SSブログ

あなたのとりこ 471 [あなたのとりこ 16 創作]

「社長も会社の金を勝手に遣いこんで株を遣っていたと云う弱みを握られたから、片久那制作部長が会社を辞めるとなると、一面でホッとしているところもあるだろうし」
 均目さんが卓上に置いたジョッキを両掌で触ってその冷たさを楽しんでいるような手付きをしながら、那間裕子女史の言を補足するような事を云い添えるのでありました。
「そう、それがあるものだから社長は片久那さんを冷遇しようとして、会社を自分から辞めるように仕向けたんだろうからね。その後で弱気になったとしても、是が非でも片久那さんを引き留めに掛かるかと云うと、それはちょっとどうかしらねえ」
「片久那さんが居なくなるとすっかり土師尾さんの天下になって、社長には適当な事ばっかり云って誤魔化しながら、自分には好都合な事ばかり、あたし達には無体な事ばかり遣り出すに決まっているわ。社長の方も会社の金を自分勝手に使い放題になるし」
 甲斐計子女史はお先真っ暗と云った顔つきで首を横に振りながら、卓上に置いていたウーロン茶のグラスを持ち上げるのでありました。
「でもそれを防止するために組合を創ったんだろう、ねえ袁満君?」
 会社で片久那制作部方に話しを聞いている時以来、すっかり何も喋らなくなって仕舞った袁満さんを訝ってか、日比課長が話しを向けるのでありました。
「ああ、うん、それはそうだけど、・・・」
 袁満さんはようやくそれだけ呟くように云うのでありました。何となく心ここに在らずと云った風の、茫洋とした云い方でありました。片久那制作部長が会社を辞めると云う事にかなりのショックを受けて、茫然自失と云ったところでありましょうか。
「土師尾常務は実は頗る付きの小心者だから、片久那制作部長が辞めると聞いて、さあこれからは俺の天下だ、とか太々しくほくそ笑むよりは、先々の自分にのしかかってくる会社を動かす上での役割とか責任とかの重さを考えて、これは大変な事になったと狼狽しているんじゃないかな。そう云う事はすっかり片久那制作部長に任せっきりだったから」
 均目さんが袁満さんの口の動きが一向に捗々しくならないのを見取って、その代わりと云う訳ではないでありましょうがそんな事を云い出してみるのでありました。
「そうね、あの人は薄っぺらな見栄や体面の事はちまちま考えても、会社をちゃんとやっていく能力も器量も持ち合わせていないからね。根性無しだからひょっとしたら自分も、責任が重くなる前に慌てふためいて会社から遁走しようとするかもよ」
 今度は那間裕子女史が均目さんの説を補足するのでありました。
「ま、確かにその恐れは多分にあるか」
 日比課長が日本酒の徳利を自分の猪口に手酌で傾けながら頷くのでありました。
「でも社長との間で片久那さんを追い出して、土師尾さんが実質的に会社をやっていくと云う密約が既にあったから、あの席で社長が待遇の件を切り出したんじゃないかしら」
 甲斐計子女史がグラスを置くと読点のように卓が小さな音を立てるのでありました。
「それも確かに考えられるな」
 日比課長がこれにもしたり顔で頷くのでありました。
「全く、日比さんときたら調子が良いだけで、実は何も考えていないんだから」
(続)
nice!(14)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 472 [あなたのとりこ 16 創作]

 甲斐計子女史がそう詰った後で舌打ちするのでありました。
「いや俺は、どっちも可能性があるなと思うものだからさ」
 日比課長は急いで云い訳するのでありましたが、その言は虚ろに響いただけでありましたか。寧ろ甲斐計子女史は日比課長をすっかり頼りにならないと見切ったようで、真向かいに座っている頑治さんの方に眉尻を下げて眉根を寄せて、それから下唇を僅かに突きだして、日比課長に対するがっかり感と侮りを表情で表わして見せるのでありました。
「土師尾常務は軽忽で己を知らない愚か者で、尚且つ見当外れの自信家でもあるから、自分だって片久那制作部長に引けを取らない有能なる人間であると勘違いしていている節がある。まあ、でも実は大いに引けを取っている事を自覚していて、一生懸命見栄を張っているのかも知れないけど。しかし兎に角、片久那制作部長の居なくなった会社を自分が充分動かしていけるだろうと云う、虚けた自信と観測は秘かに有しているかも知れない」
 均目さんがそう云ってからビールを一口飲むのでありました。
「何、つまりどう云う事を云おうとしているの?」
 均目さんのこの中途半端に分析的でまわりくどい云い草を嫌に間怠っこく感じたためか、甲斐計子女史が小首を傾げて訊き質すのでありました。
「要するに、土師尾常務は片久那制作部長が居なくなっても、自分が居るから今後も大丈夫だと、既に社長に対して根拠のない大見栄を切っているのかも知れない」
「それは如何にもあの人がこっそり吹きそうな大法螺だけど」
 甲斐計子女史は同意の頷きをするのでありました。
「でも土師尾さんにそんな実力は端から無い事くらい、長い付き合いなんだから社長も疾うに判っているんじゃないかしら」
 那間裕子女史が先程の甲斐計子女史と同じ程度に首を傾げるのでありました。
「いや、同じくらいに社長も鈍くて能天気で、会社が赤字を出さないで回っていて、時々その儲けを自分のポケットの中にくすねる事が出来れば、それで御の字と云う程度にしかウチの会社に関与していないから、土師尾常務の営業能力とか会社切り盛りの能力なんかは実は無関心じゃないのかな。それに大会社でもないから、実際、税理士とか公認会計士とかの手をしっかり借りれば、土師尾常務でも何とかなるかも知れないし」
 均目さんがやや穿った知見を披露するのでありました。
「まあ、それはそうかも知れないけどね」
 那間裕子女史もここで頷くのでありました。

