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あなたのとりこ 612 [あなたのとりこ 21 創作]

「要するに本当は出来もしない事を社長に普段から臆面も無く嘯いているから、そんな云い逃れめいた事を今口にしているんでしょう」
 均目さんが憫笑を湛えて土師尾常務を見るのでありました。
「無礼な事を云わないで貰いたいな。僕だって最初は編集要員としてこの会社に入ったんだから、今の制作部で遣っている仕事程度ならすぐにでも熟せるよ」
「ほう、それはそれは」
 均目さんは如何にも冗談めかして感心して見せるのでありました。「五十万分の一地図を百三十パーセント拡大したらその縮尺が幾らに変更されるのか、そのくらいのその辺の小学生でも遣れる計算が出来ないものだから、忙しい俺に遣らせようとしたくせに」
「そんな計算くらい僕でも出来るよ、馬鹿にして貰っては困る。でもあの時は仕事の責任領分として均目君がやるべき仕事だから、均目君に任せようとした迄だ」
「何ですか、その屁みたいな理由は?」
 均目さんが吹き出すのでありました。「若しその理由がまかり間違って本当なら、それは救いようのないゴリゴリの形式主義とか教条主義云うものだな。いやそんな事を云うと形式主義者や教条主義者に対して申し訳無いと云うくらいだ。まあ、実際は本当にその小学校で習う程度の計算も自分じゃ出来ないから、と云うのが正解なんだろうけど」
「確かに、理由にもならない理由だと私も思うよ、土師尾君の今のは」
 社長も呆れ顔で横の土師尾常務を見るのでありました。よくもそんな事を口にしてそれが立派な理由として通ると考えたものだなと、頑治さんも内心、軽蔑を通り越してそのスットコドッコイ振りに感心すらするのでありました。
 ところで、均目さんが土師尾常務の馬鹿げた云い草の揚げ足を取って、それを揶揄したりからかったりする時には屹度、普段の那間裕子女史ならここぞとばかりにおいそれと同調して痛烈な皮肉の一つも一緒になってものしてくる筈であります。しかしこの場合の女史は、沈痛な面持ちをして均目さんと土師尾常務の遣り取りを傍観しているのみでありました。恐らく均目さんが居なくなった後の、ひょっとしたら自分にのしかかって来るであろう厄介事に思いを馳せていて、そんな気分には到底なれないのでありましょう。

「本気で、均目君は会社を辞める心算なのかな?」
 社長が均目さんにもう一度聞くのでありました。
「はい、その心算です」
 均目さんはきっぱり言うのでありました。
「会社を辞めて、その後どうする気なんだ?」
「それはここで云う必要はないんじゃないですか、自分個人の事なんですから」
 均目さんは鮸膠も無い云い方をするのでありました。
「それはそうだが、・・・」
「社長、ここで均目君に辞めて貰ったら、寧ろ願ってもない事じゃないですか」
 土師尾常務が社長の顰め面に言葉を投げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 613 [あなたのとりこ 21 創作]

