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あなたのとりこ 458 [あなたのとりこ 16 創作]

「何、今朝の出雲君の退職願の話し?」
 日比課長は横の出雲さんに喋り掛けるのでありました。
「いやまあ、それとは別っスけど」
 出雲さんは何となく返事を濁すのでありました。
「出雲君ばかりじゃなくて、片久那制作部長も会社を辞めると云う話しだよ」
 袁満さんが日比課長に眉根を寄せた顔を向けるのでありました。
「え、片久那制作部長も会社を辞める?」
 日比課長は目を剥くのでありました。「部長、それは本当ですか?」
「うん。止める」
 片久那制作部長が目を剥いた日比課長の顔を見据えて一つ頷くのでありました。
「何でまた、出し抜けにそんな事になったんですか?」
「それを今から訊くために、こうして集まっているんだよ」
 袁満さんが日比課長に応えてから片久那制作部長の方に顔を戻すのでありました。
「今話した出雲君の退職金の事にしてもそうだが、合理的な展望も無く相手の弱気とか面倒臭さに付け込んで、有耶無耶の内にとかあわよくばとかの当座の解決を目論む小人根性と云うのは、到底会社経営者の器とは思えない。そう云う社長と土師尾常務の姑息さと恣意と、良い加減さと気紛れに付き合うのにほとほと愛想が尽きたと云う事だ」
 姑息とか恣意とか良い加減とか気紛れとかの芳しからざる評言を四種類も並べ立てるのは、片久那制作部長の二人に対する甚大な悪感情を表わしているのでありましょう。軽蔑と侮り程度だけならこんな悪口の総棚浚えは多分しないでありましょうから、間違いなく片久那制作部長には二人に対する、憎悪、の念があるでありましょう。頑治さんとしては片久那制作部長の公式的な退職理由なんかよりは、その感情が形成されてきた経緯を、本人が自らどんな言葉で語るかのか、と云うところに寧ろ興味が湧くのでありました。
「出雲君の退職金の事以外に、社長と土師尾さんと一体何を話したと云うんですか?」
 那間裕子女史が片久那制作部長を上目で見るのでありました。
「それは会社の機微に属する事もあるから、ここではがさつに云えないが」
「そんな曖昧に誤魔化されたら、片久那さんが会社を辞めるはっきりした理由があたし達にはちっとも判らないし、理解を寄せる事も出来ないじゃないですか」
「これ迄あの社長と土師尾常務の為人を見てきたなら、あの二人がどういう人間なのかは既に那間君も判っているだろう。それに今迄我慢して付き合ってきた、と云うよりは、社員の手前、無理にも庇うような事をしてきた俺の苦衷も、判るだろう?」
「それは確かに、日頃から社長と土師尾常務にはうんざりさせられる事が多々あるけど、だからってこのタイミングで会社を辞める片久那さんの真意は矢張り判らないわ」
 こう云われて片久那制作部長は眉間に皺を寄せて少し黙るのでありました。このタイミング、と云う点は先程迄の社長室での遣り取りを披露するのが明快な説明と云う事になるでありましょうが、それをうっかり洗い浚い話して良いものか、洗い浚い話す事で自分の信頼度や侠気の評価が下がりはしないかとか秘かに見積もっているのかも知れません。
(続)
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あなたのとりこ 459 [あなたのとりこ 16 創作]

「出雲君が社長室を出て行った後、残った俺と土師尾常務に向かって、土師尾常務の報酬を上げる事にするとか、社長が急に云い出したんだよ」
 片久那制作部長は口重な風情で喋り始めるのでありました。「それはどういう文脈で発せられた言葉なのか、俺にはすぐにはピンとこなかったけど」
 とは云うけれど、何に付けても洞察の鋭い片久那制作部長の事だから、屹度すぐにピンときたろうと頑治さんは思うのでありました。
「どうしてそのタイミングでそんな話しが出たんだろう?」
 袁満さんが呟くのでありましたが、それはこの場では不必要な一言で、片久那制作部長の話しの腰を折る、と云ったような具合でありましたか。当人もそれに気付いて、ああご免、とこの不謹慎を小声でおどおど謝ってその後は口を噤むのでありました。
「俺も先ずそう思ったよ」
 片久那制作部長が袁満さんを見据えるのでありました。「当然考えられるような事としては、出雲君に退職届を出させたことに対する評価、と云う事になる」
「つまり出雲君に辛く当たって、出雲君が退職願を出したくなるように仕向けたのを評価して、報酬を上げる事にしたと云う事ですか?」
 均目さんが言葉を挟むのでありました。
「他には特に、何も妥当な理由は考え付かないわね」
 那間裕子女史が後に続くのでありました。均目さんと那間裕子女史のこの口出しに対しては、片久那制作部長は特に不愉快そうな顔を向けないのでありました。
「社長としては、売り上げがじり貧だと云うのに、従業員の賃金も上がって是正金も出して、これから先組合の目があるから思うような査定も出来そうにないのなら、人員を整理する事で人件費の総額を抑えたいと云う考えは自然に思い付くだろう」
「で、一人会社を辞めさせることに成功したんで、それに貢献した対価を土師尾常務に払うと云う訳か。でもそれは、何だか奇妙奇天烈な理由だよなあ」
 袁満さんが首を傾げるのでありました。これは特に場にそぐわない科白と云う感じではないので、ここでは袁満さんは不興を買う事はないのでありました。
「確かに妙ちきりんな判断には違いない」
 片久那制作部長は一つ頷くのでありました。「予め出雲君を辞めさせると云う社長と土師尾常務共通の魂胆があって、それが成就したら土師尾常務の報酬を上げると云う約束が、ひょっとしたら俺の知らないところで成立していたのかも知れない」
「確かにあの二人なら、そんな阿漕な秘密の申し合わせもちゃっかりやりかねないな」
 日比課長が呟くのでありました。「碌でもない謀はすぐ考え付くからなあ」
「出雲君を辞めさせる事で人件費の総額を抑えると云うのなら、それに成功したのに土師尾さんの報酬を上げるのは、何となく謀として抜かりがあるように思えるけど」
 これは甲斐計子女史の科白でありました。
「出雲さんの年収を上回らない額を上乗せするなら、そう云う遣り口も成立するかな」
 頑治さんも一応話しに参加していると云う体面から言葉を発するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 460 [あなたのとりこ 16 創作]

