SSブログ

大きな栗の木の下で 32 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 矢岳君は音楽に支障がない限りの、色んなアルバイトを今までにしてきたって云っていたわ。給料の良さに魅かれて、ちょっとヤバそうなキャバレーのボーイとか呼びこみなんかもしたんだって。それからどこだったかの職安の前で立ちん坊とかも。
 そのせいか、確かにあたしなんかには想像も出来ない位、矢岳君は世間磨れしたところがあったかしら。それは頼りになるって云えばそうなんだけど、ちょっと崩れた感じにも見えたりする時もあるの。あたしそれ、ほんのちょっと怖いって思う時もあったわ、正直。でも、そう云うのは十分の一以下で、十分の九以上は音楽に対して直向きだったし、それに絶対的に優しかったのよ、あたしに対しては。その頃はね。・・・>

 片肘をついて横になっている姿勢が次第に辛くなってきたので、御船さんは上体を起こすのでありました。
「合気道部の連中とは、ちょっと正反対な感じなのかな、そう云うのは」
 肘についた草を掃いながら御船さんは聞くのでありました。
「そうね、多分合気道部には居ないタイプかな」
「詰襟の学生服着て、押忍とか喚きながら目を剥いて固い礼をしている姿じゃなくて、顔から笑みを絶やさないで、もっと柔らかい物腰の礼をするような感じを想像すればいいかな、その矢岳君とやらの象徴的な姿は。まあ、その笑顔にちょっと翳があって、それに見ようによっては凄味もあって、瞼で半分隠してはいるけど目は決して笑っていなくて」
「そうね、まあ、云ってみればそんな感じかな。でも今の御船君の喩えみたいなのは、なんかちょっとややこし過ぎる感じだけどね」
「おう、これは失礼。イメージが偏っていて貧弱なものだから、なんとなくそう云う風な像を思い浮かべて仕舞うんだよ、俺としては」
 御船さんはそう云って頭を掻きながら、心の中で舌打ちして、なんともいけ好かない野郎だと吐き捨てるのでありました。そう云う野郎は屹度、その物腰の柔らかさにうっかり気を許して仕舞うと、いきなりこちらの寝首を掻きにくるような真似をする、卑劣なヤツに本性は違いないのであります。考えていることがはっきり知れないから、決してこちらの油断を見せてはいけないタイプであります。そんな野郎、絶対に近づきになりたくない男だと御船さんは急に、何故か一人で秘かに熱り立っているのでありました。

 <そうやって、まあ穏やかに時間が過ぎていったの。お正月とか春休みとかは、あたしどうしても帰郷しなければならなかったから、その間暫く矢岳君とは一緒に居られなかったけど、でもまあそれも、ウチの両親の手前仕方がないかって二人共諦めて我慢したのよ。
 四年生になってもそれは変わらなかったの。あたしは表面的には普通に大学生として過ごしていたし、矢岳君は矢張り同じ地理学科の学生として、それから音楽とアルバイトと、それに偶にコンサートとかオーディションとか、結構地道に日を送っていたの。
 九月から就職活動が解禁になって、十一月にあたし或る商社の事務に就職が内定したの。あたし達の時は滅茶苦茶就職難だったけど、あたし案外すんなりと就職出来たのよ。
(続)
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。