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あなたのとりこ 381 [あなたのとりこ 13 創作]

「そんな事を云って、問題をはぐらかさないでくれるか均目君」
 土師尾常務は均目さんを睨むのでありました。先程の経緯もあって、均目さんが自分の一睨みに対して思いの外腰が引けないだろと云う感触は、慎に忌々しい事ながら端から有してはいるような風情が、その睨む瞳の中に色として現れているのでありました。
「いやいや、会議の大前提として、常務の了見が抑々おかしいと云っているんです」
 均目さんは拘って見せるのでありました。勘繰れば、そこに拘って譲らない振りをしながら、袁満さんへの攻撃の矛先を少し鈍らせてやろうとの意図からかも知れません。
「大体この会議の議題と云うのは、どのような形態に社長や常務が会社をしていく心算なのかとか、会社の将来の見取り図と云うのか、展望を伺うと云う趣旨で我々従業員が提案したものですから、まるで敵味方みたいな感覚で個人攻撃に徒に時間を費やさないで、本来話し合うべき事を淡々と話す方が建設的なんじゃないですかねえ」
 那間裕子女史がこの場を丸く収めようとしてかそんな事を云うのでありました。
「しかし、こちらがそう云う話しをしようとしても、君達が好い加減な態度でこの会議の臨んでいるのなら、どんなに真剣に話しをしても無駄じゃないか」
 土師尾常務としてはあくまで袁満さんが先ず以って自分の怠慢を認めない限り、話しを先に進める意志は更々無いと云う事のようでありました。
「確かに具体的な数字を確認しながら一つ々々の事柄に付いて話をしないと、将来の展望を語れとか催促されても、実際どう話して良いものか困るねえ。適当なスローガンをでもぶっ放せばそれでいいと云うのなら、それは幾らでも並べる事は出来るけど、それじゃああんまり会議の意味は無いだろうしねえ。そうは思わないかい那間君?」
 社長が畳みかける心算か、口の端に苦笑を湛えて云うのでありました。「抽象的な、如何にも綺麗な事を云って取り繕おうとするのは止めた方が良い。要するに会議に臨む姿勢がなっていないところを、誤魔化そうとしての事なんだろうから」
「どこが抽象的な綺麗事よ。冗談じゃない」
 那間裕子女史がいきり立つのでありました。「要するに経営者として、始めから会社の将来の展望も見取り図も頭に無いものだから、筋違いなところを何でもかんでも論って、些末な個人攻撃で本題を取り敢えず誤魔化そうとしているんじゃないか、と云う風にしか見えないわ、今の土師尾常務の態度や社長の話し振りからは。それでこの会議を乗り切れると云う目論見なら、ナメてかかるのもいい加減にして欲しい、と云うものよ」
 何か挑発的な事を云われたと感じたら反射的に、見境もなくその相手に喧嘩腰で対抗しようとする傾向は、那間裕子女史も土師尾常務もそんなに違いは無いのかも知れないと頑治さんは秘かに思うのでありました。まあ、ご当人達の総合的キャラクターの違いとか、個人的な付き合いの濃淡や、こちらのシンパシーの度合から、そこに一種の愛嬌を感じ取るかそれとも単なる軽蔑を感じ取るかの違いは両者の間に明快にあるとしても。
「何を失礼な事を云うんだ!」
 打てば響くように(!)、土師尾常務が目を吊り上げるのでありました。「要するに那間君にはこちらの話しなんか、初めから聞く気が無いと云う事だな」
(続)
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あなたのとりこ 382 [あなたのとりこ 13 創作]

「誰がそんな事を云いました!」
 那間裕子女史の方もなかなかの反応であります。
「だってそう云う事じゃないか!」
「あくまでも実のある話しをしてくれるのなら傾聴はしますよ。でも些末な事の揚げ足取りばかりして、結局実が無いのを誤魔化しているようにしか見えないもの」
「未だこちらが何も喋ってもいないのに、実が無いなんてどうして判るんだ!」
「それじゃあ、聞きましょうか」
 那間裕子女史は口元に挑発的な微笑を浮かべるのでありました。「さあ、その実のある話とやらをさっさと喋ってくださいよ」
「何だその云い草は!」
「何だ、じゃないわよ!」
 こうなっては収拾も何も付かないと云うものであります。土師尾常務と那間裕子女史の剣幕に怖れをなして他の誰もが口を開かないのでありました。袁満さんはあらぬ方向に目を遣ってあからさまにオロオロと狼狽の身じろぎを見せるし、社長も均目さんも取り成しの言葉を挟むタイミングも掴めないで目を瞬かせながら茫然と、対峙する二人の顔に視線を、目が合ったらすぐに逸らす備えをしながら投げているのでありました。
「そう云えば前に何かの折に片久那制作部長が、大学時代の友人で静岡の新聞社に勤めていた人が今度独立して、広告代理店の会社を始めた、なんて云っていましたかねえ」
 緊張に今にも破裂しそうな場の空気にまるで馴染まないのんびりした声色で、頑治さんがゆっくりと話し始めるのでありました。頑治さんの喋り方の穏やかさも然る事ながら、この会議に欠席している片久那制作部長の名前が唐突にここに出てきたものだから、皆の注意が一気に頑治さんの口元に集中するのでありました。片久那、なる姓をここで出す事の効果を、頑治さんとしては勿論充分に予め計量しているのではありました。
 その名前に限りなく気後れを感じている土師尾常務の俄かにたじろぐ表情が、頑治さんの横目にチラと映るのでありました。那間裕子女史の狼狽も確認出来るのでありました。頑治さんは二人の嵩じた気持ちの萎縮を認めてから徐に後を続けるのでありました。
「その友人と片久那制作部長は長い間の昵懇の間柄だそうで、何時か出雲さんをその人に紹介しても良いと云うような話しをされていましたよ」
 ここで頑治さんは出雲さんの方に目線を固定するのでありました。「そう云う具体的で有力な伝を取り掛かりとして営業活動をする方が、取り敢えず現地に行って限られた時間の内に手当たり次第にそれらしい会社を訪問して回る、と云った茫漠とした営業の仕方よりは、様々な点で効率が良いし商売の目算も立つのではないでしょうかね。まあ、業務担当の僕が身の程知らずに口出しするべき事では無いかも知れませんけど」
「ほう、そう云う話しがあるのかね?」
 社長が先ず興味を示すのでありました。
「それは正に好都合と云うものだ。願っても無い魅力的な話しじゃないかな」
 日比課長がここで空かさず賛同して見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 383 [あなたのとりこ 13 創作]