「願ってもない事?」
 社長は土師尾常務に首を傾げて見せるのでありました。
「これ迄観察してみて、どうも均目君では片久那君の後釜としては力不足で、この先制作部を安心して任せるのは無理じゃないかと思われるので、ここは均目君の方からの申し出でもありますから、この際辞めて貰う方が良いのじゃないでしょうか」
 これはひょっとしたら先程均目さんに小学生程度の頭だと云われた事への、土師尾常務の意趣返しの言葉なのであろうかと頑治さんは考えるのでありました。
「そうするとこの先、制作の方はどうなるんだい?」
 社長はの方は那間裕子女史を横目で窺うのでありました。「那間君に任せるのかい?」
「そんなの、あたしは困るわよ」
 那間裕子女史は大袈裟に何度も首を横に振って、何が何でも絶対拒絶の意志表示をするのでありました。「さっきも云ったけど、あたしは地図や本の企画立案とか編集とか修正の仕事以外には、まっぴらご免蒙りますからね、この会社では」
「社員としてそんな自儘は通用しないだろう」
 社長が女史を一直線に見るのでありました。
「そっちの勝手でそんな事決められても困るわよ」
「でも、若し均目君が会社を辞めたら、・・・」
 ここで袁満さんが横から言葉を割り込ませるのでありました。「後は那間さんしか制作部には居ないんだから、責任者を引き受けるしかないんじゃないですか?」
「そりゃそうだ。俺もそう思うな」
 これは日比課長の科白であります。「甲斐さんもそう思うだろう?」
 ここで急に同調を求められた甲斐計子女史は、咄嗟にどう反応して良いのか判らないと云った様子を見せるのでありました。
「唐目君もそう思うだろう?」
 甲斐計子女史の即答がなかったので日比課長は頑治さんを見るのでありました。
「まあそれは妥当なところでしょうが、那間さんの気持ちもありますしねえ。すんなり次は那間さんが責任者だと、こちらで勝手に決め付けるのもどんなものでしょうかねえ」
 甲斐計子女史程にはあたふたしないものの、頑治さんも即答と云うのはまったく当たらない程度の間を置いて、同意と云うには何となく曖昧な云い草をするのでありました。
「そうよ、あたしの気持ちもあるんだからね、これは」
 那間裕子女史がどこか悲壮な調子で云うのでありました。
「別に那間君に均目君の後釜を頼もうと云う訳でもない」
 土師尾常務はなかなかきっぱりと云うのでありました。
「じゃあどうする心算なんですか」
 袁満さんがそのきっぱりさ加減に抵抗するような語調で訊くのでありました。
「どこか他から適任の人を連れて来る、と云う事かな?」
 社長も土師尾常務の意を読み兼ねているようであります。
(続)
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あなたのとりこ 614 [あなたのとりこ 21 創作]

「そうではありません」
「ではどう云う解決策を考えているのかね?」
「この際制作部を廃止すれば良いのじゃないでしょうか」
「制作部の廃止?」
 社長はここで目を見開いて驚くのでありましたが、頑治さんは単なるこの場の体裁として驚いて見せているのではないかと疑うのでありました。この制作部の廃止と云う路線は予め社長と土師尾常務の間で前から共謀されていた事で、丁度制作部の実質的責任者である均目さんが辞意を表明したので、しめしめとばかりここで土師尾常務が持ち出したのではないでありましょうか。なかなかに息の合った漫才コンビでのようであります。
「そうです、制作部の廃止です」
 土師尾常務は重々しく頷きながら繰り返すのでありました。
「そんな事をしたら贈答社と云う会社自体が全く成り立たなくなるんじゃないか?」
「いや、そうでもありませんよ」
 土師尾常務が妙に自信あり気な表情で続けるのでありました。「ここのところ自社製品と他社製品の売上比率を較べてみると、他社の売り上げの方が上回っています。それはつまり、自社に魅力的な商品がないという事です。それは片久那君は、僕にすればあれこれ物足りない部分はあったけど、それなりの商品企画力がありましたから、売り上げに占める自社商品の割合も六十パーセント程度はありましたが、それももう頭打ちで、片久那君が居なくなった後は、ギフトにしろ販促企画物にしろ他社製品の方が圧倒しています」
「でも自社製品を切り捨てるのはなかなか勇気の要る事じゃないだろうか。それに他社製品より自社製品の方が圧倒的に利益率は高いんだし」
「それはそうですが、でも売り上げに於ける自社製品の割合は、魅力的な商品が生み出せない以上、漸次減っていくしかないでしょう。利益率の高さに目が眩んで自社製品に拘った営業をしていると、この先深刻な事態に陥るのは見えていると僕は思いますよ。ここ何年かの売り上げ低迷は、つまり自社製品偏重の考えのためではないでしょうか」
「うーん、成程それも、一理はあるかな」
 社長は瞑目して顎に握り拳を添えて、まあそれは頑治さんの目に映る様として如何にも芝居っ気たっぷりと云った風に、首を縦に何度か動かすのでありました。
「おまけに均目君では片久那君の代わりになるとは到底思えないので、この際自社製品を軸に営業を展開する事をきっぱり諦める、と云う選択もしっかり考えるべきですよ」
 土師尾常務は横目でチラと均目さんを見るのでありましたが、その目には勝ち誇ったような軽侮の色と、この会議に於いてと云うばかりではなく、今迄事あるにつけ散々自分をコケにしてくれた事への報復成就の喜びの色が浮かんでいるのでありました。

