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あなたのとりこ 344 [あなたのとりこ 12 創作]

 まあしかし、制作部から特注営業の仕事にコンバートしようとした山尾主任が会社を電撃的に辞めて仕舞ったのでありましたから、その煽りで日比課長の危機も少し変容したと考えるのもあながち不自然な推考ではないでありましょうか。山尾主任が会社から居なくなった以上、日比課長は当面は特注営業に欠かせない人材でありますし、ここで日比課長迄抜けて仕舞えば、土師尾営業部長は楽が出来なくなる訳でありますし。
 しかし出雲さんの方は、こちらは依然として危機の度合いは減少してはいないと考えられるのでありました。恐らく以前同様の地方出張営業の方に出雲さんを戻そうと云う考えは、土師尾営業部長には端から無いでありましょう。
 いやいやそればかりではなく、頑治さんは均目さんと那間裕子女史との三人での、あの新宿の洋風居酒屋の酒席では敢えて口にするのは控えたのでありましたが、地方出張営業と云う仕事自体を土師尾営業部長は近い将来切り捨てる心算でいるのかも知れません、またそれは、片久那制作部長も社長も実はもう承知している目論見なのかも知れません。
 となると出雲さんばかりではなく、その仕事を一人で担って算段せよと申しつけられた袁満さんの危機も、次の段階のものとして当然考えておかなければならない事項でありましょう。土師尾営業部長の地方出張営業を軽視する態度は結構あからさまでありますし、社長や片久那制作部長の秘かな承認があるとすれば、彼の人は必ずそれに手を付けるでありましょう。それも軋轢と憎悪を増大させるような如何にも下手な遣り口で。

 役員となった土師尾営業部長の呼称は、土師尾常務、となるのでありました。片久那制作部長は取締役制作部長と云う肩書きでありますから、こちらは従来通りの、片久那制作部長、の儘でありました。ちなみに彼の人を、土師尾常務、と呼べと、やんわりとした口調ではあっても厳に制作部の中で嗾けたのは片久那制作部長でありました。
 これは役員となった彼の人を今迄にも況して前に立てておいて、従来通り自分はその後ろに身を潜めて、しかし実はこれも前にも況して、陰の頭目たる威光を全く意図しない体裁で以ってより強く発光させるための策術であろう、と云うのは均目さんの頑治さんに語った解説でありました。まあ、片久那制作部長にとってはその方が、社長を相手にするのも二番手でいられるし、あれこれ面倒が少ないと云う前乍の魂胆なのでありましょう。
 片久那制作部長を筆頭に那間裕子女史と均目さん、それに頑治さんが当初はぎごちない風情ながらも彼の人をそう呼ぶものだから、営業部の方にもそれが次第に染みるのでありました。公的な場或いは私的な場に於いても、立場の上の人をその人の関係属性たる役職名で呼ぶのは、古より連綿と続く扶桑の習慣であります。これはその方が名前をダイレクトに呼ぶよりはそこはかとなく一歩引いた態度を表せるし、波風が穏やかで且つ大いに簡便であり無難であると云う一種の消極的英知の為せるところでありましょうか。
 とまれ、彼の人はそう呼ばれる事が満更でもないような風でありましたか。敬われているのだと、呼ばれた人を心地良くさせると云う役職名呼称のもう一つの便利が、見事に的中したと云う按配でありましょう。まあそれが、好い気な勘違いに属する場合が往々にしてあると云うのはこの際ここでは脇に置いておくと云う事にして、でありますが。
(続)
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あなたのとりこ 345 [あなたのとりこ 12 創作]

 土師尾常務は役員になっても、相変わらず威光をひけらかそうとはするものの、前にも況して仕事に精を出す、なんと云うしおらしさは全く見られないのでありました。寧ろ朝の得意先への直行と夕方の出先からの直帰を呆れるくらい頻繁に、ま、ほぼ毎日、公然と繰り返すようになるのでありました。尤も以前もそれは屡行われていたのでありましたけれど、それは不当に残業代を稼ごうと云うさもしい魂胆からの仕業でありましたか。
 しかし役員となった今では、そんなに給金のためにあくせくする必要も無いし、そうする事に対するほんの僅かな後ろめたさも感じないで済むようになるのでありました。他の社員からはそのあまりにあからさまな態度と、見え透いたさもしい根性を秘かに軽侮されるのでありましたが、自分以外の者共の心根なんぞは寸分も意にも介さず、何処吹く風と云った開き直りも相変わらすと云えば全く以って相変わらずなのでありましたか。
 例に依って朝一番に土師尾常務から得意先に直行すると云う電話連絡を受けた甲斐計子女史は、向こうが電話を切ってからでありましょうが、少し荒けなく忌々しそうな手付きで受話器を架台に戻して舌打ちをするのでありました。
「今日も常務さんは得意先に直行だってよ」
 甲斐計子女史は自席で茶を飲んでいる日比課長の背中に向かって、殆ど唾棄するような口調で報告するのでありました。それに対して日比課長は甲斐計子女史の方に振り返ってから鼻を鳴らして見せるのでありましたが、この遣り取りは制作部スペースに居る頑治さんにも、分過ぎるくらいのボリュームで聞こえてくるのでありました。
 均目さんと那間裕子女史はその遣り取りを聞きながら顔を上げて、互いに目を合わせて失笑するのでありました。片久那制作部長の思わず僅かに失笑を漏らす気配も、頑治さんに伝わるのでありました。片久那制作部長としてはこんな土師尾常務の態度に苦っている筈でありましたが、それを察しもしないし、配慮も羞恥も無く野放図に得意先直行の電話を掛けてくる彼の人のいけ図々しさに、反射的に笑って仕舞ったのでありましょう。
「直行するのなら、昨日の内に云って置いて貰いたいもんだよな、毎度の事だけど」
 日比課長が恨み言をものするのでありました。
「そりゃ無理だよ。朝起きて、急にサボりたくなって直行と決めたんだろうから」
 日比課長の対面にいる袁満さんは先の日比課長同様に鼻を鳴らすのでありました。
「そりゃそうだ。それに本当に得意先に行くのかも大いに怪しいもんだし」
 日比課長は頷くのでありました。「ま、十中八九得意先には行く気は無いな。恐らく朝飯の後に茶をゆっくり飲みながら悠々と寛いで、それから願力寺にでも立ち寄って、その後で何食わぬ顔しておっとりと会社に出て来る了見なんだろうからなあ」
 願力寺、と云うのは、前に誰かに聞いたところに依ると土師尾常務がサイドビジネスみたいに副住職をしていると云う、千葉に在る彼の人の家の近くの寺院でありました。
「役員になったもんだから、益々調子に乗ってつけ上がり放題だよな」
 袁満さんのそんな憎悪剥き出しの科白が聞こえてきたタイミングで、片久那制作部長が聞えよがしの咳払いをするのでありました。もうその辺で止めておけと云うサインを、マップケース向こう側の営業部スペースに送ったのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 346 [あなたのとりこ 12 創作]