「それはそうと、袁満君、大丈夫?」
 那間裕子女史は徐に袁満さんの顔を覗き込むのでありました。「放心したような目をした儘、店に入って来て以来ずうっと黙りこくっているけど、体の具合でも悪いの?」
「いやあ、そうじゃないですけど」
 突然そう声を掛けられた袁満さんは、ゆっくり顔を上げて那間裕子女史に力ない笑いを送るのでありましたが、その顔からは生気が全く感じられないのでありました。
(続)
nice!(13)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 473 [あなたのとりこ 16 創作]

「出雲君が会社を辞めるし、その上に片久那制作部長も六月一杯で辞める事になったと聞いて、お先真っ暗になって放心状態に陥ったんだな」
 日比課長が少しからかう口調で袁満さんの心理解析をするのでありました。袁満さんは日比課長の方に顔を向けるのでありましたが、特に抗弁する気配も見せず、焦点の良く定まらないような目で日比課長をぼんやり眺めるのでありました。これはどうやら本当に、放心状態と表現してもあながち外れていない状態でありますか。
「まあ取り敢えず一息入れて、落ち着いてくださいよ」
 真向いの均目さんがビール瓶を少し傾けて袁満さんの方に差し出すのでありました。袁満さんは条件反射的に自分のグラスを持ち上げて、均目さんの酌を受けようとするのでありましたが、グラスの中身は殆ど減ってはいないのでありました。乾杯した時に少し口に含んだけれど、その後はグラスを卓上に置いた儘にしていたのでありましょう。
「片久那制作部長が会社を辞めるのが、余程ショックだったのね」
 甲斐計子女史が云うと袁満さんはそちらの方へ顔を向けるのでありました。しかし目は格段の意識を何も宿していないような全くの無表情なのでありました。
「これから先、土師尾常務が会社を取り仕切るのかと思うと、もう将来は絶望的だ」
 袁満さんは何とか言葉を吐き出すのでありました。「あんな人にリーダーシップは望めないし、売り上げ不振を乗り切れるだけの力量も無いし」
「片久那制作部方に比べて、先ず圧倒的に人望が無い。それに誰よりも強欲で、自分の事しか考えていない。アイツがこれから先のさばるかと思うと、確かに絶望的だ」
 日比課長はここでは吐く言葉の中のからかいの色を薄めて、寧ろ土師尾常務への敵意剥き出しで袁満さんの憂いに相乗りして見せるのでありました。
「制作部の方は片久那さんが居なくなっても、何とかやっていけるの?」
 甲斐計子女史が均目さんを見ながら訊くのでありました。
「まあ、最初はあたふたするかも知れないけど、ここのところ色々、片久那制作部長がやっていた管理の仕事を委譲されているし、大凡のところは何とかなりそうな気がする」
 均目さんはそう云いながら、横に座っている那間裕子女史を横目で縋るように窺い見るのでありました。任せておけとドンと胸を叩く、と云った風ではないながらも、均目さんとしては全然自信がないと云うところでもないようでありますか。
 均目さんに横目で窺われた那間裕子女史は、その視線は頬に感じながらも特に反応を見せないで、ビールのグラスに視線を落としてそれを弄んでいるのでありました。自分の視線にしっかと応えてくれない那間裕子女史に均目さんは少し目算違いしたようで、今度は那間裕子女史越しに頑治さんの方に視線を投げるのでありました。
 頑治さんは一応礼儀から均目さんの方に顔を向けるのでありました。半分制作部要員で半分業務担当と云う自分の仕事上の立ち位置から、均目さんに和して安請け合いするのはちょっと憚られるような気がするのでありました。あくまで自分は立場の上では制作部の補助要員でありましょうから。依って同意の頷きは遠慮するのでありましたが、均目さんとしてはこの頑治さんの反応も、何だか拍子抜けのつれない反応のようでありました。
(続)
nice!(11)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 474 [あなたのとりこ 16 創作]

