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あなたのとりこ 485 [あなたのとりこ 17 創作]

「どうかな、素っ気無くしないで、ちょっとくらい考えてみてくれるかな?」
 頑治さんがどう云う心算かなかなか捗々しい返事をしないものだから、片久那制作部長はそう訊いて頑治さんの出方を見ようとするのでありました。入社以来色々あって頑治さんが会社に辟易としていると踏んでいたのに、その頑治さんがすぐに自分の話しに跳び付いて来ないのが、片久那制作部長にすればちょっと心外だったのかも知れません。
「大変有難いお誘いです。・・・」
 頑治さんは語尾に屈託をそれとなく込めるのでありました。
「すぐには大した給料も出せないが、軌道に乗ったら出来るだけの厚遇はする心算だ」
「まあ、未だ仕事を始められる前なんですから、収入の事は今の段階で何とも云えないのは理解出来ます。自分もそこにはあんまり関心はないですし」
「と云う事は、そこ以外は、関心を持ったと云う風に考えて良いのかな?」
「いやまあ、そう云われると何とも返事の仕様がないのですが。・・・」
「まあ、未だ山のものとも海のものとも知れないところに来いと誘われても、そう易々と踏ん切りが付かないのは判るが、しかしこの儘贈答社に居てもあんまり先の見込みはないように思うけどなあ。第一唐目君の真価を常務や社長は判ってくれないだろう」
 何とか持ち上げてくれる片久那制作部長の言葉は心地良いのではありますが、掛け値無しにそやしてくれている訳ではないとも思うのであります。一定程度は本心から頑治さんの仕事の力量、若しくはひょっとしたら人間性辺りも大いに評価してくれているような口振りではありますけれど、しかし未だ互いに知り合って然程経ってもいないのでありますから、頑治さんの真価にしたって山のものとも海のものとも未だ知れない訳ではありませんか。頑治さん自身も、その片久那制作部長の世辞に見合う力量を自分が保有しているとはなかなか思えないし、後でがっかりされるのも何となく癪な事ではありますし。
「自分の真価なんかは、高が知れているじゃないですか」
 片久那制作部長はその云い草に頑治さんの気持ちの冷えを察したようで、それ以上云い募らずに少し口の動きを止めるのでありました。何となく重苦しい空気が泥むのでありました。頑治さんのちっとも煮え切らない様子に、遂にここに至って片久那制作部長は気分を害して仕舞ったのではないかと、頑治さんは少しおどおどするのでありました。折角目を掛けてやっていると云うのに、何とも目の掛け甲斐のないヤツでありますか。
「まあ、すぐに返事してくれなくても構わないけど、少し考えてくれないか」
 片久那制作部長はそう云ってこの会話を締め括るのでありました。どうやら頑治さんのその後の諾の返事は殆ど期待していないような、白けた気持ちの籠った片久那制作部長の云い草でありました。どうやらこれは脈無し、と判断したようであります。
 頑治さんとしては大いに魅力的な誘いではありました。片久那制作部長が云うように、この儘贈答社に残っても仕事に於いても待遇に於いても、先には大して優良な見込みはなさそうではあります。しかし何だか、諸共に苦難に立ち向かおうと誓い合った他の従業員を差し置いて、あっけらかんと自分だけそんな不遇から遁走するような具合で、それは如何にも潔くない仕業で、依って俄かにはこの誘いには乗れないのであります。
(続)
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あなたのとりこ 486 [あなたのとりこ 17 創作]

 この後片久那制作部長は不快感を仄見せて黙るのでありました。尤もこの人のつれない様子はこの時に限った事ではなく、常日頃のものとも云えるでありましょう。依って今の頑治さんとの会話に依って不機嫌になったとは断定出来ないのではありますが、頑治さんとしては何となく身の置き所の無い心持ちでハンドルを握っているのでありました。