「それにしたって、社長にすればその上乗せ分も、姑息にケチりたいんじゃないのかな。社長は金に関してはえげつなく出し惜しみ屋みたいだから」
 袁満さんが頑治さんの観測に少しの疑問を呈するのでありました。
「あの二人は昵懇の仲のように見えて、実は牽制し合っているところもあるからね」
 甲斐計子女史が口の端を歪めて憫笑するのでありました。
「まあしかし社長は人一倍体面を気にするくせに、結構なリアリストでもあるからなあ。出雲君の年収分と土師尾常務の報酬を天秤にかけて、年収分より少ない額の報酬を出す方が算盤の上で得なら、気持ちの上では不本意でもそっちの方を選ぶだろうなあ」
 日比課長が先の頑治さんの意見に賛意を示すのでありました。
「二人の肚の内なんかどうでも良い」
 片久那制作部長が吐き捨てるのでありました。その語気にこの場の皆が気圧されて言葉を失うのでありました。で、現実に引き戻されるのでありました。確かにそうなのであります。この期に及んで社長と土師尾常務の気持ち等はどうでも良いのであります。あたふたの第一番目は片久那制作部長が会社を辞めると云う一事でありますから。

 日比課長が訊き難そうな風情で片久那制作部長に訊くのでありました。
「で、片久那制作部長には報酬の増額の話しは無かったんですか?」
「そんなものは無いよ。第一出雲君を辞めさせようなんて、俺は端から考えていない」
「折角組合が出来て、これから先色々と会社の運営やら従業員の待遇が透明になって、俺達個々としてもある程度納得出来るようになってすっきりする筈だったし、土師尾常務の専横も無責任も、かなり牽制出来るようになったと思った矢先だったのになあ」
 袁満さんが如何にも無念そうに呟くのでありました。「ここで片久那制作部長が辞めて仕舞えば、また元の木阿弥になってしまう」
 これは掛け値なしの本意のところで発せられる慰留の言葉でもありましょう。
「それどころか、片久那さんが居なくなると会社そのものが立ち行かなくなるんじゃないかしら。土師尾さんは全く頼りないし、抑々経営側のくせにどのように会社が動いているのかも、ちゃんとは知らないと思うわよ。これ迄何でもかんでも片久那さんに頼り切る心算でいて、自分ではする事もしないで呑気におんぶに抱っこを決め込んでいたから」
 甲斐計子女史も片久那制作部長の辞意に難色を見せるのでありました。
「あの人は単なる営業社員以上の仕事は今迄してこなかったし、さっぱりする気も無かったし、能力も無かったし。まあ、営業社員としてもそれ程有能とも云えないし」
 日比課長がここで意を得たように喋り出すのでありました。「片久那制作部長が居なければ、この会社は回らないだろうな。社長にしても下の紙商事と兼務だから、こっちばかりを見ている訳にはいかないし。それに大体、ウチの方の実務は何も出来ないし」
「もっと云えば社長は、実は全く手に負えない人物なんだよ」
 片久那制作部長が日比課長の顔を見据えるのでありました。「あの人は自分の金と会社の金のけじめが付かない人なんだから」
(続)
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あなたのとりこ 461 [あなたのとりこ 16 創作]

