SSブログ

あなたのとりこ 498 [あなたのとりこ 17 創作]

 那間裕子女史は眉間に皺を寄せるのでありました。「と云う事は結局社員が個々バラバラの動きしか出来なくて、色んな点で仕事のロスが多くなるんじゃないかしら。そうして次第に社員間の気持ちのズレとか隙間が顕在化してきて、皆の士気もやる気も仲間意識も落ちて、寧ろストレスばかりになって、結局何に依らず上手くいかなくて、・・・みたいになっていく気がするの。そう云うところでの片久那さんの存在は大きいのよ」
「片久那制作部長が扇の要、みたいな存在であると云う点は同意します」
 頑治さんは一つ頷くのでありました。「しかし時間が必要かも知れませんが、片久那制作部長の代わりに、扇の要の役割を担える人が屹度出て来るんじゃないですかねえ」
「そんな人、出て来るかしら」
 那間裕子女史は至って懐疑的な様子であります。
「不可欠と云う存在なんて実は存在しないのかも知れませんよ、この世の凡の組織に於いては。誰かが欠ければ次の誰かがひょっとすると意外なところから必ず現れるんじゃないですかね。何かの宗教みたいに観念論的にこの世が存在していないとするならば、人間の造る組織なんと云うのは、結構フレキシブルなものじゃないですかねえ」
「でも、必ず次の誰かが表れる、と云うのも、云ってみれば観念論の類じゃないの?」
「ああ成程、そうも云えるかもしれませんね」
 頑治さんは頭を掻くのでありました。「俺はつまり気楽に出来ているんですかねえ」
「気楽と云えばそれは確かに、途方もなくお気楽だと云えるかしらね。でもまあそんなところが、・・・・つまり、唐目君の魅力的なところだけどね」
 那間裕子女史はそう云ってはにかむように笑って目を伏せるのでありました。
「なんだか侮られているのか褒められているのか良く判りませんけど」
「どちらかと云うと褒めているのよ」
「ああそうですか。一応そう云う事なら、有難うございます」
 頑治さんはお辞儀して見せるのでありました。
「何だか唐目君と話していたら、少し気が晴れたかな」
 那間裕子女史はコーヒーカップを取り上げて一口飲むのでありましたが、ウィンナコーヒーの表面に浮いているクリームが唇の端に付着したのを、恥ずかしそうにカップを持っていない方の手の小指を立てて急いで拭うのでありました。今迄見た事がないなかなか女っぽい仕草だと、頑治さんは何故か意外の感を持つのでありました。
「でもさっきの話しだけどさ」
 那間裕子女史はコーヒーカップを受け皿に静かに戻すのでありました。「グルっと見渡してみて、片久那さんの欠けた代わりになるような人が、今の会社の中に居るかしら」
「均目さんとかはどうですかね?」
「均目君は色んなところでまあまあそつが無いけど。でもちょっと小粒よねえ」
 この辺りから、那間裕子女史は案外しおらしいところの仄かに漂う女性の外貌から、何時もと変わらない少々小憎らしい直言家の顔に戻るのでありました。
「袁満さんとか日比さんはどうですかね?」
(続)
nice!(11)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 499 [あなたのとりこ 17 創作]

「こう云っちゃ悪いけど、どちらも何だか頼りないわね」
 那間裕子女史は眉根を寄せて見せるのでありました。「日比さんは結構なお調子者と云った感じだしね。何だか今一つ油断ならないところもあるし、結局土壇場で土師尾さんや社長の側にコロッと寝返るような気がするわ。処世術と云う点で手抜かりは無さそうだけど、その手抜かりの無さからうっかり目を離すと寝首を掻かれるような気もするわ」
「じゃあ、袁満さんの方はどうですかね?」
「袁満君は間違いなく好い人なんだけどちょっと気が弱くて、皆をリードしていくような意気込みは感じられないわね。ここが正念場と云う時に決まってあたふたするし、焦れったくなるくらい会話をしていても反応が鈍いし、ピント外れなところがあるし」
「ああそうですか」
 頑治さんもここで眉根を寄せて腕組みするのでありました。「甲斐さんは地名総覧社時代からのキャリアは土師尾常務にも引けを取らないけど、でも、扇の要、と云う役割の点では、会社での在りようとしてちょっと持ち味が違うような気がしますしねえ」
「そうね。確かに甲斐さんは存在感として一種格別よね」
「ああそうだ、肝心な人を忘れていました」
 ここで頑治さんはやおら腕組みを解くのでありました。「那間さんが居ました。どうです那間さん、この際扇の要の役を請け負ってみる気はありませんか?」
「え、あたし?」
 那間裕子女史は自分の鼻先を自分で指差すのでありました。「あたしはダメよ。そんなの柄じゃないし、全然興味も無いもの」
「しかし、結構押し出しも好くてなかなかリーダーの気質もありそうじゃないですか」
「あたしはずけずけものを云うだけで、押し出しが好い訳じゃないわ。寧ろこの口が災いして、皆から疎まれている度合いの方が強いと思うわよ。あたしが扇の要になったら、その扇は開かなくなるんじゃないかしらね。唐目君もそう思うでしょう」
 那間裕子女史は自分の鼻先の指を唇の方にちょい下げて、その後で口のすぐ前でヒラヒラと掌を横に振るのでありました。この一連の動作が、何だか妙に有機的なものに見えるのでありました。これは或る意味で、優雅、と云うべきものではないだろうかと、頑治さんは今現在の話しとは全く関連無くふとそう思うのでありました。
「土師尾常務に急にリーダーとしての自覚が出て来て、今迄の性根を見違えるようにすっかり入れ替えて、扇の要となるべく努力する、なんと云う目は全然ありませんかねえ」
「全然ないわね」
 那間裕子女史は鮸膠も無いのでありました。
「ああそうですか。全然ありませんか。・・・」
 ここで、それはそうだろうなと頑治さんも思うのでありました。そんな事を期待する方がどうかしていると云うものであります。でもしかし、考えて見ればこれが実は一番自然な本筋であり、一番あらまほしきところなのでありましょうけれど。
「そんな事、唐目君だって本気で考えてなんかいないでしょう」
(続)
nice!(14)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 500 [あなたのとりこ 17 創作]