 宇留斉製本所に到着すると、片久那制作部長は最初に顔を合わせた先方の長女さんににこやかに挨拶を投げるのでありました。その言葉つきなんぞは、別に頑治さんとの車中での屈託なんぞにはまるで頓着していないと云った様子でありました。
「あらまあ、お珍しい人がいらっしゃったわねえ」
 長女さんは目を剥いて驚いて見せるのでありました。「御大自らお出ましになるのは、一体全体どういう風の吹き回しかしら。何か悪い話しでも持っていらしたのかしらねえ」
「いやまあ、そう云う事ではないんだけど」
 片久那制作部長は苦笑するのでありました。
「あらま、片久那さんじゃないの」
 次女さんが長女さんの言葉を聞きつけて傍に遣って来るのでありました。こちらにも片久那制作部長はにこやかな顔を向けるのでありました。
「どうした気紛れで、こんなむさくるしいところに態々いらしたのかしら?」
 長女さんが片久那制作部長にまあ中に入ってくれと云う手付きをするのでありました。
「気紛れで来たんじゃないですよ。ちょっと報告があるものだからね」
 片久那制作部長は作業場に上がるのでありました。相変わらず中は山積みされた折本やら折丁類で取り散らかっている様子で、その間を縫うように長女さんと片久那制作部長は衝立で仕切られた奥に消えるのでありました。奥には以前製本台として使っていた古い木製の大机とパイプ椅子四脚で、至って簡易な接客スペースが設えられているのでありました。頑治さんは前に覗いた事はありましたが、入った事は無いのでありました。
 頑治さんは何時も通りに持参した材料類を車から下ろして、入り口脇に積まれた、出来上がった製品の入った梱包された段ボール箱を代わりに車に積むのでありました。
「今日は三女さんはいらっしゃらないのですか?」
 頑治さんは受取証にサインをしながら、別に本気で気になったのではないけれど、ちょっとした愛想で次女さんにそう訊くのでありました。
「うん、ちょっと家の用で今日はお休みなのよ」
「ああそうですか」
「ところで片久那さんは、何の用があって今日態々来たの?」
「ええとそれは、・・・」
 別にここで喋っても構わないのではありましょうが、片久那制作部長は今奥で長女さんに自分が会社を辞める事になった経緯等話しをしている最中でありましょうから、それを同時にここで自分が次女さんに話して仕舞う事に頑治さんはけじめの点で僭越を感じるのでありました。まあしかしそれは余計な気の回し方だろうとも思うのでありましたが。
(続)
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あなたのとりこ 487 [あなたのとりこ 17 創作]

「今月の二十日を以て、片久那は事情に依り退社する事になったんです。それで、その報告と、長年のお付き合いのお礼旁、今日は寄せて頂いたと云う訳です」
 頑治さんのそう告げる声は必要以上に小さいのでありました。
「え、片久那さんが会社を辞めるの?」
 頑治さんの、奥に居る二人に気を遣った小声に比べると、目を剥いてそう口走る次女さんの声は全く無頓着に大きかったので、頑治さんは少しまごまごするのでありました。
「ええ、そうです」
「何でまた、辞める事になったの?」
「いや自分もあんまり詳しい事情とか経緯は知らないのですが、まあ兎に角、事実として今月で退社する事になったのです」
「へえ、驚いたわ」
 次女さんは未だ目を剥いた儘なのでありました。「でも片久那さんが居なくなったら、会社はちゃんと遣っていけないんじゃないの?」
「いやまあ、そんな事もないと思いますけど。・・・」
 先日の片久那制作部長から直接退社する意志を聞かされた後の、神保町駅近くの居酒屋に於ける酒宴の折の、社員全員で共有した、片久那制作部長辞職後も会社の業務を円滑に回して行けるだろうと云う感触を踏まえて、頑治さんはあんまり確然とではないながらもそう云うのでありました。しかしそれにしても、長い付き合いだからか、この次女さんも片久那制作部長が会社を辞める事の深刻さをほぼ正確に判っているようであります。
 程なく長女さんと片久那制作部長は揃って衝立の奥から出て来るのでありました。
「片久那さん、会社を辞めるんだって?」
 早速次女さんが頓狂な声で片久那制作部長に訊ねるのでありました。
「まあ、そう云う事で」
 片久那制作部長は何となく曖昧に苦笑って見せてから、頑治さんの方をチラと見るのでありました。僭越にももう喋って仕舞ったのかと云う咎罪の色が少し混じった視線でありました。頑治さんはおどおどと視線を外すのでありました。
「会社の主みたいな片久那さんが辞めたら、会社は遣っていけないんじゃないの?」
 次女さんは心配そうな顔をして見せるのでありました。
「いや、そんな事はありませんよ。私が居ようが居まいが贈答社は今迄と変わらずに遣っていきます。ですから贈答社とはこれ迄通り昵懇にお付き合いをお願いしますよ。私が居なくなっても、相変わらず唐目は週一回定期に来て、材料類の搬入と出来上がた製品の引き取りとかをしますから、仕事は従来と何の変更もありませんよ」
「ああそうですかねえ」
 次女さんは不安な気色の儘ながら、一応納得の頷きをするのでありました。
「じゃあ、三女さんにもよろしく」
 片久那制作部長は長女さんの方に顔を向けてそう云った後、頑治さんの方に視線を移すのでありました。「もう、荷物の積み下ろしは完了したのかな?」
(続)
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あなたのとりこ 488 [あなたのとりこ 17 創作]