「それはどう云う事ですかね?」
「去年の十二月に売り上げが落ちてボーナスを出せないと云う事があったけど、あの時ちょっと会社の決算を調べてみたんだよ。俺もその時は未だ従業員だったから、当然俺のボーナスも出ない訳だから、それは大いに困るから、まあ、結構真剣にね」
 片久那制作部長はここで少し笑って見せるのでありました。「それで決算書を出せと云ったら、社長は最初渋っていたけど、従業員の一時金を出さないとなるとそれなりの根拠を示さなければ、それは受け入れられないと強く圧したら、嫌々ながらも出してきた」
「決算書の数字は、片久那さんは初めから知っていたんじゃないの?」
 甲斐計子女史が小首を傾げながら訊き質すのでありました。
「いや、決算とか税理とかの、経営に関する事は社長の専任で、俺はノータッチだよ。会社お抱えの公認会計士とか税理士とかと社長が共同でやっていたからね。決算書を作るための色々な数字は俺の方で出すけど、出来上がった決算書とか税務署に出す申告書なんかに関しては、当然社長は俺には一切見せてはくれなかったよ」
「ふうん、そんなものなんだ」
 袁満さんはその辺の少し込み入った事情が良く呑み込めないようでありました。
「そりゃあ、部長と云えども一従業員が経営に関する事に立ち入る事は出来ないさ」
 日比課長がしたり顔で袁満さんの不見識を笑うのでありました。
「まあ、案外そうでもないんだろうけどね。強く要求すれば俺も見る事が出来たんろうけど、そこ迄は俺はしない。社長には俺に見せたくない事情もあったろうしね」
 片久那制作部長が、日比課長の半可と袁満さんに対する高飛車を軽く咎めるような云い草をするのでありました。まあ、それはさて置くとして、片久那制作部長が決算書や申告書迄自分に見せろと社長に今迄要求しなかったのは、要するに社長に対する一種の侮りと、一種の寛恕の気持ちからであろうと頑治さんは推察するのでありました。
 そこ迄やると社長を体面が潰れる迄追い詰める事になるかも知れないし、ひょっとして体面の潰れた社長が破れかぶれに逆切れして会社を畳むとか云い出すと、それは元も子もないと云う判断があったのでありましょう。しかし、事が自分のボーナスに関わるとなると、それは寛恕の気持ちとか澄ましている場合ではなく、そんな余裕綽々はさて置いて、決算者を見せろと急に豹変して凄んで見せたと云う事でありますか。
 社長も片久那制作部長の剣幕に粟立って、算書を渋々出す破目になったのでありましょう。社長としたらうっかりそれを拒む事で、若し片久那制作部長にそれじゃあ会社を辞めるとか喧嘩腰になられたら怖い、と云う警戒心があったと思われるのであります。
「さあて、その決算書の数字なんだが、・・・」
 片久那制作部長は眉根を寄せて沈痛な面持ちをして見せるのでありました。「まあ、ありきたりなところで見てみると、例えば交通費なんかは従業員の通勤手当分を合算して、その他営業回りで使う分が土師尾常務と日比さんで、多く見積もって二千数百円として、それに営業日を掛けるとすぐに出て来るだろう。交通費は結構導きやすい数字だ」
 片久那制作部長はそこで一拍取るように深呼吸をするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 462 [あなたのとりこ 16 創作]

「それはそうですね」
 袁満さんが納得気に頷くのでありました。
「そうしたら、実際の数字の三倍の額が計上してある」
「実際の数字の三倍!」
 均目さんが大仰に驚いて開けた口を閉じないのでありました。
「そうだ。少し多めに見積もっているから三倍以上と云う事になる」
 片久那制作部長は云った後に口を尖らせて頷くのでありました。「次にこちらで見当がつくのが人件費だが、これにしてもそうだ」
「人件費も片久那さんが、従業員全員の一時金の額も、残業代を含めた毎月の賃金も何時も計算しているから、これも確かに誤魔化し様がない数字だわね」
 甲斐計子女史が先の袁満さんのように頷くのでありました。
「そうしたらこれも約二倍、迄はいかないけど、それに近い額になっていた」
「二倍に近い額!」
 今度は日比課長が口を閉じないのでありました。
「まあ、他の勘定項目に関しても何やかやと問題が一杯あったよ」
「各項目の数字を適当に上乗せしていた訳ね、社長が」
 那間裕子女史が舌打ちするのでありました。
「そんなに上乗せしていれば、経営ピンチを装う数字に簡単に偽装出来るよなあ」
 均目さんが眉根を寄せるのでありました。「それじゃあ、売り上げが落ちて一時金が出せないと云うのは真っ赤な嘘で、本当は出しても充分な余裕があったって事か」
「道理で、賃上げとかはこっちが驚くくらい気前良く出した訳だ」
 袁満さんが唇を引き結んで悔しそうな顔をするのでありました。
「いやまあ、決算の数字の出鱈目さは出鱈目さなんだけど、前の期と比べて売り上げがかなり落ちていて、先が見通せないと云うのは確かに嘘ではないが」
 片久那制作部長がそう付け加えるのは、暮れのボーナスを前例のない金一封みたいな風にした事に、自分も一枚噛んでいたと云う疚しさがあるからでありましょうか。云ってみれば片久那制作部長も、社長の一時金支払い逃れに結託していた事になると頑治さんは考えるのでありました。しかしそう考えるのはどうやら頑治さん一人のようで、他の皆はそこには殆ど拘りを持たないようでありましたか。しかし皆も実は拘りを持ったけれど、片久那制作部長がおっかなくてうっかりした事は云えないでいるのかも知れませんが。
「そうやって誤魔化して置いて、社長はそのお金をどうする心算だったのかしら」
 那間裕子女史が首を傾げるのでありました。「只管貯め込む心算だったのかしら?」
「そうじゃない。株だよ」
 片久那制作部長があっさり種明かしするのでありました。
「ああ成程ね。矢張り株を買うのにこっそり流用していたのか」
 日比課長が露骨に愛想尽かしするような顔をするのでありました。
「社長は株をやっているの?」
(続)
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あなたのとりこ 463 [あなたのとりこ 16 創作]

