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あなたのとりこ 278 [あなたのとりこ 10 創作]

「そりゃそうだ」
 袁満さんが笑うのでありました。「しかしあの人はどういう了見で、そんな如何にも詰まらない、見え透いた嘘を平気で吐くのかねえ」
「元帳はとっくに見られているのを、お気楽に気付いていないんでしょうね」
「気付いていてもあたし達を自分には盾突く事が出来ないだろうと、嘗め切っているから平気の平左なのよ。確かにあの人と言葉を交わすだけでも億劫だし、諌めるとしてもすぐに頭の天辺から蒸気を吹き出して、意味不明の妙ちきりんな抗弁なんかしてくるに決まっているから、話す以前からもううんざり、と云うこちらの投げ遣りも良くないけどね」
 那間裕子女史が均目さんの意見よりは奥深そうな見解を披露するのでありました。
「そのくせあんな臆病者は居ないですよ」
 袁満さんがまた鶏の唐揚げに箸を伸ばすのでありました。「前に会社に居た刃葉さんとかには、妙にオドオドしていましたからねえ」
「二人共判らんちん同士なんだけど、腕力に関しては刃葉さんの方が格段に上だから、あの人なりに警戒していたんでしょうよ。刃葉さんを怒らせるとどんな厄介が降り掛かるか知れないからと。判らんちんがもう一人の判らんちんを、自分の事は棚に上げて、彼奴は手に負えない判らんちんだと思いなしていたと云う訳よ」
 那間裕子女史は意地の悪い分析を皮肉っぽく語るのでありました。
「もう少し片久那制作部長があの人に対して重しを利かせてくれたら良いのに」
 袁満さんが咀嚼筋をしきりに動かす隙に云うのでありました。
「片久那制作部長もなるべく、七面倒臭いヤツには関わりたくないんでしょう。それに土師尾営業部長は社長とつるんでいるし。社長も片久那制作部長を煙たく思っているみたいだから、そう云う点で土師尾営業部長と社長は仲間なんでしょうね」
「へえ、社長は片久那制作部長を煙たく思っているんスか?」
 出雲さんが珍しく口を開くのでありました。
「そうだよ。色々遣り込められているんじゃないの、待遇とかの面で」
「均目さんはなかなか社内の人間関係に詳しいっスね」
「あの二人を見ていればそれとなく判るだろう、なあ、唐目君」
「ああ、まあ、何となく判るような判らないような」
 急に均目さんに名指しで同意を求められて、頑治さんは多少戸惑いながら曖昧な返事をするのでありましたが、確かに社長は片久那制作部長の前では物腰も態度も、その存在感に圧倒されて仕舞うのか、変にオドオドとしたところがありはしますか。
「組合結成の暁には、例えば団交の席とかで土師尾営業部長の仕事振りに対しても、あれこれ注文を付けたりするんスか、組合として?」
 出雲さんがそうなれば面白かろうと云った笑いを片頬に浮かべるのでありました。
「団交の席でと云うのはどうかな。それは労働組合で取り上げるべき問題とは別の、社内会議とかに於いて問題にすべき事項だろうし。ま、組合とは別の場であっても、暗に組合の存在を後ろにちらつかせると云うのは、なかなか有効な遣り口だとしても」
(続)
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あなたのとりこ 279 [あなたのとりこ 10 創作]

「ふうん、そうスか」
 出雲さんは何となく均目さんの云っていることがピンとこない様子でありました。
「経営の方もすっかり一枚岩と云う訳じゃないって事さ」
「片久那制作部長は土師尾営業部長をどう思っているんスかねえ」
「苦々しく思っているだろうよ」
 均目さんは自分も苦々しそうな表情をして見せるのでありました。
「でも無関心そうで、別に何も注意したりしないっスよねえ」
「注意をしても注意し甲斐のある人でもなし、出来るだけ口を利きたくないんだろう。それに営業部の事は自分は知った事じゃないと云う投げ遣りもあるかな」
「じゃあ、土師尾営業部長を遣り込める時には、片久那制作部長もこっちの味方になってくれる場合もあると云う事っスかねえ」
「それは判らないな。まあ、面白がって、少なくとも邪魔はしないかも知れないけど」
「ああそうっスか。そう云う場が早く来ないかと今からワクワクっスよ」
 出雲さんは未だ来てもいないその場面を想像して痛快そうに笑うのでありました。普段はあんまり誰に対しても逆らわない風にしているけれど、出雲さんも土師尾営業部長が自業自得で窮地に立たされる事を秘かに心待ちにしているようでありました。