 この日比課長の間髪を入れない同調は社長に対するヨイショ狙いと、地方特注営業に対して大した意欲も定見も、端から持ち合わせていないであろう土師尾常務への遠回しの当て擦りの魂胆があると頑治さんは思うのでありました。まあしかし日比課長の魂胆はここでは取り敢えず脇に置いて、頑治さんは出雲さんに向かって続けるのでありました。
「烏滸がましいけど、自分の方から片久那制作部長に話しを振ってみましょうか?」
「ああ、そう云う事ならよろしく頼みます」
 出雲さんが藁をも掴むような表情で大いに乗り気を見せるのでありました。

 土師尾常務がここで咳払いするのでありました。それは、人を批判する事に総ての言を費やして会話を紛糾させ続ける自分を恥じて、これから先高次元の会議にするための心機一転の咳払い、と云う訳では勿論ないのでありました。はたしてと云うべきか、誰もの期待を裏切らない下らない下心からと云うべきか、どうやら頑治さんの発言以来、暫し自分が無視されている事を恨んでの、一種の自己主張のための咳払いのようでありました。
「今ここに居ない片久那制作部長の事は取り敢えず置いておいて、僕が出雲君と一緒に営業周りをする方が先じゃないかな、事の順序としては」
 どうしてそちらの方が先なのか云っている事がさっぱり判らないながら、それを指摘するとまた逆上して余計筋違いの雑言を撒き散らすに決まっているから、頑治さんは決して侮蔑的には見えない、寧ろ至極穏やかそうな笑みを浮かべて、土師尾常務に対してそれは正にご尤もである、と云った具合に何度か頷いて見せるのでありました。
「常務の親心は勿論多とすべきところではあります」
 頑治さんは畏れ入るように目を伏せるのでありました。「因みに例えば、出雲さんが回っている地方の街とかに、多方面に顔の広い常務の、昵懇にしているギフト会社とか、仕事関連の知り合いがいらっしゃる広告代理店とか、おありになりますかねえ?」
「いや、そっちの方面には特に、・・・」
 土師尾常務は首を小さく一度横に振って、歯切れ悪そうに云うのでありました。「多分業界の知り合いに声を掛ければ、何社かはピックアップ出来ると思うけど。・・・」
 だったらさっさとそれを実行して出雲さんの仕事を助けろよと、そう云いたいのは山々ながらそれをグッと堪えて、頑治さんは口元の無邪気そうな微笑と、彼の人に対する心服と謹慎さをそこはかとなく表するような顔付きの維持に努めるのでありました。
「それは好都合ですね。恐らくかなり有力な手掛かりになるでしょうからから、ご苦労をおかけしますけど、そちらの線に先ずは当たっていただけますでしょうか?」
「勿論それは、唐目君に云われる迄も無くやってみるけど」
「で、その有力な常務の伝が本格的に動き出す前に、小手調べと云うのも何ですけど、片久那制作部長の線を先ずは試してみると云うのはどんなものでしょうかねえ?」」
「まあ、僕の方を台無しにしないための小手調べなら、それも良いかも知れない」
「ああそうですか。今常務のお許しを得たようですから、僕がさっき話した片久那制作部長の線を先行して進めても、それは構わないですよね?」
(続)
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あなたのとりこ 384 [あなたのとりこ 13 創作]