 袁満さんが日比課長の思い当る節がありそうな云い方に驚くのでありました。
「昔から社長は株をやっていたよ。まあ道楽みたいなものかな」
「その道楽に、誤魔化した会社の金を注ぎ込んだ、と云う事になる訳ね。酷いわね」
 那間裕子女史が憤慨するのでありました。
「それは横領、と云う風にも云えるんじゃないのかな」
 均目さんも目を怒らすのでありました。「社員の一時金を出し惜しんで、その分を秘かに会社の業務とは全く関連の無い、株の購入と云う私的な楽しみに遣い込んだ訳だから」
「そう云うところのある人よ、あの社長は。それを別に後ろめたくも思わないし」
 甲斐計子女史がシニカルな笑いを浮かべるのでありました。
「その辺を片久那制作部長にジワジワと突かれたら、それは社長もオロオロするしかないかな。下手をすれば犯罪行為と云われ兼ねないからね」
 均目さんが甲斐計子女史と同じような笑いを口の端に浮かべるのでありました。
「そりゃあ、片久那瀬利作部長と土師尾常務を役員待遇にして、俺たち以上に優遇しなければならなくなった訳だ。ふうん、成程ね」
 袁満さんが思わずそう云い出すと他の皆は夫々、片久那制作部長の手前、少し居心地悪そうにもじもじと或いはそわそわと佇まいを改めるのでありました。
「そこを指摘された社長は良心の呵責を感じて、すっかり観念したのかしら」
 那間裕子女史が少し間を取ってから片久那制作部長に問い掛けるのでありました。
「いいいやどうしてどうして。社長もなかなかの狸だからなあ」
 片久那制作部長は苦笑するのでありました。「ああ成程そうなりますかねえ、なんてしれっと云って、まあ内心の動揺はあったろうけど平然を装っていたよ」
「これが土師尾常務だったら、弱みを突かれたら反射的に逆上して、すぐに大騒ぎし始めるんだろうな。その点社長は人生経験が常務より豊富だから、余程性根が座っている」
 日比課長が社長を変な風に持ち上げるのでありました。
「あのう、若し話しが長くなるようなら、お茶でも淹れてこようか?」
 甲斐計子女史がここで今迄の話しとは無関係にそんな事を提案するのでありました。
「それとも場所を変えるか?」
 日比課長がこう云うのは居酒屋か何処かで酒の入った猪口でも遣り取りしながら、じっくり腰を据えて話しをしようかと云う提案でありましょう。
「いや、お茶も場所変えも要らないわ」
 那間裕子女史がきっぱり云うのでありました。余計な事をしないで、今この場で話しに集中しようと云う意でありましょう。それともこの後何か私用があって、実は早く話しを切り上げて家に帰りたいと云う肚であるのかも知れません。ただ話しの内容が内容なだけに、うっかり軽々にそれを云い出せないと云う板挟みの悩ましさでありますか。
「結局、片久那制作部長は、どう云った理由で会社を辞める事にしたのですか?」
 那間裕子女史の思いを察したから、と云う訳では別にないのでありますが、頑治さんが話しを迂路から大筋の辺りに戻そうとするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 464 [あなたのとりこ 16 創作]

「それは要するに、社長がその暮れのボーナスを巡る一件とこの前の春闘で、俺を心底から煙ったく思ったのか、俺と土師尾常務の待遇に差をつけようとしたからだ」
 片久那制作部長はその折の社長の顔を思い出したように、唸る犬のような皺を鼻頭の辺りに寄せて見せるのでありました。

