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あなたのとりこ 721 [あなたのとりこ 25 創作]

 この儘故郷での一時の延長として一緒に東京に帰る事が出来るのならと思うのでありましたが、それは叶わないことでありました。夕美さんのお母さんの体の具合があんまり思わしくなくて、ひょっとしたら近々病院に入院する事になるかも知れないと云う事であれば、夕美さんはこちらを気軽に離れる訳にはいかないのでありました。
 頑治さんが夕美さんとの暫しの、惜別の情に後ろ髪を引かれるような心持ちで久々の帰郷を切上げて東京に戻るその日に、夕美さんは駅まで見送りに来るのでありました。
「それじゃあ、また近い内に」
 夏の斜陽が駅の待合室の窓から差し込むのを目の上で翳した掌で遮りながら、少し沈んだ声で夕美さんが云うのでありました。
「ああ、また。向こうに帰ったらすぐに電話をするよ」
「何だか未だずうっと頑ちゃんと一緒に居たいんだけど、・・・」
「そうだな。でもまあ、今回は仕方がないかな」
 頑治さんは夕美さんの手を周りの目を憚って少し遠慮がちに握るのでありました。
「お母さんの具合次第で、今後どういう風になるのか判らないし」
「変な風に取らないで貰いたいけど、この儘長く逢えなくなる訳じゃないと思うよ」
「うん、あたしもそう長く待たない内に逢えるような気がする」
 夕美さんがこちらも遠慮がちに頑治さんの手を強く握り返すのでありました。
「俺には決して、夕美のお母さんの身の上に然程遠くなく何か良くない事が起こって、それで俺達が長く会えなくなる訳じゃない、なんて不謹慎な予感がある訳ではないよ」
「それは判っているわ」
 夕美さんは真顔で一つ頷くのでありました。「例えばお母さんの体の調子が、入院を境に急に良くなる事だってあるからとか、そう云う事でしょう?」
「そうそう。そうなったら夕美が東京に出て来る事も出来るだろうし」
「そうなると、良いわねえ」
 夕美さんのこの云い様は、何となくか細く弱々しい物腰でありましたか。
「ちょっと早いけど、そろそろ改札を入った方が良いかな」
 頑治さんは自分の腕時計を見ながら云うのでありました。
「そうね。その方が無難かしら」
 夕美さんも頑治さんの腕時計を覗き込むのでありました。「あたし入場券を買っているから、ホームまで一緒に行くわ」
 改札を抜けてから、列車が到着するのを待つ間、二人はホームにあるベンチに並んで腰を下ろすのでありました。ここの方が西日を真正面から受けるのでありました。
 ホームには頑治さんと同じ列車に乗るのであろう人達が数人、或いはベンチに腰掛けたり、或いは立って列車の来る方向をぼんやり眺めていたりしているのでありました。
「あたしそこの売店で何か買ってくるわ」
 夕美さんが立ち上がるのでありました。「飲み物は何が好い?」
「コーヒーかな。ブラックの」
(続)
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