 それを察してか、土師尾常務に対する袁満さんの愚痴も日比課長の揶揄も、この後には何も聞こえてこないのでありました。片久那制作部長から窘められた事への不満八分と、土師尾常務がここに居ないのを良い事に悪口を述べ立てた自責の念二分から、二人は屹度マップケースの向こう側で顔を見合わせながら首を竦めたでありましょう。

「でも、ちょっと最近度が過ぎると思わない、土師尾さんの無軌道振りは」
 これはその日の昼休みに地下鉄神保町駅近くの中華料理屋で、均目さんと那間裕子女史と頑治さんの三人で昼飯を一緒にした時の、那間裕子女史の言葉でありました。
「遣りたい放題と云った感じだな」
 均目さんも眉根を寄せた表情をしながら同調するのでありました。「週に三日は真偽は別にして得意先に直行すると云う電話を寄越すし、週に三日は昼過ぎに、時には午前中から得意先に行くと称して会社を出て行って、決まって終業時間間際のタイミングで、仕事が長引きそうなので直帰すると云う電話を寄越して会社には戻って来ないもんなあ」
「でも、役員は殊更、従業員と同じ就業時間に縛られないんじゃないかな」
 頑治さんがそう云うと那間裕子女史が険しい表情をするのでありました。
「役員になって益々のさばり出したその根性が気に入らないって事よ」
「直行直帰しても今迄は自分勝手放題に残業として付けていたのが、組合結成時の団交で組合から問題にされて、それで文句を云われないように役員にして貰って、これからは大手を振って自由気儘が出来ると勘違いしたに違いない。詰まり役員になって残業手当にあくせくしなくて済むようになった事を、一人だけ最大限謳歌している訳だよ」
 均目さんも眉間の皺をその儘にして頑治さんの顔を見るのでありました。
「まあ確かに片久那制作部長は役員になる前もなった後も、仕事している時間は殆ど変わりないかな。均目君や那間さんが残業していると、一応気を遣ってか自分も居残っているからなあ。その意味で片久那制作部長は役員待遇になった事を謳歌してはいない訳だ」
「でも、それがごく普通の感覚と云うものよ」
 那間裕子女史が遣っていた箸を置いて中国茶の入った湯呑みを取って、口を付ける前に云うのでありました。「度し難い鈍感の恥知らずじゃないならね」
「度し難い鈍感の恥知らずの人は、片久那制作部長や他の従業員から、自分のそう云う態度に対して眉を顰められていると云う事を気付いていないんでしょうかね」
 頑治さんは那間裕子女史に倣って箸を置いて湯呑みに手を伸ばすのでありました。
「気付いていないんでしょうね。そこが鈍感の鈍感たる所以よ」
「いや、幾ら何でも少しは気付いてはいるだろう」
 均目さんも箸を置くのでありました。「ただ気付いていても、そう云う他者の抱く気持ちに配慮するだけの感受性とか篤実さとかが、恐らく先天的に欠けているんだろうな」
「つまり結構気にはしていながら、開き直っているのかな」
 頑治さんが云うと均目さんは皮肉な笑いをして首を横に振るのでありあました。
「いや、ほんの少し気付いてはいるけど、それ程大して気にはしていないんだろう」
(続)
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あなたのとりこ 347 [あなたのとりこ 12 創作]