「ええ、済みました」
 その頑治さんの返事を聞いて一つ頷いてから、片久那制作部長は長女さんと次女さんの顔を交互に見るのでありました。
「じゃあ、これ迄色々お世話になりました。どうぞこれからもお元気で」
「こちらこそお世話になりました、片久那さんの方こそお元気で」
 長女さんがお辞儀するのでありました。
「会社を辞めても、若し池袋の方に来るような事があったら、まあ別に何も用はないだろうけどここにも立ち寄って下さいよ。お茶の一杯くらいは何時でもご馳走しますよ」
 次女さんも頭を下げるのでありました。
「有難うございます」
 片久那制作部長も次女さんのありきたりな惜別の言葉に一礼してから、頑治さんに顎で行くぞと云う無言の合図を送るのでありました。頑治さんは頷いて、見送る長女さんと次女さんに挨拶してから車の運転席側のドアの取っ手に手を掛けるのでありました。
 帰りの車の中では片久那制作部長は終始無言でありました。行きがけに自分の始める新しい仕事に頑治さんを誘ってみたけど、頑治さんが期待した程捗々しい返事をしなかったものだから、帰路は打って変わってとことんすげなくダンマリを決め込んでいると云う事でありましょうか。若しそうなら袁満さんや日比課長に対する時の土師尾常務ならいざ知らず、片久那制作部長にしては余りに大人気無い仕業と云うものでありましょうか。
 しかし案外この片久那制作部長は相手の態度が自分の意に染まない場合は、こんな無愛想な態度を露骨に取る事もあるのであります。土師尾常務と違って片久那制作部長のその態度には、反発よりも先ず恐怖を感じて仕舞うのでありますが、この場合頑治さんは、だからと云って焦ってこちらから矢鱈に喋りかけたりはしないのでありましたけれど。
 車中に得も云われぬ居心地の悪さが重く泥むのでありました。それでも頑治さんは敢えてそわそわしないで、落ち着き払った風にハンドルを操作しているのでありました。

 数日後の昼休みに、頑治さんは均目さんに昼食を一緒にと誘われるのでありました。何時もならこういう場合は大概一緒の那間裕子女史は、その日は風邪気味なので会社を休むと、始業時間を大分過ぎてから電話があったのでありました。
 均目さんがその電話を取ったのでありましたが、風邪と云う割には声も別に鼻声とか変な風でもなく、一応装っているのだろうから元気そうには聞こえはしないものの、かと云ってそれ程重い病状を窺わせるようでもなかったと均目さんは云うのでありました。例に依って寝過ごして慌てて跳び起きたは良いけれど、会社に行くのが面倒臭くなって、風邪の口実で狡休みしているのであろうと均目さんは笑いながら付け足すのでありました。
「片久那制作部長が会社を辞めた後、自分で本の編集請負とか雑誌の委託された記事なんかを書く仕事をする、と云うのはもう唐目君も知っているよなあ」
 時々、どこも混み合っている場合に仕方なく行く、あんまり流行っていない中華定食屋に陣取って、餃子ライスが来るのを待ちながら均目さんが訊いてくるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 489 [あなたのとりこ 17 創作]

「ああ、知っている。大学時代の知り合いの紹介とかで、本の編集と雑誌の記事書きと、それから今贈答社でやっているNGRグローブ社の地球儀の地図面作成の仕事も、先方のたっての希望で贈答社から引き継いで遣っていくと云う事らしいね」
 頑治さんはプラスチックコップに入れて出された水を飲むのでありました。「その話しと云うのは、均目君は片久那制作部長本人から直接聞いたのかな?」
 均目さんは一つこっくりをして自分も水を一口飲むのでありました。
「昨日珍しく誘われて、片久那制作部長行きつけの神田の居酒屋で一緒に飲んだんだよ。一体何の話かと思ったら、急にそう云う話しをされたんだ」
 ははあ、と頑治さんは心中で頷くのでありました。片久那制作部長は均目さんにも自分の新しく始める仕事を手伝わないかと誘いをかけたのでありましょう。
「で、贈答社を辞めて、自分の仕事を手伝う気は無いかと打診されたのかな?」
「そう。唐目君にもそう云う話しを今持ちかけている最中だと云っていた」
「ふうん。で、俺はどう云う反応だった、とかは云っていなかったのかな?」
「それは別に聞いていない。打診中だとだけね」
「成程、打診中、か」
 頑治さんはまた水を飲むのでありました。「俺と均目君にそう云う話しがあったと云う事は、那間さんにも働きかけているのかなあ?」
「いや、那間さんには話していないそうだよ」
「那間さんはお誘い無し、と云う事かな?」
「まあ、そんなところのようだね。俺と唐目君を狙い撃ち、みたいだ」
 ここで二人分の餃子定食が無愛想な女店員に依って運ばれてくるのでありました。
「それで、均目君はどうする心算なんだい?」
 餃子の焼いた儘に並んだ皿と丼飯と、それに味噌汁の入ったプラスチック碗が二人の前に夫々配膳されて、店員が立ち去るのを待ってから頑治さんが訊くのでありました。
「魅力的な話しだと思う」
 均目さんは味噌汁を一口啜るのでありました。
「つまり乗り気だと云う事かな?」
「まあそうだね。この儘贈答社に残るよりは、自分の将来像はすんなり描けそうだ」
「それに社長や土師尾常務の下に居るよりは、片久那制作部長の下に居る方が余程頼り甲斐もあるし、安心感もあると云うところかな」
「それも勿論そうだね」
 均目さんは餃子を口に放り込むのでありました。「唐目君はどう思う?」
「まあ、社長や土師尾常務より片久那制作部長の方が、結託するには利がありそうだ」
「何となく棘のある云い方だな」
 頑治さんの顔をまじまじと見た後で、均目さんは少し白けたような、それに警戒するような表情をしてから云うのでありました。「あんまり乗り気ではないのかな?」
「そうねえ、・・・」
(続)
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あなたのとりこ 490 [あなたのとりこ 17 創作]

