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あなたのとりこ 394 [あなたのとりこ 14 創作]

 まあ、土師尾常務としては常に片久那制作部長を意識して、それに決して劣らない迫力と存在感を社員の前で醸し出そうと必死なのでありましょうが、なかなかご当人の狙い通りにはいかないようで、それがまたこの御仁にとっては慎に腹立たしい事なのでありましょう。この欲求不満が、この人を余計にいじましく見せて仕舞うのでありますけれど。
「そんな事を云うのなら、僕の代わりに那間君が営業に出れば良いじゃないか」
「そんな子供が駄々を捏ねるような事を云わないでくださいよ、みっともない」
「まあまあ、那間君ももう少し冷静になって」
 全く怯まないで益々嵩じて土師尾常務と言葉の遣り取りで対抗しようとする那間裕子女史を、社長が宥めるのでありました。「土師尾君もそんなに興奮しないで」
 ここでも仲裁役を演じる社長の魂胆としては、まあ、場の空気から、そう云う役回りを演じざるを得ない点はあるとしても、しかしどちらかと云うと天性の八方美人的にエエ格好をしたいためであろうと、頑治さんは人の悪い解釈をするのでありました。実は社長としては内心、こういう役回りを演じる事態が無性に好きなのでありましょう。
「常務は片久那さんに対しても、業績が悪いのは自分の営業力が無いためじゃなくて、制作部で作る商品が悪いためだと云えるんですね?」
 社長の取り成しも意に介せず脇の方にさて置いて、那間裕子治氏は土師尾常務を睨みながら挑むような口調で訊ねるのでありました。急に片久那制作部長の名前が出て来たものだから土師尾常務は一瞬たじろぐのでありましたが、すぐにここが自分の自尊心と体裁を守るための正念場と体勢を立て直して、那間裕子女史を睨み返すのでありました。
「勿論、片久那君とはそう云う話しはもう既に頻繁にしている」
「へえ。あたしは片久那さんから常務とそんな話しをしているとは全く聴かないけど」
「それは那間君なんかに云う必要が無いからだろう」
「ああそうですかねえ」
 那間裕子女史は頬に冷笑を浮かべて懐疑の顔をして見せるのでありました。「まあそれに関しては、片久那さんに確認してみればすぐに判る事だけど」
「何をそんなに可愛気の欠片も無い、挑みかかるような事ばかり私に云うんだ?」
「勝手にあたしに可愛気とか期待しないで貰いたいですね」
 那間裕子女史は土師常務から目を背けてつれなく往なして見せるのでありました。その態度に益々土師尾常務は逆上するのでありました。
 しかし幾ら可愛気も愛嬌も皆無で、人一倍勝ち気でキツイ性格のヤツであろうとも、会社での地位が自分より下の女性に対してこうまで熱り立って仕舞うのは余りにも見た目が悪かろうと思い直したのか、或いはそれともこれ以上言葉の応酬を続けても那間裕子女史には結局叶わないし寧ろ立場が不利になると見極めたのか、土師尾常務は云い返したいのは山々なれどここはぐっと、強いて自分の感情を押し殺すように、奥歯を噛みしめるような不本意気な顔をして口を噤むのでありました。なかなかの演技派の顔でありますか。
「これ以上ここで、売り上げ低迷の原因が営業力にあるのか、それとも制作部の商品開発力にあるのか議論していても無意味なんじゃないかな」
(続)
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あなたのとりこ 395 [あなたのとりこ 14 創作]

 袁満さんが土師尾常務の口がようやく閉じたのを見極めて云うのでありました。
「まあ、総括として、出雲君と袁満さんの今後の仕事の遣り方が少し具体的になったと云うのは、今日の会議の収穫ではないですかね」
 均目さんが荒れた場の空気を一端沈めるようにそう纏めるのでありました。
「確かにそれは良かったかな」
 袁満さんが力強く頷いて出雲さんの方を見るのでありました。その袁満さんの目に出雲さんも大きな頷きを以って応えるのでありました。
「常務が人をへこませる事ばかりに矢鱈に熱心で、建設的な意見は欠片も持っていないと云う事が判った事も収穫の一つかしらね」
 気の強い那間裕子女史は未だ土師尾常務に対する侮蔑を止めないのでありました。しかし土師尾常務の方はと云えば、天敵を睨むような目付きで凄んで見せて、力を入れた頬の小さな波打ちで奥歯の噛みしめを表して口惜しさを覗かせはするけれど、唇は引き結んだ儘で言葉は一切発しないのでありました。何だか自分の立場が段々不利になるような按配だから、那間裕子女史とこれ以上言葉で遣り合う心算はないようであります。
「もう、時間も時間だからこの辺で今日の会議はお開きにしますかね」
 好い加減億劫になったようで社長が腕時計を見ながら提案するのでありました。確かに当初の予定に反してかなり長時間の会議となっているのでありました。皆もかなり疲れているようでありますから、社長のお開き提案は慎に以って好都合でありましたか。
「今後も定期的に、今日のような全体の会議を開くようにすれば、意思疎通も図れるし思わぬ辺りから妙案が出たりもするから、実に有意義なんじゃじゃないですかねえ」
 社長がそう云いながらチラと頑治さんの方に目を遣るのでありました。
「全員がちゃんとした意識を持って意思疎通が図れれば、ですけどね」
 那間裕子女史が未だ土師尾常務を標的にした揶揄を止めないのでありました。
「那間さんも敢えてそう云う事は云わないで、社長の提案を一先ず尊重して、今日の会議を終える事にしたらいいんじゃないですかね。また今後近い内に改めて集まるとして」
 これくらいにしておかないとまたすぐに感情的になる土師尾常務が、またもや性懲りも無く皆の疲労感を無視して那間裕子女史と遣り合おうとするのはうんざりだから、予め均目さんが那間裕子女史の言葉を脇に整理するような事をものして、二人の間に予防的に割って入るのでありました。均目さんも実は結構疲れているのでありましょう。
 まあその疲労感は、総じて土師尾常務の子供じみた判らんちん発言に依っていると思われるのでありますが、この場に片久那制作部長が居れば、彼の人の口もこうも勝手放題に開かれる事はないでありましょう。と云う事は今日の疲労感は片久那制作部長の欠勤に依ると、そうも云えるのかも知れないと頑治さんは半分は冗談で考えるのでありました。
「じゃあ、今日は一先ずこれで終わることにして構いませんかね?」
 袁満さんが社長の意を受けて一同を見回すのでありました。
「それ程大した実りは実際は無かったけど、でもまあ、このくらいにしておこうか」
 土師尾常務がそんな横着を云って早々に立ち上がろうとするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 396 [あなたのとりこ 14 創作]

