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あなたのとりこ 654 [あなたのとりこ 22 創作]

「ところでお母さんの具合はどんな感じなんだろう?」
 頑治さんはそんな話しを始めるのでありました。話しの間を持たせようとしてこんな話題をうっかり出したのでありましたが、ちょっと選んだ話題が重かったかしらと秘かに気が引けるのでありました。何ともはや、もたもたした仕業でありますか。
「ここのところ体調は落ち着いているかしら。相変わらず食欲はないみたいだけど」
「ああそう。でも体調が落ち着いていると云う事なら、まあ、一先ず安心かな」
「でも殆ど食事らしい食事を摂らないから、げっそり痩せて仕舞って、何だか見るのが辛くなっちゃう時があるわ。本人も気にしていて偶に無理にでも食べようとするんだけど、すぐに箸を置いちゃうの。そんな時はこっち迄気が滅入ってくるわ」
「病院には定期的に通っているんだろう?」
「退院してから週に一度検査に通っているわ」
「週に一度と云うのはなかなかしんどいかな」
「そうね。捗々しく良くなっている感じがないものだから本人もげんなりしているわ」
「まあ、そうだろうなあ」
 頑治さんは陰鬱そうな声でそう云ってまた頷くのでありました。「でもまたその内に気分が変わって、万事に意欲的になる事もあるさ」
「有難う。そうなら良いけど」
 夕美さんは力ない声で謝意を表するのでありましたが、その後にまた重苦しく沈黙するのでありました。何だか話題がしめやかになった儘電話を切るのは気が引けるから、別の話題を探しているのでありましょう。頑治さんも同じくもう少し明るい話題に移ろうと色々考えるのでありましたが、どう云うものかこういう時に限って他の話題が何も思い付かないのでありました。他の話題なんか様々ありそうなものでありますけど。
「それじゃあこのくらいにして、また近くあたしの休暇がはっきりしたら電話するわ。その時に夏休みの件は打ち合わせしましょう」
 夕美さんはどうやらここでこの電話を仕舞いにする事にしたようであります。
「ま、改めて云うけど俺は夕美の都合にどうにでも合わせられるからね」
「判った。夏に逢えるのが今から楽しみだわ」
「俺もね。また近い内の電話を待っているよ」
「うん。それじゃあバイバイ」
 頑治さんはその夕美さんの声を聞いて静かに受話器を架台に戻すのでありました。夕美さんとの電話を終える時の何時もの寂しさよりも、何故かその寂寥感にこの時は尚一層心がざわざわと立ち騒ぐのでありました。別に取り立てて理由はないのでありましたが。

 明くる日に出社すると扉を開けた頑治さんを、自席に座って妙に緊張した面持ちでじっと見つめる袁満さんの視線に早速出くわすのでありました。袁満さんは無言で頑治さんに小さく頷いて見せるのでありました。これは愈々これから辞表提出の儀式が始まる事を頑治さんと相互確認するための、やや大仰とも云える仕草なのでありましょう。
(続)
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