「じゃあ、制作部の方は片久那さんが居なくても何とかなるとして、営業の方はどうなるのかしらね。こちらは従来と何も変わらないのかしら?」
 甲斐計子女史は横を向いて自分の左隣りの日比課長の顔を見るのでありました。
「そうねえ、特に変わらないと云えば変わらないかな」
 日比課長はそう云って、別に質問をした甲斐計子女史が酌をしてくれる様子でもなさそうなので、自ら徳利を傾けて自分の猪口に日本酒を注ぎ入れるのでありました。
「変わるよ!」
 袁満さんが日比課長に断固異を唱えるのでありました。「日比さんは当座の自分の仕事だけしか頭に無いいから、特に変わらない、とか好い加減な事を云うんだよ。出雲君が居なくなって地方特注営業が無くなると思ったら大間違いだぜ。今度は日比さんがそっちに回されて、追い詰められて会社を辞める羽目になるかも知れないじゃないか」
「地方特注営業は、これで立ち消えになるんじゃないかな」
 日比課長は未だ楽観の座布団の上に座って猪口を傾けているのでありました。
「それは甘いと思うわよ、あたしも」
 甲斐計子女史が眉根を寄せるのでありました。「土師尾さんは、今度は日比さんにターゲットを絞って、会社を辞めさせるように露骨に意地悪し出すに決まっているわよ」
「あたしもそう思うわ」
 那間裕子女史にもそう云われて、日比課長は自分の右隣の甲斐計子女史から、真正面の那間裕子女史の方にも首を九十度回してキョトンとした顔を向けるのでありました。
「何だか当事者意識の薄い、如何にも鈍そうな顔だなあ」
 袁満さんが日比課長の横顔に向かって云うのでありました。日比課長が少し険しい表情で今度は左側の袁満さんを見るのは、鈍いと云われて憤慨したからでありましょう。
「だって俺が辞めたら、土師尾常務は楽が出来なくなるじゃないか」
「それは前にも聞いたよ」
 袁満さんはビールを一口飲むのでありました。確かにそう云う話しを前にした事があるのでありました。その折も日比課長はどこかのほほんと構えて馬耳東風を決め込んでいたのでありまあしたか。そう云う運びに現実味を感じられないのでありましょう。
「でもどんな場合でも土師尾常務は自分が楽をする術を考え出すんじゃないかな、例え日比さんが居ようが居まいが無関係に。そんなヤツだよ、あのインチキ増長野郎は」
 袁満さんがそう云うと甲斐計子女史も那間裕子女史も冷笑を頬に浮かべて、インチキ増長野郎と云う呼称も込みで同意の頷きをするのでありました。
「日比さんを地方特注営業に回して、前の山尾さんの場合のように自分の代わりに骨身を惜しまず働く手下として、今度は均目君を営業に引っ張り込むかもしれないわね」
 那間裕子女史が右隣の均目さんのグラスにビールを注ぎながら云うのでありました。
「いや、寧ろ那間さんが営業にコンバートされるかも知れないぜ」
「それはどうかな。あんなインチキ増長野郎でも、那間さんを相手に遣りたい放題は出来ないんじゃないかな。そんな事をしたら逆にすごい剣幕で食って掛かられそうで」
(続)
nice!(10)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 475 [あなたのとりこ 16 創作]

 袁満さんが均目さんの言を即座に否定するのでありました。まあそう云う事もあり得るかなと頑治さんは心の内で首肯するのでありました。
「確かに那間さんを怒らせる程の勇気も根性も、土師尾常務には無いか」
 均目さんは袁満さんの言に納得するのでありました。「じゃあ矢張り、俺が営業部にコンバートされる公算は、可能性として大ではあるか」
「均目君は大概の原価見積もりは出来るし製作工程も把握しているから、そういう意味では土師尾常務よりも、営業要員として戦力になるかも知れない」
 日比課長が均目さんコンバート説を補強するのでありました。
「成程ね、それはそうだ」
 均目さんが他人事のように頷くのでありました。「ただそれの第一番のネックは、俺に営業に移る気が更々ないと云う事ですけどね。俺は営業向きの人間じゃないし」
「若し営業に移れと、土師尾さんに本当に云われたら?」
 甲斐計子女史が多少身を乗り出すようにして訊くのでありました。
「その時はけじめと云う点から、俺も会社を辞めますよ」
 均目さんはきっぱりと云うのでありました。
「片久那制作部長が居ないから、山尾君の時のように均目君を説得する人も居ないか」
 日比課長がそちらの方面から納得の頷きをするのでありました。
「まあ、均目君が営業にコンバートされると云うのは、今ここで全くの仮定の話しとして出ているだけで、そう云う兆候があると云う訳でも未だないですからねえ」
 頑治さんが背凭れに身を引いた位置から云うのでありました。「それより、念を押すようだけど、片久那制作部長が会社を辞めても、会社は何とかやっていけるんですよね」
「今まで通りの機能と効率で、と云うのは当初はしんどいかも知れないけれど、まあ、曲がりなりにも何とかやってはいけると思うよ」
 均目さんがそう応えて横の那間裕子女史を見るのでありましたが、今度も那間裕子女史は均目さんの方を向いて同意の仕草をして見せる事もなく、卓上の自分のビールグラスに手を添えて、そこに視線を落とした儘の素っ気ない素振りなのでありました。
「営業も、地方特注営業と云うのはなくなるとしても、従来通りの特注営業はその儘の形態でやっていけるんですよね?」
 頑治さんは日比課長の方に日本酒を差し翳すのでありました。
「まあ、やっては行けるよ。売り上げがどうなるかは保証出来ないけれど」
 日比課長は消極的な云い方ながらも頷いて見せるのでありました。
「地方出張営業はどうですかね?」
 頑治さんは今度は袁満さんに問うのでありました。
「この前唐目君にアドバイスを貰った方向で調整しているよ。それに社長が云っていた紙商事を退職する矢目さんともこの前面談して、嘱託としてウチの出張営業を遣ってくれそうな感触を貰っているから、まあ、ちょっとは目途も立ってきているかな」
 その言葉を聞いて頑治さんは大きく頷くのでありました。
(続)
nice!(15)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 476 [あなたのとりこ 16 創作]

「じゃあ、まあ、片久那さんが居なくても製作も営業も何とかなるのね」
 甲斐計子女史が確認するのでありました。
「最初はまごまごするとしても、まあ、確かにどうにか大丈夫かな」
 均目さんは充分の確信、とはいかない迄も一定の力強さで頷くのでありました。
「あくまでもあの土師尾常務が下らない魂胆から、妙な邪魔や謀をしない、と云う前提があれば、と云う事になるけどね」
 日比課長も条件付きながら明るい見通しを表明して見せるのでありました。
 片久那制作部長が辞めても何となくの目途としてではありますが、それで会社がすっかり立ち行かなくなると云う訳ではなさそうな按配であります。会社存亡の危機と云う認識から、その緊張に拉がれてこの場に集った者達の切迫感が少し緩むのでありました。