 頑治さんは思わせぶりに片頬で笑うのでありました。
「那間さんじゃないけど将来に亘って編集者で遣っていく心算なら、今の贈答社で編集者だか地図類や図版の修正屋だかお土産品の工作屋だか、何だか判らない中途半端な仕事をしながら燻っているより、片久那制作部長の下にいる方が正解だと思うけどなあ。片久那制作部長が居なくなったら、贈答社は益々出版とか編集の仕事と縁遠くなりそうだし」
 こう云う均目さんは、片久那制作部長の誘いにもう殆ど乗っかる気になっているようであります。均目さんにとっては願ってもない誘いと云うところでありますか。
「しかし片久那制作部長は、辞めていく自分の後釜として、均目君にあれこれ自分のこれ迄遣っていた仕事を引き継いだんじゃなかったのかな?」
「その心算だったんだろうけど、贈答社を辞めた後の自分の身の振り方を色々検討していく内に、とても自分一人では手に余りそうな具合になって来たので、そうなると気心も知れていて、力加減も大体判っている俺や唐目君を誘おうと考えたんだろうな」
「俺としてはその辺に、ちょっと引っ掛かりがあるんだよ」
 頑治さんはここで味噌汁を一口啜ってから続けるのでありました。「少し自分勝手と云うのか、ちゃっかりし過ぎやしないかってね。もっと酷く云えば、贈答社に後ろ足で砂をかけて去っていくような風じゃないのかってね。日頃、義理人情や筋やけじめに対してストイックな体面をとっている人にしては、去り方が何となく矛盾していると云うのか」
「だって、今迄散々社長や土師尾常務の酷い遣り口に我慢に我慢を重ねていたんだから、若し去り際に酷いところがあっても、それでお相子と云うところじゃないかな」
「いや、どんなに我慢していたとしても、自分も社長や土師尾常務と同類の真似をして去っていくと云うのでは、全く片久那制作部長らしくない去り方じゃないかな」
「まあそう云われればそんな感じもするけど。・・・」
 均目さんは餃子を口に放り込もうとしていた動作を直前で止めるのでありました。
「俺は、片久那制作部長に続いて抜け駆けのように自分も辞めると皆に云うのは、あっけたかんと小狡い裏切りをするようで大いに抵抗がある」
 頑治さんは餃子を口に入れるのでありました。
「それもそうかも知れない。唐目君の云う事は正論ではあるかな」
 均目さんは餃子を皿に戻して味噌汁を啜るのでありました。「でも将来の事を考えると、ここは好機と考えるのは、俺はそんなに悪い事ではないように思うよ」
 ここで頑治さんも味噌汁を一口喉に流し入れるのでありましたが、思いも依らず和布の小さな欠片が唇に煩わしく張りついてきたので、それを舌で拭い取る手間で、発語する自然なタイミングを何となく外して仕舞うのでありました。
「でもまあ抜け駆けは、鎌倉時代とか戦国時代ならいざ知らず、今の風としては無念で恥ずべき行為の範疇に分類されるんじゃないかな」
 その科白の何となく頓馬な感じは、タイミングが狂ったせいばかりではないなと、頑治さんは自分の弁舌の拙さにうんざりするのでありました。
「でも、堅苦しい倫理感とか一本気で将来の可能性を棒に振るのもどうかと思うけど」
(続)
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あなたのとりこ 491 [あなたのとりこ 17 創作]

「成程ね。それはそうかも知れないし、そう考えるのは均目君の自由だ」
「何かすっきりしないもの云いだな。それに妙に他人事みたいな云い方だ。この件は唐目君の身の振り方とか将来にも関わる事でもあるじゃないか。唐目君は一体この片久那制作部長の誘いのどこが気に入らないんだろう?」
 均目さんは咀嚼を止めて頑治さんを上目遣いに見るのでありました。
「まあ、好い話しだとは思うよ。でもその好い話しにおいそれと乗っかるのは、嫌に抜け目がなくて図々しいように思えてならないと云うところかな」
「世の中はきれい事だけではなかなか遣っていけないぜ」
「でもちっとばかり抜けたところがあっても、何とかかんとか遣っていけはするさ」
「要するに唐目君としては、倫理に於いて、この片久那制作部長の誘いにすんなりと乗っかるには、大いに抵抗があると云う訳だな」
「倫理とか云うよりも、何となく自分の流儀に合わない、とでも云うのかな」
「生きていく上での流儀、と云う事かい?」
「好み、と云っても云いよ。俺の心根としてはもう少し感覚的なところなんだけどな。何だか均目君のもの云いはちょっと大仰な気がする」
「生理的な嫌悪感があると云う事か」
「そう云う云い草にしても、矢張り妙に大仰だ」
 頑治さんは均目さんの顔から目を外して苦笑うのでありました。「俺はこう見えてもなかなかのエエ格好しいだから、野暮は、どうにも好まない」
「片久那制作部長の誘いに乗るのが野暮と云う事かい?」
「それも野暮に思えるし、それ以前に大仰なもの云い自体が野暮だし」
 こう云われて均目さんは少しムッとした表情をするのでありました。
「生きていくのに野暮も粋もないだろう。実人生としては皆もっと必死な辺りで生きているんじゃないのかな。ちゃらちゃらしていては着実な実人生は手に入れられないぜ。こう云うとまた唐目君は野暮と云うのだろうけど」
「別に自分の生を大仰に考えたり云ったりしなくても、誰だってちゃんと、死ぬまでは生きるものさ。肩肘張って生きていると、ストレスで折角の生の長さを縮めるぜ」
 別に自分としてはちゃらちゃらとかしている訳ではないんだけどと、頑治さんは均目さんの云い方に幾分引っ掛かるのでありましたが、まあそこで態々引っ掛かって見せるのもそれこそ野暮と云うものでありましょうから、あっさり聞き流すのでありました。
「俺の寿命迄心配してくれて、礼を云うよ」
 均目さんは当て擦りのようなもの云いをするのでありました。その云い草も頑治さんは敢えてさらっと聞き流す事にするのでありました。この後は何となく二人して口が重くなって、ただ黙々と咀嚼筋と手を動かしているのでありました。
 殆ど餃子ライスを平らげたところで、箸を置きながら頑治さんが訊くのでありました。
「で、結局、均目君は片久那制作部長の誘いに乗る心算なのかな?」
 均目さんは頑治さんに対する冷淡を目元に湛えて見返すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 492 [あなたのとりこ 17 創作]

