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あなたのとりこ 169 [あなたのとりこ 6 創作]

 横瀬氏は土師尾営業部長の事をこの段階では殆ど何も知らない筈であります。その為人も風貌も、社員からどのように思われているかも。依ってその人の事を語るのに、この段階ではある種の敬意を払った云い方をするのが普通の感覚でありましょうか。
 しかしその物腰からはそんな気配は微塵も感じられないのでありました。寧ろ社員から全く疎んじられていると云う予備知識のためにか、一定程度軽侮したような云い方をしても構わないし、或いはその方が返って受けが良いかも知れない、と云う心根の中の臆断が仄見えるのでありました。勿論その予備知識は山尾主任から得たものでありましょう。
 更に山尾主任と横瀬氏の間では、既に全総連に加盟する労働組合の結成、と云う見取り図が描かれ共有されているのかも知れません。眼前で展開されている二人の掛け合いを見ていると、そこにはこの目的達成のための大まかな台本が用意されていて、二人で今、それを忠実になぞり演じているような気も頑治さんはしてくるのであります。いやまあ、これとても、頑治さんのふと感じた印象からの勝手な臆断かも知れませんけれど。

 店内の談笑する声や流れる音楽、それにカップやグラスが立てる音のざわつき中で、ほんの暫くの間、座の空気は沈黙の谷間に揺蕩うのでありました。
「ではこの暮れのボーナスに対して我々が何もアクションをしないとなると、その先に描くべきシナリオと云うのはどうなるのですかね?」
  均目さんが身を乗り出してやや下方から横瀬氏に視線を向けるのでありました。
「それは、春闘、と云う焦点に事になりますね」
 横瀬氏は均目さんの目は特に意識しないで、席に座っている夫々の顔をどこか値踏みするような目で眺め回すのでありました。
「春闘、ですか?」
 那間裕子女史が横瀬氏の言葉を繰り返すのでありました。
「そうです。これからは組合結成準備と内部の団結強化、それに他の全総連加盟単組との連携と云うところに力を傾注して、統一要求とは別に貴方達の独自闘要求も練り上げて、春闘時に組合結成を公然化して、要求を経営側に突き付けると云う事になりますかな」
「春闘で突然組合結成通告して、暮れのボーナスの仕返しをしようと云う訳だ」
 袁満さんが如何にも痛快そうに云うのでありました。
「いやまあ、意趣返しとは少し意味合いが違いますが、春闘と連動した方が闘争効果やらあれこれの面で好都合なところ多々でしょうからねえ」
「我々が創る労働組合が春闘の統一要求にコミットしていれば、全総連が我々のバックに付いている事も明確に示す事にもなるから、確かに会社側には脅威だろうな。下手な対応や回答だと全総連が許さないぞと云うメッセージになるだろうし」
 山尾主任の言は、もう組合結成が既定路線であるかのような、お先走りの科白に頑治さんには聞こえるのでありました。これは頑治さんだけではなく均目さんもそうであるようで、均目さんは山尾主任の前のめりの姿勢に水を差そうとするのでありました。
「未だ労働組合結成を、我々が正式に決定した訳でもないですけれどね」
(続)
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