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あなたのとりこ 479 [あなたのとりこ 16 創作]

 会社に残る袁満さんの陰鬱な顔色とは対照的に、出雲さんは何方かと云うと晴れやかと云うのはちと云い過ぎでありましょうが、しかしなかなかにさっぱりとしたような面持ちでありましたか。これでようやく土師尾常務との悪縁が切れると云うのが、その如何にも清々したような表情の主たる要因でありましょうか。一応礼儀から日比課長と袁満さんへの惜別の気持ちは吐露するものの、それよりは遥かに、失職と引き換えながらもやっと手に入れたところの解放感と安堵の方が、より優っていると云った按配でありますか。
 出雲さんは何でも実家が信州の松本で小さな印刷屋さんをしているそうで、退職後はそこを手伝うために帰ると云う事でありました。東京に残って新たな職を見付けるのなら、またちょくちょく逢えるかもしれないけれど、松本に帰るとなるとそうもいかないなあと袁満さんは寂しがるのでありました。袁満さんとしては出雲さんに置いてけ堀を食らって仕舞って、一人寂しく取り残されたような心持ちになっているのでありましょう。
「ご実家の印刷屋を手伝うのなら、まあ、これ迄の仕事と関連性が無い事も無いか」
 日比課長がそう云って出雲さんのグラスにビールを注ぐのでありました。
「でも、俺は営業だったから、印刷の知識は何も持っていないっスよ」
 出雲さんはそう云ってあっけらかんと笑うのでありました。まあ確かに出雲さんは印刷や製本なんかの制作部的知識は何も有してはいないようであります。
 これは、幾ら業種が違うとは云っても、そう云う事業もやっている会社に居た人間としては些かがっかりな云い草と云うものだと、上辺は一緒になって笑いながらも、頑治さんは何となく内心物足りなくも不満にも思うのでありました。出雲さんのそう云うあっさりとし過ぎたところが結局、何の仕事を割り振られようともそれを粘り腰で何とか切り抜けるだけの自信と度量を獲得出来なかった原因ではないでありましょうか。
 まあこんな事を今更残念がってみたところで詮無い事ではありますけれど。・・・
「ご実家はどんな印刷物を取り扱っていらっしゃるんですか?」
 頑治さんは先程日比課長が注いだビールが未だ半分以上呑み残してある出雲さんのグラスに、勝手にビールを継ぎ足すのでありました。
「名刺とかスーパーなんかの新聞の折り込みチラシなんかがメインですかね」
「例えば頁物とかちょっとした書籍みたいなものはないんですか?」
「まあ、ちょろっとした旅行案内とか観光案内とか、求人案内なんかのパンフレットはやっているみたいですけど、ちゃんと製本してあるような物はやっていないっスかねえ」
「中綴じとか無線綴じなんかもしていない物ですかね?」
「何っスか、中綴じとか無線綴じって?」
 そう訊かれて頑治さんは自社の製品の中から例示するのでありましたが、出雲さんの応えは、そう云うものは無いけれど二つ折りとか四つ折りとか、或いは観音折りの折りっ放しの物はあるようでありました。それに滅多にはないけれど若しも頁物の依頼があれば、東京の馴染みの印刷屋に丸投げで外注するようでありました。
「その丸投げの物で、若し何でしたらウチにも見積もりを取らせてくださいよ」
 頑治さんは座興の心算でそんな営業なんぞをして見せるのでありました。
(続)
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