 本来ならばこういう締め括りの発議は、袁満さんよりは土師尾常務辺りがするべきところではありましょう。しかし当人としてはこの会議に然したる思い入れも期待も無いものだから、それに元々気が利かない性質でもあって、ケチを付ける事はするけれどそんな役割なんぞは全く興味も無さそうで、さっさと立ち上がろうとするのでありますか。

 反省会と云う程のものではないけれどこの会議の後、甲斐計子女史を除いた従業員一同は馴染みの神保町駅近くの居酒屋で例に依って一献傾けるのでありました。酒杯を取り交わす時の話題としては、先程の土師尾常務の重職の者にあるまじき子供じみた振る舞いや発言に対する鬱憤晴らしが先ずあって、それから次には那間裕子女史の土師尾常務に対する寸分の遠慮も無い食って掛かりようへの驚嘆等でありましたか。
 土師尾常務への欠席裁判的批判や論いは何時もの事と云えば何時もの事でありますが、一同は那間裕子女史の豪胆さと、ある意味での義侠心と正義感を大いに持て囃すのでありました。女史としては、後でそんなに感心するくらいならその場で不甲斐無く沈黙していないで、一同にすぐさま土師尾常務攻撃に参加して欲しかったようでありました。女史に男共の意気地の無さを詰られれば、全員おどおどと目を逸らすのみであります。
 男共としては土師尾常務に対して寸分の畏怖も敬服も無いし、その人間性は買うに値しないし大いに見下げているのは間違いないけれど、何故かいざとなったら忌憚して仕舞うその意気地の無さと云うものは、我が事ながら実に情けない次第でありましたか。一体土師尾常務の何を憚っているのかと云うと、地位の上での憚りとか会社に於ける年季の長短とか、まあ人様々に如何にも尤もらしい理由はあろうけれど、要は言葉を遣り取りするのが面倒臭くてうんざりであると云うところでありましょうか。なるべく関わり合いたくない、共通の忌避の対象としてその人はこの会社に存在していると云う事になりますか。
 しかし見下げる対象としての認識は男共と共通ながら、那間裕子女史は彼の人を只管忌避するよりも、寧ろ遣り込めたり怒らせたりして面白がる対象として認識しているのかも知れません。それは一種の彼の人への異性なるが故の興味と捉える事も出来ましょうか。しかしそんな事を口にすると那間裕子女史に烈火の如く怒られるであろうと、頑治さんは徳利の日本酒を女史から猪口に注して貰いながら考えているのでありました。
「社長は今日の会議で、唐目君の事が大いに印象的だったんじゃないかしら」
 那間裕子女史は頑治さんの猪口に注ぎ終えた徳利を立てながら、頑治さんに向かって笑みながら小声で呟くように云うのでありました。
「そうそう。俺もそう感じた」
 これは頑治さんの右横に座っている均目さんの言葉でありました。要するに頑治さんは那間裕子女史と均目さんに左右から挟まれた位地に座っているのでありました。
「土師尾さんの一々下らない反応のお蔭でちっとも捗らない話しに、或る方向性と具体的な解決策を一言二言でスカッと与えたんだから、大いに見直したんじゃないかしらね。単なる新しく採用された倉庫番のお兄さんと思っていたのが、これはなかなか隅に置けない社員だと、従来の考えを改めたと思うわよ、今日の唐目君を見ていて」
(続)
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あなたのとりこ 397 [あなたのとりこ 14 創作]