 片久那制作部長の話しを掻い摘めば、社長は土師尾常務と片久那制作部長の間の待遇の差を、片久那制作部長が許容出来る範囲を超えて広げようとしたのでありました。要するに事あるに付け様々苦言を呈する片久那制作部長よりは、耳触りの良いお追従を専らとする土師尾常務の方を、残念ながら社長はより愛でたと云う事でありましょう。
 おまけに、恐らく未だにモダニズムと弁証法的唯物論の徒たる片久那制作部長は、君君たらずと雖も臣臣たらざるべからず、なんと云う中国の伝統的儒教美学なんぞには見向きもしない人でありましょうから、それはまあ、利害関係者としてのそんな了見の社長を見限るのに然程の痛痒は感じないで済むと云う具合でありますか。それに利害関係とは云っても、常に社長の利の方を自分のそれよりは少し先にしていた心算の片久那制作部長の目には、そんな配慮に一顧もしない社長が歯痒い程に盆暗と映っていたでありましょう。
 片久那制作部長は土師尾常務より自分の方が、これ迄の生き様も人間の格も遥かに優っているという矜持は、まあ当然の事として持っていたでありましょうから、土師尾常務の待遇の多少の優位は、会社の落ち着きを考えて、自分が余裕をもって許容してやっていると云う思いがあったでありましょう。そう云う少し下がった位置に自分を敢えて置く事がまた、片久那制作部長の美意識にも沿っていたとも思われるのであります。
 しかしそれは或る微妙な一定の距離迄であって、それを越えようとするなら、これはもう社長の自分への裏切りであると見做すでありましょう。或いは社長の盆暗加減に、綺麗さっぱり愛想を尽かしてこの辺が見限り時であるとも考えるでありましょう。
 で、出雲さんが社長室から出て行った後で、そう云えばところで、と云った感じで、実は満を持してそんな提案が社長から、片久那制作部長にすれば唐突になされたのであります。社長の心底には、これ以上片久那制作部長に社長たる自分が良いように操られ、会社を牛耳られ続ける苦々しさが沸々と滾り立っていたのであります。
 社長としての権威も旨味も、平の取締役風情にこれ以上侵害され抑制され、或る意味軽視され続けるとなると、社長の方の我慢の方も好い加減この辺で限界に達していたのでありましょう。そこで、そんな片久那制作部長にけじめと云うものを思い知らせてくれようと云う逆襲の目論見が、竟にここに来て俄然発動されたと云う次第でありますか。
 これで片久那制作部長がしゅんと悄気て、怖れ畏まるようになればしめたものであります。それに若しもそうならなくて、久那制作部長が自棄を起こして会社を辞めるとかもの凄い剣幕で云い立てるとしても、それならそれで結構と肚を括ったのでありますか。まあ色々厄介で大して思い入れのある会社でもないし、社長には紙商事と云うもう一つの本業たる会社もある事だから、片久那制作部長に辞められて会社が立ち行かなくなっても、もう構うものかと云う、こちらにはこちらの自棄のやんぱちがあった訳であります。
(続)
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あなたのとりこ 465 [あなたのとりこ 16 創作]

「社長は会社を畳む心算で、片久那さんにそんな仕打ちをしようとしたのかしら?」
 那間裕子女史が小首を傾げるのは社長の本心を量りかねての事でありましょう。
「そうかも知れないけど、社長が自棄を起こして会社を畳んだら、土師尾常務が行き場を失くして困るんじゃないかな。この会社に居ればこその好待遇と勝手放題なんだから」
 均目さんが同じく小首を傾げて、土師尾常務の立場に言及するのでありました。
「社長としては会社を放り出す気は今のところ無いんだと思うよ。そこ迄本気で覚悟している訳じゃなくて、どうしたら俺をギャフンと云わせる事が出来るか、その辺の意趣返しの魂胆だけで云っているだけのように思うよ」
 片久那制作部長が均目さんの顔を見ながら云うのでありました。
「そんな子供じみた魂胆だけで!」
 那間裕子女史が呆れるのでありました。
「でもあの社長の事だから要は後先の考えはなくて、本当にその程度かも知れない」
 日比課長がシニカルな笑いを口の端に浮かべるのでありました。
「でも片久那さんが辞めると云ったら、別に引き留めなかったんでしょう?」
 甲斐計子女史が片久那制作部長を上目遣いに見ながら訊くのでありました。
「その場では興奮して意地になって突っ張っていたけど、後で考えてみて怖くなって、明日になったら昨日の事は忘れてくれと愛想笑いしながら謝って来るかも知れない」
 袁満さんが片久那制作部長に代わってそんな観測を述べるのでありました。
「いや、俺が会社を辞める事に関しては、社長はもう敢えてそれを止める心算はないだろうな。その方が社長には色々好都合なところもあるんだろうから」
 片久那制作部長は袁満さんの観測をすげなく否定するのでありました。「当初は色々とあたふたしていても、会社を畳むと云う考えは多分頭の中には全く無いと思うよ」
「でも片久那さんが居なくなったとしたら、結局この会社は立ち行かなくなるんじゃないかしら。で、遅かれ早かれ会社も解散になるんじゃないかしらね」
 甲斐計子女史は暗い観測を口にして沈痛な面持ちをするのでありました。
「大丈夫だろう」
 方久那制作部長はあくまで楽観論に徹するのでありました。「俺が居なくなっても、何とか会社は回っていくよ。どんな組織でも大体はそんなものだ」

 那間裕子女史がここで舌打ちするのでありました。その音が少しばかり狙ったよりは高らかに響いた事に女史は少しおどおどするのでありました。
「辞めていく人は何時もそう云う無責任な事を云うのよ」
「そう云うのじゃない」
 片久那制作部長は少し気色ばむのでありました。「どうにもならないように見えても、大概の事は何とかなるものだ。君等が本気で何とかしようとするなら、だが」
「気持ちだけで会社が回っていくのなら、こんな簡単な話しは無いわ」
「誰も気持ちだけとは云ってはいない」
(続)
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あなたのとりこ 466 [あなたのとりこ 16 創作]