 要求提出は三月初旬の全総連一斉要求提出日と同日となるのでありました。少し前倒しした方が社前集会に動員出来る人数が増えるかも知れない、と云う意見もあったのでありましたが、同日でもほぼ五十人規模で動員が可能であり、街宣車も繰り出せると云う横瀬氏の確約もあって、同じ日の要求提出及び組合結成公然化と決したのでありました。
 この間、要求提出日に合わせて要求書、労働組合結成通告書等の清書やら結成総会用の垂れ幕や取り敢えずのお手製の組合旗作り、それから会社関連では従業員だけの山尾主任の送別会やら、あれこれ結構目まぐるしく立ち働かなければならないのでありました。頑治さんが、拙いながらもレタリングの腕があると云うので、垂れ幕と組合旗作りを担当するのでありました。会社側に提出する要求書と労働組合結成通告書は、綺麗と云うよりは読みやすい字を書くと云うので那間裕子女史が作成するのでありました。
 袁満さんと均目さんは御茶ノ水駅から然程遠くない処に在る古びたビルの一室、そこは全総連のお茶の水分室でありますが、そこに出向いて行って当日の仕儀の全総連との打ち合わせと、当日配るビラの作成とガリ版印刷の仕事を担い、出雲さんは那間裕子女史と頑治さんの助手のような役目を担当するのでありました。そのガリ刷り印刷の方には派江貫氏と来見尾氏が手伝いに付き添い、横瀬氏は神保町の件の貸事務所の方で仕事をする那間裕子女史と頑治さん、それに出雲さんの組に付き合って適宜指導するのでありました。
 要求提出の三日前に行った組合結成総会には、全総連からも偉いさんが来賓として出席して祝辞を述べるのでありました。儀式の最後に意気込みを示す団結ガンバロウの和唱があったのでありますが、そんな経験は従業員一同生まれて初めての経験だったので、皆どこか照れ臭そうな風情で頭上に右手の拳を突き上げたりするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 280 [あなたのとりこ 10 創作]

 さて、要求提出日当日の布陣は、団体交渉の席に着くのが袁満さんと那間裕子女史、それから均目さんと出雲さんの四人で、そこに全総連から横瀬氏と来見尾氏が加わるのでありました。頑治さんは派江貫氏と共に社前集会の方に回って、当該組合として街宣車の上から夫々の組合員が持参した赤い組合旗や幟のはためくのを見下ろしてして、決意表明及び参集してくれた人への謝辞を一席打つ事になるのでありました。これは、頑治さんより年季の古い四人が団交の席に臨み、一番新米の頑治さんが外の集会の方に回ると云う、何だか判るような良く判らないような袁満さんの提案になる理由に依るのでありました。
 四人は打ち合わせ通り午前十一時を以って全員が揃って自席を立ち事務所を出るのでありました。頑治さんは予め倉庫に居て派江貫氏と共に十一時十五分からの集合の差配を受け持つ予定でありましたが、件の打ち合わせ通り十一時少し前に一階の駐車場の前に横瀬氏と来見尾氏、それに派江貫氏の姿を認めると、急いで倉庫から飛び出してその前に参じるのでありました。横瀬氏が頑治さんに片手を挙げて見せるのでありました。
「社長は今現在ちゃんと社長室に居るんだよね」
 横瀬氏が確認のため頑治さんに訊くのでありました。
「ええ。社長の車がそこにありますから」
 頑治さんが駐車場内の白いクラウンを指差すと、横瀬氏は予定が按配良く進んでいる事に満足するような頷きを頑治さんに返すのでありました。
 そこにタイミング良く三階から出雲さんが階段を駆け下りて来て、外に待機している三氏と頑治さんに、二階の社長室前では準備万端整っていると告げるのでありました。出雲さんはもう来ている筈の横瀬氏と来見尾氏を呼びに駆け降りて来たのでありましょう。
 三氏は上着のポケットから、全総連、と赤地に白抜きで文字が染め抜かれた腕章を取り出して腕に嵌めるのでありました。出雲さんはもう既に腕章を付けているのでありましたから、頑治さんも慌ててズボンのポケットから腕章を取り出すのでありました。
 横瀬氏と来見尾氏が出雲さんと一緒に上に消えるのを見送って、派江貫氏は眼鏡の蔓に手を添えながら腕時計に目を遣るのでありました。それから文字盤を睨みながらきっかり五分待って顔を上げると、後方の道角に手を上げてサインを送るのでありました。そこには全総連関係の人間が待機していて派江貫氏の合図を確認すると、こちらからは見えない角のビル陰辺りに派江貫氏と同じような片手のサインを送るのでありました。
 ビル陰から街宣車が表れるのでありました。その後に続いて赤や青色の何某労働組合とか全総連とか、小規模単組連合等の文字が白で染め抜かれた旗や幟を担いだ、総勢百人程の動員された集会応援の一団が不揃いな行列で続いているのでありました。
「予めの話しでは応援動員は五十人前後、と云う事でしたが?」
 頑治さんが横の派江貫氏に気後れの物腰で話し掛けるのでありました。
「多い方がこっちの意気込みを経営に見せつけられるだろう」
 派江貫氏はほくそ笑むのでありました。「全総連の一斉要求提出日にこれだけの人数を動員するには、結構あれこれ骨が折れたけどな」
 派江貫氏はそれとなく恩を着せるような云い方をするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 281 [あなたのとりこ 10 創作]

 人間が多い方が確かに頼もしくはあるし意気込みも経営側に示せるでありましょう。しかし頑治さんは何となく、この人数の動員に尽力した派江貫氏に、申し訳無いながら、一種の押し付けがましさをも同時に感じて仕舞うのでありました。