「それは、まあ。・・・」
 土師尾常務は曖昧に、頷くような頷かないような仕草をするのでありました。
「じゃあ出雲さん、早速片久那制作部長に持ちかけてみますから同席してください」
 頑治さんは出雲さんの方に顔を向けるのでありました。
「ええ、お願いします」
 出雲さんは頑治さんに頭を下げるのでありました。頑治さんは微笑を返して頭を元の正面に戻す序に土師尾常務の顔をチラリと窺うと、仏頂面で眼鏡の奥の目を何度か瞬かせているのでありました。頑治さんの提案を許した事が後々自分の権威を貶める禍根とならないかとか、或いは益々頼りになる上司像に於いて片久那制作部長に差を付けられて仕舞わないかとか、恐らくそう云う辺りをあれこれ秘かに計量しているのでありましょう。
 何をどうしてしていいのやら今の今迄皆目見当がつかないと云った按配だったので、出雲さんは感謝に満ちた目で頑治さんを見ているのでありました。その視線を感じて頑治さんも、この自分も少しは役に立てるかしらと仄々と嬉しくなるのでありました。
 それにしても土師尾常務の当初の目論見では、出雲さんを崖際に追いつめて自ら眼下の海へ墜落させようとする心算だったのだとしたら、頑治さんは余計な差し出口をしたと云う事になるのでありましょう。それを恨みに思って後々色々と嫌がらせめいた事をされるのは、何とも厄介至極であると頑治さんはチラと考えるのでありました。
「袁満君の仕事に就いても、何か良い方策はないものかねえ」
 社長が頑治さんの顔を見ながら訊くのでありました。
「これはすぐに有効な方策と云う事ではないのですが、日本全国を幾つかに分割して、その分割された各地方に拠点を構築すると云う方法が常道だとは思います」
 頑治さんとしては、これはぼんやりと考えていた事で、具体策とかは未だ何も思い付いてはいないのでありました。「その拠点々々を袁満さんが差配する事にします」
「各地方に拠点、ねえ」
 社長がそう繰り返して首を傾げるのでありました。頑治さんの云っている事が何とも茫漠としていて、俄かには理解出来ないと云った表情でありましたか。
「要するに各地方々々に、前に袁満さんや出雲さんが出張営業でやっていたように、そのエリアの観光地やホテルや旅館、それにお土産屋さんなんかを細目に回る人員を配置して、その人を袁満さんがこの事務所に居て遠隔で統括すると云う事ですよ」
 これだけでは未だ茫漠具合が晴れなかろうと頑治さんは続けるのでありました。「その配置する人員と云うのは、勿論会社で新たに社員として雇用するのではなく、例えば各地のギフト関連や一種の卸業をやっている会社とか、或いは売り上げに応じて儲け分を支払うマージン取引契約を結んだ個人とかで、嘱託とか契約社員と云う身分で、担当地方を回って貰う訳です。まあ、そう云う会社や個人を見付けると云う手間はかかりますが」
「そう云うのは僕も前に考えた事もある」
 土師尾常務が口元に冷笑を浮かべて云うのでありました。「しかしなかなか、そんなウチに都合の好い人や会社なんか、今のこのご時世、おいそれと見つからないよ」
(続)
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あなたのとりこ 385 [あなたのとりこ 13 創作]

 頑治さんは抑々、前に考えた事もある、と云う土師尾常務の言を虚偽だと勘繰るのでありましたが、まあそれは兎も角、頑治さん如きが考える事くらい自分は疾うに考え付いていたと云う事を、つまり体裁上社長の前で云いたいのでありましょう。
「常務は例えばそう云う会社があるかどうかとか、或いはそう云う仕事をやってみても良いと云う人がいないかを、実際に探してみたのでしょうかね?」
 頑治さんは反発の言と取られないように、穏やかな口調で訊くのでありました。
「まあ、少しは当たってはみたよ」
 これも、実際は当たってなんかいないのだろうと頑治さんは穏やかな表情の裏で考えるのでありました。万事が上の空のくせに、好い加減な事を如何にもしかつめぶった顔で宣うのは、この人の特技でありますか。要するに一種の法螺吹き気性でありますか。
「少しは、ですか?」
 頑治さんは愛嬌の色をやや消して、追及するような険しさを微妙に宿した目付きで重ねて訊ねるのでありました。その頑治さんの目から土師尾常務は微妙に視線を逸らすのでありました。それは竟うっかり、頑治さんの言にたじろいだからでありましょう。
「まあ、僕も様々仕事を抱えているから、それ専門に動き回る訳にはいかない」
「自分で動けないなら、袁満さんに僕が今云ったような、と云うか、常務が疾うに考え付かれていたと云うその方策を、アドバイスされた事がありますかね?」
「いや、そんなアドバイスなんか受けた事はないよ。まあ、営業方法に関するアドバイスと云う事に関しては、それに限った事じゃなく、今迄一切受けた例がない」
 袁満さんが横から受け応えるのでありました。その言に不愉快を感じて土師尾常務は袁満さんをジロリと睨むのでありましたが、袁満さんが故意に目を合わさないようにしていたためか、特段それ以上何か云い募る事はしないのでありました。
「袁満さんには、今迄の地方出張営業経験から、袁満さんの仕事を代行してくれそうな会社とか個人とか、思い当りませんかねえ?」
 頑治さんは、今度は袁満さんに聞くのでありました。
「今ここでは何とも云えないけど、でも、唐目君が云った方法は有力かも知れない」
 袁満さんは少し乗り気を見せるのでありました。こちらも茫漠とした暗闇の中でほんのりながら現実的な具体策の炎が見えたと云った感奮があるようであります。
「探せば、何か突き当たるものがありそうですかね?」
「無い事も無いような気がする」
「そう云う事なら、僕にも心当たりの人材がありますよ」
 社長がここで口を挟むのでありました。「いやね、下の紙商事をもうすぐ定年退職するけど、未だ働きたいので嘱託で構わないから何か継続して仕事をやらせてくれと云う男が居るんだよ。全く新しい会社に改めて就職すると云うのは、年齢的にもこのご時世的にもなかなか難しいので、出来たら紙商事関連の仕事をしたいようなんだが、この男は紙商事の専務と相性が悪くて、専務はこれを機に綺麗さっぱり縁切りする心算なんだよ」
 紙商事の専務と云うのは社長の奥さんの弟さんなのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 386 [あなたのとりこ 13 創作]