「それはどうですかねえ。ただ俺の言葉を停滞していた会話を少し活性化させる好都合な接ぎ穂だと捉えて、上手く社長が利用しただけじゃないですかねえ」
 頑治さんは謙譲からだけではなく、実のところあの社長には、人を見る目とか好機を的確に捉える目とかをあんまり期待しない方が無難だろうと云う読みかあるものだから、そんな風に冷えた語調で応えるのでありました。
「まあ何事にも敏くピンとくるタイプじゃないけど、それでも唐目君の発言にちょっと瞠目したような様子は充分あったよ。それにあの社長だけじゃなくてあの場に居た殆どが、唐目君の発言にグッと引き込まれたのは間違いない。まあ、一人を除いて」
 均目さんに除かれた一人とは土師尾常務に間違いないでありましょう。
「そうね。確かに唐目君の発言にはあたしも、おお、とか思ったもの」
 那間裕子女史が頑治さんの方に向けた目を、まるでその時を再現するように少し大袈裟に見開いて見せるのでありました。「なかなか頼もしくて見直したわよ」
「いやあ、何とも恐れ入ります」
 頑治さんは頭を掻きながら如何にもお道化た風に照れて見せるのでありました。
「唐目君に倉庫仕事とか配達とか駐車場の掃除とか、それに製作の手伝いとか、そんな事をさせておくのが勿体無いよなあ。もっとちゃんとした地位に着けて、片久那制作部長の将来の後継者みたいな立ち位置を目指して貰いたいくらいだね」
 満更法螺でもないような均目さんの口振りであります。
「片久那さんみたいに高圧的で薄情で素っ気ない感じは困るけど、でも会社内での管理の力量としては、将来片久那さんレベルにはいくんじゃないかってあたしは思うわよ」
「いやあ、それはおべんちゃらが過ぎますよ那間さん。第一俺には片久那制作部長程の素早くて深い思慮も、果敢な行動力も、それに威厳も人望もまるで無いですからねえ。ここで幾ら俺を褒めても何も出ませんよ、念のために云っておきますけど」
「いやいや、それでもあの出雲君と袁満さんの晴れやかそうな顔は、唐目君が齎した今日の収穫に違いないよ。このところ二人共塞ぎ込んでいたけど、今は見違える程生き々々している。唐目君のお蔭でここに来てやっと仕事の具体的な目途が立ったんだよ」
 均目さんはそう云ってこっそり日比課長と戯れる出雲さんと袁満さんを指差すのでありました。確かに二人の表情には最近に無い精気が見て取れるのでありましたか。

   久し振りの逢瀬

 この、片久那制作部長を除いた全社員に依る会議の後に、これ迄に無い大激震が会社を襲うのでありました。それはゴールデンウィークに夕美さんが仕事絡みで東京に出て来た後の事でありました。その後に控えた大激震の事なんぞ全く欠片すら思いもしていなかったから、夕美さんとの久し振りの逢瀬を頑治さんは大いに楽しむのでありました。
 東京駅の新幹線ホーム迄頑治さんは夕美さんを迎えに行くのでありました。頑治さんは車両から下りて来た濃紺のスーツ姿の夕美さんをすぐに見付けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 398 [あなたのとりこ 14 創作]

 夕美さんも頑治さんをほぼ同時に見付けて、逸る気持ちを弄ぶように足手纏いに絡む両手に下げた大きな旅行バッグを持て余しつつ、頑治さんの方に向かって小走りに駆け寄って来るのでありました。その前に勿論、この荷物共は、先ずは見付けた頑治さんに手を挙げて見せる挨拶の動作をも忌々しく邪魔したのでありました。
「見慣れないフォーマルな格好をしているから、見違えるところだったよ。ま、実際はどんな格好をしていても、夕美を見違える事なんか絶対にしないんだけど」
 頑治さんはそう云いながら、傍まで来た夕美さんの如何にも重そうな方の荷物を受け取るために片手を差し伸べるのでありました。
「一応仕事絡みでの上京だからね」
 夕美さんは素直に頑治さんに大きな方の旅行バッグを手渡して、それから頑治さんの顔をまじまじと見るのでありました。「変わり、なさそうね」
「一か月ちょっとでの再会だから、そんな短い時間では変わり様がない。でも夕美の方は一か月ちょっと前より大分大人びたような気配があるかな」
「スーツを着ているからでしょう」
「それもあるけど、何か雰囲気がさ」
「そうかしら。ひょっとしたらそれは社会人になったからかもね」
 夕美さんはそう云いながらその社会人振りを見せるように、心持ち胸を反らして姿勢を正してから、一直線の視線を頑治さんに投げるのでありました。そうやって見つめられると、何とはなしに頑治さんはどぎまぎとして仕舞うのでありました。久しぶりの夕美さんの一直線の視線にちょっと狼狽えたのか、それとも学生時代には感じなかった一種の成熟を、このごく短期間で身に付けたような風情の夕美さんにちょっとばかり気圧されたための狼狽なのか、そこの辺りは頑治さん自身も良く判らないのでありました。
「今日の宿泊先は、叔母さんの家じゃないんだよね?」
 頑治さんは秘かに波立った気持ちを仕切り直すように話頭を変えるのでありました。
「ううん、お茶の水の錦華公園近くのビジネスホテルよ。明日早速大学の方に顔出ししなければならないから、今日から三泊はそこに泊まるの」
「ああそうか。大学の近所の方があれこれと便利ではあるか」
「そう云う事。勤め先にもそう云ってあるし。まあ、一応建前としては、この上京の前半は仕事での出張と云う事なんだから、宿泊先が頑ちゃんの本郷のアパートと云う訳にもいかないしね。大学での仕事が済んだら、後はプライベートで五月五日まで過ごすから、その時には頑ちゃんのアパートに転がり込む予定よ。その折はよろしく」
「勿論大歓迎だよ。でも、世田谷の叔母さんの家の方には顔出ししなくて良いの?」
「取り敢えず東京に出て来る事は云ってあるけど、でもまあ、ちょっと立ち寄って実家から預かって来たお土産を渡すだけで、叔母さんの家には泊まる予定は立てていないわ」
「じゃあ、後半の三日間は一緒に居られる訳だな
「そう云う事。前半の四日間も仕事が終わってからは頑ちゃんと一緒よ。まあ、明日だけは久し振りと云う事で、先生と大学院の後輩と夜一緒に食事する事になっているけど」
(続)
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あなたのとりこ 399 [あなたのとりこ 14 創作]

