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あなたのとりこ 558 [あなたのとりこ 19 創作]

「それは、・・・」
 土師尾常務はここでちょっと口籠もるのでありました。「・・・君達が、全総連にその数字を洩らす恐れがある以上、おいそれと出す事は出来ないじゃないか」
「別に洩らしませんよ、そんなもの」
 袁満さんが小さく舌打ちするのでありました。
「そんな如何にも慎重そうな躊躇いなんかここで披露して見せて、要するに会社の現状をはっきり示す数字を出す気なんか元から無いと云う事でしょう」
 均目さんが見透かしたような笑いを片頬に浮かべるのでありました。
「君達が社外にその数字を洩らさないと云う保証がないなら、それは当然会社の経営に責任を持つ者として出す事は出来ない、と云っているんだ」
「だから数字を洩らしたりしないと、さっきから云っているじゃないですか」
 袁満さんが言葉を少し荒げるのでありました。従来から社員としても人物の出来の具合としても、遥かに自分よりも劣ると見下している袁満さんなんぞが食って掛かって来たとしても、そんなものに端から負けはしないぞと云うところを見せ付ける心算か、土師尾常務は袁満さんを睨む眼鏡の奥の目の表情を思い切り凄ませるのでありました。
 まあ、元来童顔もあり、体躯も細くて片久那制作部長とは比べ物にならないくらい迫力に欠けているし、何時もどこかおどおどしている目付きの御仁が、どんなに怖そうに凄んで見せても、本人が思っている程大した威迫効果は生まれないと云うものでありであります。この辺の自己分析が全く足りない人だと頑治さんは改めて思うのでありました。
「いやまあ、数字は出しても別にちっとも構わないですよ。その方が君達に会社の現状をはっきり判って貰えるだろうからね」
 社長がまた土師尾常務の無用な警戒心が満ちているらしき細っこい腕を掌で制して、顔の表情も特に歪めないで、もの分かりの良いところを示して見せるのでありました。
「じゃあ、お願いしますよ」
 袁満さんが社長の気が変わらない内に、また土師尾常務の社員に対するむやみな対抗心が発露される前に、せっかちに数字の提出を社長に確約させようとするのでありました。社長はそれに頷いて、背凭れに上体を沈めるのでありました。
 結局その会社の窮状を示す数字なるものが出て来ない限りは、この後の話は進まないだろうと云う事で、この日の全体会議は終了となるのでありました。社長に依れば二三日でそれは用意出来るであろうから、そうしたら近々追って全体会議を招集すると云う段取りになるのでありました。まあつまり、この日の会議では何も事態は進展しなかったのでありました。その事が袁満さんとしては甚く気に入らないような素振りでありましたか。

 頑治さんは自分のジンフィズと那間裕子女史のモスコミールのお代わりをカウンターの中の中年のウェイターに頼むのでありました。
「俺よりも、ひょっとしたら那間さんの方が、ここのところの一連の出来事で会社に魅力を全く失って、辞めようと考えているんじゃないかと俺は心配しているんですけどね」
(続)
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