「ええまあ、戯れ言だろうと云われれば敢えて首を横には振りませんけど」
「ね、こうして考えてみると、会社の先行きはかなり絶望的でしょう」
 那間裕子女史は溜息を吐くのでありました。
「そうなると、じゃあ、要するに、片久那制作部長が居なくなった後、どのくらいの期間会社が持つか、と云う事になりますかね」
「そうね。どのくらいして空中分解するか、だわね」
「那間さんはその期間をどのくらいと見積もっているんですか?」
「まあ、良くて一年かしら」
「ほう、一年も持つんですか」
 この頑治さんの返答に、那間裕子女史は目を見開くのでありましたが、それは殆ど目立たない程度の僅かな瞼の動きでありましたか。頑治さんにそう云われて自分の予測がひどく甘いと、暗に指摘されていると感じたと云うところでありましょうか。それは認識力と云う点に於いて沽券に関わる問題だからちょっとおどおどしたと云う訳でありますか。
「精々持って一年、と云う事で、多分それよりは確実に短くなるでしょうね」
 那間裕子女史は期間に少し曖昧さを付与するのでありました。
「一年以内に俺達は失業者になるんですかね」
「この儘なら、そうなるでしょうね、屹度」
「やれやれ」
 頑治さんは持っていたカップを受け皿に戻すのでありました。
「今の内から身の振り方を考えて置いた方がよさそうよ」
 那間裕子女史はそう云った後コーヒーを飲み干すのでありました。

 片久那制作部長の会社を辞めると云う突然の宣言によって、実は土師尾常務が一番動揺したようでありました。ここから先土師尾常務は連日の社長室詣でを始めるのでありました。社長と何を話し合ってしているのか従業員には判然としないのでありますが、社長と彼の人の事だから、どうせ碌でも無い無粋な相談だろうと推察されるのでありました。
 土師尾常務は今迄畏れて遠慮していた片久那制作部長の目も、こちらは別に今迄も気にもしていなかった社員の目も憚らず、仕事も体面もそっち退けで昼から夕方まで社長室に入り浸っているのでありました。因みに、午前中、が無いのは、例によって得意先に直行すると云う、全く疑わしい朝一で告げられる電話連絡のためでありました。
「土師尾常務は社長と何の話しを、毎日々々しているんだろう」
 袁満さんが頑治さんと駐車場の車の入れ替えをしている時に訊くのでありました。
「片久那制作部長が居なくなった後の会社の運営について、じゃないですか」
 頑治さんは社長と土師尾常務の話し合いに然して興味を惹かれないものだから、至ってありきたりで味気ない返答をするのでありました。
「そりゃそうだろうけど、一体どんな風に二人で摺り合わせているんだろう」
 袁満さんは頑治さんのおざなりな返答が慎に焦れったいようでありました。
(続)
nice!(14)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 501 [あなたのとりこ 17 創作]

