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あなたのとりこ 352 [あなたのとりこ 12 創作]

「あ、出雲さんとここでゆっくり会話をしている場合じゃなかったですね。それじゃあ後の発送作業はお願いします。先ず無いと思いますが、若し何か不明な点があったらインターフォンで呼んでください。それじゃあよろしくお願いします」
 頑治さんは片久那制作部長に事務所に上ってこいと呼ばれているのでありましたから、出雲さんとの言葉の遣り取りをここでこれ以上続けている訳にもいかず、片手を挙げて出雲さんに挨拶を送ってからそそくさと倉庫を後にするのでありました。

 この出雲さんの、何の用意も無く見切り発車のように始められた新規営業活動が、組合結成から色々続いていた様々な振動を激震に変える端緒となるのでありました。これ迄の事も充分に身に応える振動だと、頑治さん一人だけではなく従業員皆は感じていたのでありましたが、しかしそれは更なる激震の予兆に過ぎなかったようでありました。
 出雲さんが今迄出張営業で使っていた車は、もう今後は使用する事も無かろうからと疾うに廃車にしてあるのでありました。依って出雲さんは電車で、日比課長のふとした思い付きで口から出たと云う以外にその地を選んだ理由は無いのでありましたが、先ずは新宿駅から中央線沿いに大月市や甲府市、それからもう少し足を延ばして、日帰り出来る信州は諏訪市や少し足を延ばして松本市辺り迄出掛けてみる事になるのでありました。
 出雲さんは商品サンプルや名入れ見本を入れた、ブリーフケースと呼ぶにはかなり大きめの書類カバンを如何にも大儀そうに引っ提げて、朝出掛ける前に日比課長にその日予定している行程を申告してから、足取り重く会社の扉を押し開いて出掛けて行くのでありました。出掛ける前に日比課長にその日の行程を申告するのは、日比課長が一応、出雲さんの新規営業の面倒を見る事になっていたためと云う一端の事情からであります。
 しかしまあ、そればかりではなく例に依って土師尾常務は得意先直行が殆ど常習化していて、朝から会社に出て来ないので申告する事が実態として出来ないと云う事情もありましたか。それに出雲さんの新規営業には、抑々このような営業形態を自分で発案していながら、実際には何の関心も示そうとしないと云うぞんざいな態度でもありましたし。
 数日間やってみて、この新規営業に出雲さんは前の出張営業よりも一層うんざりしたようでありました。車を使えたならもう少しは楽だったかもしれませんが、長い距離を電車で移動して目的地に行って、地図を片手に行き交う人に道を訊ねながらバスや徒歩で地名に慣れない街を回り、また長い時間電車で帰ってくると云うのは、これはもう考えただけでも気持ちも体もしんどい仕事であろうと頑治さんは思うのでありました。
 第一こんな営業は全く以って非効率でありましょう。現地に行くにもかなりの時間が掛かるし、それにまた帰りの電車の事を考えると街中を営業周り出来る時は極めて限られるでありましょう。それに予めの目途もルートも無く、行き当たりばったりに飛び込み営業するのでありますから、現段階で商品知識も豊富とは云えず、この手の営業の手腕も未知数の、それに何より、然してこの仕事に意欲的に取り組む気も無い出雲さんが成果を殆ど上げられないのは、実に無理からぬ事であります。強いてこの営業に活路を求めるとすれば、飛切りの幸運が自分に巡って来る事を只管神頼みするしかないでありましょうか。
(続)
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