 一番打ち拉がれていた袁満さんに多少の元気が戻ったようで、袁満さんは近くを通りかかった店員に、日比課長の前に置いてある日本酒の徳利を見遣りながら自らもう二本ばかり徳利の追加と、それに自分用の猪口も要求するのでありました。それに刺激された訳ではないのでありますが、頑治さんも自分用の猪口を一緒に頼むのでありました。
「懸案は、結局、土師尾さんとの折り合いと云う事になりそうね」
 那間裕子女史が自分のグラスに残っていたビールを空けるのでありました。
「それが一番の難問と云うところかな」
 横の均目さんが那間裕子女史のグラスにビールを注ぎ足すのでありました。それから瓶に残った分を自分のグラスにすっかり空けるのでありました。
「片久那制作部長が居なくなったら、それこそ晴れて自分の天下が到来したと思って、これ迄以上に遣りたい放題をやらかし始めるだろうなあ」
 日比課長が新たに袁満さんに依る徳利二本分の日本酒の注文に安心してか、それ迄飲んでいた徳利の酒を猪口に空けるのでありました。猪口には表面張力に依ってやや縁より盛り上がった酒が、ギリギリ溢れないでユラユラと揺れているのでありました。
「そこはしっかり組合で牽制して、自儘を許さない雰囲気を作っておかないとね」
 袁満さんが未だ頼んだ徳利と猪口が来ないので、手持無沙汰そうに卓上の空のビールグラスを握ったり放したりしながら云うのでありました。
「考えてみればあたし達には、あの人を必要以上に恐れる理由は何も無い訳だしね」
 甲斐計子女史は云った後でウーロン茶を一口飲むのでありました。
「あんなちんけなヤツなんか恐れている訳じゃないけど、何となく付き合うのが面倒臭い人ではあるよ。話していてもちっとも愉快じゃないし、苦手なタイプだな」
 袁満さんが顰め面をするのでありました。
「その割に袁満君がアイツと話しているところを見ていると、緊張してビクビクしてしどろもどろになっているように見えるのは、俺の目が悪いせいかな」
 日比課長がからかうのでありました。
「別にしどろもどろになんかなっていないよ、俺は」
(続)
nice!(11)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 477 [あなたのとりこ 16 創作]

 袁満さんがそう抗弁したタイミングで、ようやく注文した徳利と猪口二つが運ばれて来るのでありました。日比課長が早速徳利を取って袁満さんの手にした猪口に酒を注ぎ入れるのは、別に先の言を詫びる心算からと云う訳ではないようでありますけれど。
「土師尾さんは、その顔を見るだけで誰でも鬱陶しくなる人だわね」
 甲斐計子女史が袁満さんへの助け舟としてそう云った訳ではないのでありましょうが、袁満さんは日比課長の揶揄から逃れるためにその言に食い付くのでありました。
「話す事が総て胡散臭くてまともに聞いちゃいられない。それに人の話しを聞くにしてもただ単に粗探しするためだけに神経を尖らせていて、内容に関しては殆ど聞いちゃいないし、兎に角話し相手をうんざりさせる名人だから、なるべく早くあの人から遠ざかりたいと云う気持ちが、日比さんにはしどろもどろになっているように見えるんだよ」
 袁満さんはなみなみ酒が注がれた猪口を、零すのを恐れてその場から動かさないで、尖らせた口で迎えにいくのでありました。
「いやあ、本当に緊張して心臓がバクバクしているように見えるけどねえ」
 日比課長はニヤニヤしながら揶揄の言をなかなか止めないのでありました。
「組合で牽制するとか云ったけど、つまり具体的にはどうする訳?」
 甲斐計子女史が袁満さんと日比課長の遣り取りを無頓着にさて置いて、均目さんのグラスにビールを注ぎ足しながら訊くのでありました。
「誰かが何か云われたら、その場で一対一で云い合いをしないで、何に依らず組合に持ち帰って、組合員全員で対抗すると云う形を取るって事ですよ」
「あの人はこの前の団交で残業の件を指摘されて以来、組合にはちょっとおどおどするところがあるみたいだから、組合を前面に押し立てるのは確かに有効かもね」
 那間裕子女史も均目さんの云う遣り方に頷くところがあるようでありまあす。
「即答を求められた場合、なかなかそうもいかないかも知れない」
 袁満さんが首を傾げるのでありました。
「あの人の話しで、即答を要するようなものなんか殆ど無いんじゃないかしらね」
 甲斐計子女史が少し考える風の目をして云うのでありました。
「まあ無いですね。若しあったとしても逆に即答をしないで、勿体付けて後でゆっくり考えてから返答するとか云ってしかつめ顔なんかして見せて、あの人を不必要に苛々させてやる方が痛快かも知れませんよ。苛々すると同時に不気味にも思うだろうし」
 均目さんがもう既に痛快そうな顔をして云うのでありました。
「根が小心者で、こっちが何やら訳あり気な素振りでもすればすぐに警戒心たっぷりになるから、そんな風な何やら一計がありそうな様子を見せるのは確かに有効だろうな」
 袁満さんがそう得心してから猪口の酒を空けるのでありました。
「ま、要するに組合員全員でまるで団交しているような雰囲気で対峙すれば、そうそう土師尾常務を怖れる必要は無いと云うことですかね」
 頑治さんが話しを纏めようとして云うのでありました。
「怖れちゃいないけどね、初めから」
(続)
nice!(11)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 478 [あなたのとりこ 16 創作]

