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あなたのとりこ 716 [あなたのとりこ 24 創作]

 そんな事を考えるともなく考えていたら、頑治さんはすぐに頭の下の枕の中に意識が吸い込まれていくのでありました。そうして再び目を開けると、もはや夕暮れの気配が部屋の中に忍び寄って来ているのでありました。
 目が覚めたのは腹が減っていたからでありました。その日は未だ一碗も飯を食してはいないのでありました。これでは目も覚める筈であります。
 頑治さんは布団をゴソゴソと抜けだして顔を洗って身支度を済ますと、本郷通りの裏道沿いにある定食屋で早い目の夕食を済ますのでありました。この後アパートの部屋に帰っても別にする事もないので、頑治さんは夕刻の散歩と洒落込むのでありました。
 頑治さんは本郷三丁目の交差点を春日通りの方に曲がって、本富士警察署横を左に折れて無縁坂を抜けて、不忍池の畔を歩いて上野公園に出るのでありました。考えてみればこの前この辺をブラブラ歩きしたのは、五月の連休に夕美さんが来た時でありましたか。帰郷した後で夕美さんと一緒にこちらに戻ってきた折は、またこの散歩コースをゆるりと歩いたりするのでありましょう。それもまた、向後の楽しみの一つではありますか。
 動物園の前の自動販売機で頑治さんは缶コーヒーを買うのでありました。そう云えば前に夕美さんと散歩した時にも、この自動販売機で飲み物を買ったのでありました。ここの散歩者にとってこの自動販売機は、丁度喉の渇きを催したところで具合良く置かれているのでありますか。そうならなかなか考えられた配置と云うべきでありましょうが、ま、殊更そう云う計略に依ってここに設置されている訳ではないのでありましょうけれど。
 頑治さんはその場で缶コーヒーのプルリングを空けるのでありました。それから徐に口に持っていこうとしてふと前を見ると、何処かで見た事のある顔を視界にとらえるのでありました。誰であるのか少し考えてから、それは前に会社に於いて頑治さんの前任者として業務の仕事をしていた、刃葉香里男さんであると気づくのでありました。
 頑治さんはこの前任者たる刃葉さんには大いに手を焼いたのでありました。刃葉さんはまあ、良いように云えばなかなか個性的で、万事にマイペースで、人との関わり合いが苦手で、会社にとっては、優良社員と云った風がまるっきりない人でありました。
 仕事中に小腹が空くと仕事をうっちゃって、昼休みでもないのに平気で一時間も喫茶店で飲み物付きの軽食を摂ってみたり、空手の稽古と称して倉庫の中に保管してある商品の入った段ボールをサンドバッグ代わりにしてみたり、それを見咎めた、これも前に会社にいた山尾主任にその無神経を注意されても、中の商品が傷まないようにちゃんと(!)考えてやっていますよ、等と別に不貞腐れて抗弁している風でもなく、さらっと云ってのけるのでありました。大人物の風があると云えば、云えなくもないでありましょうか。
 倉庫の管理もかなり好い加減で、車の運転もなかなか乱暴で、それに何時も心ここに在らずで運転しているから、仕事先の道順もなかなか覚えないのでありました。しかしこれに関しても当人は至って恬淡としていて、反省しているとか苦にしているような風は全くないのでありました。頑治さんは時々その尻拭いをする事もあったのでありました。まあこんな具合だったから、頑治さんが倉庫の管理とか荷物や製作材料の集配をするようになったら、至って評判が良いのでありました。別に嬉しくもないのでありましたけれど。
(続)
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