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あなたのとりこ 720 [あなたのとりこ 24 創作]

「じゃあ先ず、明日の月曜日はどうする? 今云ったように、あたしは休みの日だし、どこか少し遠くにでも行ってみる?」
「そうだな。折角の夏なんだから、海にでも行くか」
「でもあたし、水着持っていないし」
「大学生の時とか、例えば湘南とか九十九里とか行かなかったの?」
「そうね、全然行かなかったわ。行こうと云う気も起きなかったけど」
「ふうん。でも水着なら高校生の時に体育の特別授業で使ったのがあるだろう?」
「いやよ、あんなの」
 夕美さんは眉間に可憐な皺を寄せるのでありました。「とっくに捨てたと思うし」
「実は俺も持っていないから、これからデパートにでも行って買うよ。夕美も一緒に買えば良いじゃないかビキニの水着でも」
「ビキニの水着、ねえ。・・・」
 夕美さんは鼻の横にもこれも可憐な皺を寄せるのでありました。「あたし自信ないし」
「いやあ、夕美だったらドンピシャ似合うんじゃないかな」
「そんな事はないと思うけど」
 夕美さんは真顔で首を横に振るのでありました。「それに、海は日焼けするし」
「日焼けは嫌かい?」
「だって後々シミが出来るもの」
「ふうん、そう云うものかねえ」
 頑治さんは何となく、無関心且つ無頓着そうに頷くのでありました。「海に行くのが気乗りしないとなると、じゃあ、どうするかな、夕美が休みの、折角の明日の月曜日は」
「何だかものぐさだけど、街の中をただブラブラするというのでも良いんじゃない?」
「ブラブラか。まあ、夕美と一緒に居られるならそう云うのんびりも良いかな」
「でも折角久し振りに帰郷したんだし、頑ちゃんとしてはそれじゃあつまらないか」
 夕美さんは自分が出したブラブラ案に自ら疑問を呈するのでありました。「頑ちゃんは帰ったら是非行ってみたい処とかは、別にないの?」
「そうだなあ、・・・」
「何か、特になさそうね」
「まあ、あるような、ないような」
 頑治さんは久々の帰郷で何処か行きたいところはないのか、つらつら考えて見るのでありましたが、頭が茫としてきて何も思い浮かべられないのでありました。まあ、この度の帰郷は夕美さんに逢うのが第一番目の目的でありましたから、要は夕美さんとずっと一緒に居られたらそれで御の字なのであります。ま、それに尽きるでありましょうか。

 夕美さんと一緒に過ごした故郷での一時は、頑治さんにとっては全く新鮮なものでありました。見慣れた何処そこの風景も、横に夕美さんが居るだけでそれは見違えるほどの色彩と光輝に溢れた、大いに心躍るものなのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 719 [あなたのとりこ 24 創作]

「ここのところ、全く食事を受け付けなくなっているのよ」
「そんなんで体は大丈夫なの?」
「大丈夫な筈がないから、ほぼ毎日病院に行って栄養注射を打って貰っているわ。もうぼちぼち再入院って事になるんじゃないかしら」
「何だか大変そうだなあ。そう云う事なら尚更俺としては、夕美の家に泊めて貰うのは遠慮しなくっちゃいけないじゃないか」
「そうね。まあそう云う訳だから、ご免ね」
「夕美が謝る事は別にないけど」
 頑治さんは本気で済まなさそうにしている夕美さんに笑って見せるのでありました。
「それでね、・・・」
 夕美さんは俯いて卓上の自分のコーヒーカップに目を落とすのでありました。「母の具合がそう云う感じだから、頑ちゃんが東京に戻る時にあたしも一緒について行くって事だったけど、それはとても出来そうにないのよ」
「ああ、それはそうだろうな。そう云う折にお母さんの元を離れる訳にはいかないか」
「まあ、すぐにどうこうと云う事じゃないと思うんだけど、病院通いの母を置いてあたしだけのんびり東京に遊びに行くのは気が引けるし、気持ちも乗らないし」
「それはその通りだよ」
 頑治さんは夕美さんを気遣うように云うのでありました。
「ご免ね、約束していたのに」
「いや、こう云う場合だし、ちょっとがっかりだけどそれは仕方がないし、そんなに気にする事はないよ。お母さんの病気が快方に向かう事を俺も祈っているよ」
「有難う。そう云ってくれると救われるわ」
夕美さんは頑治さんに小さくお辞儀するのでありました。
「そうなったら俺がこっちに居る間だけは、二人で大いに楽しもうぜ」
「そうね。こう云う事なら頑ちゃんがこっちに居る時に、あたしも夏休みを取ればよかったわ。二週間前迄に夏休みの申請をするんだけど、もう手遅れだしね」
「まあここで悔やんでばかりいてもつまらないから、明日からの一週間分の予定を立てようぜ。夕美は土日は丸々休みなんだっけ?」
「ううん。七月と八月は日曜日と月曜日が休みなの。月曜日は博物館の休館日で、もう一日の休みはローテーションで決まるのよ」
「ふうん。公務員だからきっちり土日が休みと決まっている訳じゃないんだ」
「土日は学校が休みだから、寧ろ小中学生や、高校生の事を考えて、博物館とか図書館とか、それに体育館なんかは土日は開館しているのよ」
「ふうん。市民サービスと云う観点からかな」
「そうね。市や県の方針でもあるし」
「お役所も最近は、なかなかにサービスとかちゃんと考えている訳だ」
 頑治さんは感心するように腕組みして二三度頷いて見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 718 [あなたのとりこ 24 創作]