 日比課長が鼻を鳴らすのでありました。
「元々怖れてはいないとしても、土師尾常務と差しで話をする鬱陶しさとか大儀さとかからは、それで免れる事が出来ると云う事になりますよね」
 頑治さんはそう云いながら、日比課長が土師尾常務を怖れていようがいまいが、そんな事はこの際どうでも良いと思うのでありました。一々そんなところに拘られるのは、土師尾常務と差しで話しをするのと同じ程度に鬱陶しい事でありますか。
「まあ、何かしらの難癖を付けようものなら、組合員総出で当たってくると土師尾常務が考えるなら、それはそれで一定の牽制は働くと云うものかな」
 袁満さんが日本酒を微量、口の中に流し入れるのでありました。
「こっちとしてもそれはなかなか心強いしね」
 甲斐計子女史が眉宇に載せていた憂いを少し払った面持ちで頷くのでありました。ここで何となく、場に張りつめていた緊張が少し緩んだような気が漂うのでありました。
 片久那制作部長が会社を辞めると云い出した時には全員お先真っ暗と云った心持ちになったのでありました。しかしそれでも何とかかんとか会社の業務は回してゆけるだろうと云う目途も立ったようだし、片久那制作部長の居なくなった後の土師尾常務の増長に対しても、万全とはいかないながらも一応の備え方も確認出来たと云う事もあって、ここに集う全員に多少の安堵感が芽生えたための空気の弛緩でありましょう。
 まあひょっとしたらこの安堵感は、思考停止と、結論迄の道筋の荒さのために誘導された根拠の薄い楽観と云うだけかも知れません。窮地に於いては、得てして心の安寧のためにそのような思考の短絡が行われるものであろうと頑治さんは思うのでありました。
 しかしそれでも仄見えた一筋の光明に、多少の油断が窺えるとしても、今日のところはそれで構わないではありませんか。そうでないと、絶望から会社はすぐに瓦解するでありましょうし、何より今宵の安眠が阻害されて仕舞うと云うものであります。

   意外な目算外れ

 片久那制作部長の退職表明のお蔭で、出雲さんの退職する衝撃の方は何となく翳んで仕舞うのでありましたが、これは多少気の毒と云うものかなと頑治さんは思うのでありました。会社に於ける存在感と云うのか、両者の間の掛け替えの無さの違いと云う点で、ま、仕方が無いと云えば仕方が無いと云うものでありましょうか。
 その月の締め日で出雲さんは退職するのでありましたが、前以ってお別れの酒宴等は五月の連休中に新宿で執り行われていたから、その日迄にお別れ会の二次会の提案の声は誰からも上がらないのでありました。尤も頑治さんは夕美さんとの事があったのでそれには出席しなかったのでありましたから、日比課長と袁満さんと出雲さんが集う会社帰りの、インフォーマルな御茶ノ水駅近くの居酒屋での酒宴に参加させて貰うのでありました。
 袁満さんはその席でもくよくよと土師尾常務のこれから先の跳梁跋扈を心配するのでありました。矛先が先ず自分に向くのは必定だと思いなしているのでありましょう。
(続)
nice!(16)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 479 [あなたのとりこ 16 創作]

 会社に残る袁満さんの陰鬱な顔色とは対照的に、出雲さんは何方かと云うと晴れやかと云うのはちと云い過ぎでありましょうが、しかしなかなかにさっぱりとしたような面持ちでありましたか。これでようやく土師尾常務との悪縁が切れると云うのが、その如何にも清々したような表情の主たる要因でありましょうか。一応礼儀から日比課長と袁満さんへの惜別の気持ちは吐露するものの、それよりは遥かに、失職と引き換えながらもやっと手に入れたところの解放感と安堵の方が、より優っていると云った按配でありますか。
 出雲さんは何でも実家が信州の松本で小さな印刷屋さんをしているそうで、退職後はそこを手伝うために帰ると云う事でありました。東京に残って新たな職を見付けるのなら、またちょくちょく逢えるかもしれないけれど、松本に帰るとなるとそうもいかないなあと袁満さんは寂しがるのでありました。袁満さんとしては出雲さんに置いてけ堀を食らって仕舞って、一人寂しく取り残されたような心持ちになっているのでありましょう。
「ご実家の印刷屋を手伝うのなら、まあ、これ迄の仕事と関連性が無い事も無いか」
 日比課長がそう云って出雲さんのグラスにビールを注ぐのでありました。
「でも、俺は営業だったから、印刷の知識は何も持っていないっスよ」
 出雲さんはそう云ってあっけらかんと笑うのでありました。まあ確かに出雲さんは印刷や製本なんかの制作部的知識は何も有してはいないようであります。
 これは、幾ら業種が違うとは云っても、そう云う事業もやっている会社に居た人間としては些かがっかりな云い草と云うものだと、上辺は一緒になって笑いながらも、頑治さんは何となく内心物足りなくも不満にも思うのでありました。出雲さんのそう云うあっさりとし過ぎたところが結局、何の仕事を割り振られようともそれを粘り腰で何とか切り抜けるだけの自信と度量を獲得出来なかった原因ではないでありましょうか。
 まあこんな事を今更残念がってみたところで詮無い事ではありますけれど。・・・
「ご実家はどんな印刷物を取り扱っていらっしゃるんですか?」
 頑治さんは先程日比課長が注いだビールが未だ半分以上呑み残してある出雲さんのグラスに、勝手にビールを継ぎ足すのでありました。
「名刺とかスーパーなんかの新聞の折り込みチラシなんかがメインですかね」
「例えば頁物とかちょっとした書籍みたいなものはないんですか?」
「まあ、ちょろっとした旅行案内とか観光案内とか、求人案内なんかのパンフレットはやっているみたいですけど、ちゃんと製本してあるような物はやっていないっスかねえ」
「中綴じとか無線綴じなんかもしていない物ですかね?」
「何っスか、中綴じとか無線綴じって?」
 そう訊かれて頑治さんは自社の製品の中から例示するのでありましたが、出雲さんの応えは、そう云うものは無いけれど二つ折りとか四つ折りとか、或いは観音折りの折りっ放しの物はあるようでありました。それに滅多にはないけれど若しも頁物の依頼があれば、東京の馴染みの印刷屋に丸投げで外注するようでありました。
「その丸投げの物で、若し何でしたらウチにも見積もりを取らせてくださいよ」
 頑治さんは座興の心算でそんな営業なんぞをして見せるのでありました。
(続)
nice!(15)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 480 [あなたのとりこ 16 創作]