「まあ、それは仕方が無いか」
 頑治さんは少し落胆の表情をして見せるのでありました。
 と云う事で、二人はその儘駅構内の通路を歩いて中央線のホームに移動するのでありました。もう夕方に近い時間になっていたから通路は急ぎ足に行き交う人で非常に混み合っていて、夫々が一つずつ下げた夕美さんの持ってきた大きな旅行カバンが、二人横に並んでのスムーズな足の運びを苛立たしく邪魔するのでありました。

 御茶ノ水駅で電車を降りて改札を抜けると、夕美さんはこの地を去ってから然して長い時間が経過していたと云う訳でもないのに、斜陽にやや赤みを増した駅前の交差点の雑踏に懐かしそうに目を細めるのでありました。もう自分はこの地の人間ではないと云う思い做しが、前に見慣れたこの光景への懐かしさをいや増すのでありましょうか。
 二人は大学の裏手にある、今宵夕美さんが泊まるビジネスホテルの方に向かって、矢張り手に下げた荷を持て余しながら坂をダラダラと下るのでありました。
 夕美さんがホテルのチェックイン手続きを終えるまで、頑治さんは然して広くもないロビーの片隅で床に置いた二つの荷を守りながら待つのでありました。手続きを終えて受け取った部屋のキーを、別に大した意味は無いのでありましょうが、見せびらかすような仕草をしながら近寄って来る夕美さんを待って、頑治さんもエレベーターに一緒に乗り込んで夕美さんの部屋に向かうのは、荷物運びの役を最後まで全うするためであります。
 ホテルのフロント係も宿泊者でもない頑治さんの行動を注意する事も無いばかりか、一瞥も呉れず別に何の関心も寄せないような態度であるのは、まあ、ホテルの仕来たりからすれば大らかと云えば実に大らかな様子と云えるでありましょうか。単に自分の仕事に熱心でないか、或いは至ってものぐさな性質だと云うだけかも知れませんが。
 一旦部屋に荷物を運び終えた後、頑治さんと夕美さんはすぐにまたエレベーターで下に降りるのでありました。夕美さんが部屋のキーをフロントに預ける間、頑治さんはまたロビーの片隅で今度は手ぶらで待っているのでありました。この後、少し早いけれどどこか近くの飲食店で夕食を一緒にしようと云う算段であります。
「何か食いたいものはあるかな?」
 頑治さんが訊くと夕美さんは少し首を傾げるのでありました。特段今宵の夕食として口にすべき特定のものは無いと云ったところでありましょうか。
「未だ夕食の時間にはちょっと早いから、あんまりお腹も減っていないわね」
「それもそうだなあ」
 頑治さんは首を一つ縦に動かすのでありました。「じゃあ、懐かしいこの街の近辺を、久し振りで少しの間ブラブラ散歩と洒落込もうか?」
「懐かしいと云ってもそんなに久し振りと云う訳でもないけどね」
 さっき御茶ノ水駅に降り立って駅前の交差点の光景を眺め遣っていた夕美さんのその目に思いを遣って、頑治さんはふと思い付いて散歩を提案したのでありましたが、その割には夕美さんの意外にすげない返事でありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 400 [あなたのとりこ 14 創作]