「じゃあ、呑気と云うのか、天真爛漫に他人の心根に関心が無いだと云う事かな」
「或る意味、そう云う事だね」
「一方では自分を実像よりも大きく見せたいとか、自分に対する他人の目は矢鱈と気にしていると云うのに、他人の心根そのものに対しては無関心なのかい?」
「あの人は他人の目を気にしていると云っても、分析的に気にしているのではなくて、ただ、大して立派でもない自分の実像を立派に見せたいと云う欲求の上で懸念しているだけだしねえ。人の心の機微にはさっぱり通じてはいないし、通じたいと云う気も無いだろう。そんな人間への関心ではなく、要するに自分の見てくれへの関心だけなんだから」
 均目さんは冷笑を浮かべるのでありました。
「それにしても、あの人は曲がりなりにも坊主なんだろう。仏教はあれこれ小難しい教義や建前はあるとしても、つまるところこの世の人間の心の救済を目的にしているんだし、他者への関心が薄い儘ではそんな高邁な目的は達せられないと思うけどねえ」
 頑治さんは会話上そんな初歩的な理屈を並べながら、あの土師尾常務なんと云う人はそう云う哲理の人ではなく、単に仏教的な形式とか体裁とか雰囲気とかに無上の憧れを感じているだけの、或いはそう云う雰囲気を様々な場面で功利的に利用しているだけの、紛い物坊主である事は既に明白になっているか、とも考えるのでありました。
「あの生臭坊主に、そんな哲理とか仏教的理想がほんの髪の毛の先程でもあると、まさか唐目君は本気で思っているんじゃないだろう?」
 云わんこっちゃなく、均目さんにそう突っ込まれると、頑治さんとしては決まり悪そうに無声で表情だけで笑って見せるしかないのでありました。
「そんな面倒臭い事は良いとして、・・・」
 那間裕子女史が頑治さんと均目さんの遣り取りを如何にも胡散臭そうに横に打遣って、話しの舳先を元の方向に戻そうとするのでありました。「役員になって早速、遣りたい放題に直行直帰、と云うより狡賢い仕事サボりを繰り返して、何の良心の呵責も感じないあの薄ら鈍感に、何か報復する方法は無いものかしらねえ」
「さっきも云ったけど、役員なんですから従業員と同じ就業時間に縛られて仕事をしなくても構わないんだと開き直られたら、結局それで終わりじゃないですか。まあ、こちらの感情が収まらないとしても、理屈上はそれ以上に責める道理がこちらには無いし」
 頑治さんが那間裕子女史の怒りに水を差すのでありました。
「あんな質の悪いチンピラ役員に小賢しく立ち回られると云う事態だけでも、あたしはもうハラワタが煮えくり返るような心地がしているわ」
「要するに、あんな低俗なヤツが、あろう事か那間さんをさて置いて、堂々とのさばっているのが無性に気に入らないと云う事ね」
 均目さんが少しの、或いはかなり多めの揶揄を込めて云うのでありました。
「何それ。感じの悪い云い方ね」
 那間裕子女史の怒りが土師尾常務から均目さんに移ろうとするのでありました。
「気持ちは、俺も均目君も、那間さんと同じですよ」
(続)
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あなたのとりこ 348 [あなたのとりこ 12 創作]

 頑治さんが取り成すように云うのでありました。
「まあその内、土師尾常務の就業態度とかも、この儘じゃ従業員の士気に関わるからと、組合として問題にすることは可能だろうね。でもそれには、予め片久那制作部長を味方にして置く必要があるし、場合に依っては社長もこちらの方に引き入れておく必要もある。土師尾常務を孤立無援にしないと、あの人は自分をなかなか改めないよ」
 均目さんもどちらかと云うと組合としての今後の対処を語ると云うよりは、多分当座の那間裕子女史の心情に配慮する方に力点を置いてそう語るのでありました。
「でも片久那さんは自分の盾として土師尾さんを利用しようと云う魂胆だから、寧ろ皆の怨嗟の的になっていてくれる状態を維持する方が、あれこれ按配が良いと考えているんじゃないかしら。だとしたらあたし達の土師尾さんに対する不満に、或る程度調子良く同調しながら、でも適当にあしらって、結局何もしないなんじゃないかしらね」
「確かにそれはあるかもね」
 均目さんが湯呑を口元から離して頷くのでありました。「それに社長もこちら側の味方に付けるとなると、これも何か気が滅入る程にしんどそうだしなあ」
「基本的に社長は土師尾常務を信用しているんだろう?」
 頑治さんが均目さんが手に持つ湯呑を見ながら訊くのでありました。
「信用しているかどうかは判らないけど、片久那制作部長よりは御しやすいと考えているんだろうな。片久那制作部長は社長にとってなかなか煙ったい存在だし」
「だったら社長は結局、土師尾常務を擁護する方に回るだろうなあ」
「社長としては、まあどのくらい役に立つかは知れないけど、でも色々煩い事を云う片久那制作部長に対する盾として、土師尾常務を遣おうと云う肚もあるだろうし」
「土師尾常務は、盾たる存在としては多方面から重宝がられていると云う訳だ」
「ま、もう一度云うけど、どのくらいの強度のある盾かは大いに疑問だけどね」
「三国一の盾男、と云ったところだ」
「ああ、伊達男の駄洒落ね」
 頑治さんと均目さんはそう掛け合いしながら笑うのでありました。
「二人共、本気で土師尾さんを許せないって思っているの?」
 那間裕子女史が頑治さんと均目さんの不謹慎を詰るように云うのでありました。二人は居住まいを正して、苦笑って那間裕子女史の顔から視線を外すのでありました。
「まあ、この儘の態度で土師尾常務がこれから先ずうっと遣って行ける筈はないさ。当人自ら業績不振だと事ある毎に大声で喚き散らしているんだから、それを打開するために先ずは隗より始めてもらわないとね。自ら範を示す事が、この度常務取締役として優遇を得た者の義務なんだし、それが今からでも遅くない社員の尊敬と心服をかち取る道だし」
「土師尾さんがそんな殊勝な心掛けの人なら、あたしはこんなにあの人をボロクソになんか云ったりしないわ。それとは真反対の人だから苛付いているのよ」
 那間裕子女史が均目さんのどこか公式論のような冗談のような、あんまり本気で怒っていないようなその口振りに、多少敵意を込めた視線を投げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 349 [あなたのとりこ 12 創作]

