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枯葉の髪飾りⅠ [枯葉の髪飾り 1 創作]

 市民病院の裏手は広い公園になっていて、その中を廻る遊歩道の脇には古びた木のベンチが所々に置いてあるのでありました。大きな銀杏の木の傍らにあるベンチが拙生のお気に入りで、銀杏の木の見事な葉ぶりでつくりだす大きな木陰がベンチをすっかり覆いつくしていて、いつもそこへ座る拙生に恰好の昼寝の場所を提供してくれるのであります。
 高校三年生の夏休みの間、拙生は前から抱えていた心臓の病気治療のために週に一度、学校での大学受験のための補習授業を終えた後、市民病院に通っていたのでありました。せっかくの夏休みが受験勉強のためにほとんど潰されてしまうのも詰まらなかったし、昼過ぎに勉強からようやく解放された後、週に一回とは云えこうして病院へ通わなければならないのも、まったくもって高校三年生には気の滅入ることでした。
 病院の受診が終わると拙生はいつも裏手の公園に来て、銀杏の木の傍らのベンチに寝転んで、不貞腐れたような顔をして暫しの昼寝をするのであります。公園の木々の間を抜けて拙生の汗ばんだ顔を掠めて吹きすぎていく風は心地よく、自然に拙生の仏頂面はどこか呆けたような緩んだ顔になるのでありました。受験のための補習授業と、楽しくもない病院通いの憂鬱をこの公園でのひと時の心地よさで、拙生は暫しの間忘れようとしていたのでありましょう。
 昼寝と云っても完全に睡眠状態に陥るのではありません。閉じた瞼に夏の午後の明るさを感じながら、遠く近くに響き渡る蝉の声が脳の奥深くに沁み込んでいく感覚に身を任せて、なにも考えないように努めるのであります。流れる雲が日差しを遮れば閉じた拙生の目の中にも暗がりが出現し、再び太陽が現れればまた拙生の閉じた瞼の下の眼球は明るい赤一色に包まれます。傍らの銀杏の木で鳴く蝉が声を途切らせて飛び去れば、不安になるような静寂が拙生の耳にいきなり空洞をつくりだします。その麻痺したような拙生の耳の機能が今度は遠くで聞こえる蝉の声を捉えだし、その淡い周波が滓のように堆積しはじめて再び頭の中を満たします。そしてまたすぐ近くでいきなり蝉の声が弾けて、拙生の頭の中に満ちた滓を劈くのであります。閉じた目と、聴覚と、肌で感じる空気の振動のようなものを追いかけていれば一切の思考は締め出されてしまって、自分が単なる感覚受容器となりはてているような気分になるのであります。これはまん更悪くない気分であります。
 果ては感覚受容器ですらなくなり、感覚そのものも消え去って、まるで銀杏の木の陰の一部になってしまったような気がしてくるのであります。これは尚更悪い気分ではありません。受験勉強と病院通いと云う憂鬱な負担を抱え込んだ自分がついに消え失せて、何の喜怒哀楽も持ちえない陰としてこの世に在ると云う錯覚は、まったくもって悪くない錯覚なのであります。ま、一切の思考を締め出すとは云いつつも、こういう錯覚と云うのか幻覚と云うのか、そう云うものを生成すること自体が結局は思考に属する営為ではありましょうが。しかし、まったくもって悪くないのであります。銀杏の木の陰となり果てた拙生はそのままうつらうつらと浅く寝入ったり、まるで夢の中のような感覚のまま起きていたりしながら、銀杏の木陰の中で夏のひと時を過ごすのでありました。
(続)
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