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大きな栗の木の下で 64 [大きな栗の木の下で 3 創作]

「もう大丈夫よあたし、落ち着いたから」
 沙代子さんがそう云って御船さんに笑むのでありました。
「女の涙と云うのは、取り扱い注意だって職場の先輩とか同僚に、酒の席でよく云われていたから、それを守っていたまでだよ。決して白けてなんかいないし、寧ろ、・・・」
「寧ろ、何?」
「いやまあ、慎に申しわけないことながら、ちょっとドキドキさせて貰ったかな、随分久しぶりに女の人が泣くところを見せて貰ってさ」
 御船さんはそんなことを、半分云い澱む素ぶりをしながら云うのでありました。
「でもそんなこと、しらばくれて云って、本当は大勢、御船君のために泣いた女の人いたんじゃないの、今までに?」
「いや、それはないな。昔のクレージー・キャッツの歌じゃないけど、俺がそんなにモテるわけないよ。第一沙代子が今云ったのは一種のレトリックとしての『泣いた女』であって、俺が云ったのは現象の描写としての『泣いた女』だし」
「でも御船君、独特の雰囲気って云うか、ちょっと凛々しそうない気配とか持っているから、それにグッときて、案外秘かにモテていたのかもよ。それをちっとも御船君が気づかないで、優しい言葉の一つも口に出さないものだから、隠れて泣くわけよ、女が」
「いやあ、なんとなくお褒めに与っているようで、有り難いと云うか、これこそ白々しいと云うか、実態を鑑みれば面目ないと云うか、そんな心持ちだな」
 御船さんはそう云いながら、今度はふざけた調子で頭皮の上で三本の指を行ったり来たりさせるのでありました。指の動きと連動して、そんなこと云うくせに当のお前はちっとも俺にグッとはこなかったじゃないかと、掻き毟られる頭皮の裏面で考えて、喉仏の奥で云い捨てるのでありました。

 <矢岳君は或る日の夜、音楽関係の仲間や先輩のミュージシャンやレコード会社の人と飲んでいて、もう終電もなくなったし、まだ酒宴が続きそうで、義理からもつきあわなければならないから、その日は帰れないって電話をしてきたの。その電話があったのはもう十二時を回っていた頃だったわ。
 前にも時々そんなこともあったんだけど、何故かその日に限って、あたしは、ああ、矢岳君は帰ってくる気がないんだなって、そうはっきり思ったの。あたしと赤ちゃんの居るこの家に帰ることが疎ましいんだって、そう云う風に、なんて云うか綺麗に了解したの。
 それは凄く悲しい了解だったけど、でも凄いショックと云うんではなかったのよ。なんか最近の矢岳君の様子とちゃんと辻褄があっていたから、それはそれで理路整然としたって云うのか、あっけらかんとしたって云うのか、なんかそんな感じでさ。
 どうやら矢岳君は自分の子供に愛情を持てないでいるらしいの。それは多分、まあ、今から考えればのことだけど、矢岳君なりの自分の将来の見取り図の、一種の破綻から生じた出来事だったからだと思うのよ、自分の子供がこの世に誕生したって云うことが。それが矢岳君には上手く了解出来なかったのよ、屹度。
(続)
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