「じゃあ何を根拠に、大丈夫だなんて安請け合い出来るのかしら」
「制作部に関しては均目君も殆どの見積もりは出来るし、と云う事は制作部でかかっている月々の経費も把握出来るから、取引先から貰った請求書の処理や支払いの方も熟せる。会社に依って銀行振り込みにするか手形にするかは後で教えて置くし、発行する手形の種類とかも原則は簡単だ。新規商品の編集作業も製作も、これは今迄に熟している」
「それはそうですけど、でもちゃんとやれるか自信は今一つだなあ」
 均目さんは心許ないような事を云うのでありました。自分でも何とかやれるとは思うのでありましょうが、経験不足と億劫から、少々弱気になっているのでありましょう。
「慣れてくれば特に難しい事じゃない。誰にでも出来る作業だ。多少面倒だけど」
 片久那制作部長は均目さんの懸念を掃うのでありました。「それから那間君の方も今迄の仕事をその儘熟すだけだから特に問題は無かろう。製作に関わる作業はほぼ判っているし、地図類や冊子や旅行案内類の経年変化修正の要領も今迄やっていたその儘だ。多少スピード感は欲しいところだがな。懸念があるとすれば朝寝して遅刻する事だけだ」
 那間裕子女史は、始めは片久那制作部長の顔に視線を投げていたのでありましたが、中盤のスピード感云々と云う辺りでもじもじし出して、後段の遅刻云々の所で肩を竦めて俯くのでありました。案外しおらしいと云えばしおらしいような仕草であります。
「後は均目君が今以上に忙しくなる分のサポート、と云う事になる。それは二人で良く打ち合わせして分担を決めれば良いし、そこは二人の裁量だ」
 片久那制作部長は目を上げない那間裕子女史にそう云い置いて、今度は頑治さんを見るのでありました。自分は何を指示されるのかと半分身構えて、頑治さんは片久那制作部長の目を見返すのでありましたが、片久那制作部長は少し目を留めただけで頑治さんから視線を外して日比課長に目の焦点を合わせるのでありました。
「営業の方は別に俺が居ても居なくても問題は無いかな」
「まあ、それは多分そうですけど、・・・」
 日比課長はすぐには胸を叩かないのでありました。「片久那制作部長が居なくなると、土師尾常務の遣りたい放題を抑える人が誰も居なくなって仕舞うかな」
「そんなのは無視すれば良いだけの話しだ」
 片久那制作部長は平然と云い放つのでありました。
「いやあ、しかし、・・・」
 日比課長が顔を歪めるのでありました。「そうは云っても、なかなか執念深い人だし、無視したら後でどんな仕打ちをされるか判ったものじゃないし」
「日比さんが毅然としていれば良いだけの話しだよ」
 片久那制作部長は暗に日比課長の土師尾常務に対する弱腰と無用な阿りを、あんまり露骨にならないようにそれとなく批判するのでありました。
「日比さんは土師尾常務の前ではおどおどするだけで、全く頭が上がらないと云った感じだしなあ。何か弱みでも握られているんじゃないかと疑いたくなるよ」
 袁満さんが前にも聞いた科白で日比課長の日頃の態度を揶揄するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 467 [あなたのとりこ 16 創作]

「別に弱みなんか握られてないよ」
 日比課長は、これも前に聞いたように憮然として云い返すのでありました。
「土師尾常務に遠慮する事なんか要らないよ」
 片久那制作部長が励ますように云うのでありました。「別にあの人は人より仕事が出来る訳じゃない。社長の手前、積極的に営業している振りをしているだけで、その実ただ単に得意先から入る注文を、電話の前で手を拱いて待っているだけに過ぎない。第一あの人に本当に営業力があるのなら、こんなに売り上げが落ちたりはしないよ。物欲しげな顔を晒して、すっかり相手任せに仕事が転がり込むのを待っているだけだ」
「それは間違いなくそうだけど、・・・」
 日比課長は頷くのでありました。
「それが判っているのなら、そんな人間をどうして畏れる必要があるの?」
「そう云いますけどねえ、何か一言でも云うと十言くらい云い返されるし、云っている事が一々癪に障るし、煩わしいからなるべく関わりを持たないようにしていたいし」
「そうやって逃げているから、増長するんだよ」
 片久那制作部長は少し厳しい目で日比課長を睨むのでありました。「冷静に、あくまで冷静にあの人の云う事に一々反論していれば、あの人は執念深そうに見えてもこちらが腰を据えてクールな文言で、あくまで強気に云い返していれば、段々、と云うか案外すぐに腰が引けて来て、こんな会話が延々と続いていけば次第に自分の云い分に破綻が生じて、相手につけ入られると云う恐怖に駆られてきて、みっともないくらいにしどろもどろになってしまうよ。一度そう云う目に遭わせると、後は警戒心と畏れで何も云わなくなる」
「まあ確かに、元来が小心者ですからねえ」
 日比課長は調子を合わせるのでありました。土師尾常務がそう云う人であるのは日比課長も既に判っていたのでありましょう。しかし今迄そう出来なかったと云う事はつまり、日比課長も五十歩百歩に小心者なのだと云う事になりますか。
「一度そう云う風にしてみれば、以後変な云いがかりなんか付けなくなるさ」
 片久那制作部長は日比課長の顔を見据えるのでありました。
「片久那制作部長だからこそそれが出来るんで、日比さんとなるとどうかなあ」
 袁満さんが懐疑的な笑みを浮かべて日比課長を上目に見るのでありました。
「俺だって冷静なら、あんなヤツに云い合いで負ける筈はないよ。でも話していると段々頭に血が昇ってきて、これ以上喧嘩腰で云い合っていると間違いなく胸倉を掴みそうで、それに面倒臭くなって、上司でもある事だから竟々こちらから矛を収めて仕舞うんだ」
 これは日比課長が自分の気後れを反省している言葉なのか、それとも頑是ない子供にするように大人の対応をしているんだと弁解して見せているのか、頑治さんには良く判らないのでありました。まあ、その両方の謂いがあると取れば良いのでありましょうが。
「無精していないで一度、やってみればいいんだよ」
 片久那制作部長はそう唆してから袁満さんの方に視線を向けるのでありました。「それにこれは、袁満君にも同じように云っているんだからな」
(続)
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あなたのとりこ 468 [あなたのとりこ 16 創作]