 街宣車が駐車場前にそろりと泊まるのでありました。一般の通行を妨げないように動員された約百人の労働組合員達は街宣車の左右と道の反対側に分かれて立つのでありました。その陣形は派江貫氏が如何にも慣れた様子で手際良く指揮誘導するのでありました。
 十一時十五分丁度に街宣車上の派江貫氏の手に持つラウドスピーカーのスイッチが入れられ、先ず耳障りなハウリング音が辺り一面に響くのでありました。派江貫氏の横に立っている頑治さんは思わずその金属的な音に眉根を寄せるのでありました。
「お茶の水、神保町近隣に働く労働者同志の皆さん!」
 派江貫氏が大音声を放つのでありました。「本日、この車両の後ろのビルにある、低賃金と過酷で抑圧的な労働環境の下にあった株式会社贈答社の同志達は、自分達の生活と尊厳を守るため、そして、的外れで悪辣な恫喝を繰り返すだけで、明確な会社の将来展望を何ら示せない会社経営に対峙するため、ここに全総連の旗の下、闘争的労働組合を結成し、今正に、労働者の正統な権利をかち取るための団体交渉に断固臨んでおります」
 大まかには誤謬は無いにしても、しかし、いやはやこれはまた如何にも剣を大上段に振りかぶったような演説の始まりであります。自分達が当初組合を創ろうとした気持ちの温度とは、この表現は少し乖離があるように頑治さんには思われるのでありました。まあ、景気付けの大袈裟な第一声であるのは理解出来るとしても。
 それに確か、結成会議の初めの頃に会社の実情とか社長や両部長の立場や人柄等を、そのキャラクターも含めて縷々説明した折には、従業員の賃金面でも待遇面でも贈答社は、全総連加盟の争議を抱えている他社に比べれば、まあ確かに平均よりは低いレベルではあるものの、そんなにとんでもなく酷い状況にある訳ではないし、社長や両部長が無能かも知れないけれど、目に余る程の悪辣非道な搾取や仕打ちをしている訳でもなさそうだと、横瀬氏も派江貫氏も感想を述べていた筈であります。その派江貫氏の同じ口から平気でこのような第一声が飛び出すと云うのは、頑治さんにしたら何となく面食らうような、身体現象としては、尻の辺りがムズムズするような、そんな心持ちがするでありましたか。
 派江貫氏のこの第一声の後には、空かさず一斉に参集者の、良し、と云う発声と拍手が沸き起こるのでありました。何やら約束通りの、派手なお祭り騒ぎを演じていると云った様相であります。車上の頑治さんはその雰囲気にどことなく馴染めずに、モジモジと前に組んだ手の指をせわしなく、且つ目立たぬように微動させているのでありました。
 派江貫氏のアジ演説が終わると、これは後で挨拶を交わした時に知れたのでありましたが、全総連の中央委員と云う肩書きの人が派江貫氏からラウドスピーカーを手渡されて激励の演説を一席打つのでありました。その後に頑治さんが決意表明と参集への謝辞で居並ぶ大向うのご機嫌を伺って、参集者全員で派江貫氏の音頭の下、団結ガンバロー、のユニゾンの大合唱でこのお祭り騒ぎ、いやいや、社前集会は締め括られるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 282 [あなたのとりこ 10 創作]

 この間約三十分くらいでありましたか。社長室では未だ団体交渉が続いているでありましょう。社前集会が散会になった後、頑治さんは派江貫氏に付き添われて演説してもらった全総連の中央委員の仁とか、その他主立った人達に挨拶をするのでありましたが、夫々から激励の言葉を掛けられるのでありました。これは素直に有難くはありましたか。
 団交が終了して皆が社長室から出て来る迄、頑治さんは派江貫氏と二人で前以ての打ち合わせ通り近くの錦華公園で待機しているのでありました。
「外からのシュプレヒコールが屹度社長室にも届いただろうから、経営にとってはかなりのプレッシャーになった筈だな」
 ベンチに並んで腰を下ろすと派江貫氏が頑治さんに語りかけるのでありました。頑治さんは返事の代わりに愛想笑って腕時計に目を遣るのでありました。団交は一時間程を予定してあるのでありました。要は通告と要求書提出を済ませたらあっさり引き上げると云う態度で、大まかな組合結成についての経緯と要求書の読み上げはするとしても、要求内容についてあれこれ踏み込んで経営陣と議論する事はその日は避ける手筈でありました。
 しかし一時間を経過しても未だ誰も現れないのでありました。頑治さんは少しそわそわ気を揉むのでありましたが、それから二十分を過ぎた頃になって、会社のビルから皆がゾロソロと連れ立って駐車場前に出て来るのが見えるのでありました。
「いやあ、結構面白かったよ」
 公園に一番に入って来た袁満さんが頑治さんと派江貫氏を見付けて、そう声を掛けながら近付いて来るのでありました。後に続く皆も些か興奮気味の上気した顔をしているのでありました。察するに、先ずは上首尾、と云ったところでありましょうか。
 公園で落ち合った後は、全員で全総連のお茶の水分室に向かうのでありました。そこで総括と云う予定であります。もう敢えて必要無いからか横瀬氏が腕章を外すと皆もそれに倣って、歩きながら夫々腕に付けた赤い布を外しつつ歩を進めるのでありました。
「一先ず、出だしは上首尾と云うところかな」
 分室内の会議スペースに落ち着いて横瀬氏がそう感想を述べるのでありました。
「いやあ、目玉をひん剥いて驚いていた社長の顔は見ものだったなあ」
 袁満さんが痛快そうに笑いを漏らすのでありました。
「社長が一人で対応した訳じゃないんでしょう?」
 現場に居なかった頑治さんが訊くのでありました。
「勿論。慌てふためいて内線で上に電話して片久那制作部長を呼んだよ」
「土師尾営業部長は来なかったのですか?」
「土師尾営業部長は生憎、得意先と打ち合わせ称して十時前から外に出ていたんだ。例に依って本当に仕事なのか、それとも実は私用なのかは知れないけどね」
「まあ、団交が始まって三十分くらい経ってからのこのこ現れたけど」
「と云う事は、帰って来た時に社前集会は目撃したんですかね?」
「見たみたいよ。何か怯えたような顔で社長室に現れたもの」
 これは那間裕子氏が応えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 283 [あなたのとりこ 10 創作]