「さてそうなると、未だ夕食には早いからどうやって時間を潰すかな。・・・」
「散歩なんかより、これから頑ちゃんのアパートに行く、と云うのはどう?」
「まあ、それでも構わないけど、でも俺のアパートに上がり込んでまったりしていると、肝心の夕食の時間を逸するかも知れないなあ」
「別に良いじゃない。夕食の時間がきっちり決められている訳じゃないんだから」
「ま、それはそうだけど」
 夕美さんが泊まるのはビジネスホテルであり、観光地の観光旅館のように夕食が宿泊プランに付属しているのではないのだから、何時に何処で夕食を摂ろうとそれは随意でありますか。頑治さんの心配は的外れで間抜けなもののようであります。
「こっちに出て来てあたしが先ず行きたい処って云ったら、頑ちゃんのアパートと云う事になるものね。他は後回しで良いもの」
「ウチに置いていった見張りのネコの報告も聞きたいから、と云うのもあるか」
「そうそう」
 夕美さんは笑って何度か頷くのでありました。
 と云う事で、二人は先程降り立った御茶ノ水駅の方にまた来た道成りに並んで坂を上って、駅を横目にお茶の水橋を渡って、外堀通りを左に折れて神田川沿いにほんの少し歩いて、交通量の多い本通りを避けて順天堂大学横の脇道を抜けて、本郷給水所近くの頑治さんのアパートに辿り着くのでありました。この道筋は頑治さんの嘗ての通学路であり今の通勤路でもあります。だから夕美さんも当然これ迄何度も、この日のように頑治さんと一緒に、或いは一人で、頑治さんのアパートを訪うために歩いた路程でありました。
 時々夕美さんが神田川の土手下に目を落としたり、順天堂大学の建物を見上げたりするのは、多少の懐かしさからでありましょう。成程夕美さんにとっては、東京のこの界隈の風景は、今ではすっかり他所の地として認識されていると云う事なのでありますか。
 アパートの部屋に上がり込むと夕美さんは先ずは最初に、本棚の上に置いてあるぬいぐるみのネコを手に取って抱き竦めるのでありました。これはつまり自分の留守中の頑治さんに対する見張り役の労を慰撫してやっているのでありましょう。夕美さんはその後ネコを抱いた儘、テーブル代わりにしている布団の無い炬燵の傍らに座るのでありました。
「案外綺麗にしているわね」
 夕美さんはネコの背を撫でながら部屋を見回すのでありました。
「夕美が故郷に帰って未だ一か月くらいだから、そんなに汚す時間も無かったし、ひょっとしたら夕美が今日来るかも知れないと思って、昨日念入りに掃除したんだよ」
「殊勝な心掛けね」
 夕美さんはネコの背を撫でるのを止めないで満足そうに笑むのでありました。「ひょっとして部屋が散らかしてあったら掃除しようと思っていたけど、その手間は省けたわ」
「せっかくこっちに遣って来るのに、夕美にそんな不届きな厄介は掛けられないよ」
 頑治さんは一つ頷くのでありました。「コーヒーでも淹れる?」
「そうね、久しぶりに頑ちゃんのコーヒーが飲みたいわ」
(続)
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あなたのとりこ 401 [あなたのとりこ 14 創作]

 まあ、然程に熟達したコーヒー淹れの腕前は特にはないながらも、頑治さんは手動のミルで豆を挽き、紙ドリップで二杯分のコーヒーを丁寧に淹れるのでありました。夕美さんは久し振りの頑治さんの手になるコーヒーの立ち上る湯気に嬉しそうな表情をしてから、恐る恐るコーヒーカップの熱い縁に口を近付けるのでありました。
 結局夕食を摂るために頑治さんのアパートを二人して出たのは、それから三時間程経ってからでありました。その三時間てえものは、コーヒーが熱過ぎたので飲むのに三時間を要したとか、久し振りの再会にすっかり時を忘れて三時間、この間の二人夫々の身に起こった何やかやの出来事を、交互に飽かず喋り合っていたと云う訳でもないのでありましたけれど、まあ待ちに待った邂逅でありましたから、あれこれ色々、と云うか、それ程色々でも無いのでありますが、まあ何やら、やる事もあったと云う事でありましたか。・・・

 こちらに出て来たら先ずはこれを食べてみたい、と云う殊更のものは夕美さんには無いと云う事なので、二人は以前に偶に二人で入った事のある、お茶の水の山の上ホテル別館にあるレストランに入るのでありました。席に着いてから先ずは改めて再会を祝すためグラスワインで乾杯して、運ばれてきた料理にナイフを入れるのでありました。
「頑ちゃんの仕事の方はどんな感じなの?」
 夕美さんがワイングラスを口に運びながら訊くのでありました。
「まあ、ぼちぼちやっているよ」
「労働組合が出来て、この四月の給料からぐっと待遇改善されたんだっけね」
「多少、ね。そんなに、ぐっと、と云う程じゃないのかな」
「組合が出来た事で、件の両部長さんとの関係がギクシャクとかしていない?」
「その二人だけど、四月一日付けで取締役になったんだよ」
「へえ。つまりその二人も出世したのね」
 ワインを一口飲んでから夕美さんはグラスをテーブルに戻すのでありました。
「自分達の待遇に関して従業員と同じ賃金体系の中に居るのは不都合だから、そこから出るために役員になったのが第一の理由だと云う推察だけど、まあ、そうなんだろうな」
「じゃあ、その二人は従業員よりももっと大幅に待遇が改善されたと云う訳ね」
「具体的にどのくらいの待遇になったのか判らないから何とも言えないけど、しかしまあ当然、従業員の待遇にもう少し色を付けた好待遇なんだろうなあ」
「報酬がどのくらい上がったかとか、その辺ははっきり判らないの?」
「別に向こうからは何も云わないし、迂闊に訊けるような筋合いの事でもないし」
「まあ、それはそうか」
「組合員の中には、屹度社長を脅かして自分達より遥かに好い待遇を得たに違いないと云う推測もあるし、売り上げが芳しくないのが今次の組合結成やら何やらのすったもんだの元なんだから、経営陣として体裁上そんなに勝手放題に自分達の待遇を上げられないだろう、と云う推測もあるけど、まあ、その辺はどんな具合か俺にはさっぱり判らないな」
 頑治さんも一口飲んだワイングラスをテーブルに戻すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 402 [あなたのとりこ 14 創作]