「あの二人が知恵を絞っているんですから、大した話しにはならないないでしょうね」
「単に、大した事じゃない話しだけをしているのなら寧ろ結構だけど、またもやつまらない謀をしているんじゃないかとも考えられるぜ」
「つまらない謀、と云うのは、どんな謀ですか?」
 頑治さんがそう訊くと袁満さんはちょっと言葉に詰まるのでありました。具体的に是々然々と思い付く事はすぐにはないようであります。
「つまり、自分達には都合の好い事で、従業員にとっては不利益になる事かな。まあ、会社全体としては間違いなく最悪となるような事、だよ」
 その自分の応えが如何にも漠然としているのが云った傍から自分でも判るので、袁満さんは何となく決まり悪そうにもじもじするのでありました。
「会社全体にとっては最悪の事、ですか。・・・」
 頑治さんは車のドアをロックして確実に扉が開かないかどうか確認してから、横に立っている袁満さんを見るのでありました。「例えば、会社解散とかですかね」
「自分達に都合が好ければ、そう云う事も恐らく考えるかも知れない」
「しかし会社が解散すると、土師尾常務も失業すると云う事になりますよ」
「まあ確かに、それはそうだけど。・・・」
 袁満さんは口を尖らせるのでありました。
「それに自分はあくまで楽をして報酬を得ようと考えているようだから、取締役と云う地位に恋々としがみ付いて、社員を扱き使っている方が楽が出来るじゃないですか。と云う事は今の会社を解散するのは、常務の魂胆からすれば得策とは云えないでしょう」
「でも一端会社を閉じて、俺達全員を解雇して、また新たに誰か雇えば、何かと煩い労働組合はなくなるし、人件費もグッと抑えられるだろうし」
「そう云う面倒な手間を、土師尾常務は態々かけたがりますかね。あの人は自分のためなら非道な事でも何でも敢えてでもする、と云う人ではなく、実はどちらかと云うと微調整はするけれど実質は至って現状維持派で、現状の中で抜け目なく甘い汁を吸おうと考えるタイプの人ではないですかね。まあ、社長から明確な、一端会社解散と云う方針が出されれば別ですけどね。それに社長にしてもそこ迄、肚の座ったいざこざ好きの策士、と云う風じゃないですし、どちらかと云うと体面を気にする見栄っ張りのタイプでしょうし」
「それもそうだと、俺も思うけどさあ。・・・」
 袁満さんは一応納得したようでありましたが、土師尾常務と社長が出し抜けに何かやらかすのではないかと云う一抹の不安は未だ消せないようでもありました。
「思い切った事を仕出かす度胸は、土師尾常務にも社長にもないように俺は思いますけどねえ。まあ尤も、俺の勘はそんなに良く当たる方ではないですけど」
「例えば日比さんと、それに制作の均目君の二人だけ残して、俺と唐目君と那間さんと、それに甲斐さんの首は斬る、と云うのは唐目君の云う微調整の範囲じゃないかな。下の紙商事の人に経理を兼任して貰えば、多分甲斐さんもお払い箱に出来るし」
「可能性は、あるかも知れませんね」
(続)
nice!(9)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 502 [あなたのとりこ 17 創作]

 日比課長は云ってみれば土師尾常務の二番手と云う存在だから、どちらかと云うと馘首にする方に入るのではないかと頑治さんは思うのでありました。しかし色々情勢が変わって、存分に報酬を得た上で最大限楽を決め込もうとするなら、日比課長を残す方が得策だと土師尾常務は判断を変える場合もあるかも知れません。少なくとも、上司として自分を敬いもしていない、相性の好くない袁満さんを残すよりはその方が都合が好いでありましょう。日比課長は袁満さんよりは扱い易いと屹度判断しているでありましょうから。
「でもそんな事をしたら均目君がおいそれとそれに従わないか」
「さて、どうでしょうかね。・・・」
 袁満さんはここで、あくまでも自分達従業員側の人間と見做している均目さんと云う要素を出して、自らのこの観測を結構簡単に打ち消して見せるのでありました。しかしそう打ち消して見せたけれど、それに対して頑治さんが捗々しく反応しないのに少し意外の感を持ったようでありました。頑治さんも屹度、それはそうに違いないと空かさず同意するものと踏んでいたのでありましょうけれど、これは些か見当外れでありましたか。
「あれ、そうなったら均目君はそれを受け入れると、唐目君は思っているのかな?」
「いや、そうなってみないと判りませんよ」
「均目君は俺達を裏切るかも知れないと云う事かな?」
「そう云っている訳じゃないけど、まあ、そうなってみないと判らないとしか云えないですね。それは袁満さんの頭の中で仮定された事でしかないんだから」
「確かにそうだけど。・・・」
 袁満さんは口を尖らすのでありました。「最近、唐目君は均目君と何かあったの?」
「いや、特には何も」
「唐目君は均目君と同い歳だし、すっかり気が合う同士だとばかり思っていたけど」
「気が合おうが合うまいが、その事とは別に、今の話しはあくまで袁満さんの考えた仮定の話しだから、今ここでは何とも云えないと云っているだけですよ」
 そう云って言葉を濁してはみるものの、袁満さんは頑治さんのこれ迄とは違う、均目さんに対する冷えみたいなものを敏く感じ取ったと云う事でありますか。
「確かに不安に駆られて、持て余して家の布団の中で、何やかやと悪い方に悪い方にと推理した事で、現実にそうなると決まった訳じゃ全然ないしなあ。あんまり先回りしてくよくよ考えても仕方が無いか。結局なるようにしかならないものなあ」
 袁満さんはそう云って少し無理するように笑って見せるのでありました。
「まあ、これから先は出たとこ勝負と思っていた方が、何かと気楽ですよ」
「そりゃそうだ。未だ何も起こっていないのにあたふたするのは馬鹿げているか」
「そうですよ。どう転んでも命を取られる訳でもないんだから、気楽に行きましょうよ。俺の云いたいのは、まあつまりそう云う事です」
「うん。先回りして気鬱になるより、そう開き直っている方が何かとさっぱりしている。流石に唐目君はこうして見てみると、気持ちの強い人なんだなあ」
「いやいや、要するに鈍感で大した器量も無いから目先が利かないだけですよ」
(続)
nice!(15)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 503 [あなたのとりこ 17 創作]

 頑治さんが云うと袁満さんは笑って首を横に振ってくれるのでありました。
 少しだけ、袁満さんの顔に赤みが戻ったように見えるのでありました。しかしその眉宇から不安を綺麗に拭い棄てたと云う訳ではなくて、頑治さんのお気楽にすっかり当てられて、この場では取り敢えず気が晴れた振りをしていると云った風でありましたか。