 暫くの沈黙の後に均目さんが喋り出すのでありました。
「ええと、まあそう云う事なら、自分の辞意も認めて頂いたと考えて良いのですね?」
 社長と土師尾常務が一緒に均目さんを見るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 615 [あなたのとりこ 21 創作]

「それは自分勝手よ。無責任な事云わないで」
 社長でもなく土師尾常務でもなく、ここで那間裕子女史が声を上げるのでありました。皆の視線が一斉に那間裕子女史に向かうのでありました。ただ土師尾常務だけは自説の展開に水を差しかねない発言だと、警戒心を眼鏡の奥に覗かせるのでありました。だから機先を制する心算でか、均目さんよりも先に言葉を発するのでありました。
「均目君が辞めたいのなら、こちらは別に引き留めないよ」
 土師尾常務は多少慌てた風に云うのでありました。社長の方はもうその土師尾常務の発言に待ったをかけないのでありました。
「あたしは土師尾さんに云っているんじゃなくて均目君に云っているのよ。妙に調子に乗ってペラペラと、別に話しかけられてもしていないのに、嵩にかかってくるように横から割り込んでこないでよ、鬱陶しいわね」
 そう云われて土師尾常務は眉根を寄せて目を怒らすのでありましたが、だからと云って特段何も云い返そうとはしないのでありました。これはまあ、理由の半分はいつもの那間裕子女史に対する苦手意識が作用したからでありましょう。
 しかしそればかりではないような按配であります。つまり不謹慎にも自分を鬱陶しがるような口調の那間裕子女史に憤怒した事実もありはするけれど、妙に調子に乗ってペラペラと話しかけられてもいないのに横から嵩にかかって割り込んでくるな、と云う那間裕子女史のピシャリとした云い草に、自分の魂胆の内の真ん中辺りをズバリ云い当てられて仕舞ったような動揺を、秘かに感じたが故かも知れないと頑治さんは思うのでありました。で、単なる苦手意識だけではなくて思わず言葉に詰まったと云う次第でありますか。
「無責任と云われればそうかも知れないけど、今の常務の云い草を聞いていると、俺は会社に必要とされていないようだし、こちらとしても、そんな会社に居続ける理由もないし義理もない。そうなると或る意味で、俺が会社を辞めるのは円満な解決と云えなくもないんじゃないかな。まあ、そう云う事でしょう、ねえ土師尾常務?」
「確かに考え様に依ってはそうとも云える」
「何を二人で得心したように尤もらしく頷き合っているのよ、癪にさわるわね!」
 那間裕子女史は激したように前のテーブルを平手で叩くのでありました。「均目君も出し抜けに辞意表明するんじゃなくて、前以てあたしに云って置いてよ。会議中にいきなりそんな事云い出すのはあたしに対する配慮とか遠慮とかが足りないんじゃないの!」
「ああ、その点は申し訳ないところもあったけど、でも俺の進退は俺が決める事で、予め那間さんに話そうが話すまいが、俺の辞意自体を変更する心算は更々ないけどね」
 こう云う遣り取りを聞いていると、矢張り那間裕子女史と均目さんの仲はあの日以来、ギクシャクとした儘のようでありますか。
「それなら、あたしも辞めるわ、こんな会社」
 那間裕子女史もここで辞意表明であります。「制作部を取り潰して他社商品だけでこの先会社を遣って行く気でいるようだし、そうなるとあたしも必要としない訳よね」
 那間裕子女史はそう吐き捨てて土師尾常務を睨むのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 616 [あなたのとりこ 21 創作]