「ところで、メーデーには初参加するんだろう、ウチの分会も?」
 頑治さんが今迄の話しとは全く無関係な話題を均目さんに振るのでありました。
「そうなるだろうな。色々世話になった全総連への義理もあるから」
 均目さんは那間裕子女史の土師尾常務への敵意がふとした弾みにこっちに向けられたりしたら叶わないと、頑治さんの話頭変更に渡りに舟と乗っかるのでありました。
「一応全員参加が原則かな?」
「ま、原則はそうだけど」
 均目さんはどうしてまた頑治さんがそんな質問をするのか、と云ったような目付きをしながら応えるのでありました。「未だ少し先の話しだけど、五月一日は何か今から予定が入っていて、唐目君はひょっとしたら都合が付かないのかな?」
「いやまあ、そんな事も無いんだけど、・・・」
 頑治さんは曖昧に応えるのでありましたが、ゴールデンウィークには夕美さんが東京に出て来る筈で、頑治さんとしてはメーデーよりは夕美さんとの逢瀬を優先させたいのでありました。まあ、根掘り葉掘り均目さんや那間裕子女史に訊かれるのは勘弁して貰いたいから、それ以上の言葉は畳んで喉の奥に仕舞うのでありましたが。

 出雲さんは当面仕事が無いのでありました。例年は早春からの東北方面から出雲さんの出張営業が始まるのでありましたが、年頭から新たな地方特注営業と云う仕事に回されたので、従来の仕事は袁満さんの方に割り振られて仕舞ったのでありました。
 しかも山尾主任が抜けると云う予期せぬ事態が出来しために、指導者兼相棒たる日比課長が従来の都内特注営業からなかなか足を洗えないのでありました。依って地方特注営業と云う仕事は未だに何も始動出来ないのでありました。まあ、だからと云って、出雲さんはやきもきしていると云うような風は特段見られないのでありましたけれど。
 出雲さんは暇そうにしているからと声を掛けられると、日比課長の都内特注営業回りに助手みたいな立場で同行してみたり、仕事を引き渡した袁満さんの手助けをしてみたりしているのでありました。それに頑治さんが片久那制作部長の云い付けで製作部の仕事の方をやっている時は、倉庫の中で入出庫管理とか発送品の荷造り梱包とか、車での配達とか集荷とかの業務仕事を代わりに受け持ったりしているのでありました。
 出雲さんは従来の地方出張ばかりの仕事はそんなに好きでも無く、些かうんざりしていたのでありましたから、どちらかと云うとこれと云った決まった仕事の無い現状に不安や不本意を覚えると云うよりは、現状のそんな境遇をのんびり謳歌していると云った感じでありましたか。そうしてこんな出雲さんの会社での在りようを、自分には只管甘く、人の瑕疵には甚だ容赦のない土師尾常務が見咎めない筈がないのでありました。
 或る日の午後、出雲さんは日比課長と一緒に会議名目で土師尾営業部長に社外への同道を命じられるのでありました。屹度喫茶店辺りで陰鬱な追及とかお小言を二人揃って頂戴するのでありましょう。まあ、ひょっとしたら地方特注営業と云う新しい仕事に関して、土師尾常務から何かしらの画期的な提案があるのかも知れませんけれど。
(続)
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あなたのとりこ 350 [あなたのとりこ 12 創作]