 下の紙商事の実情に於いて社長と社長の奥さんの弟である専務と、どちらが実際上の支配力が上なのか頑治さんには全く詳らかではないのでありましたが、この場合社長としては専務の意向を尊重する心算のようでありまあすか。
「僕としては何とかその男に仕事をさせてやりたい気があるんだけどね。まあ、紙商事関連の仕事ではないけれど、ちょっと話しを持ち掛けてみようかな」
「どんな感じの人なんですか、その方は?」
 袁満さんが社長に訊くのでありました。贈答社と下の紙商事は兄弟会社であるけれど、殆ど社員間では交流が無いため袁満さんはその人を知らないようでありました。
「始めは上野にある紙商事の倉庫の管理要員として雇ったんだけど、なかなか仕事振りが手堅くて目端が利くから僕が営業をやらせてみたんだ。その後はその儘ずっと営業社員として働いてきたんだ。矢目奈伊蔵と云う名前の男だけど、袁満君は知らないかなあ」
「いやあ、知らないですかねえ。ひょっとしたら顔は見知っているかも知れませんが」
 袁満さんは頭を掻くのでありました。「ところでその人は、例えば長期の車での行商、みたいな仕事なんかは大丈夫なんでしょうか?」
「矢目君はずっと独り者でねえ、家族が居ないから状況としては多分大丈夫だろうけど、まあ、当人がそんな仕事ははやりたくないと云うかも知れないけど」
「ああそうですか。それは話しをしてみてから、と云う事になりますかねえ」
「ま、そう云う事だなあ、今のところは」
「でもまあ、どういう風な様相になるか具体像ははっきりとしませんけど、でも、唐目君の提言から、何となくやるべき仕事の目鼻が見えてきたような気がするよ」
 袁満さんが頑治さんの方を見て微笑みかけるのでありました。そうであるのなら、頑治さんとしても僭越ながら提案した甲斐があったと云うものでありますか。

 この間土師尾常務は自分を脇に置いて話しが色々と進行しているのが気に入らないように、ソファーの背凭れに深く身を沈めて腕組みをして外方を向いているのでありました。どだい今取り上げられている袁満さんの仕事の話題には、無神経な茶々や云いがかりを付けるのは吝かならぬけれど、元々この御仁には大して興味も無いようであります。
 それに売り上げ上昇のための秘策を練っていると云うよりは、大した能力も無い奴原が無い知恵を絞って愚策をとやこうしているようにしか、その目には映っていないのでありましょう。まあ、ご当人自身の営業力とか行動力とか、延いてはオツムの出来不出来に関してはうっかり脇に置いて、と云う事ではありましょうけれど。
「未だ全く具体的な話しでは無いですけど、その矢目さんと云う方がウチの出張営業を手助けしてくれる事になったら、少し大型の営業車両が必要になるかも知れませんねえ」
 袁満さんが随分のお先走りにそんな事を云うのでありました。それは自分のこれからの仕事に少しの目鼻が付いたような気になって、嬉しくなって竟、口から零れた一種の軽口か冗談の心算であったのでありましょうが、それに今迄口を閉ざしていた土師尾常務が、待っていましたとばかりに俄然噛み付いてくるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 387 [あなたのとりこ 13 創作]

「営業車両は会社としては今後購入する心算は無いよ。車を所有すると色々経費もかかるし、その経費に見合うだけの成果が見込めないのに、そんな無駄な出費はしない。また従来の効率の悪い出張営業の形態を繰り返すのは、もう懲り々々だからね」
「ああそうですか。別に、そんなお先走りの説教を頂戴するくらいなら、今の俺の発言は取り消しますよ。ちょっとした話しの接ぎ穂の心算だったんだから」
 袁満さんは小さな舌打ちの後に如何にも不愉快そうに云って、一端土師尾常務の顔を敵意満載の喧嘩腰の目で睨んでから外方を向くのでありました。
「どういう事だ、その舌打ちと不貞腐れたような態度は!」
 土師尾常務が熱り立つのでありました。常務取締役たる自分への敬意が微塵も無い態度だと袁満さんの仕草を取ったようであります。日頃から薄々推察は付いていたものの、袁満さんが自分に対して寸分の敬意すら抱いていないし、心服もしてもいないに違いないと云う一種の強い欲求不満が、ここでも竟、堪え切れずに口から溢れ出て仕舞ったと云う感じでありますか。まあ、袁満さんの方も確かに些か粗野ではありましたけれど。
「まあまあ、そんなに興奮しなくても」
 社長が土師尾常務を宥めるのでありました。「車の件なんかは、今ここでどうこう云わなくてはならない事ではないし、それは後々考えれば良い事で」
 社長がどちらかと云うと袁満さんの味方に付いた風なのが面白くないようで、土師尾常務は不興気な顔を社長に向けるのでありましたが、そんな顔を見せて判らず屋が駄々を捏ねているような印象に取られるのを恐れてか、すぐに眼容の露骨な不満の色を消すのでありました。一応社長に対しては常務としての体裁を気にしているようであります。
「具体的な出張営業形態とかは後に袁満さんと常務がじっくり詰めるとして、当面袁満さんは今迄の仕事を代行してくれそうな会社なり個人なりを探すと云う方針で動くし、その一環として今社長からご紹介いただいた矢目さんと云う方に話しを持って行ってみると云うところで、今日の会議の決定事項としては充分なんじゃないですかねえ」
 頑治さんが云い出しっぺの責任から、そんな総括を述べるのでありました。
「そうね、今日のところは充分だね。方針が見えただけでも俺としては御の字だし」
 袁満さんが頷くのでありました。
「じゃあ、僕の方で矢目君に話しをしてみよう。若し矢目君がこの申し出を受ける気があるようなら、後で土師尾君なり袁満君なりに報告する事にしよう」
「私に云っていただければ結構です。袁満君には私の方から話します」
 土師尾常務が空かさず社長に云うのでありあしたが、袁満さんはこれを、初めは袁満さんの仕事なんかには無関心の上の空だったくせに、社長が乗り気を見せると俄然横から袁満さんと社長との間に顔を差し挟んできて、袁満さんより手前で社長の面前に対しようとする土師尾常務の厚顔無恥な烏滸がましさだと取ったようでありました。
 袁満さんはまたも土師尾常務を、まるで天敵に対するような表情を以って睨むのでありましたが、今度は舌打ちは控えるのでありました。それをグッと堪えて、また土師尾常務につまらない難癖の口実を与える愚を避けたと云ったところでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 388 [あなたのとりこ 13 創作]