「これ迄に聞いていた頑ちゃんの話しに依ると、その二人は自分達の待遇を差し置いてでも頑ちゃん達の好待遇を考えるような、献身的な人でも義に篤い人でもお人好しでもないみたいだし、屹度従業員よりも遥かに好条件を獲得したんじゃないの」
「組合の中の推察も、大体そんなところだけどね」
 頑治さんは冷ややかな笑みを浮かべながら頷くのでありました。「ところで、明日の夜は大学時代の友人と会食だったよね?」
 頑治さんは表情を改めて話題を変えるのでありました。
「そうね。仕事の打ち合わせの後で教授も交えて、新宿の住友ビルの中にある何とかって云う土佐料理の店で食事する事になっているわ」
「ふうん。皿鉢料理かな。鰹のシーズンの最盛期には少し早いように思うけど」
「何だかよく判らないわ。博士課程に進んだ同級生がその宴会を仕切ってくれるみたいだから、あたしはそれに乗っかるだけで、魚料理でもジンギスカンでも何でも良いの」
 夕美さんは恐らくそこで出されるであろう料理に対して、あんまり執着しているような風ではない口振りでありました。頑治さんと夕美さんの生まれ育った故郷は造船業を主体産業とする海の街で、近隣に大きな漁港も数多い事から子供の頃から海産物は、まあその中に鰹と云う魚類はあんまり見お目にかかった事はなかったとは云うものの、厭きる程食していたのでありましたから、魚介を使った料理に対する殊更の餓えはないのでありました。夕美さんはこの四月からその故郷に帰ったのでありますから尚の事でありますか。
「でも故郷ではそれこそ魚料理は珍しくもないけど、でも鰹とか赤身の肴なんかは、子供の頃からあんまり見た事はなかったよなあ」
「それはそうだけど、でもどちらかと云うとあたしはお肉の方が好きだし」
 夕美さんはあくまで無愛想で可愛気の無い事を云うのでありました。「あたしとしては明日の夜は頑ちゃんと一緒に過ごせない分、結局つまらないもの」
 これは頑治さんにとっては何よりの可愛気ある言だと云えるでありましょう。
「明日の宴会は何時に終わるの?」
 頑治さんはデレッと目尻を下げて訊くのでありました。
「そうね、七時始まりでそれから二時間として、九時くらいかしら。通例から二次会はないと思うけど、話しの盛り上がりに依ってはもう少し時間は延びるかも知れないわ」
「じゃあ九時頃、新宿に迎えに行こうか?」
「本当?」
 夕美さんは嬉しそうな顔をして見せるのでありました。「でも頑ちゃんが態々新宿に出て来るのは大変だから、それなら御茶ノ水駅で待ち合わせと云う事にしない?」
「別に俺としては新宿まで出て行くのはそんなに億劫でもないけど、でもまあ、お茶の水の方が夕美はホテルがすぐ近くだから何となく気楽かな」
「宴会が終わる頃に電話するわ」
 夕美さんは軽く握った左手の拳を頬の横に添えて、右手の人差し指で電話のダイヤルを回す真似を宙でして見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 403 [あなたのとりこ 14 創作]

「判った。八時には家に居るようにするよ」
「ところで五月一日は、頑ちゃんはメーデー行進に参加しなくて良いの?」
 夕美さんが話題を変えるのでありました。
「ああ、参加しなくて良いよ。大体、そんな七面倒臭いものなんか、誰も意欲的に参加したいとは考えていないから、ウチの組合内部の話し合いで、一応の義理から役員を含む三人が貧乏籤、と云う事になったんだ。全員強制的に参加と云う事になれば、ちょうど夕美がこっちに出て来る時だから困るなと心配していたんだけど」
「ああそう。あたしの仕事の方は五月の二日迄に取り敢えず片付く事になっているし、後は五日迄ずっとプライベートの時間になるから、三日間は丸々頑ちゃんと一緒に過ごせるわね。その前も、五月一日を含めて、まあ、仕事の後は一緒に過ごせるけどさ」
「そうだな。若しメーデー行進参加の予定が入っていたら、五月一日が丸々台無しになるかも知れないところだった。まあ、何か理由を付けてサボる事も出来なくもないけど」
「義理堅い頑ちゃんの事だから、そうなっても屹度サボりはしないと思うけど」
「いやいや、夕美との時間のためなら、躊躇いなく突然の腹痛にでも何にでもなるさ」
 頑治さんは別にその時、腹に痛みを感じた訳でもないけれど、掌を胃の辺りに添えて背を丸めて蹲るような仕草をして見せるのでありました。
「ふうん、そう」
 夕美さんは端から頑治さんのその言を信用していないようでありあした。「まあ良いや。兎に角後半の五日間はみっちり頑ちゃんと過ごせそうで楽しみよ」
 夕美さんはそう云ってグラスに残ったワインを飲み干すのでありました。