   最初の標的

 片久那制作部長が会社を去った後土師尾常務は遣りたい放題にのさばるとか、利益とか待遇を露骨に壟断し出すだろうと大方は予想していたのでありましたが、暫く様子見の心算なのか、意外に大人しいのは従業員一同には些か目算違いでありましたか。ひょっとしたら片久那制作部長におんぶに抱っこでずっとここ迄来たものだから、その大黒柱と頼っていた人が居なくなって急に心細くなったのかも知れません。或いは社長の手前、実は会社を切り盛りするに於いて、自分の無能が露見するのを只管恐れて内心大いに居竦んでいるのかも知れません。何れにしてもこれは不気味な静けさと云うべきものであります。
 均目さんは急に目付きが険しくなるのでありました。何とかなるだろうと踏んではいるものの、いざ片久那制作部長の仕事を引き継いでみると、色々な製作上の管理とか手配に於いて、その今迄に無い煩雑さと多岐さと、意外と細かい気配り目配りや抜け目の無さが要る局面が多い事に手一杯であたふたしていて、神経が休まらないのでありましょう。
 そんな均目さんに気を遣ってか、はたまた急に眼を血走らせ始めた均目さんの在り様を見て何となくがっかりして白けた気分になったのか、那間裕子女史は均目さんとあんまり軽口や冗談を交わさなくなるのでありました。今迄に那間裕子女史が均目さんに対して見せた事のない嫌に余所々々しく冷淡な対応振りでありますし、見る目に籠る不興気で対抗的な色も、意識的にか無意識にかは判らないけれど明らかなのでありました。
「片久那さんが辞めてから、何だか均目君は少し人変わりしたと思わない?」
 昼飯を一緒にしてその後ラドリオでウィンナコーヒーを飲みながら、那間裕子女史が頑治さんに話し掛けるのでありました。この頃は、頑治さんは均目さんと連れ立って一緒に摂る昼食はすっかり沙汰止みでありました。那間裕子女史も均目さんに何となく屈託があるものだから、制作部スペースで隣同士に机を並べている女史と頑治さんは、昼食と午後の始業時間迄の一時を均目さん抜きで二人で過ごす場合が増えるのでありました。
「仕事が急に目まぐるしくなって、万事に余裕を無くしているんじゃないですかね」
「確かに顔付きに余裕の無さがはっきり表れているけど、でもちょっと、ぎすぎすし過ぎじゃないかしら。人当たりも何だか妙に雑になっちゃっているし」
「まあ確かに、誰にとは云わず言葉付も少しきつくなったような気がしますね」
「なんだかこの先、均目君に任せておいて大丈夫かしらって思っちゃうわ」
 那間裕子女史は眉根を寄せて頑治さんを見るのでありました。
「まあ段々、仕事に慣れて来れば気持ちに余裕も出て来て、少しは人当たりとか言葉付きなんかも、それに顔付きも穏やかになってくるんじゃないですかね」
(続)
nice!(13)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 504 [あなたのとりこ 17 創作]

 頑治さんは楽観的な観測を述べるのでありましたが、仕事に慣れて来る前に均目さんは片久那制作部長が新たに興したか会社に呼ばれて、そちらに鞍替えするために贈答社を辞める事になるのではないかと思うのでありました。しかしこの観測は那間裕子女史には云わないのでありました。那間裕子女史を徒に激昂させて均目さんに対して喧嘩腰になるように仕向けるのも大いに気が引けるし、均目さんの折角の秘かな去就の計画を、告げ口をするような形で邪魔するのも何やら潔くない仕業のような気もするのでありました。
 まあ、どだい均目さんの秘かな去就の計画自体が、節操が無いと云えばそう云えるのかも知れません。それに片久那制作部長が幾ら会社を良く思っていないとは云え、後日興そうと計画している自分の会社に自分や均目さんを秘かに誘うと云う遣り口も、何だか信義に悖る邪険な臭いもするのでありました。だからそれに対して潔い態度を保とうとする自分なんと云うものは、これはもう片手落ちなヤツと云うべきところでありましょうか。
「もう少し強い気持ちと、逆境にもなかなかめげない粘り腰と、したたかさがある男だと思っていたんだけど、案外大した事が無かったわね」
 那間裕子女史の言葉が頑治さんの想念に混入して来るのでありました。
「ええと、それは、・・・俺の事ですかね?」
「そうじゃないわよ。均目君の事よ。決まっているじゃない」
 那間裕子女史が呆れたような云い草をするのでありました。当然今迄の話しの流れから誰の事を云っているのかは知れた事であった筈なのに、頑治さんがここで俄かに頓馬な質問を返すのが、那間裕子女史としては如何にも興醒めだったでありましょう。
「ああそうですか。そうですよね」
 頑治さんはまごまごとそう返すのでありました。
「無二の親友である均目君の悪口は云いたくないと、そう云う訳?」
「いやまあ、そんな確たる気持ちでもないんですけど、一般的に、居ない人の悪口とかはあんまりいただけないかとは思いますけどねえ」
 頑治さんは遠慮気味に応えるのでありました。「それに、会社の中では同い歳でもある事だし、どこか気が合うところもあるから割と親しくはしているけど、だからと云って均目君が無二の親友かと云われると、ちょっと違うような感じもしますしねえ」
「ああそう。ふうん」
 那間裕子女史は冷えたもの云いをしてコーヒーを一口飲むのでありました。この云い草てえものは、男同士の友情とか云う何だか得体の知れない胡散臭いものには、元々そんなに興味は無いと云う意を示さんとしての事でありましょうか。
 頑治さんが居ない者の評言はしないと表明したからか、何となく言葉が途切れるのでありました。那間裕子女史が腕時計に目を落としたので、釣られて頑治さんも自分の前腕をやや持ち上げて腕時計を見るのでありました。
「そろそろ行こうか」
 ラドリオを出てから二人並んで帰社していると、またも錦華公園の傍で、向こうも帰社途中であろう袁満さんと甲斐計子女史の二人連れに出くわすのでありました。
(続)
nice!(13)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 505 [あなたのとりこ 17 創作]