「じゃあ結局、向こうは社長と両部長で対応したんだ」
 これは派江貫氏の横瀬氏に向かっての質問でありました。
「いや、大急ぎで顧問弁護士も呼んだよ」
 横瀬氏が応えるのでありました。「弁護士先生と片久那制作部長が来たら少し安心して強気になったのか、俺と来見尾さんを指差して、会社に関係の無い部外者は外してくれとか云い出したけど、弁護士先生が慌ててそれを止めていたよ」
 横瀬氏はそう云って失笑を見せるのでありました。
「外のシュプレヒコールは聞こえましたか?」
 頑治さんがまた訊くのでありました。
「うん。演説の方もバッチリ。ウチの社名が聞こえて来る度に、社長は苛々ソワソワと苦り切ったような顔で気を散らしていたよ」
 袁満さんがここでも痛快そうに応えるのでありました。
「片久那さんは例に依って無愛想面で腕組みしてダンマリを決め込んでいたし、土師尾さんは外の集会を目撃したせいか、怖じ気付いて借りてきたネコのようにしおらしくなっていたわ。だから対応は主に社長と弁護士先生と云う事になったけど」
 那間裕子氏が社長室内の描写を始めるのでありました。「ほら、社長は内側の人間に対しては態度も口の利き方もぞんざいだけど、外の人が居ると格好を付けて急に紳士になるじゃない。だからさも落ち着き払ったような態度なんだけど、内心は気が動転しているものだから云う事が頓珍漢で無神経で、或る意味無邪気で、竟々云わないでも良いような事をうっかり口走ったりして、その都度慌てて弁護士先生に窘められたりしていたわ」
「まあこっちも、話しの進め方と云う点では横瀬さんと来見尾さんにおんぶに抱っこで、社長とあんまり変わらなかったと云えば変わらなかったけどね」
 均目さんが自嘲も交えて云うのでありました。
「まあ、皆さんは未だ若いから、ああ云えばこう云うみたいな老獪さは、百戦錬磨の横瀬さんに任せて正解だったと云う事ですよ。そのために全総連が付いているんだから」
 来見尾氏が慰める心算か、そんな事をものすのでありました。
「じゃあ、向こうの弁護士先生と横瀬さんが、実質的にその場の遣り取りを取り仕切ったような感じですかね、全体の話しの進み方としては」
 頑治さんはそれでは何となく情け無いかなと秘かに思うのでありました。
「要求書の読み上げは勿論だけど、回答指定日の厳守の点とか、団交後は一日ストライキに入るけど、それは有給休暇とは別枠で有給保証しろとか、そう云った肝心の文言は袁満さんの方から言い渡して貰ったし、あくまで私と来見尾さんは補佐役と云う感じですよ。袁満さんも他の人も初めての経験にしては、なかなか立派な立ち居振る舞いでしたよ」
 横瀬氏が心からか心ならずか、一応持ち上げるのでありました。しかしそれは当の当事者としては如何にも当然であり、しかも予め打ち合わせしていた科白でありますし。
「弁護士先生は取り敢えずこちらの要求を聴く、と云うスタンスで、取り乱した社長のように何やかやと無用な口を挟まなかったから、それもスムーズに行った要因ね」
(続)
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あなたのとりこ 284 [あなたのとりこ 10 創作]

 那間裕子女史が横瀬氏の言を受けてそう付け加えるのは、那間裕子女史は特段、自分達の横瀬氏や来見尾氏におんぶに抱っこ加減を気に病んではいないと云う事でありますか。多分均目さんがちらと感じたのとは趣を異にして、那間裕子女史は社長室での自分達の振る舞いに、然程の後ろめたさや情け無さを感じてはいないようであります。
「流石に弁護士をやっているだけに、余計な言質は取られないようにと気を付けていたんでしょうね。まあ、あの場では弁護士として普通の対応と云えますね」
 来見尾氏が弁護士先生の態度について解説するのでありました。まあそんな事は頑治さんごときでも考え得る事ではありましたけれど。
「それを察しないで、社長ときたらおっちょこちょいにも一生懸命、自分が大度である辺りを見せようとして見たり、甚だ甘くはないところもひけらかそうとしたり、事と次第に依っては経営者として血も涙も無い人間である点も仄めかそうとしたりで、あれこれ余計な事をペラペラ喋ったりするものだから、弁護士としては大いに困ったと思うわ」
 那間裕子女史は社長を茶化すような云い草をするのでありました。
「横で無愛想にダンマリを決め込んでいる片久那制作部長も困ったと思うよ」
 均目さんが云うのでありました。「経営を放り出さないように脅したりご機嫌を取り結んだり、時に社長としての体裁を付けさせてやったりで、色々扱いに手の掛かる人だからねあの社長は。典型的な一昔前の、大もの気取りの零細企業経営者と云った感じだ」
「意外にもの分かりが良いようにも見えたけどねえ」
 横瀬氏が社長の為人をそんな風に評価するのでありました。
「何かと云うとすぐ好い格好をしたがるから、そう云う風に見えただけですよ」
 袁満さんも社長には辛口でありました。

