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あなたのとりこ 649 [あなたのとりこ 22 創作]

 揃って喫茶店を出て御茶ノ水駅に向かって歩いている時、袁満さんの顔を窺うとどこか気も漫ろな表情をしているのでありました。勢いで、或いは引き波に浚われるような感じで均目さんと那間裕子女史の辞意に引き摺られた事に、未だどこか釈然としない思いを持っているのでありましょう。それにそう云った経緯で会社を辞めると、或る意味うっかり表明して仕舞った事に大いに不安でもあるのでありましょう。この先、ここで会社を辞める事が吉と出るか凶と出るか、袁満さんの心は大いに取り乱れているようであります。
 迂闊なおっちょこちょいの決断が将来を棒に振るかも知れないし、しかしここで決断を鈍らせると、返ってそちの方が将来の好機を逸する契機になるのかも知れません。どちらを取るかと云う賭けは、袁満さんにとっては大困惑と云うところでありましょう。
 袁満さんは悲観が先に立って、何につけ決心に手間取るタイプの人であるとは前に云った事でありますが、じっくり考えて納得した上での決心ではなく、どこか流れの勢いに乗って為した決断である以上、袁満さんには今一つしっくりこないのでありましょう。まあしかし自分でも、じっくり考えてもそうそう納得出来る決心が獲得出来ない性質であるのは、袁満さん自身も自分でちゃんと判っている事でありましょうが。・・・
 頑治さんは四人と駅の改札口で別れて、一人お茶の水橋を渡って本郷一丁目の自分のアパートに向かって、暗くなった道を歩いて帰るのでありました。道中、何となく敢えて流れに逆らう事なく均目さん、那間裕子女史、それに袁満さんの辞意に賛同したような具合でありましたが、袁満さん同様、頑治さんとしてもどこか釈然としないものを感じているのでありました。まあ、将来の不安なんと云うものはあんまりないのでありましたが。
 将来の不安なんぞより、色々込み入った、或る意味で面白い体験をするチャンスを逸したような気がしているのでありました。労働争議に巻き込まれるなんと云う体験は、袁満さんがそうであるように出来れば忌避したい体験ではあるだろうけれど、しかい余人にはなかなか体験できない稀なものでもあるかも知れないではありませんか。
 そこで繰り広げられるであろう様々な事件や人間劇と云うものには、まあ、興味がないと云えば嘘になりますか。退屈凌ぎ、と迄は云わないとしても、ちょっと当事者になってみたい心持ちではあります。まあしかしこう云う類の秘かな興味なんと云うものは、世間的には全く以って無責任且つ不謹慎の誹りを免れないでありましょうが。

 その日の夜遅く、久しぶりに夕美さんから電話がかかって来るのでありました。受話器を取り上げる時に、おそらく明日起こすべき行動が甚く不安で、行動を共にする誰かの声を聴きたいと思った袁満さん辺りからの電話だろうと推察したのでありましたが、意外や意外夕美さんの声が流れて来た時には、頑治さんは慌てて仕舞って受話器を取り落とすところでありました。その頑治さんの慌てぶりが夕美さんにも伝わったようで、夕美さんは低い語調に改めて、何かあったのかと不安そうな声で尋ねるのでありました。
「いや、久しぶりの夕美の声に驚いたんだよ」
 頑治さんはそう云い繕うのでありました。
「ふうん。あたしが電話してきたと云うのはそんなに驚くべき事かしら?」
(続)
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