「おや、またもやお揃いで」
 頑治さんは含むところがあったせいで、竟そんな風に声を掛けるのでありました。
「おう、そっちもお揃いで」
 袁満さんは照れなのかちょっとした対抗意識なのか、同じような事を頑治さんに云って片手を挙げて見せるのでありました。甲斐計子女史は頑治さんと那間裕子女史に目撃されたのが何やら気まずそうで、少し狼狽えるような素振りを見せるのでありました。
「今日の昼は鰻ですか天麩羅ですか?」
 頑治さんが袁満さんに訊くと那間裕子女史が大仰に反応するのでありました。
「へえ、それは随分豪勢な昼食ね」
「いや、今日は人生通りのいもやで豚カツ、ですよ」
「いもやの豚カツも昼食としてはまあまあの値段よ。それでもこの街の他の豚カツ屋に行くよりは、あそこの方が値段以上に美味しくはあるけど」
「あそこは何時も並ぶから、滅多に行かないんだけど、どうした訳か今日は覗いたら空いていたんで、これはチャンスと久しぶりに入ったんですよ」
「でも、いもやから帰って来るにしては方向が違うけど」
 那間裕子女史が小首を傾げるのでありました。
「その後で、ちょっと喫茶店に行っていたんですよ」
「ああ、例によってお決まりの昼休みコース、と云う訳ですね」
頑治さんは実はここは、お決まりのデートコース、と云おうとしたのですが、那間裕子女史が居たものだからそう云うからかいの言は、まあ、ちょっと控えるのでありました。
「そちらのお二人は何処で昼飯だったの?」
 甲斐計子女史が頑治さんに訊くのでありました。
「日貿ビルの地下の四川飯店で中華ですよ」
「へえ。偶に行くけど、あそこだって結構な値段じゃない」
「つまり四川飯店も、袁満さんと一緒に行く昼飯コースの一つですかねえ?」
 頑治さんにそう訊かれて甲斐計子女史はまた少し動揺を見せるのでありました。
「そうそう。四川飯店でも時々奢って貰う事もある」
 袁満さんの方は頑治さんの遠回しのからかいには特に反応しないで、そう云ってしきりに頷きながら無邪気そうに笑っているのでありました。
「何、袁満君、甲斐さんに昼食を、そんなにしょっちゅう奢って貰っているの?」
 那間裕子女史が少し詰問調で訊くのでありました。
「ええまあ、そう云う場合が多いかな」
 袁満さんはこれにもあっけらかんと頷くのでありました。
「まあ、奢ったり奢られたり、よ」
 甲斐計子女史の方がそう云い繕うのでありました。「あたしがご飯を奢った時は袁満君がコーヒーを奢ってくれるのよ」
「いもやの豚カツとコーヒーじゃ、全然釣り合わないじゃないの」
(続)
nice!(18)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 506 [あなたのとりこ 17 創作]

 那間裕子女史は袁満さんを見据えながら首を傾げるのでありました。
「でも俺より甲斐さんの方が貰っている賃金は多いからなあ。俺は出張が無くなった分、日当が入らなくなって実入りが減っているから、大いに助かってはいるんですよ」
 袁満さんはあくまでも屈託が無いのでありました。
「それにしたって、ちょっとちゃっかりし過ぎていない?」
 那間裕子女史の眼容が批判的な風に変わるのでありました。
「あたしは別に構わないのよ。袁満君が組合の委員長として社長や土師尾さんと渡り合ってくれたから、あたしのお給料も上がったんだし。まあ、あたしは春闘が終わった後で、社長に不当な扱いを受けそうになったんで、慌てて組合に入ったんだけどね」
 甲斐計子女史が庇うような事を云うのでありました。
「でも、男として女の人に奢って貰うと云うのは、どうなんだろう」
 那間裕子女史は、今度は先程とは反対側に首を傾げるのでありました。
「まあ、他にも袁満君には色んな事を助けて貰っているから」
 この甲斐計子女史の言は、会社帰りに日比課長の変なちょっかいから逃れるために、神保町駅迄時々袁満さんに送って貰っている件を指しているのだろうと頑治さんは思うのでありました。前にそんな事を袁満さんから直接聞いた事があるのでありましたから。
「甲斐さんは袁満君にそんなに何を助けて貰っているの?」
 その事を全く知らない那間裕子女史は、甲斐計子女史にも小首を傾げて見せるのでありました。何やら話しが妙にややこしい路に入ろうとしているような気配であります。
「まあ、色々と」
 甲斐計子女史は説明するのが大儀なのか、それとも何となく気が引けるからなのか、もじもじしながら苦笑ってこの場を取り繕おうとするのでありました。
「ふうん、色々、ねえ」
 那間裕子女史はそんな返答では到底納得出来ないと云った不満顔ではあるけれど、ここは取り敢えずそれ以上話しをほじくる気はないようでありました。
「さあ、ここで何時迄も立ち話ししていたら午後の始業時間に遅れますよ」
 頑治さんが腕時計を見ながら帰社を促すのでありました。那間裕子女史は何だか納得がいかないような消化不良の表情で、甲斐計子女史は那間裕子女史のこれ以上の追及を取り敢えず回避出来た事に内心ほっとした顔付きで、袁満さんは至って屈託ない顔で、頑治さんを入れて四人は、打ち揃って会社迄の僅かの道を急ぎ足に戻るのでありました。