「ところで日比君の方の営業は、少しは回復の兆しが見えてきたのだろうか?」
 土師尾常務が日比課長の方に顔を向けて話題を変えるのでありました。急に自分の事に話しが移ったので、日比課長は多少面食らったような表情をするのでありました。
「まあ、見積もりの依頼は少し増えてきたような感触ですかねえ」
「実際にどの得意先からどのような見積もり依頼が来ているんだろう?」
「色んな会社から、色々と。・・・」
 日比課長は暫し云い淀むのでありました。「そうですねえ、一番最近の事では、東西商事から車のディーラーが商談成立した顧客に配る豪華版のロードマップの見積もり依頼がありましたかね。あの商品にしては少し部数多めの見積もり依頼でしたかねえ」
 日比課長の云う東西商事とは、或る大手の自動メーカーの特定のキャンペーン商品とか販促品を専門に扱っている、池袋に本社のある広告代理店でありました。頑治さんも小口商品を納品するために以前に車で訪問した事がある会社でありました。
「豪華版のロードマップと云うのは当然ウチの商品じゃないよね」
「そうですね。全日本地理出版社のやつです」
 全日本地理出版社の豪華版ロードマップと云うのは、贈答社が時々仕入れて、表紙に箔押しで企業の名前入れして売っている商品であります。大判で値段が張るので大量部数捌けると云うような商品ではないのでありましたが、そこそこ堅実な売り上げが見込める人気商品ではありましたか。勿論他社製品でありますから仕入れた価格に数割の儲け分を乗せて売るので、自社製作製品よりは利は薄いのでありますけれど。
「一体何部の見積もり依頼があったのかね?」
「五十部と百部で夫々の見積もりです。ま、ウチで製作している商品ではないから、そのくらいの部数差では殆ど単価は変わらないんですがね」
 この日比課長の言葉の、最初の方の部数を聞いた段階で、土師尾常務は露骨にもう既にがっかりして興味を失った、と云うような表情をするのでありました。然程、起死回生的売り上げを期待出来るような部数なんかでは到底ないとの落胆からでありましょう。
「なあんだ、その程度の数字か」
 土師尾常務は小さく舌打ちするのでありました。「そんな小口じゃ、焼け石に水、と云ったところじゃないか。それはここのところの売り上げ低迷を吹き飛ばすような商売ではないな。他にもっと大量の売り上げにつながるような見積もり依頼とかは無いのか?」
「そう云われてもなあ。・・・」
 日比課長は土師尾常務のその評言で自尊心を甚だ傷つけられたみたいで、顔を顰めて彼の人を睨むのでありました。「だったら常務の方には何かないのですかね、売り上げ低迷を軽く吹き飛ばすような、景気の良い取引の話しは?」
 そう訊かれて土師尾常務は不愉快そうに口を歪めるのでありました。しかし口を歪めるだけで何も云わないところを見ると、これと云って紹介出来る景気の良い取引話しを有してはいないのでありましょう。それでも、ここで口を噤んでいると日比課長に遣り込められた体裁になるので、何か云い返そうと考えを急いで回らしているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 389 [あなたのとりこ 13 創作]