「那間君の今表明した辞意も、尊重するよ」
 土師尾常務はまんまと那間裕子女史が自分の謀に嵌ってくれたと云う風の、底意地の悪そうな笑みを眼鏡の奥の瞳に湛えるのでありました。
「ええと、・・・」
 皆の耳目が突然ここで喋り出した頑治さんに集まるのでありました。「この会議はここいら辺りで、取り敢えずストップ、と云う事にしませんか」
 袁満さんが口を半開きにした儘、事の推移に呆気に取られて仕舞って何も喋りそうにないものだから、頑治さんが出し抜けに話し出したのでありました。
その頑治さんにすぐさま土師尾常務が鋭い視線を投げるのでありました。折角良い按配に議事が進行しつつあるのに、この唐突な頑治さんのお開き提案なんと云うものは、土師尾常務にとっては全く以って余計なもの以外ではないでありましょう。社長も何やら不愉快そうな表情を浮かべて、頑治さんから目を逸らすのでありました。
「袁満さん、ここで一旦会議を中断した方が良いと思いますよ」
 土師尾常務の視線の棘や社長の不快なんぞはものともせずに、頑治さんは呆けた顔の儘であるにしろ、こちらを向いた袁満さんに強請るように再度そう云うのでありました。
「ああそうだね、・・・中断した方が、良いよね」
 袁満さんはようやく正気に戻ったように同意の頷きをするのでありました。
「中断する事はない。話しは段々具体的なところに入って来たんだから」
 土師尾常務が袁満さんにも鋭い視線を投げるのでありました。
「いやもう、これは社内の全体会議の中で話し合うべきものではなく、我々にとっては明らかな労働問題として、組合案件として処理するべきところの問題ですよ」
 頑治さんは土師尾常務の視線にあたふたする気配を見せる袁満さんを励ますように、少し声を張ってそう云いながら土師尾常務を睨むのでありました。
 何方かと云うと諸事控え目で事を荒立てる事を嫌う弱気なヤツだ、と思っていた頑治さんのその意外な視線の強さに土師尾常務は一瞬たじろぎを見せるのでありました。しかしここで怖じる必要なんか何処にもないと、自分を励まして頑治さんを睨み返そうとするのでありましたが、どうしてだか調子が狂ったように何時もの気勢が出せないようで、例の如く眼鏡の奥の目玉を弱気に微揺動させるのでありました。
「どうしよう、均目君?」
 袁満さんは均目さんに縋るように言葉をかけるのでありました。こんな袁満さんを見たらすぐさまここぞとばかりに逆上して見せて、容赦ない怒鳴り声で以って袁満さんを黙らせようとするのが土師尾常務の何時もの手なのでありましたが、頑治さんに鋭く睨まれていて、その無言の威圧に自分でも判らないけれど何故か畏れ入って仕舞っているため、逆上する契機を失って袁満さんに何もアクション出来ないような具合でありますか。
「俺は別に続けても打ち切りにしてもどちらでも良いけど、まあ、組合員の皆に前以て云わないで、ここで唐突に辞意を表明した事は何となく申し訳ないとは思っているから、袁満さんがこれで会議を切上げると云うのならそれに従いますよ」
(続)
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あなたのとりこ 617 [あなたのとりこ 21 創作]