 社長が私的な株の売り買い道楽のために、会社の金を勝手に流用しているという事を片久那制作部長から前に聞かされたものだから、従業員の社長を見る目は結構露骨に変化するのでありました。表面上はそれ程極端と云う訳ではないのでありましたが、社長が傍に居ても親しそうな笑いを投げかけたり、自分の方から喋り掛けたりするのは殆どないのでありました。まあ、日比課長は調子良く社長にお追従の一つも吐いてはいましたか、その頻度と云う点では多少減ったような気も、頑治さんはしないでもないのでありました。
(続)
nice!(14)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 507 [あなたのとりこ 17 創作]

 組合としても、この社長の一件をたちまち公然と追及し始めると云う事はないのでありました。それは片久那制作部長に、今後の秋年末闘争や次の春闘の時に奥の手として効果的に用いるために取って置いて、その間もっと綿密に社長の罪業を調べ上げて、外堀を埋めるみたいな準備をした方が良かろうと云うアドバイスを貰っていた故でありました。
 ところで土師尾常務は、社長のこの不実なる道楽をどのように考えているのでありましょうか。まあ勿論、片久那制作部長のように畳みかけるように冷厳に追及する手腕は到底持ち合わせていないでありましょうし、会社や従業員のために厳しく追及しようと云う健気な気持ちも当然ないでありましょう。しかしこの社長の不良行為は当然知っているであありましょうから、自分の取り分を社長からより多く分捕るための材料としてのみ、ちゃっかり利用しようとはするでありましょう。あくまでも従業員とは無関係なところで。
 まあしかし、結局土師尾常務よりは海千山千の社長に上手に丸め込まれて、大して有効に利用出来ないで終わるかも知れません。寧ろそっちの公算の方が大でありましょうか。依って従業員としても、ここで改めて確認する必要もないけれど、土師尾常務には社長の不実への対処に関しては、ま、何も期待するところは無いのでありました。
 寧ろ社長の非道をあれこれ探っていると、ひょっとしたら棚ぼた的に土師尾常務の方の不良行為が見つかる可能性も無いとは限りません。叩けば非常に多く出てくるであろう埃の点では社長以上に疑わしい人でありますから。まあだから当然こちらの探査も今後の闘争の有力材料集めとして、組合としてはやって置く意義も必要もあるでありましょう。
 さてところで、業績回復に関しては捗々しい面は一向に見られないのでありました。その左証は、営業部から制作部に回って来る大口の製作指示書が無いからでありました。
 特注営業の仕事は、土師尾常務と日比課長から見積もり依頼があって、納期や数量等の微調整の過程が挟まる場合もありますが、それも完了してから、ようやくその仕事が正式に決定したならば、土師尾常務なり日比課長なりから制作指示書が出されて、それから正式に製作工程が動き出すのであります。だからこの製作指示書を見れば、大体現時点で贈答社が受けている注文が判る訳でありますが、既製品に箔押しでの名前入れする等の小口仕事ばかりで、気合の入るような売上額の大きい仕事は殆ど無いのでありました。
 勿論制作部を経由する必要のない他社商品の扱いは制作部では大凡しか把握しないのでありましたが、こちらもまあ要するに、自社製品に比すると実利はさして大きくはないのでありました。要は大口の、自社製品に依る特注仕事が肝心でありますが、残念ながらそう云う製作指示書はさっぱり回ってこないと云った具合でありましたか。
 袁満さんが担当する地方出張営業は、前に下の階の紙商事に居た矢目奈伊蔵さんが、嘱託社員として自前のハイエースを駆って北関東から東北エリアを出張して回る、と云うのはほぼ確定したのでありました。しかしその他のエリアに関しては、この前新宿で会談した信州の蓼科や美ヶ原や松本の浅間温泉とかでお土産屋とかホテルを経営している人が、山梨県と長野県の主な観光地での販売代理店をやってくれると云う契約や、他地域の同様の契約は幾つかがほぼ本決まりしてはいるようであるものの、未だ他の多くのエリアに関しては鋭意話が進行中と云うところで、未だ正式の決定には至らないのでありました。
(続)
nice!(15)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 508 [あなたのとりこ 17 創作]

