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あなたのとりこ 345 [あなたのとりこ 12 創作]

 土師尾常務は役員になっても、相変わらず威光をひけらかそうとはするものの、前にも況して仕事に精を出す、なんと云うしおらしさは全く見られないのでありました。寧ろ朝の得意先への直行と夕方の出先からの直帰を呆れるくらい頻繁に、ま、ほぼ毎日、公然と繰り返すようになるのでありました。尤も以前もそれは屡行われていたのでありましたけれど、それは不当に残業代を稼ごうと云うさもしい魂胆からの仕業でありましたか。
 しかし役員となった今では、そんなに給金のためにあくせくする必要も無いし、そうする事に対するほんの僅かな後ろめたさも感じないで済むようになるのでありました。他の社員からはそのあまりにあからさまな態度と、見え透いたさもしい根性を秘かに軽侮されるのでありましたが、自分以外の者共の心根なんぞは寸分も意にも介さず、何処吹く風と云った開き直りも相変わらすと云えば全く以って相変わらずなのでありましたか。
 例に依って朝一番に土師尾常務から得意先に直行すると云う電話連絡を受けた甲斐計子女史は、向こうが電話を切ってからでありましょうが、少し荒けなく忌々しそうな手付きで受話器を架台に戻して舌打ちをするのでありました。
「今日も常務さんは得意先に直行だってよ」
 甲斐計子女史は自席で茶を飲んでいる日比課長の背中に向かって、殆ど唾棄するような口調で報告するのでありました。それに対して日比課長は甲斐計子女史の方に振り返ってから鼻を鳴らして見せるのでありましたが、この遣り取りは制作部スペースに居る頑治さんにも、分過ぎるくらいのボリュームで聞こえてくるのでありました。
 均目さんと那間裕子女史はその遣り取りを聞きながら顔を上げて、互いに目を合わせて失笑するのでありました。片久那制作部長の思わず僅かに失笑を漏らす気配も、頑治さんに伝わるのでありました。片久那制作部長としてはこんな土師尾常務の態度に苦っている筈でありましたが、それを察しもしないし、配慮も羞恥も無く野放図に得意先直行の電話を掛けてくる彼の人のいけ図々しさに、反射的に笑って仕舞ったのでありましょう。
「直行するのなら、昨日の内に云って置いて貰いたいもんだよな、毎度の事だけど」
 日比課長が恨み言をものするのでありました。
「そりゃ無理だよ。朝起きて、急にサボりたくなって直行と決めたんだろうから」
 日比課長の対面にいる袁満さんは先の日比課長同様に鼻を鳴らすのでありました。
「そりゃそうだ。それに本当に得意先に行くのかも大いに怪しいもんだし」
 日比課長は頷くのでありました。「ま、十中八九得意先には行く気は無いな。恐らく朝飯の後に茶をゆっくり飲みながら悠々と寛いで、それから願力寺にでも立ち寄って、その後で何食わぬ顔しておっとりと会社に出て来る了見なんだろうからなあ」
 願力寺、と云うのは、前に誰かに聞いたところに依ると土師尾常務がサイドビジネスみたいに副住職をしていると云う、千葉に在る彼の人の家の近くの寺院でありました。
「役員になったもんだから、益々調子に乗ってつけ上がり放題だよな」
 袁満さんのそんな憎悪剥き出しの科白が聞こえてきたタイミングで、片久那制作部長が聞えよがしの咳払いをするのでありました。もうその辺で止めておけと云うサインを、マップケース向こう側の営業部スペースに送ったのでありましょう。
(続)
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