「長い不況で飲食店が大分減ったって、この前テレビで云っていたけど」
「でも人出も前と同じで大して変わっていないようだし」
「そうでもないわよ。あたし達が高校生の頃の賑わい比べると、確かに何となく活気がなくなっているみたいな気がするわ。まあ、このアーケードだけじゃなくて街全体から、どことなく活気が失せたような感じがするわ」
「そうかなあ」
 頑治さんは行き交う人の波を見るのでありました。頑治さんには今一つ、印象としてこの街の様子が以前とそんなに変わっていないように見えるのでありました。
「あたし達が大学に入る頃が、丁度この街が衰退期に入る辺りね」
「しかし駅前なんか、前よりも見違えるように綺麗になった感じだけど」
「駅とその周辺は大規模改修で綺麗になったけど、駅からこのアーケードに続く間の街並みは、シャッターを下ろした店舗が増えたわよ。気付かなかった?」
「そう云われてみれば、そうかなあ」
 頑治さんは曖昧に応えるのでありました。
 ところで考えてみれば頑治さんは、この街を夕美さんと一緒に肩を寄せ合って歩くのは初めての事なのでありました。高校生の時までは、夕美さんとは殆ど口もきかない間柄なのでありましたし。だからその新鮮さに竟々茫となって仕舞って、街の変貌ぶりなんかには殆ど注意がいかなかったのと云うのが実際でありましたか。そんな具合の頑治さんでありましたから、横に居る夕美さんしか目に捉えていないのでありました。
 二人はアーケードから小道を折れた処にある、小さな喫茶店にぶらりと立ち寄るのでありました。そこは頑治さんが子供の頃からある店で、小学生の頃に親と数回、高校生になってからは一二度友達と入った事もあるのでありました。
「今日は何処に泊まるの?」
「叔母の処だよ。三日間くらいは泊めてくれると思うよ」
「その後はどうするの?」
「離島からこの街に来ていた高校の同級生がいて、そいつがその儘こっちにアパートを借りて住んで大学に通っているから、そいつの処に厄介になる心算だよ」
「帰る実家がないと云うのは、なかなか大変ね」
「いやあ、それはもう云っても仕様がない事だし」
「何ならあたしの処に来て貰っても構わない、と云いたいところだけど、お母さんの事があるから、申し訳ないけどちょっと無理かな」
 夕美さんはさも済まなさそうに目を伏せるのでありました。
「いやあ、俺が突然泊りに行くと云うのは、夕美にしても困るだろう。先の事としてはそれもあるかも知れないけど、今回は俺としても辞退しておくよ」
「まあその方が良いわね。頑ちゃんの事を未だちゃんと両親に話していないものね」
 夕美さんは頑治さんに弱々しい微笑をするのでありました。
「お母さんの具合は、どうなの?」
(続)
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あなたのとりこ 717 [あなたのとりこ 24 創作]

 その刃葉さんがこの自動販売機の方に遣って来ているのでありました。別に逃げ隠れする謂れはないのでありましたが、頑治さんは咄嗟に自動販売機から不自然にならないように気を付けながら、素早く離れるのでありました。
 どうやら頑治さんは刃葉さんには気付かれなかったようでありました。刃葉さんは脇目も呉れず自動販売機迄来ると、頑治さんが先程買ったのと同じ缶コーヒーを買って、その儘妙に急ぎ足でそそくさと立ち去っていくのでありました。
 そう云えば前にもこの上野公園の動物園脇の同じ自動販売機の前で、もう会社を辞めていた刃葉さんと逢ったのでありました。丁度頑治さんは夕美さんと一緒に散歩をしていたところであったから、何となくばつの悪い思いをしたのでありましたか。その時確か刃葉さんは、空手の修業か何かで、小さな牧場をやっている師匠を手伝い旁、北海道に渡るとか云っていたのではなかったかしらと頑治さんは思い出すのでありました。
 その刃葉さんがあれから一年もしない内にこちらに戻って来たのでありましょうか。空手の修行とか牧場の手伝いなんかはどうしたのでありましょう。
 一応、修行、と云うのだから、一年も経たない内に切り上げて戻って来ると云うのはないような気がするのであります。持ち前の飽きっぽい性分からか、はたまた一緒に生活してみて師匠とは反りが合わなかったためか、またはその師匠と云う人の技術或いは人格に疑問が湧いてきたとかで、早々にケツを割って帰って来たのでありましょうか。
 まあ、ひょっとして師匠に用事を云い付けられて、偶々一時的にこちらに戻って来ただけかも知れません。以前あれだけ空手に打ち込んでいた刃葉さんでありますから、そう簡単に、修行、をうっちゃって仕舞うとは思えないではありませんか。
 取り敢えず刃葉さんに見つからないでこの場を遣り過ごせた事に、頑治さんは安堵するのでありましたが、しかし考えてみれば、若し見つかって言葉を交わすことがあったとしても、頑治さんには何の不都合があるのでありましょう。どうして見つからなかった事にほっとしているのか、これは自分でも謎でありましたが、まあ強いて云えば、刃葉さんがどうしてここに居るのか聞く事、それに頑治さんが会社を辞めた事を報告して、それについてあれこれ経緯など説明する事が億劫だった、と云う事は云えるでありましょうか。
 こう云う事で頑治さんのこの上野公園散歩は、ひょんな事から長閑で能天気な散歩とはならないのでありました。頑治さんは夕暮れた街を、何となくモヤモヤした気分を抱えながら、行きよりは速い速度で家迄歩いて引き返すのでありました。