 頑治さんに関しては、均目さんが制作部を統括するようになってから制作部関連の仕事はグッと減るのでありました。これ迄殆どが、要するに片久那制作部長の助手みたいな仕事が多かったのでありましたが、片久那制作部長が居なくなったから、その手の仕事はほぼなくなるのでありました。均目さんとの関係がここにきて少し冷えたと云うのも仕事が減った一因であるかもしれませんが、均目さんとしても制作部に於ける頑治さんの扱いをどうしたら良いものか、少しの戸惑いがあると云った面も恐らくあるでありましょう。
 本来の出入庫の管理とかの業務仕事に関しても、袁満さんと出雲さんの出張営業が無くなった分仕事は減るのでありました。業績回復が遅れているのでありましたから、制作部関連の材料管理の仕事も商品配達とかの業務も以前程忙しくもないのでありました。
 依って頑治さんは手持無沙汰解消のため倉庫周りやビル前の道路の掃除とか、倉庫内の棚の整頓ばかりやっているような在り様でありましたか。まあ、楽と云えば確かに体は楽ではありましたが、こういう状態は自分にはあんまり合わないと頑治さんは思うのでありました。生来、人間が貧乏性に出来ているからでありましょうか。
 これは余談の内に入るのでありますが、社長から頑治さんを営業職として得意先回りさせてはどうだろうと云う提案があるのでありました。頑治さんの倉庫を管理する手堅そうな仕事振りや何時も掃除に勤しんでいる几帳面らしき態度、前の全体会議なんかで見せた目先の利く着想や話力を、恐らく社長が少し買ってくれたのでありましょう。
 しかしこれは土師尾常務に依って簡単に退けられるのでありました。つまり土師尾常務は、頑治さんを倉庫管理係や配達要員以上の人材とは端から評価していないようでありました。社長にその話を持って来られても、そんな事を考えている社長の、人を見る目の無さと見当違いを持て余すような冷笑を返しただけのようでありました。
 だからと云って頑治さんは土師尾常務を恨む気は全くないのでありました。それは特段営業と云う職種に興味も意欲も湧いていないからでありました。毎日一張羅のスーツを着込んで出勤すると云うのも、何だか窮屈で面倒臭そうでありましたし。
 それに頑治さんは気楽を尊ぶ人であります。抑々頑治さんが職安で今の仕事を紹介して貰う時に出した希望と云うのが、給料とか待遇は特に希望はないが、その日の内にその日の課業が完結するような小難しくない仕事で、格式張った服装をしなくて済む、比較的社風ののんびりした、冗談や洒落の判る上司の居る、あんまりこの先発展しそうにないながらもしかし、なかなか堅実に続いて行きそうな会社、と云うものでありました。
 こんな了見では営業の仕事は務まらないでありましょう。営業どころか、制作の仕事だって同じく覚束無いと云うものであります。制作部の仕事を手伝ったのは片久那制作部長の命があったからで、そちらの方に妙味を感じた訳ではないのであります。勿論、頑治さんとしては、どうしてかは良く判らないものの片久那制作部長の覚えの目出度さと期待には応えたいと、与えられた仕事には真剣に取り組んではいたのでありましたが。
 まあこう云った訳で片久那制作部長の居なくなった後、日常の業務は一見、何とか多少のギクシャクやら戸惑いはありながらも滞りなく運んでいるように見えはするのでありました。しかし会社の未来に関しては新しい暁光は全く射しては来ないのでありました。
(続)
nice!(15)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 509 [あなたのとりこ 17 創作]

 寧ろ会社存続が無理だと社長が判断を下すと云う結論に向かって、なかなかの早足で進んでいるようにも頑治さんには感じられるのでありました。こういう感触は頑治さんだけではなく、均目さんも薄々感じ持っているようでありました。那間裕子女史にしても明日の会社の存続と云う点に於いて不安な表情を隠さないのでありました。
 袁満さんと日比課長、それに甲斐計子女史は一方に大いに不安は感じながらも、しかし制作部の二人に比べるとあたふたしている風ではないようでありました。別に根拠は何も無いけれど、屹度何とかなるだろうと云う生来の楽天家の表情でありましたか。
 しかし確かに営業部と会計係でこう云った具合に切迫感が些か緩いのは、その楽天的な人柄と云う要素もありはするでありましょうが、片久那制作部長が居なくなった影響を直接受けていないからでありましょう。片久那制作部長が居ると居ないで会社の安定感がまるで違うと云う点は感じてはいるのでありましょうが、業務が思っていた程滞らない様子に安堵感が出たのでありましょう。またその安堵感がなかなか強い目眩ましに働いて、屹度この先も大丈夫に違いないと好都合な感触を抱き始めたと云う事でありますか。