「親父に云っておきますよ」
 出雲さんは何となく興味薄気に云って愛想笑うのでありました。
「東京の知り合いの印刷屋に仕事を依頼する事があるのなら、偶にはそんな仕事絡みで東京に出て来ることもあるのかな?」
 袁満さんが頑治さんの酌を受けながら訊くのでありました。
「まあ、無い事もないっスかね」
「じゃあ、若しそう云う場合があるなら、連絡してくれよ」
「ええ、勿論連絡します」
 出雲さんは頷くのでありました。「仕事が絡まなくても、時々出て来ますけどね」
「ああそうなんだ。東京に何か時々出て来る用でもあるの?」
「ええまあ。・・・」
 出雲さんは思わせぶりに笑むのでありました。
「ははあ、その用と云うのはちょっとばかり艶っぽい用事ですかね?」
 頑治さんが口の端に笑いを溜めるのでありました。
「まあ、そんな感じっスかねえ」
「彼女に逢いに来るんだな?」
 日比課長も思い付いたように笑むのでありました。
「まあ、そんなところっス」
 出雲さんはもじもじと頷くのでありました。
「へえ、出雲君は今現在付き合っている彼女が居るんだ」
 袁満さんは今迄その辺には全く考察か及んでいなかったようでありました。同僚で時には一緒に仕事帰りに一杯酌み交わす間柄であるとは云え、そう云う話しはこれ迄出雲さんからはとんと出なかったのでありましょう。
「そりゃあ、モテないから水商売一本槍の袁満君と違って、出雲君はその辺りの手抜かりは無いだろうよ。そっちにかけては袁満君より余程ちゃっかりしているだろうし」
 日比課長が袁満さんをからかうのでありました。
「今迄そんな話しは聞いた事がなかったなあ」
 袁満さんは頻りに首を傾げるのでありました。
「別に隠す心算は無かったけど、何となくまごまごして云いそびれていたっス」
 出雲さんは頭を掻きながら袁満さんへの詫びのお辞儀をするのでありました。
 袁満さんはここでも何だか出雲さんに取り残されたような心持ちになったようで、寂しそうな顔色を一層濃くするのでありました。そんな袁満さんの佇まいを見て頑治さんは気の毒に思うような事も、まあ別にないのでありましたけれど。

 そんなこんなで、出雲さんはこの酒宴から丁度三週間して退職の日を迎えるのでありました。当日はもう別に従業員仲間で送別の酒盛りをする事もないのでありましたが、一同で金を出し合って帰り際に豪勢な花束を出雲さんに手渡すのでありました。
(続)
nice!(14)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 481 [あなたのとりこ 17 創作]