 さて、七月の終わりに頑治さんは久し振りに、当初の予定通り一週間程故郷へ帰るのでありました。態々駅に迎えに来た夕美さんとの久し振りの逢瀬に抱き合って喜びを表現したいところでありましたが、人目を気にして手繋ぎだけで押さえるのでありました。
「どう、久しぶりの故郷は?」
 二人で懐かしの街並みを歩きながら、夕美さんが訊くのでありました。この街一の繁華街である長いアーケードの、商店の連なりを頑治さんは見渡すのでありました。
「前に来た時とあんまり変わっていないかなあ」
(続)
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あなたのとりこ 716 [あなたのとりこ 24 創作]

 そんな事を考えるともなく考えていたら、頑治さんはすぐに頭の下の枕の中に意識が吸い込まれていくのでありました。そうして再び目を開けると、もはや夕暮れの気配が部屋の中に忍び寄って来ているのでありました。
 目が覚めたのは腹が減っていたからでありました。その日は未だ一碗も飯を食してはいないのでありました。これでは目も覚める筈であります。
 頑治さんは布団をゴソゴソと抜けだして顔を洗って身支度を済ますと、本郷通りの裏道沿いにある定食屋で早い目の夕食を済ますのでありました。この後アパートの部屋に帰っても別にする事もないので、頑治さんは夕刻の散歩と洒落込むのでありました。
 頑治さんは本郷三丁目の交差点を春日通りの方に曲がって、本富士警察署横を左に折れて無縁坂を抜けて、不忍池の畔を歩いて上野公園に出るのでありました。考えてみればこの前この辺をブラブラ歩きしたのは、五月の連休に夕美さんが来た時でありましたか。帰郷した後で夕美さんと一緒にこちらに戻ってきた折は、またこの散歩コースをゆるりと歩いたりするのでありましょう。それもまた、向後の楽しみの一つではありますか。
 動物園の前の自動販売機で頑治さんは缶コーヒーを買うのでありました。そう云えば前に夕美さんと散歩した時にも、この自動販売機で飲み物を買ったのでありました。ここの散歩者にとってこの自動販売機は、丁度喉の渇きを催したところで具合良く置かれているのでありますか。そうならなかなか考えられた配置と云うべきでありましょうが、ま、殊更そう云う計略に依ってここに設置されている訳ではないのでありましょうけれど。
 頑治さんはその場で缶コーヒーのプルリングを空けるのでありました。それから徐に口に持っていこうとしてふと前を見ると、何処かで見た事のある顔を視界にとらえるのでありました。誰であるのか少し考えてから、それは前に会社に於いて頑治さんの前任者として業務の仕事をしていた、刃葉香里男さんであると気づくのでありました。
 頑治さんはこの前任者たる刃葉さんには大いに手を焼いたのでありました。刃葉さんはまあ、良いように云えばなかなか個性的で、万事にマイペースで、人との関わり合いが苦手で、会社にとっては、優良社員と云った風がまるっきりない人でありました。
 仕事中に小腹が空くと仕事をうっちゃって、昼休みでもないのに平気で一時間も喫茶店で飲み物付きの軽食を摂ってみたり、空手の稽古と称して倉庫の中に保管してある商品の入った段ボールをサンドバッグ代わりにしてみたり、それを見咎めた、これも前に会社にいた山尾主任にその無神経を注意されても、中の商品が傷まないようにちゃんと(!)考えてやっていますよ、等と別に不貞腐れて抗弁している風でもなく、さらっと云ってのけるのでありました。大人物の風があると云えば、云えなくもないでありましょうか。
 倉庫の管理もかなり好い加減で、車の運転もなかなか乱暴で、それに何時も心ここに在らずで運転しているから、仕事先の道順もなかなか覚えないのでありました。しかしこれに関しても当人は至って恬淡としていて、反省しているとか苦にしているような風は全くないのでありました。頑治さんは時々その尻拭いをする事もあったのでありました。まあこんな具合だったから、頑治さんが倉庫の管理とか荷物や製作材料の集配をするようになったら、至って評判が良いのでありました。別に嬉しくもないのでありましたけれど。
(続)
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あなたのとりこ 715 [あなたのとりこ 24 創作]