「俺はその心算でいる」
「ふうん、そう」
 頑治さんはプラスチックのコップを持ち上げて水を一口飲むのでありました。「で、片久那制作部長が辞める時に均目君も一緒に会社を辞めるのかな?」
「もっと後になる予定だ」
「そう云う指示が、片久那制作部長からあったのかな?」
「ま、そう云う事だ」
 何となく均目さんの口は嫌に素っ気なくなっているのでありました。頑治さんがどこか批判的な様子である事に、失望と警戒心を持ったのでありましょう。
「具体的に何時と云う指示は出ていないのかな?」
「今の段階ではどうなるか判らないよ」
「若し出来るなら、日取りが具体的になったら、会社に辞表を出す以前にこっそり俺にだけでも教えておいて貰えないかな。教えられたからと云っても、別に俺はそれを妨害しようと云う心算はないから、そこは用心しなくてもて構わない」
「それなら別に、事前に知っても意味が無いじゃないか」
「まあ、それはそうだけど、心積もりとして、・・・」
「会社には規定通り辞める一か月前に云う心算だから、それで構わないだろう」
「ああそう。それならまあ、それでも良いけど」
 頑治さんは屈託有り気に取り敢えずと云った風に頷くのでありました。妙に気まずい雰囲気がテーブルの上にどんより泥むのでありました。頑治さんは勘定を記してある伝票を取って、一瞥してから徐に立ち上がるのでありました。均目さんも少し遅れて立ち上がったので、今日の午餐はこれにてお開きと云う事であります。

 中華料理屋を出て神保町の交差点の処で、頑治さんはちょっと三省堂書店に寄ると云って均目さんと別れるのでありました。特に買いたい本は当面無かったのでありましたが、この儘均目さんと一緒に事務所に帰るのも何となく気重に思われたので、早々に別行動を取ろうとしての事でありました。午後の仕事迄未だ三十分程あるのでありました。
 頑治さんは始業十分前まで三省堂書店でうろちょろしてからブラブラ歩きで帰社していると、錦華公園の前で反対側から歩いて来る袁満さんと甲斐計子女史に出くわすのでありました。二人で食事をしての帰りでありましょう。袁満さんはどう云うものか出雲さんが居なくなってからは時々、甲斐計子女史と一緒に昼飯を食いに行っているようでありました。これ迄は昼休みに二人並んで歩く姿を見る事は殆ど無かったのでありましたが。
「よう、何処に食事に行っていたんだい?」
 袁満さんが手を挙げて見せるのでありました。
「タキイ種苗の横の路地にある中華料理屋ですよ」
「ああ、あの不味くて無愛想な中国人の店員が二人だか居る店か」
 袁満さんは眉根を寄せて数度頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 493 [あなたのとりこ 17 創作]