 均目さんは毎日不慣れで煩雑な業務に忙殺されているためでありましょうか、ふとよぎる不安に苛まれて、目先の仕事も手に付かなくなると云う事はないようでありましたが、那間裕子女史の様子がここ数日みるみる晴れなくなるのでありました。片久那制作部長が居なくなったための一種の喪失感に時々襲われて、くよくよしたり気が気ではなくなるのでありましょう。精神的にかなり追い詰められているようにも見えるのであります。
 那間裕子女史の口数がここに来て極端に減るのでありました。ああ云えば必ずこう云い返すのが女史の流儀と云うのか、自他伴に認めるところの身上だったのでありますが、その舌鋒の鋭さが痛々しくも減じて仕舞ったように感じられるのでありました。
 話しをしていても何となく心ここに在らずと云った無関心を隠しもせず、話し方も話しそのものも妙に自棄っぱちな風があって、頑治さんの方が少々うんざりさせられる、と云った具合でありましたか。前はどんなに憎々し気な事をずけずけ遠慮なく云っていても、頑治さんにはどこか愛嬌とか滑稽味がその話し振りに感じられたのでありましたが、そう云うある種のしっとり感みたいなものが殆ど感じられなくなってきたのであります。これは何だか、退職間際の山尾主任の様子と重なるなと頑治さんは思うのでありました。
 山尾主任の場合は制作部から営業部への急なコンバートと、結婚して間もないと云うのにお相手と何だかしっくりいかなくて、結局お相手が家を出て行って仕舞うと云う私生活上の苦痛が重なったのでありましたか。山尾主任はその苦痛に対する捨て鉢と逃避の心情から、解決策として会社に辞表を提出すると云う道を選んだのでありましたか。
 と云う事は、ひょっとしたら那間裕子女史も会社を辞める心算になっているのでありましょうや。しかし頑治さんは深刻な悩みみたいなものを那間裕子女史から何か聞かされた訳でもないので、女史が退職を選び取る具体的な理由については全く見当が付かないのでありました。思い当るとしたら片久那制作部長の退職でありますけれど、その衝撃てえものは、別に那間裕子女史一人が受け取ったとものでもないのであります。
(続)
nice!(13)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 510 [あなたのとりこ 17 創作]

 それに大方は片久那制作部長が居なくなっても、当面何とか会社は然したる滞りもなく動いているという感触を得て、少しは胸を撫で下ろしているのでありますから、その辺の実感は那間裕子女史も共通のものを持っていると思われるのであります。それとも何か他の連中とは違う、那間裕子女史だけが感じ取れるところの決定的な危機の予兆でもあるのでありましょうか。或いはまあ、要するにちょっとばかり思い過ごしているとか。
 ひょっとしたら均目さんとの仲が上手くいっていない、と云うのが気鬱の理由なのではないのかとも頑治さんは勘繰るのでありました。まあしかしこれは均目さんと那間裕子女史が好い仲であると云うのが大前提で、そうであるのやら、単なる気の合う同僚と云う程度の仲なのやら、その辺りの確証は頑治さんには無いのでありました。ただ、二人は言葉で仄めかしたり、或いはそんな素振りを見せりとかはなかなかしないけれど、恐らく九分方は好い仲なのではないかしらと云う推察は、頑治さんは有しているのでありました。
 片久那制作部長から引き継いだ仕事が手一杯で、均目さんが那間裕子女史の方を今迄のように構っていられなくなっているのが、那間裕子女史には不満なのであります。それにその程度であたふたしている均目さんに、女史は興醒めしたのかも知れません。
 こうなると嘗て山尾主任が会社を辞めた理由の、会社内での立場とか仕事の変更と、私生活上でのなさぬ仲の相手と上手くいかない鬱憤、と云う二つの要素が那間裕子女史にも当て嵌まる訳でありますか。那間裕子女史のこのところの変化はこれで何となく、ははあと得心のいく説明が出来るような気が頑治さんはしてくるのでありました。そう云えばこの二人を見ていると、頑治さんがこのところ均目さんと何となく疎遠になっているのと同じに、那間裕子女史も均目さんと心の距離が出来ているようにも見えるのであります。
 とは言っても、繰り返しになりますがこれはあくまで頑治さんの推察であります。確証なんと云うものは、何一つ無いのでありますけれども。・・・

 恐らく頑治さんを自分が新しく創るであろう会社に引き抜く心算でいたから、片久那制作部長は贈答社を辞める時に、事後の仕事の事を頑治さんには何も指示したりアドバイスしたりはしなかったのでありました。結局この事が頑治さんの制作部に於ける宙ぶらりんの立場を作って仕舞ったと云えるでありましょうか。均目さんとしても制作部内での頑治さんの扱いをどうしたものか、些かまごつくような事態になったのでありましょう。
 まあ、頑治さんとしても本来制作部要員として贈答社に入社した訳ではなかったし、偏に片久那制作部長の胸三寸で製作仕事に引っ張り込まれていたのであります。依って頑治さんはそれ程製作部での仕事に未練は無いのでありました。それは確かに、決まりきった倉庫業務や荷造り梱包の仕事よりは、面白味は感じてはいたのでありましたが。
 だから製作部でお呼びがかからなくなっても、頑治さんは然程に仕事意欲が減じる事はないのでありました。業務仕事の方が気楽で性に合っているのでありましたし、倉庫の整理整頓やら駐車場周りの掃除なんかも、そんなに嫌いな方ではないのでありました。頑治さんとしてはそんな風に何となく本来の自分の仕事に落ち着いていたのでありましたけれど、或る日、土師尾常務から話しがあると出し抜けに呼び出されるのでありました。
(続)
nice!(14)  コメント(0) 
共通テーマ:

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。