 と頑治さんは一応考えるのでありましたが、先ずそれは無いもの強請りと云うものでありましょう。土師尾営業部長の口から零れ落ちる提案なんと云うものは、誰でも考え付きそうなものばかりで、しかも自分は何もしないで人に無理を押し付ける類のものばかりなのでありました。第一、部下の粗探しが人の上に立つ者の第一番目の仕事と心得ているらしく、提案、なんと云う仕事があるとは露程も考えていないような風でありましたし。
 一時間程で、出雲さんは土師尾常務のお小言からようやく解放された模様で、社に戻って来るのでありました。尤もその時頑治さんは倉庫で仕事をしていて、戻った出雲さんが一時間を少し過ぎた頃合いで倉庫に現れたものだからそう推測したのでありました。
「上で片久那制作部長が呼んでいますよ」
 出雲さんは頑治さんがその時していた梱包作業を自分が代わろうとする心算で、結束バンドを金具締めする工具を手に持つのでありました。
「じゃあ、後の梱包は出雲さんが代わってくれるのですね?」
「そうっスね。俺が代わります」
「じゃあ、八個口の荷物の内五個まで完了しましたから後の三個を頼みます。発送伝票は未だ書いていませんからそれもよろしくお願いします」
 頑治さんは発送指示書を出雲さんに手渡すのでありました。出雲さんはそれを受け取ってざっと目を通してから六個目の荷物を作業台の上に載せるのでありました。
「土師尾常務とは何の話しだったんですか?」
 頑治さんは特に聞きたそうな風ではなく、至ってさり気なく問うのでありました。
「何でも地方特注営業と云う仕事を、俺一人で明日からやれと云う事らしいっスよ」
「ふううん、日比課長がなかなかそちらに回れないから、ですかね?」
「そうっスね。俺一人じゃ小難しい商談とか出来る訳がないけど」
「今迄全く経験が無いから、それはそうですかね」
「土師尾常務の肚としては、暗中模索で良いから日帰り出来る関東圏の地方都市に兎に角出掛けて行って、飛び込みの特注営業をさせられるようです。まあ、到底俺では頼りにならないだろうと云う見込みのようで、当面成果は期待しないと云う話しっスかねえ」
「ふうん、そうですか。・・・」
 頑治さんは出雲さんから目を逸らして中空に視線を馳せるのでありました。「ところで出雲さんは特注営業の方の商品ラインアップを、ちゃんと掌握しているんですか?」
「まあ、大雑把には判るけど、すっかり全部とはいかないっスけどね」
 出雲さんは自信なさそうに首を何度か横に振るのでありました。
「地図関連なら、地学出版社で出している日本地図帖とか世界地図帖とか、或いはペーパークラフトの地図入りカレンダーとか、その辺は知っていますよね?」
「ああ、それは知っていますよ、当然」
「それじゃあ、生活便利社から出ているポケット便利帳セットとかは?」
「ええと、名前は聞いた事があるけど、それは?」
 出雲さんは及び腰で小首を傾げて見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 351 [あなたのとりこ 12 創作]

「文庫本サイズの食事マナー集とか、表書きの実例集とか、慶弔金相場事典とか」
「ああ、この倉庫で見た事はありますよその商品は」
 出雲さんはそれが置いてあると思しき作業台の右横の棚の方に視線を向けるのでありマました。しかし残念ながらそれはそこには無く、作業台の真後ろの棚に収納してあるのでありました。それでも頑治さんは今敢えてそれは云わない儘にするのでありました。
「それから東京とか神奈川とか、或いはもっと広いエリアで南関東圏とかのグルメガイドと云う冊子なんかは知っていますか?」
「それは確か以前に、金箔の名入れをしたのを刃葉さんが引き取って来て、刃葉さんが忙しいと云うので俺が代わりに、浅草にあるギフト屋さんに納品した事があったかな」
「それならどんな体裁の商品かは知っている訳ですね?」
「まあ、ぼんやりとは」
 出雲さんは頼りない返事とたじろぎの笑いを見せるのでありました。
「ああ、最近良く出るのは、折り畳まれた厚紙に企業名を印刷して、そを六角柱に組み立ててペンスタンドにする廉価な商品がありますが、これは知っているでしょう?」
「いやあ、それは知らないっスねえ」
 出雲さんは狼狽を見せるのでありました。「土師尾常務からウチで扱っている商品カタログを渡されて、一応目を通してはいるんですけどねえ。・・・」
 贈答社で扱っているギフト用の特注商品はそんなに多種多様と云う訳ではなく、覚えようと思えば大した造作も要らず覚えられる筈であります。それにカタログにある商品を実見したければ、倉庫に置いてある物は何時でも見る事も出来たのであります。でありますから、地方特注営業の仕事に就けと命じられて以来、出雲さんは今日に至る迄、そう云う極めて初歩的な下調べなんぞも何もしていなかったと云う事になるでありましょう。
 これはたとえ新しい仕事が気に入らなかったとしても、或いは具体的な仕事内容がさっぱりイメージ出来なかったとしても、それでも自分がこれから扱う商品をちゃんと認知しておくと云うのは営業と云う仕事の、いろはのい、に属するものでありますから、今日に於いて迄そう云う知識を得よとしてこなかったと云うのは、明らかに出雲さんの迂闊と云うのかものぐさと云うものであります。いや寧ろ、土師尾常務の仕事サボりに劣らぬくらいの怠慢と云うものであります。まあ、彼の人程の性質の悪さは見られないとしても。
 頑治さんは出雲さんのこの怠慢に対して内心眉を顰めるのでありましたが、実際には努めて無表情の儘出雲さんを見ながら云うのでありました。
「飛び込みで営業を掛けるとしても、さて何を売りに来たのかと問われてこれが自分で良く判らないとすれば、こんな間抜けな笑い話しはないでしょうね」
「そりゃそうだ、確かに」
 出雲さんはあっけらかんと笑い声を上げるのでありました。
 いやここは気楽に哄笑する場面ではなく、頑治さんの言葉の棘を敏く察して、寧ろ恥じ入るべきところでありましょうか。まあ、出雲さんも袁満さんに負けず劣らず大らかな人なのでありましょうが、少しの食い足りなさがこの人にもあるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 352 [あなたのとりこ 12 創作]

「あ、出雲さんとここでゆっくり会話をしている場合じゃなかったですね。それじゃあ後の発送作業はお願いします。先ず無いと思いますが、若し何か不明な点があったらインターフォンで呼んでください。それじゃあよろしくお願いします」
 頑治さんは片久那制作部長に事務所に上ってこいと呼ばれているのでありましたから、出雲さんとの言葉の遣り取りをここでこれ以上続けている訳にもいかず、片手を挙げて出雲さんに挨拶を送ってからそそくさと倉庫を後にするのでありました。