「お二人は何処で食事を摂ったんですか?」
「甲斐さんに鰻丼をご馳走になったんだ」
 袁満さんが云うと、どう云うものか甲斐計子女史がちょっとそわそわする様子を見せるのでありました。別に甲斐計子女史が袁満さんに鰻丼を奢ったからと云って、それを頑治さんが妙に思うような事でもないのでありましたから、このそわそわの素振りは一体どういう謂いでなされたのか頑治さんは良く判らないのでありマました。
「へえ、鰻丼ですか。なかなか豪勢な昼飯ですね」
「奢って貰いっ放しじゃ悪いから、食事の後で集英社の別館の傍に今度新しく出来た喫茶店で、俺がコーヒーをお返しして、その帰り道で唐目君と出くわしたと云う事だよ」
「ああそうですか」
 頑治さんはニコニコと笑って袁満さんと甲斐計子女史を交互に見るのでありました。
 ここでも甲斐計子女史が妙にもじもじするのは、これまた意味不明な仕草と云うべきであります。ひょっとしたら昼休みに袁満さんと甲斐計子女史が、秘かにデートをしているのではないかと勘繰られるのを恐れての事かも知れないと頑治さんは考えるのでありました。別にデートであろうとそうじゃなかろうと頑治さんには無関係な事でありますが。
 事務所に戻ると何となく均目さんが居るであろう制作部スペースに行くのはちょっと憚られたので、頑治さんは袁満さんの机の後ろの応接スペースの三人掛けのソファーに座って、そこに置いてあった日経新聞を広げるのでありました。
「午後は梱包とか配達の仕事かあるのかな?」
 袁満さんが座った事務椅子をくるっと回して頑治さんの方を向くのでありました。
「いや、午後一番で制作の仕事で、上落合に住んでいるカートグラファーさんの家に製図原稿を届けに行く仕事が入っていますよ」
「落合、と云うのは何処かな?」
 袁満さんは小首を傾げて頑治さんを上目に見るのでありました。
「高田馬場から一つ先の西武新宿線の下落合駅の近くですよ」
「電車で行くの?」
「いや、原稿と云ってもちょっと大判のものだし、その他に資料のための本とかも幾つか持って行くんで、車で行こうと思っています」
「ひょっとして新宿駅は通るかな?」
「ええ。靖国通りを新宿迄行って小滝橋通りに入るルートですから、通り道ですよ」
「それじゃあ、俺を新宿まで乗せて行ってくれないかな」
 袁満さんは自分の鼻を指差して見せるのでありました。
「それはお安いご用ですが、新宿の何方ですか?」
「歌舞伎町の方だけど、新宿の大ガードの辺り処で良いよ。車で行くと、新宿は駐車する場所がないから電車で行こうと思っていたんだよ」
「いやまあ、何でしたらちゃんと目的地まで送りますよ。新宿の何処に行くんですか?」
「西武新宿駅のペペの二階の喫茶店なんだけどね」
(続)
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あなたのとりこ 494 [あなたのとりこ 17 創作]

「じゃあプリンスホテルの真ん前迄乗せていきます」
「それは助かるなあ」
「その喫茶店に何の用事で行くんですか?」
 今度は頑治さんが小首を傾げて見せるのでありました。
「ちょっと前迄出張営業していた時のお得意さんで、信州の蓼科と美ヶ原と、それから松本の浅間温泉でホテルとかお土産屋とかをやっている会社の社長が、今丁度東京に出て来ていて、その人に逢いに行くんだよ。あの辺の営業回りの代理店みたいな事を引き受けて貰えるかも知れないんで、その打診も含めて先方指定の新宿の喫茶店に出向くんだ」
「へえ、そうですか。そう云う事なら代理店を引き受けてもらえると良いですね。でもそう云う大事な話しなら、それなりの格式のある料理屋とかでちょっとした接待みたいな事をして、ヨイショの一つでも云わなくて良いんですか?」
「そう思ったんだけど、先方が色々東京での予定満載みたいで、ようやく今日の午後に一時間程逢ってくれると云うアポが取れたんだよ」
「じゃあ、料理屋とヨイショの一つは首尾好く話しが纏まった後、と云う事ですかね」
「そうトントン拍子に上手くいくなら云う事無いけどね」
 袁満さんは何となく自信無さそうにもじもじと笑むのでありました。
「何時ですか逢うのは?」
「二時半と云う事だけどね」
「それなら安全を考えてそろそろ出発した方が良いですね」
「まあ、そんなにバタバタしなくても充分に間に合うと思うけど」
「それじゃあ、原稿類を取って来ますよ」
 頑治さんはそう云って制作部スペースに戻ると机の上に既に用意していた、持って行くべき荷物を両手に抱えて、腕組みして自席の椅子にふんぞり返るような格好で本を読んでいた片久那制作部長に声をかけるのでありました。
「それじゃあ荒井デザイン事務所に行ってきます」
 頑治さんのその声を聴いて片久那制作部長は、顔の前に掲げた本の上辺越しに頑治さんを見て無表情に小さく頷くのでありました。これも自席で本を読んでいた均目さんは全くの無視と云った様子でありましたが、先程の中華料理屋での頑治さんとの一件にどこか拘泥があって、態と余所々々しく装っている、と云ったところでありましたか。

 助手席に座っている袁満さんは久々に会社から外に出たのが嬉しそうで、解放感に満ちた表情をしているのでありました。偶に、と云うのか、珍しく出先から直帰しないで夕方会社に戻って来た時とか、天気の悪い日で外に出るのが面倒な場合とか、結構すぐに推察の付くような仕様も無い理由で会社内に居る土師尾常務と、会社の中で退屈なデスクワークをしながら顔を突き合わせているのを、厄介に感じているからでありましょう。
「どう云うものかこの頃、甲斐さんと昼飯を一緒に食う機会が多いんだよ」
 袁満さんは運転しない退屈の解消のためか、そう話し掛けて来るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 495 [あなたのとりこ 17 創作]