 頑治さんは次の日はのんびり朝寝を貪るのでありました。もう出社時間を気にしないで済むと云うのは、何と気楽に布団の中にいられるのでありましょうか。
 とは云っても、那間裕子女史や袁満さん、それに均目さんと違って在職年数、いや月数の少なさから退職金が出なかった頑治さんは、この先の生活費工面の心配があるのでありましたが、まあ、仕事を辞めた次の日くらいはお気楽に朝寝坊をしても罰は当たらないでありましょう。多少の蓄えくらい、ありもする事でありますし。
 それに夏に予定している帰郷であります。帰郷後に決まった予定なんかないのでありますから、好きなだけ向うに居られるのであります。つまり夕美さんと存分な逢瀬を楽しめるのであります。それは考えただけでも心躍る事であります。
 思えば夕美さんとは大学四年生の時に、こちらで偶然再会してからの付き合いでありますから、同じ高校に通っていたにも関わらず高校生の時には、その存在くらいは知ってはいたけれど、滅多に口もきかない仲なのでありました。だから向こうで、睦まじく二人でデートをしたとか、喋々喃々と話しをしたとか云う事は今迄全くないのでありました。依って、向こうで逢瀬を楽しむなんぞは、実に以って新鮮なる事柄なのであります。
 どうせこちらに当面の用事はないのでありますから、少し早い目に帰郷して、夏の海にでも行ってみると云うのも好いでありましょう。或いは郊外にある街を一望する小高い山の公園の木蔭で、夕美さんと寄り添って、島々の多く浮かんだ海に沈む残照を眺めながら静かに時間を過ごすのも好いでありますか。これは楽しみであります。
 それに向うを切上げる時には、丁度その時に夏休みを取る夕美さんを帯同しているのであります。そうしてこちらでもまた、夕美さんと暫く一緒に居られるのであります。夕美さんがこちらを引き上げて向こうに帰って仕舞ってからは、こんなに長い時間一緒に過ごす機会は今迄一度もなかった事であります。楽しみは長続きするのであります。
 いやしかし、考えたらそんなに長く向こうに滞在するだけの金銭的な余裕が、失業した頑治さんにあるのでありましょうか。頑治さんは布団の中で急に眼を開いて、天井の一点を見ながら預金通帳を頭の中に思い浮かべるのでありました。
 まあ、向うでの滞在と旅行費用は何とかなるとしても、こちらに戻った後の生活が逼迫するかも知れません。預金通帳に如何程の残金があるのかちゃんとは判らないのでありましたが、ここで不安になって布団から抜け出して小箪笥の引き出しを開けて、物の陰に隠すように仕舞ってある通帳を取り出して、態々金額を確認するなんと云う野暮はしないのでありました。惰眠を貪るための布団をそのために抜け出すのはまっぴらであります。
 まあ、なんとかなるでありましょう。どうしても生活費の工面が付かないようなら、次の仕事を見付けるタイミングをちょいと早めれば良いだけの話しのであります。
 それに向うに滞在している間は、高校時代の友人とか親戚とか、知り合い宅を図々しく転々としていれば、宿泊費は節約する事が出来ると云うものであります。それに向うに帰る電車賃にしても、少々時間と手間と労力はかかるけれど、普通列車を乗り継ぎ乗り継ぎしながら帰れば、相当に浮かすことが出来ると云うものであります。なあにどうせ失業者でありますから、時間と気楽さは持て余す程持っているのでありますし。
(続)
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あなたのとりこ 714 [あなたのとりこ 24 創作]

「いやまあ、ちょっと」
 均目さんは何となく誤魔化すような云い草をするのでありました。
「片久那さんのところに仕事の斡旋でも頼みに行くの?」
 那間裕子女史に何気ない風に突然そう訊かれて、均目さんは迂闊にも少しおどおどするような気配を見せるのでありました。これは那間裕子女史の誘導的な質問に、竟うっかり嵌って仕舞ったと云う事になるのでありましょうか。
 那間裕子女史は均目さんが皆に知られないところで片久那制作部長と繋がっていて、その意を受けて会社の中で色々と、今度の組合の解散なんかに関しても画策なんぞを行っていたと踏んでいるのでありました。それに均目さんの新たな就職先も、片久那制作部長の力添えでもう決まっているのかも知れないと疑っているのでありました。
 これは那間裕子女史のなかなかに鋭い勘のなせる業で、別にこれと云った証拠なんぞは何もないようでありましたが、しかしまあ大凡のところで見事に当たっているのでありました。この辺は、そんじょそこらの隅には置けない侮り難い人であると、頑治さんは秘かに舌を巻いて、ある種の畏怖の念をも抱いているのでありました。
 那間裕子女史に気付かれないように、均目さんは秘かに頑治さんの顔を上目で見るのでありました。どうやら那間裕子女史の今の、均目さんに対する揶揄を思わせる言は、頑治さんからの情報に因ると考えたのでありましょう。頑治さんが片久那制作部長と均目さんの繋がりを、屹度那間裕子女史に教えたに違いないと推察した模様であります。
 これは頑治さんにすれば全く謂れのない嫌疑と云うものでありまして、当然均目さんは知る筈もない事ではありますが、頑治さんは那間裕子女史にその辺を仄めかしたりは決してしていないのでありました。頑治さんとしては自分に不当な疑いがかけられた事に何とも遣る瀬ない思い等抱くのでありましたが、この陰鬱は那間裕子女史と均目さんの両人が居るこの場に於いては、辻褄上、晴らそうにも晴らせないものなのでありました。
 後日そう云う機会があればでありますが、均目さんには説明して誤解を解く事も出来そうでありますが、まあ、実際のところこの均目さんの嫌疑なんぞは、どうでも構わない事のようにも思われるのでありました。誤解されているとしても、敢えてその弁明を何としてもしなくてはいけない事とは、実際のところもう考えないのでありました。
 まあ、那間裕子女史の方には、後々の面倒を考えて、何も知らないと云う態度に徹する必要はありますか。慎に後ろめたい事ではありますけれど。・・・
 また後日判明した事ではありますが、袁満さんと甲斐計子女史は矢張りこの後二人だけの食事会を予定していたのでありました。この二人の急接近に関しては頑治さんが果たした役割、つまり夫々の電話に於いて夫々に、二人が付き合うべきだとまんまと唆した功績なんと云うものは、なかなかに大なるものがあったと云う事になるのでありましたか。

 結局お別れ会もなく、仕事先(?)から直帰するのであろう土師尾常務への挨拶も、もうその日はとっくに社長室から居なくなっていた社長へのお別れの言もなく、四人は会社から去るのでありました。実にあっさりした最終日と云う感じでありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 713 [あなたのとりこ 24 創作]

