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もうじやのたわむれ 233 [もうじやのたわむれ 8 創作]

 先程から場の中に逸茂厳記氏の声が全く聞こえなくなっているのでありましたが、氏の方を窺ってみると、眉根を寄せて口をへの字に結んだ硬い表情で、肩を縮めて女性二鬼の間に窮屈そうに座っているのでありました。これは面白くないからそのような風情を作っているわけではなくて、両横の女性を意識して、大いなる緊張のためにそのような居住まいをしているのであろうと思われるのでありました。成程シャイな鬼のようであります。
「先輩、一曲お願いします」
 発羅津玄喜氏が逸茂厳記氏に水を向けるのでありました。
「あ、うん。・・・」
 逸茂厳記氏はカラオケ歌詞集の分厚い冊子をテーブルの上から取り上げて、膝に載せてペラペラと頁を繰っているのでありましたが、注意は両脇の女性の方から離れないと云った風情であります。氏の高校生の時の自己省察では、氏は人一倍女性が好きだと云う結論でありましたが、成程その様子から、これも全く以ってその通りのようであります。
 両脇に女性が座っていると云うだけで妙にたじろいで仕舞って、それを隠そうと必死になっている様子が、頁に添えられた指のぎごちない動きから拙生にも見て取れるのであります。拙生と話しをしている時の、あの落ち着いた感じはどこへいったのでありましょうや。まるで思春期の初心な少年と云った風情であります。拙生の観光散歩につきあっている時の落ち着いた態度と、この肩を鯱張らせて座っている様子のギャップが、拙生の眉宇とか目尻とか唇の端とかの顔の備品を、思わず緩めさせずにはおかないのでありました。
「おじさまが先に何か歌ってよ」
 歌う曲が一向に決まらない逸茂厳記氏を見限ったのか、発羅津玄喜氏の彼女が拙生の方に声を向けるのでありました。
「私ですか? そうねえ、こちらに私の知っている曲なんかあるかしらねえ」
 拙生がそう云うと拙生の左横のスカートの女性が、すかさず拙生にもう一冊ある歌詞集を、ニッコリと魅力的な笑いを添えながら手渡してくれるのでありました。
「どれどれ、・・・」
 拙生は同じように愛想のニッコリ笑いを女性に返してカラオケ歌詞集を受け取ると、逸茂厳記氏と同じように自分の膝の上にそれを置いて、しかし逸茂厳記氏よりは余程リラックスした物腰で頁を捲ってみるのでありました。前に逸茂厳記氏と発羅津玄喜氏との会話に出た『長崎は今日も雨だった』みたいな、向うの世に在った曲がこちらにも在るようでありますから、他の拙生の知っているであろう娑婆の曲も屹度あるはずであります。
 とは云うものの、考えたら向うにいた頃から拙生は、あんまり流行り歌を知らないのでありました。特段のお気に入りの曲も、何もありません。娑婆時代に偶に仕事のつきあいなんかでカラオケ店に行っても、拙生は歌う歌がなくて困るのが常でありました。
 そう云えば拙生はそんな折、何を唄っていたのでありましたかなあ。演歌は別に嫌いと云うわけではないのですが、殆ど知らなかったから全く歌わなかったですかな。高校とか大学時代に流行ったフォークソングは、時々歌ったような気がします。と様々思い巡らしていると、そうだ、あの曲があったと拙生は急に思いつくのでありました。
(続)
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