「ところで、どうして全体会議の問題じゃなくて、組合案件なんだ、唐目君?」
 社長が身を乗り出しながら訊くのでありました。社長としても他者を交えず社内の人間だけで、この制作部廃止と云う提案を話し合いたいと云う目論見でありましょう。それなのに他者の中でも最も避けたいところの全国組織の労組連合の上部の人間が絡んできて、事態が妙な具合に拗れるのは全く以ってげんなりと云うところでありましょう。
 社内の人間相手だけなら、社長と云う立場を以って無理筋でも自分の主張を押し通す自信はあるけれど、社外の、しかも労働問題の専門活動家に首を突っ込まれるとなると、なかなか思う壺とは行かなくなると云うものでありますか。それどころか、とんでもない悪徳経営者と云う事にされて、あらぬ恥辱を味わう事になるかも知れないのであります。
「それは、会社の機構改革に依って明らかに職を失う従業員が居るからですよ」
 頑治さんは眉根を寄せて不愉快そうな口調で云うのでありました。この不愉快そうな口振りてえものはつまり頑治さんの心根の内としても、これが労使問題とか労働組合案件だとはっきり云い切る確信が実はなかった故であります。何となれば社長や土師尾常務からは、制作部の廃止、と云う提案がなされただけであって、それが明快に即均目さんや那間裕子女史の会社からの追い出しと云う話しではないからであります。寧ろ均目さんも那間裕子女史も、経緯としては自分の方から会社を辞めると云い出したのでありますから。

 社長が乗り出していた身を背凭れに引くのでありました。
「確かに機構変更と云う事にはなるけど、別にそれで制作部の均目君や那間君に会社を辞めて貰いたいとこちらから云った訳じゃない。例えば均目君と那間君には、この先制作過程を熟知しているところを活かして、新たな営業社員として活躍して貰う事も出来る」
 この社長の言に頑治さんは肚の中で秘かに小さく指を鳴らすのでありました。
「今の社長のおっしゃり様は、前に聞いた事がありますねえ」
「前に、そんな事を私が云ったかね?」
「いや、社長ではなく常務と片久那制作部長でしたかね」
 頑治さんの口から不意に自分の名前が出て来たものだから、今度は土師尾常務がソファーの背凭れから身を乗り出すのでありました。
「土師尾君と片久那君に?」
 身を乗り出した土師尾常務ではなく社長が訊くのでありました。
「そうです。前に制作部に居た山尾主任を制作部から営業部に移動させようとした時に、今社長がおっしゃられた事と同じ理屈で以って説得しようとして、だったですかね。だからその時は社長ではなく常務と片久那制作部長が結託して、と云うことになりますか」
「僕は知らないよ。それは片久那君が勝手に、そんな風な事を云って山尾君を説得しようとしたんだろうさ。別に僕は片久那君とその点で結託していたんじゃ、・・・」
 土師尾常務が頑治さんの言に抗おうとするのでありましたが、どうしたものか頑治さんに一睨みされて、急に語尾を曖昧にして口を閉ざすのでありました。恐らく今迄に見た事のない頑治さんの眼光の強烈さに、おどおどと尻尾を巻いたのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 618 [あなたのとりこ 21 創作]