「まあ兎に角、ちょっと、今日は拙いんだよ」
 袁満さんは日比課長の、デートがあるかどうか、という問いに対しては言を曖昧にしながら、都合が悪いとのみ云い張るのでありました。
「俺も実はこれから用事があるんだ」
 均目さんも恐縮の態で酒宴の参加を断るのでありました。
「何だ、均目君もダメなのかい?」
「ええ、申し訳ありませんが」
「あたしも遠慮しておくわ」
 甲斐計子女史も拒否の意を表するのでありました。酒宴の後で日比課長に、この後二人だけで何処かで飲もうとかと誘われるのを、大いに警戒しているのだろうかと頑治さんは推測するのでありました。しかし皆で一緒に飲むのならそんな心配もなかろうし、また若し誘われたとしても、頑治さんに護衛を頼めば良い事であります。まあ、そうなったら今度は頑治さんにではなく、袁満さんに頼むのが筋と云うものでありましょうけれど。
 と、ここで頑治さんははたと気付くのでありました。袁満さんと甲斐計子女史は、これから二人で食事に行く約束をしているのかも知れないのであります。つまり、デートであります。だからこの二人は日比課長の提案に乗ろうとしないのであります。と云う事は、日比課長の冗談口調のからかいは、実は正鵠を射ていたことになる訳であります。まあ、これはあくまでも頑治さんのふと閃いた思い付きでしかないのでありますが。
「じゃあ俺の提案に乗るのは那間さんと唐目君の二人だけか」
 日比課長はがっかりしたように云うのでありました。
「そう云う事なら、あたしも遠慮しておこうかな」
 那間裕子女史がどこか白けたような云い草をするのでありました。酒宴となれば場合に依らずすぐにおいそれと乗って来る筈の那間裕子女史が躊躇するのは、これは慎に異例であると頑治さんは意外に思うのでありました。まあ、相手が日比課長と、この前気まずい思いをさせられた頑治さんとあっては、意気も消沈と云ったところでありましょうか。
「と云う事は、唐目君だけか」
 日比課長は嘆息するのでありました。
「それじゃあまあ、折角の日比課長の提案ですが、酒宴はまた後の、皆が好都合な時に改めて、と云う事にして、今日は止めておきましょうかね」
 頑治さんは申し訳なさそうに日比課長に頭を下げるのでありました。
「その方が無難ね」
 那間裕子女史もすぐに頑治さんに同意するのでありました。
「じゃあまあ、皆の都合が悪いと云うのなら仕方がないけど」
 日比課長が如何にも残念そうにここで提案を引っ込めるのでありました。まあ、頑治さんと二人だけで飲むのは、日比課長としてもそれ程楽しくもないでありましょうし。
「均目君はこれから何の用事があるの?」
 那間裕子女史が均目さんの方を見るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 712 [あなたのとりこ 24 創作]

 頑治さんの贈答社での社員生活は終わりを迎えるのでありましたし、そこに於ける種々の人間関係も恐らくは同時に悉く終焉するのでありましょうが、袁満さんと甲斐計子女史の新たな関係が恐らくこれから始まるのであります。これは喜ぶべき事でありますし、向後も末永く、且つ目出度く続く事を祈るのみであります。
 終わりの最中にあってもそこから新たな始まりが生まれると云うのは、大袈裟に云えば連綿と続く人たるものの理でありますか。いやはや自分は、柄にもない言葉をよくもまあ遣うものだと、頑治さんはここで一人自嘲の笑いをするのでありました。

 愈々退職の日でありますが、その日迄にするべき残務処理はほぼ済ませていたから、終業時間を迎えたらすぐに件の四人は会社を後にするのでありました。別に会社主催で慰労会とかサヨナラ会を催してくれる予定もなかったのでありましたし、土師尾常務はこの日も午後から外回りに出ていて、終業時間になっても一向に帰って来る気配がないところを見ると、直帰するとの電話をもう間もなくかけてくるのでありましょう。
 日比課長は退職する四人とけじめの挨拶を交わそうと終業時間前に帰社しているのでありました。甲斐計子女史は別れを残念がってか、四人に近所の花屋で買ったと思しきちょっとした惜別の贈り物なんぞをくれるのでありました。四人は恐縮の態で、日比課長からの別れの言葉と甲斐計子女史からの小さな花束を受け取るのでありました。
「それにしても薄情なものだな」
 日比課長が舌打ちするのでありました。「ご大層な店じゃなくても、近くの居酒屋でも構わないから、ご苦労さんの宴席を会社で持ってくれてもよさそうなものだけどな」
「いやあ、社長や土師尾常務と一緒じゃ酒も不味くなるから別に良いよ」
 袁満さんが片手を横に振って見せるのでありました。
「それにしても、今迄会社を盛り立ててくれた社員に無礼じゃないか」
「会社を盛り立ててくれたなんて、あの二人が思っている訳がない」
 袁満さんは鼻を鳴らすのでありました。
「それならこれから、この六人でどこかに飲みに行くか」
 日比課長が提案するのでありました。
「それは良いわね」
 那間裕子女史が早速賛意を示すのでありました。「唐目君も袁満君も、それに均目君も、別に異存はないわよね?」
「俺は大丈夫ですよ」
 最初に、唐目君も、と云われた手前、と云う事もないのでありますが、頑治さんが最初に返事をするのでありました。
「俺はちょっと、これから用があるから遠慮するよ」
 袁満さんがここで同調を躊躇うのでありました。
「何だい、まさかデートがあるとか云わないだろう?」
 日比課長がからかうような調子で訊くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 711 [あなたのとりこ 24 創作]