 ここ迄で派江貫氏と来見尾氏が夫々、自分の会社の要求提出後の集会に赴くためにこの会合から抜けるのでありました。
「横瀬さんから見て、今日の我々の仕様はどんな感じでしたかね?」
 均目さんがそんな事を訊ねるのでありました。
「まあ、殊更感情的でもなくてクール過ぎもせず、概ね良かったんじゃないかな」
 横瀬氏は当たり障りのない返答をするのでありました。「変な紛糾も無かったし」
「我々の気持ちは向こうに充分伝わりましたかね?」
「それはまあ、大丈夫でしょう。要求内容もちゃんと目を通せば至極まともな域にある事は判るし、大体何より、止むに止まれず従業員が一致団結して組合を創ったと云うだけでも、向こうは大いにたじろいだ筈だし、先ずは上首尾と云えるだろうね」
「残業時間の算定の話しになった時に、土師尾営業部はまた血が頭に昇って大袈裟に大騒ぎし出すかと思ったけど、案外大人しかったから良かったよ」
 袁満さんが振り返るのでありました。
「事前に社前集会も目撃したし、雰囲気もあの人の無意味な反駁なんか許さない厳正な感じだったし、土師尾営業部長があの場で一番、気配に飲まれていたんじゃないかしら」
(続)
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あなたのとりこ 285 [あなたのとりこ 10 創作]

 那間裕子女史が薄笑いを口の端に上せるのでありました。
「根が小心者だからね。それに残業代の話しになるとあの人が一番冷や汗ものだろうし、そんな非道をしている事が社長に知れるのは大弱りだろうし」
 均目さんが同じような薄笑いを浮かべるのでありました。「大体残業代は、五時を一時間経過した時から付く事になっているし、帰りが遅くなっても会社に戻らないで直帰した場合も普通は付かない事になっているんだけど、あの人はまるで特権のように、五時三十分でもその三十分を残業として平気で計上するし、直行直帰の場合も勝手に好きなだけ残業代を上乗せしていたからね。人には六時少し前になると早く帰れと急かすくせに、恥も外聞も無くそんな真似が良く出来るものだよ。片久那制作部長はしないと云うのにさ」
 これは均目さんが何かの話しの折に甲斐計子女史から聞き出した事でありました。抑々均目さんはその折、特に土師尾営業部長が残業代をどのようにカウントしているかとか云う質問をしたのではないのでありました。しかし甲斐計子女史は常日頃の土師尾営業部長の、残業代に限らず万事に於いて意地汚い遣り口が大いに不愉快だったので、自らその事を、実はこうだ、と云う感じで均目さんに不意に喋り出したと云う事でありました。
「残業代の算定にはちゃんとした決まりがある訳じゃない、と前に云っていたよね?」
 横瀬氏が均目さんに訊くのでありました。
「そうですね。就業規則にも明文化はされていませんね。でも仕来たりと云うのか、従業員は袁満さんが今云ったようなところを、不文律と弁えてちゃんと守っていますよ」
「だから今日出した要求書に、そこを踏まえて、全従業員に一律に適応される残業代の算定方法を明快にしろと云う一文を入れたんだし」
 那間裕子女史が均目さんの言を受けて後を続けるのでありました。「ま、実際は土師尾さんを狙い撃ちにしたと云う訳だけどね。その部分の読み上げと説明の時、土師尾さんが眉尻をピクッと動かしたから、本人も自分が標的だとすぐに判ったんじゃないの」
「土師尾営業部長も従業員である限り、一人だけ特権は認められないのは当たり前だ」
 袁満さんが義憤に耐えないと云った顔をするのでありました。
「片久那さんも土師尾さんの遣り口を苦々しく思っていたんだろうけど、何故か何も云わずに無関心を装っていたもんね。あたし達に対してその後ろめたさがあるからか、そこは敢えてきっぱり云ったわね、確かにそれは誰の目にも公正でなければならない、って」
 那間裕子女史が振り返るのでありました。
「あれは俺達に対する発言じゃなくて、暗に横の土師尾営業部長に向かって宣した心算の言葉だろうな。普段からこそこそと不埒な事をやっているから、ほうら云わんこっちゃない、ここで厳しく追及される破目になるんだって。土師尾営業部長もそう暗に詰られているのが判るから、内心ひどくたじろいで横で間抜け面で小さくなっていたんだ」
 均目さんが片久那制作部長の言と土師尾営業部長の心根を分析するのでありました。
「でもあの人はこそこそやっていると云うよりは、半ば堂々とやっていたぜ。片久那制作部長が何も云わないから、これは自分の特権として認められているんだと勝手に呑気に判断してさ。だから片久那制作部長にここでいきなり裏切られたって思っただろうな」
(続)
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あなたのとりこ 286 [あなたのとりこ 10 創作]