 翌日、頑治さんは仕事が終わると会社の近くの洋食屋で夕食を済ますと、七時前にアパートに帰って来て、そわそわしながら夕美さんからの電話を待ちながら過ごすのでありました。昨日の夕美さんの言に依れば、電話がかかってくる時間は宴会終了後の九時過ぎと云う事でありますが、そうすると未だ二時間もある訳であります。その間、取り敢えずシャワーを浴びてその後は本でも読んで時間を潰すとしても、それでも結構な待ち時間でありますか。まあ、それに苛々しても全く以って詮無い事ではありますけれど。
 電話のベルが鳴ったのは九時を四十分以上過ぎた頃でありましたか。頑治さんがベルの鳴り端を捉えて素早く受話器を取るのは、余程待ちに待っていた故でありましょう。
「ああ、あたしよ。遅くなって御免なさい」
 夕美さんが先ず謝るのでありました。
「遅かったところを見ると、宴会での話しが随分と盛り上がっていたのかな」
 そう云う頑治さんには別に皮肉を云ってやろうと云う気は全く無いのでありました。
「本当に御免なさい」
 夕美さんの声は恐縮で消えも入りそうでありました。
「今、お茶の水かな?」
「ううん、未だ新宿なの」
(続)
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あなたのとりこ 404 [あなたのとりこ 14 創作]

「ああそう」
「御茶ノ水駅に帰り着くのは十時を過ぎちゃうかもね」
 これはやんわりと夕美さんが、頑治さんが態々御茶ノ水駅に迎えに来てくれるのを遠慮しようとして発した言葉のようにも聞こえるのでありました。
「今日は疲れたかい?」
「ううん、別に疲れてはいないけど」
「だったら折角待っていたんだから、一応御茶ノ水駅に逢いには行くよ」
「面倒臭いんじゃない?」
「別に俺としては億劫でも何でもないけどね」
「でもそれは何となく悪いわね。これから逢ったとしても、精々ちょっとの時間、喫茶店か何処かでお喋りするくらいしか出来ないんじゃないかしら」
「それでも構わないよ。俺としては一応夕美の顔を見て今日を終わりたいから」
 その頑治さんの言葉を聞いて夕美さんがほんの少し黙るのは、然程大袈裟なところではないにしろ、ちょろっと感動したためかも知れないと頑治さんは手前味噌に推察するのでありました。しかし夕美さんの感動を喚起する魂胆で頑治さんはそんな事を巧んで云ったのではなく、これは頑治さんの素直な思い以外ではないのでありましたけれど。
「じゃあ、御茶ノ水駅に着いたら、その儘頑ちゃんのアパートに行こうかしら」
「いや、そうしたら多分、その儘ずるずる、結局俺の家に泊まる事になるんじゃないかな。それは拙いだろう。夕美は明日も朝から大学で仕事だろうから。だったらお茶の水で逢って、その後はちゃんと夕美の泊まるべきホテルに帰る方が無難じゃないかな」
「まあそれはそうだけど。・・・」
 夕美さんは今度は感動ではなく落胆からまた少し黙るのでありました。と、頑治さんは受話器の向こうの夕美さんの心情を、前と同じく手前味噌に推し量るのでありました。
「じゃあ、まあ、取り敢えず御茶ノ水駅の改札辺りで待っているよ。」
 頑治さんはそう云って電話を切るのでありました。
 その日はそんな束の間の逢瀬で我慢するとしても、明日も明後日も夕方以降は一緒に居られるし、その後五月三日からは夕美さんは頑治さんのアパートで、東京滞在の残り三日間を頑治さんと一緒に過ごすのであります。今日の我慢は、云ってみれば明日以降に訪れる歓喜の濃度をいや増すための、一種の演出だと心得れば良いのでありますか。
 頑治さんはそんな事を考えるともなく考えながら出掛けるために玄関で靴を履くのでありました。アパートの扉を開けると、ほんの少し夏の匂いの雑じった夜風を頬に受けるのでありました。頑治さんは足取り軽く御茶ノ水駅に向かうのでありました。

 五月一日はメーデーで従業員は日比課長を除いて全員有給休暇を取るのでありました。年次有給休暇とは別にメーデーは特別の休暇とするように先の団交で要求したのでありましたが、それは叶わないのでありました。まあどうせ、毎年有給休暇を使い果たせないのが恒でありましたから、組合員全員この要求に然程の拘りはないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 405 [あなたのとりこ 14 創作]