 頑治さんは断言するのでありました。「それは全く大した問題ではないですね」
「でもあたしは何だか、妙に不自然な気がして仕方がないんだけど」
 甲斐計子女史は弱気な事を云うのでありましたが、頑治さんに大した問題ではないと断じられて、電話の向こうで少しはホッとしたような気配も窺わせるのでありました。
「しかしこうして相談を持ち掛けてくるところを見ると、甲斐さんとしては歳の差が問題じゃないとなれば、袁満さんと付き合う気持ちは充分あると云う事ですよね?」
「そうね、まあ、袁満君はのんびり屋で何だか頼りないところもあるけど、・・・」
「頼りないところもあるけど、でも、だからと云って嫌いではないと?」
「人の好さと愛嬌は認めるわ。男としての色気はあんまり感じないけど、・・・」
「色気は感じないけど、でも、だからと云って嫌いではないと?」
「まあ、嫌いだって事はないわね、それは多分。・・・」
 何だか歯切れは悪いものの、これは満更でもないと云う告白でありますか。
「袁満さんも甲斐さんとの歳の差の事は、充分考えたと思いますよ」
「それはそうよね。当たり前よね」
「しかし充分考えた上で、それでも付き合ってくれと云ったんですから、それは袁満さんの真意だし真心だし、袁満さんを嫌いじゃないとなれば、甲斐さんがその真心に報いてあげるのはごく自然な経緯、と云う事になるんじゃないですかね」
「そうかしら、ねえ。・・・」
「若しかしたら、袁満さんじゃもの足りないですかね?」
「うーん、そう感じるところもあったけど、組合の委員長として頑張っていたし、社長や土師尾さんに対してもそんなにもの怖じしないで、一生懸命に反論したりしているところを見たら、まあ、意外と男気はあるし、頼りになるかなとは思ったわ」
 これはなかなか好印象であります。
「じゃあ、袁満さんの申し出を受けるのに、何も支障はないじゃないですか」
「そう云う事になるけど、でも、ねえ。・・・」
「ここは勇気を出して、承諾の返事をするべきだと思いますが」
「でも袁満君は本当にあたしなんかで良いのかしら」
「甲斐さんが魅力的だからこそ、交際の申し込みをしたに決まっているじゃないですか。袁満さんに何か別の変な思惑でもあると考えるとしたら、それは気の毒ですよ」
「勿論袁満君に限って、そんなものはないと思うけど」
「じゃあ、承諾するのに問題はないということですよね」
「そうねえ。・・・」
 甲斐計子女史はここに及んで未だ及び腰を見せるのでありました。しかし頑治さんは自分の説得が、ほぼ成功しているだろうと云う確信を持つのでありました。
「まあ、今後の幸運を心から祈っています」
 甲斐計子女史との電話を終えてから、頑治さんはどこかしら仄々とした心地になるのでありました。一種の解放感と云っても良いでありましょうか。
(続)
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あなたのとりこ 710 [あなたのとりこ 24 創作]

「結局、返事は少しの間待ってくれって云ったのよ」
「じゃあ、明快な返答はしないで、その日は喫茶店を出て別れたんですかね?」
「まあ、そう云う事」
「それで今日迄あれこれ考えてもはっきり結論が出ないから、頼りにはなりそうにないけど一応袁満さんと親しい俺に相談しようとして電話をした、と云う事ですかね?」
「頼りにならないなら、突然こんな電話なんかしたりしないわ」
「俺なんかより均目君辺りの方が気の利いたアドバイスが出来るんじゃないですかね」
「均目君に相談する気は起きないわ」
 甲斐計子女史はきっぱりと云うのでありました。「均目君は実は人が悪そうだから、こんな相談事をすると、屹度面白がるだけだろうし、肚の中であたしの事を笑うだろうし、それは心外だから真面目な相談の電話なんかするもんですか」
「それじゃあ同性の那間さんとかはどうでしょうかね?」
「那間さんに、そんなに親しい感じは元々持っていなかったし、それに那間さんに相談するのは何となく癪だし、こっちも秘かにあたしの事を笑うような気がするし」
「ふうん、そうですかねえ」
「どうやら唐目君に相談したのもあたしの間違いだったようね」
 甲斐計子女史は頑治さんが、自分より均目さんや那間裕子女史の方が相談相手として相応しいのではないかと云った事で、相談されるのを億劫がっているのだと感じたようで、こうして電話した事を後悔するような云い草をするのでありました。
「いや、俺で良ければ勿論相談に乗ります」
 頑治さんは努めて真剣に、且つ不躾にならないように気を遣いながら、相談に乗る事に吝かでないところを伝えるのでありました。
「本当は迷惑なんじゃないの?」
「で、お聞きしますが、甲斐さんは袁満さんと付き合うに於いて、一体何が第一番目の障害だと考えているのですか?」
 頑治さんは仕切り直すように、甲斐計子女史に問うのでありました。
「それはつまり、・・・あたしと袁満君の、歳の差よ」
 甲斐計子女史は片久那制作部長や土師尾常務と同い年で、頑治さんとは十歳の年齢差があるのでありました。と云う事は袁満さんとは九歳差と云う事になるのであります。
「ええと、確か袁満さんとは九歳違いと云う事になるんですよね?」
「そうなるわね」
 甲斐計子女史は何となく体裁悪そうな云い草をするのでありました。
「九歳差と云うのは、別にそんなに重大な障害だとは俺は思いませんけどね」
「そうかしら。・・・」
「そうですよ。それくらい歳の離れた仲は世の中には一杯あるんじゃないですかね」
「あたしはあんまり聞いた事がないわ」
「そんな事はありませんよ」
(続)
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あなたのとりこ 709 [あなたのとりこ 24 創作]