「今迄も偶には一緒に昼食を食う事もあったんでしょう?」
「まあ、年に数回ね。例えばボーナスの出た次の日とか、暮れの年末調整の金が返ってきた次の日とかに、甲斐さんは俺や出雲君に昼飯を奢ってくれる事があったよ」
「へえ、そうですか」
「甲斐さんは独り身で別に家族に使うお金が要らないから、結構豪勢な食事を奢ってくれるんだよ。鰻とか鮨とか、山の上ホテルの天麩羅とか」
「甲斐さんはご実家で暮らしていらっしゃるんですか?」
「そうね。お母さんと結構大きな邸宅に二人で暮らしているようだ。前はお父さんも一緒に住んでいたんだけど、急性心不全で五年前に亡くなって仕舞って、それに、こっちも未だ独身のお兄さんも一緒に居たようだけど、お兄さんは仕事の関係で、二年前から北海道で一人暮らししているとか云っていたなあ。だから今はお母さんと二人みたいだね」
「へえ、そうですか」
 頑治さんは先程と同じ返事をするのでありました。特に甲斐計子女史の身辺に関して殊更の興味が今迄無かったものだから、こんな気の無い返事となったのでありました。
「甲斐さんは時々日比さんから夕食にも誘われる事があるみたいだよ」
「へえ、昼飯だけじゃなくて夕食にも、ですか。夕食となると一般的には昼飯よりはもっと豪勢になりますかね。で、そんな場合は日比課長の方が奢るんですかねえ」
「いや、甲斐さんは日比さんと二人で食事をするのを、実は避けているんだよ」
 袁満さんは取って置きの話をする時みたいに少し目を輝かせるのでありました。「甲斐さんを食事に誘う時の日比さんの目が何だか妙にいやらしそうで、変な魂胆があるんじゃないかって疑って、竟々警戒心を抱いて仕舞うんだとさ」
「ああそうですか」
 頑治さんはここでどう反応して良いのか判らずに苦笑するのでありました。
「まあ日比さんは若いピチピチしたお姉ちゃん好みだから、甲斐さんにそう云う妙な目を向ける事はないんじゃないかとは一応思うんだけど、でも日比さんにはそう云うチャンスがあると見ると、自分の本来の好みなんかさて置いて、兎に角手当たり次第、と云う妙にガツガツしたところがあるから、強ち甲斐さんの用心も考え過ぎだとも云えないところがある。で、甲斐さんは日比さんに対してあからさまに嫌な顔も出来ないから、隙を見せないと云う意味合いで、そっち方面では無難な俺や出雲君を食事に誘うんだと思うよ」
「ふうん、そうですか。でも昼はそれで凌げるとしても、日比課長に夕食を誘われるかも知れないと云う危機一発の生ずる恐れは、俄然払拭されない儘じゃないですかね」
「ここだけの話し、夕食で日比さんに付け込まれないようにするために時々、甲斐さんが会社から帰る時に、頼まれて神保町駅迄甲斐さんを送っていく事もあるんだよ。甲斐さんが会社を出てから、日比さんが追いかけて来るかも知れないからと云うんで」
 頑治さんは一種の軽口として、危機一発の生ずる恐れ、とか、俄然払拭されない、とかの大仰な表現を使用したのでありましたが、残念ながら袁満さんはそれには無頓着でありました。頑治さんは仕切り直すように小さく咳払いをするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 496 [あなたのとりこ 17 創作]

