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お前の番だ! 1 [お前の番だ! 1 創作]

 咳の音一つだにない、静まり返った道場の中に、廊下を歩み来る常勝流武道第六代目総士、是路搖歩先生の足音が聞こえ始めると、正坐して下座に横一列に居並ぶ門下生達の背筋が一層ピンと伸びるのでありました。この一般稽古は、内弟子か或いは内弟子扱連中の専門稽古の時より緩くはあるものの、内弟子中で殿に座を取る折野万太郎の心臓は、それでも何時も道場掃除の時に使っている古雑巾のようにきつく絞られるのでありました。
 内弟子に入ってからもうそろそろ三か月になろうとするのに、万太郎はこの稽古開始前の緊張感に未だに慣れないのでありました。何時も搖歩先生の足音が聞こえ始めると万太郎の心臓は急に拍動を早めて、もう逃げ出して仕舞いたいような衝動に正坐した膝の内側から感覚が消え去って、腰から下にまるで力が入らなくなるような具合でありました。
 それは入門して最初に訓戒を貰った古い門弟で道場の総支配役にある鳥枝桐蔵範士から、第一声で「稽古にはそれで死んでも文句はないと云う気概で臨め。例え本当にお前が稽古中に死んだとしても、俺にはお前の親からも文句を頂戴しないで済ませる事が出来るからな」と、愛情たっぷりに無愛想に云われた事に帰するのでありましょう。鳥枝範士の顔が節分の鬼のように厳つく怖い造作をしていると云う事もありますが、大人し気な声で迫力満点にこう云われただけに、万太郎は余計に底知れぬ不気味さを感じたのでありました。
 鳥枝範士は五十半ばを幾つか過ぎた歳の割には顔の色艶も恰幅も良くて、稽古着に袴姿でいる時は、中肉中背の常勝流総帥である是路搖歩総士よりも威風堂々とした押し出しで、二人並んでいるとこちらの方が格上の修行者に見えて仕舞うくらいでありました。その発する声もやたらに大きくて、一喝に依って吠えかかる犬を気絶させた事があると云う逸話があるくらいでありました。確かに内弟子や準内弟子共を叱りつける時のその声量たるや、この噂沓も決して嘘でも大袈裟でもないであろうと万太郎は納得出来る程でありました。
 鳥枝範士は娑婆にあっては、業界で中程度の規模の建設会社の会長さんなのでありました。社長をしていた頃は忙しさにかまけて、少年時代から続けている常勝流武道の稽古も儘ならなかったのでありますが、それではつまらぬと五十歳であっさり弟君に席を譲って自分は会長に納まり、それからは修行の中弛みを解消せんとて若い時分にも増して稽古に精を出し、今では総帥の是路総士から道場の総支配役を任されているのでありました。
 万太郎より二か月程早くこの道場に入門した同じ内弟子の面能美良平が静かに立って、片膝ついた儘頃あいに道場の引き戸を恭しく開くと、一拍の間を置いて是路総士が青畳の上に一歩を載せるのでありました。道場内の緊張が頂点に達するのでありました。
 しかしここまでくると逆に万太郎の緊張し切った心臓の細糸はやや弛緩するのでありました。下座に正坐してから是路総士が道場に現れるまでの待機の時間が万太郎には苦手なのであって、是路総士の姿を見たら寧ろ万太郎の気持ちは少し落ち着くのでありました。
 道場に無表情に一歩を踏み入れた是路総士は、二歩目を敷居の段差に取られて躓くのでありました。万太郎は同じ光景をこの三か月の間に二度程目撃した事があるのでありました。是路総士は倒れかかった勢いをその儘に横向きの小走りにふらふらと見所(けんぞ)の前に至ると、竟に転けたと云った風情で上座に向かって正坐するのでありました。この是路総士の失態に失笑を漏らすような不届きな道場生は一人もいないのでありました。
(続)
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