「要するに何か甲斐さんに、大事な事を云いたいような雰囲気ですかね?」
「そうね、まあ、そんな感じ」
「で、何やらの大事な話しが、実際にあったんですか?」
 こここそ、肝心なところであります。
「うん、それがね、・・・」
 甲斐計子女史は少し云い淀むのでありました。頑治さんとしては大凡察しは付くのでありましたが、心急くのを抑えて甲斐計子女史が喋り出すのを待つのでありました。ほんの少し沈黙した後に、甲斐計子女史は続けるのでありました。
「うん、それがね、先ずあたしに、誰か付き合っている特定の人がいるのか、とか聞いてくるのよ。そんなの、いる訳がないじゃない。若しいるのなら、この歳まで一人でブラブラしている筈がないじゃないの、ねえ、そうでしょう?」
「はあ、まあ、良く判りませんけど」
 そう訊かれても、それはそうですねと明快に云うのも何やら憚られるようで、頑治さんは有耶無耶にこう応えるのでありました。
「第一、態々改めて確かめなくても、普段の会話の気配からも、そんな人なんかいない事は良く判っている筈じゃないの」
「まあ、慎重派の袁満さんとしては、一応確かめてみたんじゃないですか」
「そうかも知れないけど、ちょっと会話として間抜けじゃない」
「まあ確かに、野暮ですかね、見ように依っては」
 甲斐計子女史ご指摘の如く、その質問は無粋でちょっとピントを外した質問だと云う感じがしない事もないですが、袁満さんらしいと云えばその通りでありますけれど。
「で、そんな事なんか袁満君に云う必要があるの、なんて少し怒ったように云ったら、袁満君はおどおどして、いや別に云いたくないのなら云わなくても構わないとか、口に含んだコーヒーを吹き出しそうにしながら、慌てて手を横に振って謝るのよ」
 甲斐計子女史のその時の描写は、そんな袁満さんに嫌気を催して云っていると云う感じではなくて、どちらかと云うと好意を感じさせるような云い草でありましたか。
「で、甲斐さんは明言しなかったのですか?」
「まあ、そんな人なんかいないって、結局ちゃんと応えたけど」
「成程。で、その疑問が解消した袁満さんは、その後どうしたんですか?」
「だったらちょっと真面目に、俺と付き合ってみてくれないかって、もじもじしながら目も合わせないで、如何にも云いにくそうに下を向いた儘で云うのよ」
「ふうん、成程」
 頑治さんは、でかした、と袁満さんに心の中で喝采を送るのでありました。「で、甲斐さんとしてはそれに何と応えたのですか?」
「どう応えたものか判らなかったから、ちょっと黙ったの」
 これを拒否だと袁満さんが早とちりしない事を祈るのみであります。
「それでお仕舞い、と云う事ではなかったんでしょう?」
(続)
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あなたのとりこ 708 [あなたのとりこ 24 創作]

 まあ、そう云う人間関係にとことん付き合うと云う手もあるのでありましょうが、そちらに掛かり切りとなると一方のもっと大切な人である夕美さんとの仲が、今より一層希薄になりはしないかと云う危惧があるのでありました。これは頑治さんとしたら間尺に合わないところでありますし、贈答社を辞める事を丁度良い契機として、この辺りで夕美さんとの関係の再構築の方に専心したいと云う志望が胸の内に濃く在るのでありました。でありますからここは一番、多少の好奇心の疼きをさて置く決心と相なったのであります。

 片久那制作部長の電話を切ったあとで、立て続けに珍しく甲斐計子女史から電話が入るのでありました。甲斐計子女史から電話を貰うのは多分初めての事でありましょう。この電話に関しても、頑治さんはかけてきた人の目星が全くつかなかったのでありました。
「夜遅い時間にご免ね」
 甲斐計子女史は先ずそう謝るのでありました。
「いやまあ、未だそんなに遅くもないですから」
「少し時間、大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
 頑治さんは甲斐計子女史に矢張り迷惑だったのだと思われないように、努めて快活に返事するのでありました。本当に、別に迷惑でもなかったのでありますから。
「袁満君の事なんだけど、・・・」
 甲斐計子女史は云いにくそうに切り出すのでありました。「実は二三日前に、会社帰りに袁満君から、少しの時間一緒にコーヒーでも飲まないかって誘われたのよ」
「ふうん、そうですか」
 頑治さんはどことなく無関心そうにさらっと返すのでありました。しかし実は、ほう、袁満さんときたら早速甲斐計子女史にアタックしたのかと、指を鳴らしたいような心境でありました。袁満さんもここはなかなか本気のようであります。
「別に断る理由も無いから、御茶ノ水駅の近くの喫茶店に二人で入ったのよ」
「まあ甲斐さんは袁満さんと昼休みなんかによく二人で、食事の後に、午後の始業時間迄会社の近くの喫茶店なんかでお茶していましたからねえ」
「日比さんから誘われたら、すぐさまピシャリと断ったんだけどね」
 そう云えば甲斐計子女史は前に日比課長に会社帰りに待ち伏せされて、しつこく食事とかお茶とか、場合によっては酒なんかに誘われていたようでありました。女史の言に依れば、何だか日比課長の目が妙にいやらしそうで気持ち悪くて、悉くそれは断り続けていたようでありましたが、しかし付き纏いがあんまり執拗なので、一度頑治さんは女史に神保町の駅まで一緒に付いてきてくれないかと頼まれた事もあったのでありましたか。
「で、袁満さんと喫茶店に行って、どうしたのですか?」
「こういう場合の何時ものように、どうと云う事もない話題で暫く喋っていたんだけど、何だか袁満君の様子が、何時もと違って妙にそわそわしているのよ」
 袁満さんの如何にも固くなっていたその時の様子が目に浮かぶようであります。
(続)
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あなたのとりこ 707 [あなたのとりこ 24 創作]