 この出雲さんの、何の用意も無く見切り発車のように始められた新規営業活動が、組合結成から色々続いていた様々な振動を激震に変える端緒となるのでありました。これ迄の事も充分に身に応える振動だと、頑治さん一人だけではなく従業員皆は感じていたのでありましたが、しかしそれは更なる激震の予兆に過ぎなかったようでありました。
 出雲さんが今迄出張営業で使っていた車は、もう今後は使用する事も無かろうからと疾うに廃車にしてあるのでありました。依って出雲さんは電車で、日比課長のふとした思い付きで口から出たと云う以外にその地を選んだ理由は無いのでありましたが、先ずは新宿駅から中央線沿いに大月市や甲府市、それからもう少し足を延ばして、日帰り出来る信州は諏訪市や少し足を延ばして松本市辺り迄出掛けてみる事になるのでありました。
 出雲さんは商品サンプルや名入れ見本を入れた、ブリーフケースと呼ぶにはかなり大きめの書類カバンを如何にも大儀そうに引っ提げて、朝出掛ける前に日比課長にその日予定している行程を申告してから、足取り重く会社の扉を押し開いて出掛けて行くのでありました。出掛ける前に日比課長にその日の行程を申告するのは、日比課長が一応、出雲さんの新規営業の面倒を見る事になっていたためと云う一端の事情からであります。
 しかしまあ、そればかりではなく例に依って土師尾常務は得意先直行が殆ど常習化していて、朝から会社に出て来ないので申告する事が実態として出来ないと云う事情もありましたか。それに出雲さんの新規営業には、抑々このような営業形態を自分で発案していながら、実際には何の関心も示そうとしないと云うぞんざいな態度でもありましたし。
 数日間やってみて、この新規営業に出雲さんは前の出張営業よりも一層うんざりしたようでありました。車を使えたならもう少しは楽だったかもしれませんが、長い距離を電車で移動して目的地に行って、地図を片手に行き交う人に道を訊ねながらバスや徒歩で地名に慣れない街を回り、また長い時間電車で帰ってくると云うのは、これはもう考えただけでも気持ちも体もしんどい仕事であろうと頑治さんは思うのでありました。
 第一こんな営業は全く以って非効率でありましょう。現地に行くにもかなりの時間が掛かるし、それにまた帰りの電車の事を考えると街中を営業周り出来る時は極めて限られるでありましょう。それに予めの目途もルートも無く、行き当たりばったりに飛び込み営業するのでありますから、現段階で商品知識も豊富とは云えず、この手の営業の手腕も未知数の、それに何より、然してこの仕事に意欲的に取り組む気も無い出雲さんが成果を殆ど上げられないのは、実に無理からぬ事であります。強いてこの営業に活路を求めるとすれば、飛切りの幸運が自分に巡って来る事を只管神頼みするしかないでありましょうか。
(続)
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あなたのとりこ 353 [あなたのとりこ 12 創作]

 こんな観念論的営業活動なんぞが上手くいく筈は無いのであります。依って出雲さんは益々塞ぎ込んで仕舞うのでありました。
「出雲さんは今の仕事に就いて間もないのに、もう疲弊したような顔をしているなあ」
 昼食を一緒にとお茶の水下交差点近くのラーメン屋に均目さんと赴いた折に、頑治さんが均目さんに、夫々注文を終えて水を一口飲んでから話し掛けるのでありました。
「ここ最近急に口数が減ったかな」
 均目さんも心配顔で応じるのでありました。
「動き出したばかりの新規の特注営業が上手くいかないんだろうなあ」
「あんな営業方法が上手くいく訳がないのは、初めから判り切っていたけど」
「ちょっと考えただけでも非効率極まりないからなあ」
「車を使えたらもう少し疲労は少ないかも知れないけど、でもまあ、経験も無い出雲君が地理不案内の土地に行って、飛び込み営業するなんて云うのがどだい無茶だし」
 均目さんも水を一口飲むのでありました。
「そうだよな。何処かの会社に飛び込んでも大体は受付で邪険に扱われるだろうし、若し話しを聞いてくれる所があったとしても、出雲君の様子ときたら如何にも新米の営業見習いみたいな風だろうから、先方も侮るだろうし丁寧には対応してはくれないだろうな。勿論、出雲君自身の事をあれこれ論おうと云う心算ではないよ。あんなふざけた営業方法を考え付いて遣らせている土師尾常務に、殆ど総て問題があるのは云う迄もない話しだ」
「例えば日比課長とかが、その土師尾常務の考えた営業形態に、もう少し細かく検討する必要があるとか云って、良識的なところから待ったを掛けるとか出来ないのかねえ」
「無茶だと内心思っても、日比課長は先ず、土師尾常務には逆らわないだろう」
「土師尾常務に異議を唱えるのが面倒臭いからかな?」
「間違いなく面倒臭いのもあるけど、日比課長は結局、自分の保身以外には無関心な人だからなあ。上辺は出雲君に友好的でも、心根の奥ではそれ程でもないさ」
「片久那制作部長が難色を示す、と云う事も無いか」
「無いだろうね。営業部は営業部だとドライに考えているから、こっちも先ず口出しはしないだろうなあ。土師尾常務に軽蔑の目線くらいは投げるとしても」
「分を守って、先ずは土師尾常務のお手並み拝見、と云う態度か」
「あの人のお手並みなんぞは疾うの昔に知れているだろうから、敢えて自分から営業部のゴタゴタには関わりたくないと云う了見だな、寧ろ。まあ、これが会社存亡の危機になるようなら乗り出してくるとは思うけど、今のところ傍観と云うスタンスだな」
 均目さんが丁度そう云い終る頃に盛んに丼から湯気を立てている、頑治さんの注文したワンタンメンと均目さんの五目ソバが運ばれて来て、夫々の前に、この店でもう随分長く働いている、髪を赤色に染めた若い女店員の手でぞんざいに置かれるのでありました。
「相変わらずがさつなヤツだなあ、あの赤色は」
 丼の縁からはかろうじて零れなかったけれど、中でゆらゆら大時化の海のように揺れている汁を見ながら、均目さんが眉間に縦皺を二本刻むのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 354 [あなたのとりこ 12 創作]

