去って、また強い日差しが公園に照りつけるのでありました。鳥の声が小さく聞こえるのでありました。鳥は未だ公園の土手の下に居るらしく、それは地から湧きあがってくるように木蔭の中に響くのでありました。
 ほうら云わないこっちゃないと、御船さんは思うのでありました。話の始めから、その矢岳と云う男の言動の嘘臭さを薄々勘づいてはいたのであります。いい加減な法螺吹きで、後先も考えない軽薄な女誑しで、見てくれだけを気にする浅はか野郎で、幼稚な精神の儘に歳だけ大人になった未成熟野郎で、他人の心の機微には思いも致さない身勝手野郎で、最低の生活能力をも養成出来なかった怠慢野郎で、拙いことが起こるとすぐに逃げ出す卑劣野郎で、詐欺野郎で、間抜け野郎で、頓痴気野郎で、それに、それに、・・・
 それにそんな男に引っかかる沙代子さんも沙代子さんだと、御船さんは横の沙代子さんの方を見ないで思うのでありました。なんだかんだと云ってはみても、矢岳と云う男をさして深く見据えもせずに、その、沙代子さんに対して愛おしさこの上もないように装う擬態と、相性もさも良さそうにふる舞う欺瞞と、見てくれだけの誠実さ殊勝さの面貌に簡単に気を許して仕舞うなんと云うのは、おぼこ過ぎるにも程があると云うものであります。そう云うのはすぐに化けの皮が剥がれるもので、その結果が、この体たらくであります。
(続)
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