「あの人の感受性の性向からすると、恥じ入ると云うよりは袁満さんが今云ったように、片久那制作部長に対しては裏切られたと云う逆恨みが先に立っただろうな、確かに」
 均目さんが皮肉な笑いを浮かべるのでありました。「でも片久那制作部長に何か云うには、自分があらゆる面で相当に役不足である事はちゃんと知っているし、うっかり何か云おうものならどんな反撃を喰うか判らないから、ダンマリを決め込むしか手が無い」
 そんな経緯を聞きながら頑治さんは、片久那制作部長が団交の間中ずっと沈黙を守っていた訳ではない事を知るのでありました。まあ、現場を預る管理職として、一方の土師尾営業部長に発言させればどんな紛糾や不利が生じるか判ったものじゃないから、土師尾営業部長への当て擦りも多少加味して自分が前に出たと云った按配でありますか。
「あれこれ聞くと、土師尾営業部長と云う人は相当に問題有りの人物みたいだなあ」
 横瀬氏が何故かしみじみと云うのでありました。
「問題有りどころか、問題だけで出来上がったような人間ですよ」
 袁満さんが彼の人の顔を思い浮かべたのか舌打ちするのでありました。
「確かお坊さんと云う一面もあるとか、前に聞いていたけど?」
「千葉の或る寺の副住職らしいですよ。でも副住職と云っても、請われてその役を引き受けたと云うよりは、自分から売り込んでその役に就かせて貰ったんでしょうけどね。まあこれは確認した訳じゃなくて、色々聞いた上での俺の推量半分ですけど」
 均目さんが返答するのでありました。
「それは副業と云う位置付けなのかな?」
「いや、寺からは別に手当ては何も貰っていないでしょう。寺としても副住職にしてやったんだからそれだけで有難いと思え、と云った心根でしょうからね。ま、法事とかで檀家を回ったりしたら、その分のお布施なんかは自分の懐に入れるんでしょうけど」
「つまりアルバイトではある訳か」
「そうですね。お布施稼ぎが目的のアルバイト坊主ですよ、あんなのは」
 袁満さんが軽侮満載の顔で云うのでありました。
「でも、仮にもお坊さんなんだから、少しくらいは理性的であるとか分別のある人であっても良いような気がするけど、聞いていると社内で一番生臭い人のようだなあ」
「あんなのはただの、浅はかで腐臭プンプンのインチキ坊主ですから」
 この袁満さんの言に均目さんが賛同の苦笑を漏らすのでありました。
「お坊さんだって事で、それを拠所に矢鱈と人徳者ぶったりするのは好きよね。それに曲がりなりにも僧籍に在るのだから、真面目で律義だろうと云う印象を使って、ウチのお得意さんなんかにちゃっかり人徳者振りを売り込んでもいるみたいだけどね」
 那間裕子女史も鼻を鳴らして見せるのでありました。
「そんな部長やあの社長をこの先相手にするとなると、なかなか大儀そうだな」
 横瀬氏が危惧するのでありました。
「いやいや、社長や土師尾営業部長は無責任にオロオロ騒ぎ立てるだけで、現場や会社の実情をちゃんと理解している片久那制作部長が実質上の相手、と云う事になります」
(続)
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あなたのとりこ 287 [あなたのとりこ 10 創作]

 均目さんのその言にはどこか、片久那制作部長には全幅の信頼が置けると云う均目さん個人の大前提があるように聞こえるのでありました。片久那制作部長が相手ならまともな議論や交渉が出来る筈だと云う安心感なのか、それとももっと別の片久那制作部長を信頼に足るとする何やらの根拠を持っているのかは良くは判らないながら。