 メーデー行進に参加するのは委員長の袁満さんと書記の那間裕子女史、それにどうせ暇だからと参加を引き受けた出雲さんの三人でありましたが、一応の義理から頑治さんと均目さんも、行進には参加しないながらもメーデー中央集会が行われる代々木公園には出向くのでありました。新人組合員の甲斐計子女史はそれも免除、と云う事でありました。
 那間裕子女史は昨日までの名残の寒気が、夜が明けると同時に嘘のようにすっかり緩んで、初夏晴天の好日となったが五月一日をこんなイカさない行事で潰されるのは、全く以ってげんなりであると愚痴を零すのでありました。しかし袁満さんと出雲さんは多少のお祭り気分があるようで、全総連から手渡された、徴兵制を許すな! 等と小銃を持った兵士の絵にバッテンが描いてある手書きのプラカードを、もの珍し気に眺めたり両手で差し上げたりしながら、ただ只管閉口するのみと云う風でもないのでありましたか。
「こんなつまらない行事に動員される日に限ってこんな絶好の行楽日和になるんだから、何となく悔しくなっちゃうわね」
 那間裕子女史がプラカードに描かれた小銃を持つ陰鬱そうな表情の兵士に向かって愚痴を云溢すのでありました。当然ながらそんな事を云われても兵士は女史に向かって銃をぶっ放す事もなく、陰鬱気な表情を更に沈鬱に曇らすと云う事もないのでありました。
「結局行進中に持つ事なったプラカードはこれですか?」
 均目さんが袁満さんの持つプラカードの兵士に向かって皮肉な視線を投げながら云うのでありましたが、別に兵士は恐縮する事も当然ないのでありました。
「もう一つ、米軍基地撤廃、と書いてあるプラカードとどっちにするかと担当の人に訊かれて、基地撤廃の方はこれより大判で重そうだったからこっちの方にしたんだよ」
 袁満さんは兵士に同意を求めるような視線を向けて返すのでありました。勿論絵の兵士はこれにも無言無表情を貫くのでありました
「労働運動とは直接関係ない、全くの政治的なスローガンですよね」
 均目さんが小さな舌打ちの音を立てるのでありました。
「こんなのを持って街中を行進するのはうんざりだわ」
 那間裕子女史が袁満さんが胸元に抱えているプラカードを指で弾いて見せるのでありました。この挑発行為に対しても兵士は何も反応せずに堪えるのでありました。なかなか冷静沈着で相当の忍耐力を有する、慎に頼りになる有能な兵士と云うものであります。
「ま、労働組合の中でも、組織の中の人は決まって否定するものの、客観的な目線に依れば、政治党派性の極めて強い全総連だから仕方が無いと云えば仕方が無いけど、でも建前上は組合員の政治的考えは自由だと云っているんだから、こういうプラカードを持って行進するのは政治的に右翼の自分としては嫌だと、断ろうと思えば断れる筈だよなあ」
「別にあたしは右翼でも左翼でもないもの」
 那間裕子女史はそう云う、人をすぐに政治的に色分けしようとする考えには全く以って無関心であると云う冷ややかさを、均目さんを見る視線に込めるのでありました。確かに那間裕子女史の口からは、普段の会話の中でも政治性の高い話題は殆ど漏れてこないのでありました。まあ、袁満さんにしても出雲さんにしてもそうでありますが。
(続)
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あなたのとりこ 406 [あなたのとりこ 14 創作]

 全体行進が始まってそれを免除されている事に多少の後ろめたさを覚えるものだから、頑治さんと均目さんは街区一区画分くらいを、東京駅迄の全路程に参加する予定の袁満さんと那間裕子女史、それに出雲さんと一緒に付き合い歩きするのでありました。
「じゃあ、申し訳無いけど唐目君と俺はこの辺でばっくれる事にするよ」
 均目さんがそう云って全路程参加組の三人に片手を挙げるのでありました。
「ああ判った。態々代々木公園迄出て来て貰って有難う」
 袁満さんが慎に人の好い礼辞を述べるのでありました。
「折角だから東京駅まで付き合えば良いのに」
 那間裕子女史がこれで放免となる頑治さんと均目さんに対して、恨みがましさの大いに籠った云い草をして見せるのでありました。
「そうしたいのは山々ではあるけど、前に云っていたように今日は随分以前から予定していた、どうしても外せない用があるから、これで勘弁してください」
 均目さんが那間裕子女史に向かって合掌するのでありました。何時もと違ってここで語尾を敬語にしたのは、申し訳無い心情の表れと云うところでありますか。
「唐目君は?」
「ええ、済みません」
 頑治さんは少し深めにお辞儀して見せるのでありました。
 青山通りに差し掛かった行列から態とはぐれた頑治さんと均目さんは、原宿駅の方に向かって元来た道を戻るのでありました。
「唐目君はこの後すぐに用があるんだっけ?」
 均目さんが原宿駅が見えた辺りで横を歩く頑治さんに訊くのでありました。
「いや、実はすぐにと云うのではなくて、用と云うのは夕方からなんだけどね」
 その日夕美さんは仕事で朝から大学とか文部省とかに行く予定でありました。依って、それが夕方の五時には終わる筈だから、その頃に大学近くの喫茶店のレモンで待ち合わせてどこかで一緒に夕食を、と云う段取りなのでありました。
「あの三人には云っていないけど、実は俺の用と云うのも夕方からなんだ」
 均目さんはそう云ってチョロっと舌を出して見せるのでありました。「じゃあ、新宿にでも出て、昼にはちょっと早いけど何処かで飯でも食うか」
「ああ良いよ」
 均目さんが原宿駅の近くではなく、新宿にでも出て、と云うのは普段から代々木や原宿辺りには生活圏として殆ど縁が無い故でありましょう。まあ、頑治さんもこちらの方面には、偶に渋谷迄行く事はあっても、何故か殆ど足を止めた事はないのでありました。

 別にこれと云って行きたい店は無かったから、頑治さんと均目さんは靖国通り沿いの何時も行く洋風居酒屋近くの、雑居ビルの地下一階にある洋食屋に入るのでありました。そこは五人掛けのカウンター席と椅子席が三つと云う小振りの、前に一度酒の前の腹拵えと云う心算で、那間裕子女史と均目さんと三人で入った事のある店でありましたか。
(続)
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