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今、美味しいコーヒーを [時々の随想など 雑文]

 二十歳まではインスタントコーヒーを啜っておりました。子供の頃、真偽は別にして成長が止まる等と親に云われて、コーヒーを飲めるのは大人になってからだとなんとなく思っておりましたが、十八歳で東京で一人暮らしを始めるともう体もこれ以上成長することもなかろうと、大人の飲料たるコーヒーにワクワクしながら手を出したのでありました。アパートでは粉末ミルクと砂糖をたんと入れて悦に入って暫く飲んでいたのでありますが、喫茶店に出入りするようになって挽きたての味を覚えると、アパートでももうちっと本格的に淹れたものを飲みたくなって、小型のコーヒーミルに陶器で出来たドリップ、濾過紙などを買ってきて、豆は既に炒ってあるものを適当に調達して、がりがりと豆を挽きドリップにセットして湯をそろりそろりと注ぎ入れ、あたかも茶の作法宜しく一連の手間暇を楽しんでいたのでありました。ミルで豆を挽くと欠片が飛び散ったり粉がこぼれたりで後の始末が大変でありましたが、立ち上るふくよかな香りは事後の煩わしさを忘却させるに充分でありました。
 サイフォン式も暫く試みたのでありますが、どちらかと云うとドリップ式の方がその簡素な様式から拙生の性にあっているようであります。挽いた豆をミルの引き出しから濾過紙に移す時の様と云うのか、引出しの横を指でトントンと叩いて最後に残った黒褐色の粉を白い濾過紙に振り入れる時の風情と云うのか、それが何故か気に入ってもいたのでありました。来客があれば、今、美味しいコーヒーを入れて差し上げましょうと云って、恰も犬にお預けを喰わせる飼い主の面持ちで、この一連の手間暇をじっくり見せつけながら焦らして、徐に出来上がったコーヒーをカップに注ぎ分け、その一つを彼の人の前に押し遣るのでありました。実になんとも厭味で高飛車なもてなしであります。
 今も在ると思いますが神保町の交差点傍のビルの地下にトロワバグと云う喫茶店がありまして、昔よく通っておりました。ここでは毎回違うとりどりのカップにネルドリップのコーヒーを淹れてくれるのであります。狭い店内にコーヒーの香りが籠って、壁と木の床にもその香りが仄かに移っていて、いかにもコーヒーそのものを売りにしているこの店の風情は拙生の好みでありました。照明が薄暗くて本を広げるには少々目の疲労を覚悟しなければならないくらいでありましたから、ただ片隅の席に座って店内に流れる音楽を聞きながら、一人静かにコーヒーを飲むと云うのが似合っている喫茶店でありましたかな。
 さてところで、一昨年の夏に突然豆アレルギーを発症したのであります。何を思ったか今まであまり口にしたことのない納豆を、毎日しこたま食ったのが災いしたようでありました。医者から醤油と味噌は仕方がないので少々は許容の範囲としても、他の豆類の接種は当分の間固く禁じられたのでありました。具体的なところを質すと「大豆で作られたもの、インゲンや鞘豌豆等凡そ豆っぽい食物、それにチョコレートもコーヒーもココアも紅茶もダメ」とのことであります。「紅茶?」と聞き返すと「ああ、紅茶は関係ないか」と云って医者殿は笑うのでありました。しかしコーヒーについても、これはその姿形から豆とは云うものの、本当は木の実ではないかと拙生は心中呟くのでありました。よってコーヒーは恐る恐るではありますが、今もちょいちょい飲んでいるのであります。今、美味しいコーヒーを急にお預けされても、コーヒー好きにはこれは結構辛いのであります。
(了)
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