「有力な話しも幾つかあるけど、未だ発表出来る段階ではない」
「なあんだ、要するに何も無いと云う事か」
 日比課長は侮るような口振りながら、上司への憚りからかそれとも単なる小心からか、土師尾常務の顔から目線を逸らして独り言めかして呟くのでありました。
「しかし私が今進めている有力な商談と云うのは、豪華版ロードマップの五十部とか百部とかの、大して有難くもない小さな儲け話しなんかとは違うよ」
 日比課長如きの肚の座っていない侮りなんぞは、歯牙に掛ける程の重さも無いと云うところを表するためか土師尾常務は、ここは喧嘩腰にはならすにあくまで日比課長を見下したような余裕の口振りで云うのでありました。しかしこれは取り敢えず日比課長への自分の優越を誇示するため以上の云い草ではなく、実際その素振りから、然程に有力で大きな商談をどこかの会社と進めているような気配は何ら窺えないのでありました。
 この人は自分を大きく見せるためのホラ話しを何の躊躇いも無く、効果の見込みや計算も無く、単にその場凌ぎと対抗心から、口から出任せに吹いて見せるのは得意中の得意でありましたか。ちゃんとした状況分析も無いものだから、元来からその言動を疑っている向きには他愛なく魂胆を見透かされて仕舞うのであります。その見透かす最有力者が片久那制作部長で、片久那制作部長の前では自分の吹いたホラが端から通用しない事を知っているから、用心して結果的に軽蔑されるような虚言は極力控えているのでありました。
 とまれ、日比課長は土師尾常務にそう軽く往なされて不本意ながら沈黙するのでありました。何とはなしの苦手意識から来る土師尾常務に対する弱腰でありますか。
「でも常務のその有力な商談と云うのは、何処の会社からの話しで、どの商品を大体どのくらいの部数でとか、その程度は具体的に話せるでしょう?」
 これは、日比課長の無意味な弱気と追及言葉の全然鋭利でないところに焦れた那間裕子女史の、土師尾常務に向かって発せられる言葉でありました。思わぬ方向から追及の礫が飛んで来たものだから、土師尾常務は那間裕子女史を睨むのでありました。

 那間裕子女史は、追及するに於いての言葉の鋭さと緻密さと云う点で、日墓課長よりは少し手厳しいでありましょう。それに勿論、那間裕子女史は直接の上司である片久那制作部長との対比に於いて、土師尾常の方には畏敬の念も薄かろうし、だから然して心服する謂れも無いし、畏れ入ってもいないでありましょう。土師尾常務はその那間裕子女史を睨む目線に、日比課長に対するそれとは違って警戒の色を込めるのでありました。
 元々土師尾常務には、片久那制作部長程の怖さではないにしろ、自分の口八丁に、均目さんも含めた制作部の連中は、営業部とは違って簡単には丸め込まれないだろうと云う認識があるようであります。まあ尤も、頑治さんの机も制作部スペースにあるのではありますが、この認識中に、頑治さんはどうやら含まれてはいないようでありますけれど。
「今は未だ、特に披露するべき時じゃない」
 土師尾常務は言を濁して逃げようとするのでありました。しかし那間裕子女史は端からホラと見做しているから、追及の手をそれで緩める事はしないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 390 [あなたのとりこ 13 創作]

「つまり本当は、具体的に進展している話しなんか何もないと云う事ね。如何にもそんな話しがあるように仄めかして、勿体付けているけど」
「勿体なんか付けてはいない。失礼な事を云うな」
 土師尾常務はそうに吐き捨ててソッポを向くのでありました。
「そうやってこう云う場合の常套手段としてすぐ声を荒げるくせに、でも目をあたしからオドオドと逸らせるのは、要するに何も無いと云う証拠じゃないのかしら」
 那間裕子女史は土師尾常務が視線を逸らしたその仕草を、ばつの悪さから逃れるためだと解したようで、手を緩めずに益々追い詰めていく魂胆のようであります。「実は披露出来る話なんか何も無いくせに、まあ、もう少し配慮してあげて柔らかく云うと、未だ披露出来る程に具体化もしてもいない、一種の自分に都合の好い勝手な感触だけしか無い段階のくせに、それを以って日比さんの事を罵るなんて云うのは全くいただけない遣り口だわ。少なくとも日比さんの話しの方が、土師尾さんのそれよりは遥かに具体的だもの」
 これではちっとも、配慮してあげた柔らかい云い方、にはなっていないだろうと、聞きながら頑治さんは内心で竟々笑って仕舞うのでありました。
「製作の人間が営業の事に、半可通に口出ししないでくれるか」
 土師尾常務は流石にこう迄云われると、自尊心と常務取締役と云う地位から、那間裕子女史を怖い目で睨んで見せるしかないのでありました。それでも返す言葉が無いから取り敢えず凄んでいるのだろうと云う風に見えないように配慮したのか、口角から遠慮なく泡を飛ばす程嵩じた云い口にはなっていないのでありましたが、それでも自分の持てる凄みを目一杯利かせて、強い口調にはしているようでありましたけれど。
「そんなに凄まなくても別に良いですよ」
 那間裕子女史は挑発的な物腰で、そんな剣幕なんぞは屁とも思っていないと云うところを見せるのでありました。挑まれるとしおらしくなるどころか余計感情をエスカレートさせて挑み返すと云う那間裕子女史の性向の方に、土師尾常務は先ず配慮すべきであろうと頑治さんは思うのでありました。全くの下手なあしらいと云うべきでありますか。
「まあまあ、二人共落ち着いて」
 社長が間に入るのでありました。「那間君、仮にも会社の常務取締役と云う立場の人に対して、そんな不謹慎なもの云いは良くないよ」
 社長は先ず那間裕子女史を諌めてから土師尾常務の方を向くのでありました。「土師尾君もすぐにカッカとして売り言葉に買い言葉みたいな対応をしないで、常務としてもう少し高いところから話しをした方が、皆の心服を得られるんじゃないかねえ」
「誰も元々、心服する気なんかありませんけど」
 那間裕子女史は、これも万事に対して反発力旺盛なその性格から社長の折角の取り成しをも台無しにしようとするのでありました。社長はこれに思わずムッとしたようでありましたが、今の土師尾常務の態度を諌めた手前ここで怒りを見せるのも示しが付かないと、ぎゅうと堪忍袋の緒を引き絞り、ぎごちない笑みなんぞを浮かべるのでありました。
「まあまあ、そんな風に云わないで」
(続)
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あなたのとりこ 391 [あなたのとりこ 14 創作]