 袁満さんが思わず怯むのを確認して片久那制作部長は続けるのでありました。「出張営業にしてもあの人は実情を何も理解していない。単に俺が出している数字を見て、ねちねちと袁満君に難癖を付けているだけだ。あんな大した論拠もない御託に、どうして袁満君が反駁しないのか得心がいかなくて、何時も苛々しながら不思議に思っていたよ」
「まあ、先ずは面倒くさいから、の一言ですかね」
 袁満さんは弱々しく一応弁明するのでありました。
「袁満君は小心者だからなあ」
 日比課長が先程の意趣返しとばかり皮肉な笑みを頬に浮かべるのでありました。「頭ごなしに強い口調でがみがみ云われると、すぐに金玉が縮み上がって仕舞う」
 この日比課長の些か品位に欠ける表現に、甲斐計子女史と那間裕子女史が眉根を寄せてげんなり顔をして見せるのでありました。まあ、日比課長は女性陣に顰蹙を買うような事を態と口の端に上せて面白がると云う、ある種の悪趣味の人でもありますけれど。

 頑治さんが咳払いをしてから喋り始めるのでありました。
「片久那制作部長は、それは無いのかも知れないけれど、若し社長が考え直して、会社に残ってくれと引き留めに掛かったとしても、結局辞める決心は変えないのですかね?」
「まあ、そうだな」
 片久那制作部長は頑治さんを一直線に見るのでありました。
「もう社長とこれ以上付き合うのは、まっぴらご免だと云う事ですね?」
 頑治さんは念押しするのでありました。
「それに土師尾常務ともね」
「それじゃあ、同時に俺達と付き合うのもこれ以上はご免だと云う事ですかね?」
 そう訊かれて片久那制作部長の目に少し動揺の色が浮かぶのでありました。
「ああそうか。つまり俺達にも愛想が尽きたと云う事か」
 袁満さんが顎を撫でながら頷くのでありました。「大して仕事も出来ないし、出来ないなら出来ないなりに懸命に打ち込もうとする意気地も窺えないし、面倒見切れないからそんな社員達も、この際纏めて打っちゃって仕舞おうと云う魂胆ですか」
「袁満君は良く自分の事が判っているようじゃないか」
 片久那制作部長は袁満さんを睨みながらさらりと頷いて、頬に冷笑を浮かべて見せるのでありました。そんな当て擦りの言葉なんぞは屁でもないと云うところでありますか。寧ろ木乃伊取りが木乃伊で、袁満さんの方がそわそわと狼狽を見せるのでありました。
 確かに片久那制作部長にしてみれば社長や土師尾常務に限らず、自分以外の誰もが歯痒いくらいに無能で優柔不断で好い加減で、御し難い程の盆暗に見えるのでありましょう。そう云う奴原は纏めて疎み遠ざけるに限ると云うものであります。これ以上付き合うのはもううんざりであり癪にも障るから、只管手間と時間の無駄でありますか。
 しかしそう簡単に肯われると、これはもう立つ瀬も無いと云うものであります。袁満さんは少しばかり控え目にではありますが口を尖らせて見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 469 [あなたのとりこ 16 創作]