 遂に組合結成迄漕ぎ付けたと云う感奮と、それから社長や土師尾営業部長に一矢報いて遣ったと云う満足感で、この後も暫く何時もの会合よりはかなり饒舌な総括は続くのでありました。最後に、回答日迄は社長や両部長が社員個々との話し合いを求めてきてもそれには応じず、話し合うなら全員でと確認してから散会となるのでありました。
 要求提出後は有給保証のストライキとなっているので、敢えて会社に戻る必要も無いものだから、横瀬氏を除いた社員全員で御茶ノ水駅近くの、前に時々会合を持った喫茶店で遅い昼食を摂るのでありました。ちゃんとした昼食を出すレストランや定食屋ではなく、長居が出来る喫茶店を選んだのは、未だ全員喋り足りていないからと云うのもありますが、心の隅の方に、大変な事を仕出かしたのだから一人になるよりもなるべく長く皆で寄り集まっていないと何だか心細い、と云う心理が働いていたためでもありますか。
「一応総括は終えたけど、これで後は有給の自由時間と云うのも何となく後ろめたい気がするから、これは総括の二次回と云う事にするか」
 袁満さんが各自注文を終えた後でそんな提案をするのでありました。「土師尾営業部長と片久那制作部長が未だ仕事をしているから、我々も気儘にコーヒー飲みながら遊んでいる訳ではないと云う体裁を取らないと、何だか申し訳無いような気がするし」
 なかなか殊勝な心掛けと云うところでありますか。
「どうせ両部長も社長も仕事どころではなくて、弁護士先生も交えてこれから先の対策に大わらわしているだろうから、そんなに後ろめたがる必要はないと思いますけど」
 均目さんが袁満さんの生真面目を軽くあしらうのでありました。
「対策と云ってもあたし達の要求に対する回答書を作る事がメインでしょう。社長や土師尾さんにはそれは荷が重いだろうから、これは片久那さんの仕事と云う事になるわね。社長と土師尾さんは今頃になって何やかやと考えて、オロオロしたり怒り狂っているだろうから、ま、結局のところ仕事に手を付けられるような状態じゃないだろうけど」
 那間裕子女史が痛快そうな笑みを浮かべるのでありました。
「土師尾営業部長は意外に大人しかったですね」
 この間すっと、捗々しい出番が無かった出雲さんが振り返るのでありました。出雲さんの出番が無かったのは、一番の若輩であるための遠慮と、自分如きが口出しするには色々混み入った話しの内容だと云う気後れからでありましょう。
「残業代の件を持ち出されて恥じ入っていたんだろう」
 袁満さんが云うのでありましたが、すぐに均目さんが首を横に振るのでありました。
「そんなしおらしいタマじゃないないでしょう。あの人は自己を省みるなんて云う心の運動性は持ち合わせていないですよ。逆に我々に対する怨念が先立ったでしょうね」
(続)
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あなたのとりこ 288 [あなたのとりこ 10 創作]

「どんな回答が出て来るかしらね」
 那間裕子女史が土師尾営業部長に対する個人攻撃から話しを逸らすのでありました。
「錬りに錬った要求なんだから、満額回答しかないんじゃないかな」
 袁満さんが楽観的な観測を披露するのでありました。
「それはないわね」
 那間裕子女史が即座に否定するのでありました。
「そうですね。一種の意趣返しをする心算もあるだろうから、すっかり要求通りとはいかないだろうな。色々あれやこれやと捻ってくるに違いない」
 均目さんも同調するのでありました。
「でも大体のトーンとしては丸呑みするしかないんじゃないかなあ」
 袁満さんはあくまで楽観的なのでありました。
「片久那制作部長の事だから、確かに体系としてはちゃんとしたものを出すでしょうね。でも金額とかは屹度渋いんじゃないですかねえ。前提として業績不振があるから」
「でもまあ、すっきりした公明正大な体系が出てくれば、先ずは良しとしなければならないんじゃないかしら。金額は今後妥結迄の何回かの交渉次第だとしても」
 これは那間裕子女史が先程の分室での総括でも披露した考えでありました。
「その公明正大な体系に自分達の賃金も縛られる訳だから、金額も自分達の納得出来る線まで屹度上げて来ると思うけどなあ」
「いや、基本給はグッと押さえてくるでしょうね。その代り役職手当を大幅に増額するかも知れない。残業代とか一時金の算定は基準内賃金が元だし、要求でも基準内は基本給プラス役職手当とこっちで要求書に明記したんだから、それを最大活用するでしょう」
「でも、一見しただけで自分達だけに有利で他の従業員には不利な、或いは大して恩恵も無いような、露骨に手前勝手な体系を出してくるかなあ」
 頑治さんが会話に加わるのでありました。「そんな事をしたら、話し合いが益々紛糾するだけだと云うのは、幾ら何でも向こうも判るでしょう」
「社長と土師尾営業部長の二人で作るとしたら、そう云う、単に仕返し目的の如何にも下劣な回答書も出て来るかも知れないけど、でも結局、片久那制作部長が主に考えるんだろうし、そうならそんなに滅多なものは出してこないんじゃないかな」
 均目さんが例に依って片久那制作部長への信頼を披歴するのでありました。片久那制作部長の事を時に、冷酷であるとか他人への配慮に欠ける面があると批判する事もあるけれど、基調に於いて均目さんはなかなかに信頼を置いているようであります。
「社長も土師尾さんも根が小心者だから、バックに控えている全総連の存在に及び腰になって、態と大袈裟に事を構えて交渉を長引かせる戦術は採らないでしょうね。第一そんなに根性も座っていないし深慮遠謀の人でもないし。小心者は大体に於いてこう云う煩わしい陰鬱な事態は、少し損をしてでもなるだけ早く円満に収拾したいと先ず考えるものよ。でもそれだからと云って、満額回答とか丸呑みとか云うのは絶対ないわよ、袁満君」
 那間裕子女史は袁満さんを指差して、クールに釘を刺すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 289 [あなたのとりこ 10 創作]