「旅行から帰ってきたら、その時から来てくれればいいんだが」
「いやあ、延々と旅行を続ける訳じゃないけど、しかしいつ帰るかは判りませんから」
「本当に、何時からだってこっちは構わないんだよ」
 片久那制作部長はなかなか執拗なのでありました。
「何と云うのか、未だ次の仕事の事を考える気持ちの切り替えが出来なくて」
「ある程度ならこちらも待つ心算はあるが」
「それは逆に自分の方が心苦しいしですよ」
 ここで片久那制作部長は次の言葉を継がないのでありました。頑治さんの煮え切らなさに遂に愛想を尽かしたか、あれこれ言を構えてうんと云わない頑治さんに、全く脈がないとはっきり見極めたと云う感じでありますか。そう思って頑治さんは安堵するのでありましたが、片久那制作部長を怒らせたのなら、これは申し訳ないところでありますが。
「まあ、唐目君に来る気がないと云うのはしっかり判ったよ」
 片久那制作部長は特に怒っている風でもなく、かと云って極端にがっかりしたと云う風でもないような、素っ気ない云い草をするのでありました。
「折角誘っていただいているのに、申し訳ないですけど」
「いや、まあ、判った。それじゃあこれで」
 片久那制作部長は無愛想に電話を切るのでありました。この無愛想なんと云うものは、まあ、態々誘ってやっていると云うのに頑治さんが鈍い反応しか示さない、或いは故意に鈍くしか対応しようとしない煮え切らなさに憤慨したのでありましょう。自分のワンプッシュどころか、異例のツープッシュに対しても頑治さんがあくまでもつれない態度であるのは、嘗て目をかけて遣った自分の厚意を軽んじられた気がするでありましょうし。
 頑治さんは何となく片久那制作部長に済まないような思いもあるのでありました。折角あれこれ気にかけてくれたし、制作の仕事も丁寧に教えてくれて、信頼して任せてもくれたのでありましたが、それに報いる事が出来ないのは心苦しい限りであります。
 何より、片久那制作部長は贈答社と云う会社の中に於いては随一に頼りになる人でありましたし、その人が興した会社に厄介になる方がこの先また面倒な職探しなんかするよりも、仕事を得ると云う点に於いて余程確実であり楽ちんではありましょう。それに一応は気心の知れた均目さんとも同僚となって一緒に働けるのでもありますし。
 しかし何となく片久那制作部長とこの先ずうっと関係を持つと云う事に、ある種のしんどさをも感じるのであります。それはこれ々々こう云う訳でしんどい、と云う確たる理由があるのではないけれど、何と云うのか、まあ、相性と云うのか、自分とは異人種であると云う感覚と云うのか、好悪の傾向が多分全く違う人だと云うのか、まあ、抽象的且つあやふやながら、そう云う風に云うしかないところでありましょうか。
 均目さんとも、何となくこの辺りで一先ず縁切りにした方が無難なような気がするのであります。勿論那間裕子女史との一件もありますが、それよりこの先片久那制作部長の下で同じ仕事をしていたら、屹度その内に妙な事から反目し合うようになって仕舞って、険悪な仲になって、結局はどちらかが去る事になるような予感がするのであります。
(続)
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あなたのとりこ 706 [あなたのとりこ 24 創作]

 そうして恐らく、那間裕子女史にも、退職した後はもう逢う事もないでありましょう。そういう意味ではこの前の那間裕子女史の訪問も、云わばさようならの挨拶だった訳であります。そうしようと思ってした訳ではないのでありましょうが、二人共、云いように依ってはなかなかに義理堅い律義者だったと云う事も出来るでありましょうか。

   エピローグ

 愈々明日は退職すると云う日の夜に、片久那制作部長から電話がかかってくるのでありました。何時もなら電話の呼び出し音を聞いた段階で、この電話を掛けて来た主が誰であるのか大凡の見当が付いて、その勘は大体に於いて当たっていたのでありましたが、この電話が片久那制作部長からであると云うのは全く以って見当外なのでありました。
「均目君から聞いたよ」
 名乗った後で、片久那制作部長は云うのでありました。勿論、無愛想でブツブツと呟くような、やや聞き取りにくいその音声は片久那制作部長のものであると、頑治さんは名前を聞く前に既に判ってはいたのではありました。それに、均目さんから聞いた、と云うのは頑治さんが片久那制作部長の興した会社に入る気がないと云う事でありましょう。
「ああそうですか」
 頑治さんはやや済まなさそうに応えるのでありました。
「何か、会社を辞めた後にやりたい事があるのか?」
「いや、そう云う事ではないんですが」
「俺のところに来るのがそんなに嫌と云う事かな?」
「そう云う事でも、勿論ないんですけど」
 頑治さんは何とも曖昧に受け応えるだけでありました。
「はっきり云って俺としては今の仕事を、均目君よりも唐目君と一緒にやりたいと考えているんだ。唐目君の方が編集者として将来有望だと思っているし」
「いやあ、それは俺の器量を買い被り過ぎていますよ」
 頑治さんは受話器を耳に当てた儘首を横に振るのでありました。
「俺の目は節穴じゃない」
「勿論、片久那制作部長の目を節穴だと云っているんじゃ決してないですよ」
「じゃあ、均目君に対する一種の遠慮か?」
「そう云うものでもないです」
「じゃあ、俺のところに来たくない本当の理由は何なのだろう?」
 そう問い詰められると、頑治さんは大いに困るのでありました。明快な理由なんかないと云うのが、実のところでありましたから。
「会社を辞めた後、暫く旅行にでも行こうかと考えていて。・・・」
「それはまあ優雅な事だが、しかし延々と旅行を続ける訳でもあるまい」
「それはそうですが。・・・」
(続)
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