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大きな栗の木の下で 50 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 どちらかって云うと、その顔はなんか心細そうな顔だったわ。なんか不安を解消して貰おうとして、子供がお母さんの目を見るような感じの。
「事務所には、あたしと暮らしているってこと内緒なんじゃなかったの?」
「いや、ちょろっと話してはいるよ。まあ、事務所はあんまり良い顔はしてないんだけど。でもそのことと俺の音楽とは無関係だし、俺の自由だし。第一俺はテレビタレントになろうとしているわけじゃないんだから、事務所にそこまでプライベートを管理される謂われはないし」
「でも、人気とか云う点を考えると、その辺も大事なんじゃないかしら。同棲している女がいるなんて、矢張りちょっと、新人としてはマイナスポイントなんじゃないの?」
「関係ないよ」
 矢岳君はそう云ってあたしの云うことを笑うの。それは矢岳君の人一倍の強がりだったろうし、フォークシンガーとしての矜持なんだろうけど。まあ、確かに身辺とか過去とかが、余りに取ってつけたように綺麗々々したフォークの歌い手なんて、そんなに魅力なんかないかなってあたしも思ったの。まあ、綺麗々々していてもいいんだけどさ。
 で、つまり、矢岳君は事務所にお金を借りようと思ったみたい。まあ、将来のギャラの前借りって感覚かしらね、矢岳君としては。上手くいくかどうかは判らないけど、当面の金策としてはそれが最も確実かも知れないって云うの。事務所が自分を高く買っているって云う自信があるからだろうけどね。
 あたしさ、事務所があたしと矢岳君が同棲していることにあんまり良い顔をしていないって云う矢岳君の言葉が、一方でかなりショックではあったのよ。これから売り出そうとしている商品として矢岳君を見れば、それは確かにそうかもしれないけどさ。でも、なんかあたし、自分が矢岳君の将来にとって邪魔者だって見做されているみたいで、ひどく寂しかったのよ。事務所の方はあたしの存在が快くないんだって思ってさ。だからあたし、また泣いたの。
 あたしその時、屹度妊娠しているせいで、情緒不安定だったのよね。だから、すぐ泣いたりするの。本当はあたし、なんに依らず呑気な性質なんだけどね。・・・>

 蜩はもう鳴かないのでありました。木蔭の中には、街の佇まいを撫でて山の斜面を吹きあがってくる海からの風に、栗の古木の葉群れが揺れる音が強弱をつけて降り積もるだけなのでありました。御船さんは公園の静けさをいや増すように堆積する葉擦れのさざめきの中に、沙代子さんと自分とが二人だけ、この世から切り離されて埋もれていくような錯覚を覚えるのでありました。
「それで、その金策は、うまくいったのかい?」
 御船さんは沙代子さんに聞くのでありました。
「うん。まあ、借用と云うことなんだけど、向こう半年は月々のお給料みたいな感じで、一定の金額を保証してくれることにはなったの。それに必要なら出産費用も立て替えてくれるってことでさ。矢岳君は事務所がそれを認めたことで、かなり有頂天になっていたわ」
(続)
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