「出雲さんはのんびりした性格みたいに見えるけど、なかなか律義で細やかな心遣いの人だから、此の儘だと完全に参ってしまうんじゃないかな」
 頑治さんはそう云ってからワンタンを割り箸で摘み上げて、それがぬるりと箸の間から滑り落ちる前に急いで口に運ぶのでありました。
「完全に参る前に、出雲君は妙に諦めが早いところがあるから、これ以上この仕事は続けられないと思ったら、色々悩む前にあっさり会社を辞めて仕舞うかも知れない」
 均目さんは鶉の茹で卵を口の中に放り込むのでありました。
「組合でフォローした方が良いんじゃないの」
 確かにその恐れありと思ったから、頑治さんはそう提案してみるのでありました。
「これは労働組合と云うもので取り上げるべき事柄なのかなあ」
「そうは云うけど、結局は我々従業員の働かされ方に関わる問題だから、一種の労働条件の問題だと捉える事も出来るんじゃないのかな。それに出雲さんに直接業務上の命令を下す上司としての土師尾常務の了見とか見識の問題でもあって、それが従業員への精神的肉体的重圧になっているのなら、組合の出る余地は充分あると思うけどなあ」
 結局、労働組合で取り上げるべき問題なのかどうか迷っている内に、出雲さんの危機は取り返しがつかないくらいに増大して仕舞う危険がるとすれば、これはもう、抑々の辺りでウジウジと戸惑っている場合ではないと頑治さんは考えるのでありました。
「でも何となく労働組合的懸案として、これはしっくりこないように俺は感じるなあ」
 均目さんは及び腰をなかなか崩さないのでありました。
「そんな事云って結局動き出せないよりも、先ずは果敢に動かないと、せっかく創った労働組合の頼り甲斐に関わるんじゃないかな」
「まあ、それはそうかも知れないけど」
「均目君自ら、此の儘だと出雲さんは会社を辞めて仕舞うかも知れないとさっき云ったんだから、無関係だと徒に手をこまねいているのは、如何にも無責任だと思うよ」
 頑治さんにそう云われて均目さんはやや苦りながらも少し考える風の顔をするのでありました。当然その間、均目さんの麺を啜る手が暫し静止するのでありました。
「じゃあ、具体的にどうすれば良いと唐目君は思うの?」
「先ずは組合員全員が集まって、出雲さんから、まあ、想像するだけで惨憺たるものと窺えるけど、現状の仕事の様子と、それをする出雲さんの気持ちを聞く事が先決だろうね。それから組合としてどういう風な援助が出来そうか、全員で考えて見る」
 今度は喋り始めた頑治さんの手の動きが止まるのでありました。「勿論組合としての何かしらのアクションを起こす事を前提としてね。俺達で手に余れば、全総連の横瀬さんとか小規模単組連合の来見尾さんの意見も聞いてみるのも手だよね」
「でも横瀬さんは全総連の専従職員でどこかの会社に勤めている訳じゃないんだから、個々の会社の具体的な社内問題の解決策は持ち合わせていないんじゃないかな」
「そこはそうだとしても、それよりも先ず、出雲さんの問題を組合で共有すると云う態度を明示するだけでも、出雲さんは少しは救われたような気持ちになるんじゃないかな」
(続)
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あなたのとりこ 355 [あなたのとりこ 12 創作]

「それに横瀬さんより来見尾さんの方には、自分も中小企業の社員なんだから、あれこれ具体的なアドバイスがあるかも知れないか」
 均目さんが云うのでありましたが、頑治さんはそれを聞いて、頑治さんの話しの進み方よりも、横瀬氏と来見尾氏ではどちらが相談に適しているかと云うくだりで、均目さんの思考が停滞していたような風情であるのに少々苛々を感じるのでありました。
「横瀬さんと来見尾さんではどちらのアドバイスが有効か、とか云う問題はここではもう後々の話として脇に置いて、組合が出雲さんの窮地に誠実に寄り添っていると云う態度を明確にすれば、出雲さんもそんな滅多なことはしないだろうし」
 頑治さんはもう一度、均目さんが停滞していたところよりも先に進んだ辺りの話を、謂いとして繰り返して見せるのでありました。
「出雲君の件は早急に場を作って皆に俺から提起して見るよ」
 その頑治さんの苛々を察して、心配しなくても自分はそんな盆暗な会話し相手ではないと云うところを見せるために、均目さんは素早い具体的な実行を約すのでありました。
「それじゃあ、頼むよ」
「判った。今日中に皆に伝達する」
 頑治さんとしては均目さんが、ここでの会話の遣り取り上の経緯から、すぐに行動を起こそうとしてくれた事に、棚から牡丹餅と云った好都合を得るのでありました。一般的に云い出した者が先ず行動すると云う原則があるとすれば、頑治さんが皆に集合を掛けて問題提起すると云う役目を負うのが順当なところであったでありましょうし。