「その経緯に関しては後に片久那制作部長から少し詳しく俺は聞いた事がありますが、それによると常務も一枚噛んでいて、二人で結託した事は間違いないですね」
 これは均目さんが云うのでありました。頑治さんは均目さんが片久那制作部長から山尾主任の営業部コンバートの件に関して何か詳細を聞いていると云うのは、これはひょっとしたら一種のハッタリではないかと、頭の隅でちょいと疑うのでありました。
 まあつまり、順当に考えて山尾主任の後継になるであろう均目さんになら、ひょっとしてその辺りの詳しい事情を片久那制作部長は話したかも知れないと、土師尾常務が勝手に憶測する事を期してのハッタリであります。実はそんなところを均目さんが知っている筈もないのだろうけど、ひょっとしてひょっとしたらと云う、大体が気の小さい土師尾常務の弱気にまんまと付け込んで、心根を揺さぶってやろうと云う魂胆であります。
「そんな事は絶対にないよ。第一均目君に、そんな事を片久那君が云う筈がない」
 土師尾常務はムキになって云い返すのでありました。
「そんなにムキになって、否定しなくても良いですよ」
 均目さんは余裕たっぷりの口振りで片頬に笑みを浮かべていうのでありました。
「ムキになんかなっていないよ!」
 土師尾常務はよりムキになるのでありました。
「ああそうですか。それならそう云う事にして置いても構いませんよ」
 均目さんは嘲弄するように鼻を鳴らすのでありました。こうなってくると小心で短気と云う特徴を持つ土師尾常務は、大いに分が悪いと云うところでありますか。実は結託と云う程の謀めいた事実はなかったとしても、この土師尾常務の態度に依ってその疑いは返って濃くなったと云う印象であります。ま、均目さんの目論見通りであります。
「要するに、如何にも山尾主任の時と遣り口が似ていると云っているんですよ」
 頑治さんが後を引き取るのでありました。「制作部から営業部に調子の良い事を云って鞍替えさせて、その後にお客さんに対する態度とか言葉遣いとか、その営業の遣り方とかの細々とした点に一々難癖をつけたり罵倒したりして、結局居たたまれなくして会社を自分から辞めさせようと云う肚なのでしょう。それに、出雲さんの地方特注営業の時も、同じ遣り口で意地悪を繰り返した挙句の果てに、いびり出したんでしたよね」
「馬鹿な! そんな、訳じゃ、・・・」
 土師尾常務は先ず弁解しようとして強く頭の言葉を吐くのでありましたが、頑治さんの顔を見ながら、次第に尻すぼみに弱々し気に語調を落とすのでありました。どんな思いの経緯かは確と判らないながら、土師尾常務はここにきて急に、頑治さんと云う存在を那間裕子女史の如く苦手と感じ取って仕舞った、或いはもっと云うと、自分の小細工とか口から出任せが全然通用しない相手と、ハッと驚くように覚ったと云う按配でありますか。
 その土師尾常務の動揺が伝わるものだから頑治さんとしては、ここは一番それに乗じない手はないと云うものであります。
「そんな訳じゃないと、未だ云い募る心算ですか?」
 頑治さんは無表情で半眼に土師尾常務の目を見つめるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 619 [あなたのとりこ 21 創作]

「まあ、どう云う風に取られようと構わないがね」
 土師尾常務は不貞腐れたように云ってそっぽを向くのでありました。これは頑治さんに自分の動揺を見透かされないようにするために、不貞腐れを装って合わせていた目を気弱に逸らした、と云う事になるでありましょう。
「今更、誤魔化しはなしですよ」
 頑治さんは目を逸らした土師尾常務を一直線に見据えているのでありました。その刺すような強い眼光を頬に感じて、土師尾常務は居心地悪そうに居住まいを無意味に正すのでありました。落ち着かない風情が頑治さんにだけではなく他の誰彼にも、土師尾常務としては慎に不本意ではあるだろうけれど、はっきりと伝わるのでありました。
「じゃあ、ここ迄で一端、全体会議を終了して良いですよね?」
 袁満さんが土師尾常務の弱気に付け込むように乱暴な口調で訊くのでありました。土師尾常務は頑治さんにはどうした訳か判らないながら畏れ入ったけれど、別に袁満さんに迄脅威を感じる必要はないと自分を励まして袁満さんの方に目を向けるのでありましたが、どうしても頑治さんの視線を頬に感じて仕舞って、それが何とも気になって気になって、袁満さんに迄も何だか遠慮がちになって仕舞うのは悔しい限りでありましょう。
「社長も、ここで会議を打ち切る事を了承されますね?」
 土師尾常務が何も云わないので、いや、云えないような風情なので、袁満さんが今度は社長を見るのでありました。
「いや、組合対経営、と云う構図ではなく、この社内の全体会議と云う形式でもっと会社の将来像やら在り方やらを私は話し合いたいと思うけど、・・・」
「もう社内の全体会議と云う体裁では、我々はこれ以上の話しは出来ませんね」
 頑治さんがきっぱり云うのでありました。
「そう云わないで、この会議を続けようじゃないか」
 社長は土師尾常務程には頑治さんの何時も見る眼容と顔付きが変化した事に気付いていないようで、と云うのか、生来の鈍感さの故か頑治さんの目付きには無頓着なようで、些かのんびりした調子でそう云いながら背凭れに身を引くのでありました。
「それは受け入れられません」
 頑治さんの云い方は鮸膠も無いのでありました。
 大概の場合なら、或いは袁満さんがそう云う云い草をしたのなら土師尾常務が横からしゃしゃり出て来て、社長に対して無礼だとか慎みがないだとか捲し立てるのが恒の光景でありましたが、この時は口を閉ざした儘で非干渉の態度を貫くのでありました。
「組合として、これ以上会議を続行する事を拒否します」
 袁満さんも断固云い放つのでありました。
「異議なし」
 空かさず頑治さんが、これも強い調子で続くのでありました。その頑治さんの言葉を追って那間裕子女史も異議なしを表明するのでありましたし、均目さんも後に続くのでありました。甲斐計子女史は慣れないせいか出遅れて口をモゴモゴするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 620 [あなたのとりこ 21 創作]