「どう云う経緯からか、話しが変な隘路に入り込んで二進も三進も行かなくなったようだけど、ちょっと落ち着いて一息入れた方が良いかな」
 袁満さんが社長に同調して場を落ち着かせようとするのでありました。
「あたしは誰かさんと違って、別に始めからずっと落ち着いているけど」
 那間裕子女史が土師尾常務を一睨みした後に、今度は仲裁役の袁満さんの方に険しい視線を送りながら、未だそう云う憎まれ口を叩いているのでありました。しかし場の大勢としては一息入れる事に皆異論は無いようで、気を利かせて席を立って茶を入れるためにであろう、傍らの流し台の方に移動する甲斐計子女史を制止する声は何処からも上がらないのでありました。均目さんと那間裕子女史、それに出雲さんは茶を断って、事務所を出てすぐの、駐車場の傍らにある自動販売機で缶コーヒーを買ってくるのでありました。 

 十五分ほどの休憩を挟んで、全体会議は再開されるのでありました。
「さてところで唐目君、特注営業については何か考えるところはないのかな?」
 社長が頑治さんにそんな風に話しを向けるのでありました。これは先程の出雲さんや袁満さんの仕事の話しの折に、些かなりとも具体的でクールな意見をものした頑治さんを見込んでの名指しでありますか。頑治さんは突然の指名にたじろぐのでありました。
「いやあ、そう云われましても特注営業となると、・・・」
 頑治さんとしては日頃から考えている腹案が全く無い訳ではないのでありましたが、土師尾常務が頑治さんの話しなんぞに意を動かすとは到底思えないので、社長の諮問に面食らった様子を前面に出して云い渋るのでありました。
「君は業務の仕事に限らず、営業にも製作にもなかなかちゃんとした考えを持っているようだから、何か良い方策でも考えていないかと思ってね」
「いやあ、僕如きが妙案なんか到底考え付きませんよ。僕が考え付くような案なら、疾うに土師尾常務や日比課長が考え付いていらっしゃるでしょうし」
 これは頑治さんの謙譲の言と云うよりは、それを聞いた後の土師尾常務の意地になって頑治さんの話しを一蹴しようとする態度からの、予めの逃避と云う意味合いが強いでありますか。どうせ何を云っても真剣に聞きもしないでありましょうし、ひょっとして頑治さんの何かの言葉に不意に沽券を傷付けられたと感じたら、また目くじら立てて逆襲しようとムキになってくるでありましょうから。そんな鬱陶しさは平に願い下げであります。
「ああそうかね。特注営業については特に意見は無いと云う訳かね」
 社長はそれでも頑治さんに何か云わせたいような気配でありましたか。しかしそれに気を良くして迂闊に何か喋り始める程、頑治さんはお調子者でもおっちょこちょいでもないのでありました。まあ、会社の将来を真摯に憂えているのなら、拙い意見でもここでちゃんと披露するのが愛社精神ではありましょう。しかしその愛社精神も土師尾常務の前では竟々出し惜しみして仕舞うのは、これはさて、是と非のどちらでありましょうや。
「唐目君は時々都内の得意先に車で納品に行ったりする機会があるけど、その折に、先方と接触して何か感じる事とかは無いのかなあ」
(続)
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あなたのとりこ 392 [あなたのとりこ 14 創作]

