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大きな栗の木の下で 81 [大きな栗の木の下で 3 創作]

 そんなことがあったって云うのに、あたしがずっとなにもしようとしないで、馬鹿で間抜けで鈍感でいたことにさ、父も母も、あたしがどうかしちゃったんだって思ったみたい。実際あたし、どうかしていたのかも知れないわ、今考えてみると。だってあたしのその時の態度って、どう考えても普通じゃなかったようだもん。父なんて心配しちゃって、あたしを病院に入れようとしたくらい。
 矢岳君が帰って来なくなったことがショックで、あたしの知らない内にあたしの頭の中の小さな部品が、ピンって外れて仕舞ったんだろうってさ、後で父が云っていたわ。なんかそう云われればそんな気もするし、まあ、どうなのかな。あたしには未だにその時のあたしがよく判らないのよ、実は。なんか情けない話だけどさ。
 まあ、そんなこんなで、矢岳君と云うのはとんでもない卑劣なヤツだって云うわけで、父が早速警察に相談に行ったり、矢岳君の契約していた音楽事務所に行って矢岳君の居場所を突き止めようとしたり、こう云う云い方は父には申しわけないんだけど、妙に張り切っちゃったの。三日ほど、父はあたしのアパートに泊まりこんで矢岳君を探し出そうとしていたわ。あたしは父のすることに、惚けた顔しているだけでなにも云わなかったの。
 あたしはさ、母が来てくれたもので、赤ちゃんの世話とかも色々助かったなんて考えたりしていたの。特には、あたしがとんでもない状況にいるんだって感覚もなくてさ。父が矢岳君を探し出そうとして奔走しているのも、実はなんとなく他人事のような感じがしていたくらいなのよ。あたし別にひどく取り乱したりもしていなかったし、父や母が云い募る程に、非常なことがあたしに起きているんだって思いもない儘でいたの。クールって云うのかな、そんな感じ。でもつまり、それは実はクールとか云う情緒じゃなかったと云うことなんだろうけどさ。後で父や母にそう云われたんだけどさ。
 父はそんなに長く仕事を休むわけもいかなかったから、三日居て、先に帰ったわ。あたしは残った母と一緒に当座の必要な荷物を纏めたりして、父が帰った二日後に、赤ちゃんを抱いて母に連れられてこっちに帰って来たわけ。あたしと赤ちゃんをその儘東京に置いておけないと云うんで、ま、連れ戻されたって事になるのかな。
 あたしそう云うのは、本当は不本意だったの。でも別にあたし抗うこともなかったけどさ。なんかあれよあれよって云う間にそう云うことになって、気がついたらあたしの実家の居間に、赤ちゃんを抱いて座っていたって感じ。・・・>

 穏やかな葉擦れのさざめきが木蔭の中に響いているのは、海からの強風が公園突端の栗の古木を襲ったからではなくて、めずらしく弱い風が遠慮がちに寄せてきて、手弱かに枝先の葉を揺らしているからでありました。沙代子さんは目を細めて眼下の街の光景を見ているのでありました。沙代子さんの長い睫の先がほんの少し上に跳ね上がっているのが、御船さんには眩しく見えるのでありました。御船さんは何故か急におどおどとして、沙代子さんの横顔から目を逸らして、一緒に眼下に広がる街の光景を見下ろすのでありました。ようやく沙代子さんの話が終わりに近づいて来たのかなと、御船さんは細めた目のずっと奥の方で思うのでありました。
(続)
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