 思いがけなかったようで出雲さんは少し戸惑いの表情をするのでありましたが、すぐに笑顔を見せて組合員夫々に感謝の言葉を投げるのでありました。考えてみたら山尾主任が辞めた時には、このような送別のセレモニーはなかったのでありました。
 この差は何かと考えて見ると、要は他の従業員が山尾主任よりは出雲さんの方に屈託を感じていなかったが故でありましょうか。山尾主任は何方かと云うと万事に格式張りたい方で、何に依らず謹慎なる態度をはっきり他人に求める傾向が強いタイプであったから、ちょっと煙ったい存在であったと云うところでありますか。こういうところは、本人は不本意でありましょうが、土師尾常務に少し似ているとも云えるでありましょう。
 出雲さんはその点程良くくだけていて、他人の振る舞いに対してもなかなか鷹揚でありましたか。そう云うところは、山尾主任から見ればちゃらんぽらんとも見えていたかも知れません。しかしその方が気さくで煙ったがられない点で得ではありましょう。
 とまれ出雲さんが会社を辞めてからと云うもの、袁満さんはと云うとすっかり気落ちした風で、言葉を交わしても表面は何時もと変わらないようでも、どこか寂し気な風情が頭上にもやっと漂っているのでありました。何だか同じ立場にいた後輩が居なくなって、会社の中で孤立して仕舞ったような気分になっているのかも知れません。
 袁満さんはと云えば何に依らず既定が維持されている状態に安堵を覚えると云ったタイプの人で、変化を嫌う、或いは常態の変更が苦手と云った気風の人でありました。現状の変化の兆しを感じると先ずは気後れを覚えて、警戒心を抱くのでありますが、かと云って積極的に変化を食い止めるとか抵抗すると云う能動性はなくて、ただ陰鬱そうに身を固く縮めて変化を遣り過ごして、後にその変化に自分の身が狎れるのを待つのであります。まあ、自棄を起こすよりはその方が確かに賢明な処身と云えるかも知れませんが。
 その袁満さんが何とか出雲さんの不在に慣れてきた辺りで、今度は片久那制作部長の退社が現実味を帯びて来るのでありました。袁満さんはこれに対しても何かと先回りに気を揉み始めるのでありました。まあしかし、営業部の仕事に直接何らかの影響が及ぶ訳でもないからか、その心配は専ら土師尾常務の跋扈に対する危惧でありましたか。
 しかし従業員単独ではなく組合員一丸で以ってそれに臨むと云う確認が既になされていたから、袁満さんは為す術無くくよくよすると云った程ではないのでありました。しかし袁満さんは組合の委員長でありますから、結局矢面に立つのは先ず自分であろうと云う危惧はあるようで、気鬱はなかなか晴れないのは仕方のない事でもありますか。
 片久那制作部長がこれ迄担っていた制作部仕事の均目さんへの移行は、任せても当面何とか大丈夫であろうと云う程度には完了した頃でありましたが、頑治さんが定期に池袋の宇留斉製本所に向かう折に、長い付き合いであったからちょっと挨拶するために同道したいと片久那制作部長が申し出るのでありました。勿論拒む謂れも気も権限もないから頑治さんは気安く頷いて見せるのでありました。考えてみればこれ迄片久那制作部長と二人して、仕事で何処かに出掛けた事なんかは全く以って一度もなかったのでありました。
 当日倉庫で宇留斉製本所に持って行く荷を車に積み込んでから、頑治さんはインターフォンで片久那制作部長に出掛ける用意が整った旨を告げるのでありました。
(続)
nice!(17)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 482 [あなたのとりこ 17 創作]

 すぐに下に降りて来た片久那制作部長を頑治さんは倉庫を出て、駐車場の車の横で迎えるのでありました。後部座席は折り畳まれてそこには荷物が積んであったから、片久那制作部長は長躯を窮屈そうに折り畳んで助手席に座るのでありました。
「じゃあ、出します」
 頑治さんはそう云って車を発進させるのでありました。
「入社して以来、何やかやとあって、今迄目まぐるしかっただろう」
 白山通りに出た辺りで片久那制作部長が頑治さんに話し掛けるのでありました。
「そうですね。何やかや、ありましたね」
 頑治さんは薄く苦笑いを頬に浮かべるのでありました。
「短期間に色々あり過ぎて、この先勤められるか将来が不安にならなかったかな?」
「いや、そこまでは。若し何か会社に居続けられない事が起こったとしても、それはそれで仕方ないですから。まあ、要するに縁が薄かったと云う事になりますかね」
「成程ね。唐目君はなかなか肚が座っているんだな」
 片久那制作部長は大いに感心したような云い方ではなく、かといって揶揄や嫌味を込めている風でもなく云うのでありました。
「肚が座っていると云うよりは、諸事に鈍く出来ているんでしょうね」
「いや、唐目君が鈍いとは思わないけどね」
「いやいや、なかなかそうでもないですよ、これが。その内化けの皮が剥がれます。いやもうとっくに剥がれていますかねえ」
「唐目君は必ずそう云う云い方をするが、そこは一種の慎み深さだと捉えておこうか」
 片久那制作部長はカラカラと笑うのでありました。
「池袋の宇留斉製本所には最近行かれた事があるんですか?」
 頑治さんは話しの舳先を曲げるのでありました。
「いや、もう十年も行っていないかなあ」
「ほう、十年ですか」
「偶に電話する事はあるが、それも最近は用があったら均目君に任せていて、とんとご無沙汰と云う感じかな。まあ、あそことは地名総覧社時代からの付き合いになるけど」
「ウチとの付き合いは最古参級ですかね?」
「まあ、その一つかな。昔はあそこのオバサン連中もそれなりに若かったしなあ。一番下の人は未だ結婚もしていなかったかな」
「ああ、あの三姉妹の一番体格の良い人ですね」
「昔は、まあ確かに痩せてはいなかったけど、ムチムチとした結構肉感的な色っぽい感じだったかな。今となっては、もうそんな片鱗も無いかも知れんが」
「いやまあ、お世辞じゃなくお綺麗ですよ。自分はタイプじゃないですけど」
「あの三人の中では、一番口煩くなっているようだな。前に唐目君の前任で業務をやっていた刃葉君が、大いに持て余して厄介極まりない人だと零していたけどな。時々」
 片久那制作部長はここでももう一度屈託なく笑うのでありました。
(続)
nice!(14)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 483 [あなたのとりこ 17 創作]

「ああそうですか、刃葉さんがそう云っていましたか」
 頑治さんはここで思いがけない名前が出て来たものだから、幾分懐かしそうに少し頬に笑いを浮かべて見せるのでありました。
「厄介と云うところでは、そう云う刃葉君自身も結構厄介なヤツだったけど」
 片久那制作部長は、ここは屈託なくもない笑いなんぞをするのでありました。