「さてさて、本当にどんな回答書が出て来るのかなあ」
 満額回答は絶対ないと云われて少し気落ちした風情の袁満さんを横目で見ながら、均目さんが不安なような少し楽しみのような面持ちで云うのでありました。
「あの、転んでもただじゃ起きない片久那さんの事だから、ちょっと捻った、こっちの意表を突いたものを出してくるんじゃないかしら」
 那間裕子女史は自分が今ものした、ちょっと捻った、のその、捻り具合についてあれこれ考えるような面持ちで応えるのでありました。「唐目君、どう思う?」
「捻ったとしても、あくまで回答書ですから捻り方にも限度があるでしょう。あんまり捻り過ぎても返って誠意を疑われるから、案外素直な回答になるかも知れませんよ」
「でも、あの人は意表を突いて相手の混乱に乗じる狡猾さがあるし」
「ま、どんな回答書が出てきても、混乱した顔をしななければ良いんじゃないですか」
「でも、混乱するかも」
「そう云う恐れを今から考えているんだから、混乱したとしてもしていない表情をこちらも用意出来るでしょう。内容については、若し何やら込み入ったものだったら、回答内容についての説明は受けるとしても、その場で色々議論しないで、持ち帰ってじっくり検討して受け入れるかどうかを決めると宣して、即座に退場すれば良いんじゃないですか」
「ああ成程ね。片久那さんの早い頭の回転のペースに乗らないためにも、すぐにやりとりしないで、一旦持ち帰った方が確かに無難かも知れないわね」
 那間裕子女史は頷くのでありました。
「まあ、そう云った対応の仕方や、譲れる線と譲れない線をはっきりこちらも意思統一して置く必要があるかな、これから二週間後の回答指定日に向けて」
 均目さんのその言が、何となくこの場の締めくくりの言葉になるのでありました。夫々は自分の食い残しているピラフやらサンドイッチやらカレーライスやらを銘々平らげて、コーヒーをグイと喉に流し込んでから散会するのでありました。家に帰る袁満さんと出雲さんと駅で別れて、那間裕子女史と均目さん、それから頑治さんの三人は新宿の馴染みの洋風居酒屋に行って、もう少し一緒の時間を過ごすのは件の如し、でありましたか。

   夫々の去就

 この間夕美さんは市の職員採用試験もそつなくパスして、三月下旬の大学院卒業を待って愈々四月から市立博物館に奉職する段取りを調えるのでありました。卒業までは在学中に比べれば比較的暇なようで、その分名残りを惜しむように頑治さんとの逢瀬も頻繁となるのでありました。これは頑治さんにしたら短い時間幅では嬉しくもありと云ったところではありましたが、夕美さんがもうすぐ東京を離れて仕舞うと考えれば、それ程嬉しがる状況ではないとも云えるのでありました。まあ、その後も交際は継続するとしても。
「これ、頑ちゃんの部屋に置いておいてね」
 夕美さんは頑治さんに、持ってきたバッグを差し出して見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 290 [あなたのとりこ 10 創作]

「何だいそれは?」
 上がり込んだ夕美さんはそう訊く頑治さんに、無言でバッグのジッパーを開けて中からネコのぬいぐるみを取り出すのでありました。
「頑ちゃんの見張り役よ」
 夕美さんはぬいぐるみを胸に抱いて頑治さんの方に目を向けるのでありました。
「見張り役?」
 頑治さんは夕美さんに抱かれたネコのぬいぐるみに顔を近付けるのであました。「そのネコが、俺を見張るのかい?」
「そう云う事」
 夕美さんは立ち上がってぬいぐるみを本棚の一番上の段に乗せるのでありました。這い蹲ったネコが顔を部屋の方に向けて頑治さんを見下ろしているのでありました。
「夕美が帰郷した後、こっちで一人になった俺が悪さをしないかどうか見張るのかな」
「そう。特に浮気の」
 夕美さんは頷いてから頑治さんにやや鋭角な視線を送るのでありました。そんな目をされても、頑治さんにしたらこれまで浮気のうの字もした覚えが無かったから、全く以って心外であると云う顔をして見せるのでありました。
「心配だから、まあ、万が一のためよ」
 その夕美さんの言は、万が一、と云う言葉で頑治さんへの信頼を表しているのか、それとも、男なるものは須らく隙さえあればすぐ浮気をしたがる生き物だと云う、女なるものの一般的普遍的猜疑を表したものなのか頑治さんには良く判らないのでありました。
「これ迄だって俺は浮気なんかした事は無い筈だけど」
 頑治さんがやんわりと抗議すると夕美さんは疑わし気な目をするのでありました。
「本当? そう断言出来るのね」
 改めて訊かれると全く身に覚えが無いにも関わらず、頑治さんはどうしたものか少々の狼狽を覚えるのでありました。同時にその狼狽える自分にたじろぐのでありました。
「天地神明に誓って」
 頑治さんは気持ちの波浪を隠して片手を挙げて宣誓の真似をするのでありました。
「ふうん。まあ、良いや」
 夕美さんは頑治さんの宣誓をあっさりあしらって、その後それ以上の追及はしないのでありました。覚えも何も全く無いと云うのに、ひょっとして竟々狼狽えた自分を看破されたとしたら、これはもう間尺に合わない事甚だしい失態と云うべきものであります。
「そのネコはね、六年前にこっちに出て来る時に持ってきた物なのよ」
 夕美さんは頑治さんの焦燥を意にも留めないで穏やかに回想するのでありました。「高校三年生の時に玩具屋の店先で見付けて、何となく買っちゃったの。弥生時代の土器片とか農耕用具の木片とか、貝殻とか素焼きの棺とかその中の人骨とか、そんなのばかり相手にしている自分が、全く女の子らしくないような気が、そのネコを見付けた時に急にしてきたものだから、それで何か妙に自分に苛々してきて、衝動的に買っちゃったのよ」
(続)
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