 次の日の終業時間後に早速組合員は全員が神保町駅近くの、そろそろ馴染みになった居酒屋に参集するのでありました。組合の会議と云う形式を取るより食事会とか飲み会の体裁の方が、格式張らない話しが出来るだろうとの均目さんの配慮からでありました。
「今日集まって貰ったのは出雲君の事について話すためなんだけど、・・・」
 くだけた会合であるからビールが全員のコップに満たされた後、ここでは委員長の袁満さんではなく、この会合を提起した均目さんが先ず話しを切出すのでありました。出雲さんは前以って話題は自分の新しい仕事の件であると聞いてはいたものの、自分の名前が均目さんの口から出た時に眉尻をピクンと微動させて緊張を見せるのでありました。
「未だそんなに実働していないけど、実際やってみて感触はどうなの?」
 那間裕子女史がビールのコップを口元に近付けながら訊くのでありました。
「まあ、そうですねえ、何と云うのか、・・・」
 出雲さんは曖昧に応えて、その先を云い渋るのでありました。
「どのくらいの会社を回れるのかな、一日で?」
「そうですねえ、多い時で十社くらいかな。何処かで少しでもこちらの話を聞いて貰えるなら、そこで時間を取るから勿論それより少なくなりますけどね」
「まあ、午前遅くに向こう着いて夕方四時頃に会社に戻らなければならないとなると、そんなところになるだろうなあ、どうしても」
(続)
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あなたのとりこ 356 [あなたのとりこ 12 創作]

 袁満さんが時間と実働の兼ね合いをざっと勘案するのでありました。
「そう聞くと、全く非効率と云う感じだなあ」
 均目さんが呆れたようなもの云いをするのでありました。
「車が使えたなら、もう少し時間が有効に使えるかも知れませんけど」
 これは出雲さんの実感でありましょう。
「いや、そう云う問題じゃなくて根本的なところで、仕事として成立しているか、と云う疑問が当初から俺にはあるんだけどねえ」
 均目さんが首を傾げるのでありました。「そう思わないか、唐目君は?」
 急に自分に疑問を振られて頑治さんは少しどぎまぎするのでありました。
「車が有るか無いかに関わらず遠距離にある街に日帰りすると云うのが、先ずは非効率の元凶かな。全くの新規開拓の訪問販売的な仕事と云う点は、出雲さんにはきついかも知れないけど、ざらにある仕事と云えばざらにある仕事と云えなくもないかな」
 これは冷たい云い草と思われるかなと頑治さんは危惧するのでありました。「まあ、出雲さんにはあんまり向かない仕事のような気は、大いにしているけど」
「前に出雲君が出張営業で使っていた車は、一月中にさっさと、もう使う事も無いだろうからって売り払って仕舞ったから、今更どう仕様も無いけどね。」
 袁満さんが首を横にゆっくり振りながら云うのでありました。
「でもさっき、車が使えたなら、とか云いましたけど、均目さんが云うように、効率の問題以前に、基本的なところで俺が今やっている、と云うのか、やらされている仕事が、抑々仕事として成立しているかどうか、と云う疑問は実感として俺もありますよ」
 出雲さんの疑問と云うのか、この心情吐露はなかなかに重いと頑治さんは思うのでありました。そう云う嫌気が根っ子にあるのなら、それはもうこの仕事に意欲的には取り組めないでありましょう。出雲さんの資質としての向き不向きの問題も含めて。
「抑々、どうして出雲君は今迄の出張営業を外れる事になったのかしら?」
 新米組合員の甲斐計子女史が訊ねるのでありました。甲斐計子女史は組合が、或いは会社が抱える様々な懸案に対して、自ら積極的に発言をする事はこれ迄には殆ど無いのでありました。訊かれれば曖昧な当り障りのない意見をものすのが精々でありましたか。
「今迄の出張営業に、この先成長が見込めないからだろう」
 出雲さんの代わりに袁満さんが応えるのでありました。
「それはお正月に開いた全体会議の時に聞いた事だけど、でも、袁満君じゃなくて出雲君だった訳が、その時からあたしには良く判らなかったのよ」
「今迄の出張営業は俺の方が出雲君よりやっている年季もずっと長いし、あれこれ仕事の要領に少しくらいは、出雲君と比較して詳しいだろうと云う判断からじゃないの」
「まあ、それが妥当な解釈だけど、でも、出張営業の年季が長いから袁満君を残すと云う理由は、何となく腑に落ちない気がしたのよ。歳も上で色々営業経験もある袁満君の方を新しい営業に回しても、それはそれで理屈としては成立するんじゃないかしら」
「まあ、俺の判断じゃなくて、多分土師尾常務の考えだろうからねえ、それは」
(続)
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