 日比課長が身を乗り出しながらそう訊くのでありました。
「いやあ、特には何も。ありきたりの挨拶を交わす程度で」
「ああそうか。まあ、それはそうだろうけど」
 日比課長は乗り出した身をまた背凭れの方にゆっくり戻すのでありました。ひょっとしたら結構本気で、頑治さんがこれから喋るであろう事に何やらの期待を秘かにしていたのかも知れないと、日比課長のそう云う所作を見ながら頑治さんは思うのでありました。
「単に云い付けられて納品に行くだけなんだから、唐目君にそこの会社とウチとの営業上の機微なんかが判る筈がないし、先方だって単に納品に来ただけの作業服を着た人間に、何やかやと営業上の話しを態々する筈もないだろう」
 土師尾常務もひょっとしたら頑治さんと同じ感触を日比課長の所作に感じて、日比課長のある意味迂闊な期待を窘めようとしてそう云うのかも知れませんし、或いは頑治さんのものす言葉に対して、社長も含めてこの場に在る皆が過剰に期待する向きがあるのを面白く思わないで、ちょいとばかり水を差そうとしてそう云うのかも知れません。
「土師尾君も日比君も、出来るだけ頻繁に見込みのある会社にコツコツと出向いて、兎に角どんな小口でも、何かしら仕事を取って来る心算でいないとね。ある意味先方に煩がられるくらいでないと、このご時世、なかなか仕事は貰えないだろうよ」
 これは嘗てリヤカーに紙を積んで、足を遣ってあちらこちらと回って売り歩いたと云うこの社長の、経験から身に付けた営業流儀でありましょう。
「餌は蒔いているんですけど、不景気ですからなかなか食い付いてくれません」
 土師尾常務が色々方策を講じているところを社長に訴えるのでありました。「景気が好い時は照会も見積依頼も頻繁に来るんですけどねえ」
「そう云う、ご時世のせいにするのは営業としてのプライド上、どうなのかねえ」
 社長がやんわりと土師尾常務の言葉に反発を呉れるのでありました。
「そう仰いますけど、現実にはなかなか。・・・」
 土師尾常務はゆっくり首を横に何度か動かすのでありました。「ウチの今の商品ラインアップでは、思うような展開が見込めないですしねえ」
「売り上げが伸びないのは営業力ではなく商品に問題があるから、と云う事ですか?」
 ここで那間裕子女史が土師尾常務の言葉に突っ掛かるのでありました。
「特注営業的に魅力のある商品が自社製品に少ないのは事実だ。だから利益が薄いけれど他社商品に頼らざるを得ない。実際の営業する側としての要望とかアドバイスを制作サイドに伝えても、こちらの意向にはさっぱり無関心のようだから営業意欲も削がれる」
 これは土師尾常務の制作部への、延いては片久那制作部長に対するストレスの表明でありますか。営業サイドの意を充分酌んだ商品開発をしてくれないから積極的で闊達な営業活動が出来ないし、だから結局売り上げが恒常的に落ちていったんだという論でありますか。その真偽は置くとしても、土師尾常務の思いはそうであるのでありましょう。
「売り上げがじり貧になったのは制作部が良い商品を作らないからで、自分の意気込みや営業力が無いせいじゃないと云うような繰り言を、要するに主張したい訳ですね」
(続)
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あなたのとりこ 393 [あなたのとりこ 14 創作]

 那間裕子女史が聞き捨てならないと云った風に土師尾常務を睨むのでありました。均目さんも多少は柔らか目ではあるけれど同じ制作部の人間として、土師尾常務に向ける目付きに於いて那間裕子女史にすっかり同調するのでありました。
 土師尾常務としては、社長にじんわり仄めかしたい事を、そうもはっきり那間裕子女史に言葉にされたものだから、女子以上に不愉快気に眉根を寄せた表情を作るのでありました。まあしかし、要はそう云う思いに間違いはないと云う事でありますか。
「利益率の点から云っても、勿論他社商品よりも自社商品を売り上げる方が良いに決まっているじゃないか。でも特注営業ではウチの製品よりも他社のものの方が色んな面で魅力的で、圧倒的に引き合いが多いのは紛れもない事実だ」
 確かにこう土師尾常務が云うのは一理あって、元々自社の製品は地図類にしても他のものにしても、地方出張営業用に作られた旅行関連の商品が割合としては多いと頑治さんは思うのでありました。しかし首都圏や他の地区の交通図とかペーパークラフトのペンスタンドとか正多面体商品等は、カレンダーとか他の用途に加工したりする事で、特注営業に展開出来るように作られたものであります。最近の制作部の仕事はどちらかと云うと、こう云った特注営業関連の商品開発の方が多いかなと云う頑治さんの感触であります。
「いや、最近は出張営業用の商品よりも、特注営業用のものが多い筈ですよ」
 均目さんも同じような事を考えたようでこう反駁するのでありました。「しかも廉価で大部数の注文を狙って開発したものが。その代表格が首都圏や近畿圏の交通案内図で、これは常務の要望を取り入れて片久那制作部長がデザインして、今でもより良いものにしようと漸次改良を重ねている商品でしょう。一昨年はこの首都圏交通案内図カレンダーで、損害保険会社のキャンペーン商品として、大量部数の発注があったじゃないですか」
「そう云う事も偶にはあるけど、でも他社商品に圧倒的に依存している点はあんまり変わらない。得意先の傾向としても、矢張り先ずそちらの方に先方の目は向かう」
「そこを自社商品重点で営業するのが常務の腕でしょう。それをさて置いてまるで制作部の商品開発力が無いためのように云うのは、営業として明らかに無能よ」
 この那間裕子女史の言は自分の営業手腕を見縊ったものだと土師尾常務は、案の定この人のお決まり通りにそう捉えて、甚だしく自尊心やら体裁やらを傷つけられたようで、そ目尻が眼鏡越しにみるみる吊り上がるのがはっきり判るのでありました。
「失礼な亭な事を云うな!」
 土師尾常務は声を荒げるのでありました。しかし那間裕子女史は迫力満点の心算の土師尾常務の喧嘩腰を始めから嘗め切っているものだから、ちっとも尻込みしないのでありました。寧ろ落ち着き払って口角に不敵な笑みなんぞを浮かべて、土師尾常務を逆に怯ませようとするのでありました。なかなかに腹の座った不遜千万な態度であります。
「そんなに真っ赤な顔をして興奮しないでも良いですよ」
 那間裕子女史は憫笑を浮かべて冷めたように云うのでありました。片久那制作部長程の迫力や凄みは、その童顔と細身の体躯からだけではなく日頃の嘘や誇張の多い言動からしても、どう足掻こうが土師尾常務には到底真似出来る代物ではないようであります。
(続)
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