 片久那制作部長は袁満さんのごく控え目な不満表明に対して、何ら頓着する様子も見せないで後を続けるのでありました。
「袁満君の仕事振りにしても俺にすれば物足りないところが多々ある。他の者に対しても夫々に云いたい事もありはする。しかしそれとは比べものにならないくらいに社長と土師尾常務の態度は、俺にとって許せないものがあると云う事だ」
 この制作部スペースに集っている従業員共としては、何だか少しはホッと息を抜いて良いのやら、それとも緊張し続けていなくてはいけないのやら良く判らないような、何とも妙に居心地のよろしくない片久那制作部長の云い草でありました。
 皆はもう少し得心が出来るくらいに具体的で生々しい、片久那制作部長が社長と土師尾常務を許せないところの理由を訊き質したいのではありましたか。しかし何となくそれ以上根掘り葉掘り片久那制作部長に言葉を要求するのが、非常に大儀であり不躾であるような雰囲気が場に重く泥んでいるのでありました。依ってここに集う皆は口をすっかり閉ざした儘で、一様に深刻顔をして項垂れているのみでありました。
「つまり片久那制作部長としては、今となっては、何があろうと会社を辞める事を考え直す気はないと云う事になりますかね?」
 頑治さんが念押しするのでありました。
「ないな」
 片久那制作部長は簡潔、且つまた慎に素っ気なく云い放つのでありました。
「あたし達を見捨てていく訳ね?」
 甲斐計子女史が少し尖ったような口振りで云うのでありました。
「君等には申し訳無い気が少しする。でもさっきも云ったように、これは無責任に聞こえるかも知れないけど、俺が居なくなっても大概の事はそれなりに何とかなるものだ」
「会社を辞めて、片久那制作部長はその後何をする心算なんですか?」
 日比課長がその辺に探りを入れるのでありました。
「未だ何も決めていないけど、まあそれは余計なお世話、かな」
 片久那制作部長に鮸膠も無くそう返されて日比課長は後の言葉を継げなくなるのでありました。日比課長としては片久那制作部長が実は既に、何やらその後に目算があって会社を辞めるのかも知れないと見当をつけたから、そこら辺りを訊き質したかったのでありましょう。少々穿って勘繰るとその片久那制作部長の目算に、あわよくば自分もちゃっかり乗っからせて貰いたいと、秘かに目論んだのかも知れないと頑治さんはふと考えるのでありました。日比課長は皆を出し抜く心算も、秘かに隠し持っているかも知れませんし。
「寸分も考える余地なく、生一本で会社を辞めると云う事ですね?」
 頑治さん同様に均目さんが念押しするのでありました。こちらの念押しには半分以上、もうそれを既定の事実として受け入れたような色があるのでありました。案外なかなかにもの分かりの良い、と云うのか、切り替えの早い均目さんであります。
「この会社はこの後、一体どうなるんだろう」
 袁満さんが殆ど自棄っぱちな調子で大仰に嘆くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 470 [あなたのとりこ 16 創作]

「まあ、すぐに辞めて仕舞うとは云わないよ。俺が居なくなっても後の憂いが無いと見極めてからにするし、そのようにちゃんと遺漏なく引継ぎしてからにする」
 片久那制作部長は袁満さんを慰めるような事を云って、項垂れている一同をぐるりと見渡すのでありました。「しかしまあ、俺としても自分や家族の向後の事を考えなければならないから、それも六月一杯が限度と云うところになるかな」
 そう具体的な期限を切られてみると、一同は片久那制作部長が会社を確実に去ると云う事実に、妙なリアリティーを感じて仕舞うのでありました。
 と云う事で、出雲さんの退職の件は片久那制作部長の辞意表明と云う一大事に依って、すっかり翳んで仕舞った風でありました。会社に於ける存在感の大きさからそれは仕方のない事かも知れませんが、頑治さんは何とはなしに出雲さんが気の毒になるのでありました。すっかり主役の座を片久那制作部長に奪われたような形でありましたか。

 今後の事を緊急に話し合っておかねば、と云う深刻さと切迫感から一同は帰宅を、或いはこの後の残業を取り止めて、片久那制作部長と辞意を表明した出雲さんを除いた皆で打ち揃って会社を後にするのでありましたが、向かったのは件の神保町駅近くにある居酒屋で、そこでじっくり今後の話しをしようと云う算段であります。日比課長が混じっているから組合会議と云うのではなく、臨時の全社員会議と云ったところでありますか。
 長方形の座卓の一辺に均目さんと那間裕子女史と頑治さん、対面する一辺に袁満さんと日比課長、それに甲斐計子女史が何となくの流れから座を取るのでありました。
「エライ事になっちゃったわね」
 夫々の前に飲み物が来てから那間裕子女史が口火を切るのでありました。
「まさか片久那制作部長が辞めるなんて、さっきまで考えもしなかったなあ」
 誰にも酌をしようと云う風が窺えないものだから、日比課長は日本酒の徳利を取って手酌で、自分の前に置かれた猪口に熱燗の酒を注ぎ入れながら云うのでありました。
「社長に片久那制作部長を切り捨てる勇気があるとも、考えなかったしなあ」
 均目さんが生ビールのジョッキを口元に持ち上げるのでありました。
「社長はひょっとしたらこの後、怖くなって片久那さんを引き留めに掛かるかも知れないわよ。小心者の社長は片久那さんの報復が怖い筈だから」
 甲斐計子女史が、こちらはアルコールがダメなものだから、大きめのグラスに入れて出された冷たいウーロン茶を飲みながら云うのでありました。
「若し社長が引き留めにかかっても、片久那制作部長の辞意は固そうですよ」
 頑治さんはレモンサワーのグラスを取って否定的な観測を述べるのでありました。
「でもかなりの好条件を出されれば、或いは辞意を撤回しないかしら」
 甲斐計子女史は小首を傾げて頑治さんを見るのでありました。
「どうかなあ。片久那さんは社長と土師尾さんにすっかり愛想尽かししているし」
 頑治さんの代わりに那間裕女史が生ビールのジョッキをテーブルに置きながら、顰め面で何度か首をゆっくり横に振りながら云うのでありました。
(続)
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