 行程も真ん中辺りに差し掛かったところで、頑治さんがふと思いついたように助手席の片久那制作部長に訊くのでありました。
「片久那制作部長は、会社を辞めた後の仕事とかはもう決まったんですか?」
「まあ、ある程度は」
 片久那制作部長は居住まいを正すように助手席で身じろぎするのでありました。
「良かったら何の仕事をされるのか聞かせて頂けますかねえ」
「学生時代の朋友が出版社とか通信社とかに複数居て、そこから外注と云う形で仕事を貰って、月刊誌のちょっとした記事を書いたり、本の編集を手伝ったり、それに色んな図版とかを作ったりする心算だよ。ああそれから、今の仕事で付き合いのある地球儀メーカーに是非にと頼まれて、そこの地図版編集を請け負う仕事もあるかな」
「地球儀メーカーと云うと、NGRグローブ社ですか?」
「ああそうだ」
 NGRグローブ社と云うのはアメリカの結構有名な地球儀メーカーの製品の、日本語版をライセンス生産している会社であります。そこの編集仕事を一応贈答社が受注すると云う形で、片久那制作部長が専門に製作を請け負っていた仕事でありました。
 その仕事も元々は、片久那制作部方の学生時代の知り合いで出版ブローカーみたいなことをしている人の紹介で始まったもので、片久那制作部長が贈答社を辞めたら、当然自動的に贈答社はお呼びでなくなると云う事であります。要はNGRグローブ社は贈答社とは殆ど何の関係も無くて、片久那制作部長個人と濃く繋がっている訳であります。
「へえ、もう早速今後の仕事の目途は立ったと云う事ですかねえ。流石に有能な人は不測の事態が起こっても、オロオロのほほんとなんかしていないものですねえ」
「いやまあ、そんな訳でも無いが、・・・」
 片久那制作部長は恐らく有能な人と云われた部分に一応の謙遜を見せるのでありましたが、頑治さんはそれを無視してあっけらかんと感心するのでありました。しかし不測の事態が起こったからと云うよりは、片久那制作部長は近い将来贈答社を辞めて、そう云う仕事でこの先独立しようと云う指向を前から持っていたと考える方が自然でありますか。だからトントン拍子で、事後の方便の道が整えられたと云う事でありましょうか。
「それはフリーランスとして、ご自宅を拠点にして遣っていかれるんですか?」
「いや、事務所を借りて会社組織の編集プロダクション、と云う形にする心算だよ」
「じゃあ、新たに会社を興される訳ですね?」
「まあ、そう云う事になるかな」
(続)
nice!(16)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 484 [あなたのとりこ 17 創作]

「でも当面は一人で遣っていかれるんでしょう?」
「そうだな。当面は一人で熟せるくらいの仕事量だろうからな」
「将来的には人を増やして、と云う風に考えていらっしゃるんですかね?」
「まあ、今後の成り行き如何では」
「遠からぬ将来、と云うよりはあっと云う間に仕事も増えて人も雇って、今の贈答社くらいの規模の会社にはされるんでしょうねえ」
 頑治さんは少々おべんちゃらも加味して云うのでありました。
「まあ、どうなるかな」
 片久那制作部長は含み笑うのでありました。つまりそんな将来像を満更描かないでもない、と云うところかと頑治さんはその心底を値踏むのでありました。
「手抜かりのない片久那制作部長の事だから、屹度思い通りにいくでしょうね」
「ところで唐目君は、この先も贈答社に身を置いておく心算でいるのかな?」
 片久那制作部長がここでも、少し居住まいを改めるように身じろぎする気配を頑治さんは感じるのでありました。何となく緊張感が醸し出されるのでありました。
「まあ、自分にはやっとありついた今の会社での仕事を容易に脇に置ける程の、これと云った取り柄も特殊技能も気概も性根も無いですから」
「ほう、大した謙遜だな」
「いや謙遜ではなくて生一本の事実です」
「唐目君の方が均目君や那間君より、部下として鍛え甲斐がありそうに俺は思うよ」
「いやあ、ここで俺を持ち上げても別に何も出ませんよ」
 頑治さんは頬を笑いに動かすのでありましたが、何だか少しぎごちない作り笑いになったように思うのでありました。片久那制作部長にそんな事を云われて嬉しくない事も無いのではありましたが、何となく穏便ならぬ響きの方をより強く感じ取って仕舞って、一種の用心からその発言を戯れとして聞いた事にしようとするのでありました。
「例えば本や雑誌の編集者とかライターとして将来遣ってみる気は無いかな?」
「まあ、制作部の仕事を手伝わして貰って、そっちの方面にもちょっと興味は湧いてきましたが、でも那間さんよりは指向としては俺の方が弱いですかね。那間さんは将来一流雑誌の記者とか、一端の編集者になりたいと日頃から公言していますし」
「何度注意しても直らない朝寝坊に代表されるだらしなさと云う点に於いて、今一つ信用が置けないからなあ那間君には」
 ああ成程と頑治さんは思うのでありました。しかし言葉にはしないのでありました。
「若し俺が会社を興したら、唐目君はそっちに来る気は無いかな?」
 片久那制作部長は無造作を装いながらも、しかし満を持して、と云った感じで云うのでありました。要は頑治さんに対してこの誘いをする目的でこうして態々、宇留斉製本所に挨拶に行くと云う尤もらしい理由を付けて、頑治さんの運転になる車に同乗しようと計ったのでありましょう。まあ尤も、頑治さんとしてはそこ迄自分を買ってくれた、或いは買い被ってくれた事に不快感を持つ謂れは全く以って無いのでありましたけれど。
(続)
nice!(16)  コメント(0) 
共通テーマ:

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。