「と云う訳で、この頃は前とは比べものにならないくらい頻繁に、甲斐さんと一緒に昼飯を食う機会が増えたんだよ。出雲君が居なくなってからは、二人だけでね」
「甲斐さんが夕方家に帰る時に神保町駅まで送っていくこともあるから、場合によっては甲斐さんの気分次第で夕食も一緒に、と云う場合もあるんじゃないですか?」
「まあ、ない事もないけど、それはごく偶にね。甲斐さんは大方の場合帰ってから、お母さんと一緒に夕食を摂るのが慣わしになっているようだから」
 だったら態々袁満さんに駅迄送って貰わなくとも、若し日比課長に声を掛けられても、お母さんとの食事を口実に断れば良いのではないかと頑治さんは考えるのでありました。断る理由としてなかなか尤もらしくて、きっぱりしてもいるようではありませんか。
 それに甲斐計子女史としては、日比課長は以ての外であるけれど、袁満さんとは偶にではあるものの、お母さんの方をすっぽかして夕食の膳を一緒にする事があると云うのであります。日比課長はお断りでも袁満さんならオーライと云うのは、これもちょっとなかなか、聞き捨てならないところであると云うものではありませんか。
「袁満さんと甲斐さんは、どのくらい歳が離れているんでしたっけ?」
「甲斐さんは土師尾常務や片久那制作部長と同い歳だから、俺とは八歳違いになるかな。でも何でまた俺と甲斐さんの歳の事を訊くんだい?」
「まあ、甲斐さんもそんなに所帯窶れした風ではないから、それくらいの歳の差なら、袁満さんと二人で食事していても、強ち不自然でもないと云うのか、釣り合わない事もないと云うのか、お似合いだと云えなくもないと云うのか。・・・」
「止してくれよ」
 袁満さんは何となくもじもじしながら、迷惑と云った風ではあんまりない風情で否定するのでありました。頑治さんにそう云われるのは案外、満更でもないと云う事なのでありましょうか。頑治さんは思わず少し頬の表情筋を動かすのでありました。
 そんな事をダラダラお喋りしている内に車は西武新宿駅に到着するのでありました。
「じゃあ、有難う。助かったよ」
 袁満さんはそう云って車を降りて、付近の交通量に配慮して急いでドアを閉めるのでありました。そのドアの締まる音が車中に響くのでありましたが、どこか袁満さんの気持ちの弾みみたいなものが、その音に表れているように頑治さんは感じるのでありました。
 袁満さんはずっと昵懇にしていた出雲さんが会社から居なくなって、すっかり気落ちしているのだろうと推察していたのでありましたが、案外そうでもないような具合であります。もう地方出張営業にも行かなくなったし、何となく出雲さんとつるんでいた昼休みもなくなって、しかしその分甲斐計子女史と一緒に過ごす時間が増えて、気持ちの点では寧ろこの頃の方が前よりも、会社に来る張り合いがあると云うところでありますか。
 まあ、精々袁満さんには日比課長の魔手から甲斐計子女史を油断なく守って貰いたいものであります。そうやって交流が濃くなっていけば、ひょっとしてひょっとするかも知れないと云うものであります。日比課長と云う宿敵であると同時にある意味でのライバルが存在すれば、袁満さんの女史に対する情もより濃くなっていくと云う道理であります。
(続)
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あなたのとりこ 497 [あなたのとりこ 17 創作]

 そんな事を考えながら頑治さんは小滝橋の交差点を早稲田通りに入り、すぐに右にハンドルを切って落合中央公園を右に見ながら八幡通りを北上するのでありました。もう目的地の西武新宿線下落合駅近くにある荒井デザイン事務所は目と鼻の先であります。
 どうしたものかその日は小滝橋通りの車通りも少なく、頻繁に信号に掴まる事もなくスムーズに車を走らせることが出来たのでありまあした。袁満さんと甲斐計子女史の将来も日比課長の、ガツガツした嫌らしい目、と云う障害もしっかり乗り切って、このようにスムーズに目的とするところに到着すると良いかなあと思うのであります。頑治さんはここ最近に無かった弾んだ気持ちでブレーキペタルをグイと踏むのでありました。

 片久那制作部長が会社を辞める日が近付くにつれて、那間裕子女史の気が何だか次第に塞いでいくのでありました。どちらかと云うと片久那制作部長から多くの責任を引き継ぐ事になった均目さんの方が、見た目には意外に落ち着いている風でありました。
 それは均目さんが豪胆だからと云うよりは、近い将来片久那制作部長に呼ばれたなら、すぐにそちらに移る秘かな算段が抜け目なく整っているからでありましょうか。だからまあ、そんなに全くの無責任とか云う事ではないのではありますが、均目さんとしては案外そわそわとかくよくよする事もなく気楽にしていられるだと云う事かも知れません。
「唐目君は万事に肚が座っているから、片久那さんがもうすぐ会社を辞めると云う事に、そう大して不安はないみたいな様子ね」
 昼休みに神保町駅近くのランチョンで珍しく二人だけで昼飯を一緒に摂って、その後で道を渡ってラドリオでウィンナコーヒーを飲みながら午後の仕事始まり迄の時間を潰している時に、那間裕子女史が頑治さんにボソボソと喋り掛けるのでありました。片久那制作部長に頼まれた仕事で外に出ていて、昼になっても帰社しない均目さんはこの席には居ないのでありました。尤も例の中華料理屋での気まずい一件以来、何となく引っ掛かりがあって頑治さんは均目さんと一緒に昼休みを過ごす事が途絶えているのでありました。
「別に肚が座っているんじゃなくて、生まれつき鈍いからですかね。それに不安がない訳では決してなくて、これでも内心はオタオタしているんですよ」
「内心の動揺が顔に出ないタイプなの?」
「顔に出るんですが、面の皮の厚さが邪魔して傍からそう見えづらいと云う事で」
「そう云う云い草が、つまりあんまり不安を感じていない証拠かしらね」
 那間裕子女史はクスッと笑ってコーヒーカップを受け皿に戻すのでありました。
「あたしは片久那さんが居なくなった後、会社がちゃんとこれ迄通りに遣っていけるのかどうか考えると、悲観的な方にしか考えが回らなくて」
「でも、均目さんは引き継いだ仕事に関しては、何とかなりそうな目途は立っているようだし、土師尾常務の横暴には組合全員で一致団結して対処する、と云う申し合わせも出来ているし、片久那制作部長も自分が居なくとも遣っていけるよと云っている事だし」
「それはそうだけど、でも片久那さんが居なくなると、要するに会社を制御していた重しみたいなものが無くなって仕舞うと云う事じゃないの」
(続)
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