「こうなった以上、組合員はこれで退出して、今後の組合活動の方策を話し合いますが、日比さんは組合員ではないから、それに同調して貰う必要はないよ」
 袁満さんが立ち上がって横に座っている日比課長を見下ろすのでありました。均目さんも那間裕子女史も、それに頑治さんも立ち上がるのでありました。
 袁満さんにそう云われて一人取り残されたような形になった日比課長が、おどおどと袁満さんに上目遣いの視線を投げるのでありました。組合員からは仲間外れを宣されたような具合だし、従業員の中では腐れ縁の長い付き合いである社長や土師尾常務に対しては、何となく不躾な態度に出る事が憚られると云うところでありましょう。日比課長としては、ここはどうにも悩ましいと云った立場のようで、こうしてほんの少しく逡巡している間に、何となく腰を浮かすチャンスを逸して仕舞ったような感じでありますか。

 組合員は非組合員の日比課長を残して、社長の再度の慰留も袖にして社を出て行くのでありました。こう云う展開になるとは誰しも考えてはいなかったのでありますが、こうなった以上この儘解散すると云う訳にもいかず、袁満さんの提案で組合活動の後に時々行く神保町の居酒屋に席を移して集会すると云う恰好になるのでありました。
 一通りの酒肴の注文が済むと、均目さんが切り出すのでありました。
「何だか突然会社を辞めると云い出して、混乱させて申し訳なかったですね」
 均目さんは袁満さんに頭を下げるのでありました。
「いやあ、参ったよ」
 袁満さんは冗談調にではなく、真から苦渋の面持ちで返すのでありました。
「俺もまさかあそこで、均目君が辞意表明するとは思わなかった」
 頑治さんが続くのでありました。予測はしないでもなかったけれど。
「あたしも一応驚いたけど、何だかこのところずうっと抱いていた均目君に対する不信感みたいなものが、これではっきり確証されたような気がしたわ」
 那間裕子女史が無愛想にそう云って、均目さんにまるで天敵を見る時のような憎悪に満ち溢れたような目を向けるのでありました。その目は、那間裕子女史と均目さんの間に、何の結託もない事を証明しているようだと頑治さんは思うのでありました。矢張りこの二人は、あの事件、の後に何の関係修復の努力もしなかったようでありますか。
「で、均目君はここに至っても、未だ会社を辞める気でいるの?」
 袁満さんが首をやや傾げて訊くのでありました。
「まあ、辞めるつもりは変わってはいません」
 均目さんが居心地悪そうに頷くのでありました。「でも、辞める時期は考えます」
「そんな弁解じみた事云っていないで、辞めたければさっさと辞めて仕舞えば良いのよ。別に止める心算なんか更々ないから」
 那間裕子女史が鼻を鳴らすのでありました。
「それなら、均目君が辞めた後は、那間さんが制作部の責任者を引き受けると云うんですか? まあ、制作部は結局那間さん一人しか残らない事になる訳だけど」
(続)
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