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あなたのとりこ 560 [あなたのとりこ 19 創作]

「つまり会社よりもケニア旅行の方が大事だと云う事ですかね?」
「それは当然よ」
 那間裕子女史はまた一口飲むのでありました。「特に会社がこんな風になって、それでも態々居残る程の魅力的な何かなんて無いもの。会社解散とか仄めかされたら尚更よ」
「まあ、それはそうですかね」
 頑治さんは納得の頷きをするのでありました。
「唐目君は従業員の誰にも先駆けて土師尾さんから辞めてくれないかと云われて、それでもこの先未だ、会社に居残る事に執着する心算なの?」
「いやまあ、執着みたいなものはないですが、しかし皆さんの手前、それなら辞めますとあっさり自分勝手に返事するのは拙いかなと思いまして」
「そんな事気にする必要は無いんじゃないの。自分の進む道なんだから」
「そうかも知れませんけど、でもまあ、何となく、・・・」
 頑治さんは曖昧に語尾を濁して、那間裕子女史の飲酒ペースに当てられた訳ではないのでありましたが、ジンフィズを口いっぱいに頬張るのでありました。
「唐目君は妙に義理堅いからねえ」
 この那間裕子女史の言葉は褒め言葉なんかでないのは判るのでありましたが、別にげんなりする程の毒気も感じないのでありました。
「要するに那間さんは、ケニア旅行の一定の資金が貯まったなら、その時点で会社を辞めても良いと思っているんですかねえ?」
 頑治さんは那間裕子女史の事情の方に話しを戻すのでありました。
「そうね。会社を辞めないでケニアに行けるのならそれでも良いけど、土師尾さんがそれを認めないのなら、潔く辞める心算よ」
「じゃあ、ひょっとすると那間さんも、あと一年もしたら会社を辞めるかも知れない、と云う事になるんですかねえ」
「那間さんも、と云う事は唐目君も辞める心算になったのかしら?」
「まあ確かに一年後の事は、今から全く予想が付きませんかねえ」
「じゃあ、この際だから一緒に辞める?」
 そう云われて頑治さんは頷かないで曖昧に笑うのでありました。
「こちらから辞める迄もなく、会社解散と云う風になるかも知れませんし」
「自己都合でなくて会社都合で失業となった方が、失業手当は早く出るわね」
「ああそうなんですか?」
「そうよ、自己都合なら半年くらい経たないと支給されないんじゃなかったかしら。その出るまでの期間に関しては、三か月だったか半年だったかあやふやだけど」
「出る額は同じなんですか?」
「それは多分同じだったと思うけど、これも確信は無いわ」
「その辺は念のため、今からちゃんと調べておく方が良いですかね」
 と云いつつ頑治さんは、自分は特に調べもしないだろうと思うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 561 [あなたのとりこ 19 創作]

「そうね。リアルな問題として失業と云うのは想定しておいた方が良いかもね」
 そう云う那間裕子女史にしても失業を、云う程リアルな可能性として捉えているような口振りではないと、頑治さんは聞きながら思うのでありました。
 まあ二人とも若気の至りで、それ程自分の将来像を深刻且つ悲観的に、どんよりと暗いものとして想定してはいないようであります。特に頑治さんは生来がのほほんとした気質であり、万事に適当で好い加減だと云う自覚もある事からか、失業を然して深刻には捉えられないのでありました。ま、失業しても、気持ちをすぐに切り替えて次の仕事探しをすればいいだけの事でありますし、今迄もそんな感じでやってきたのでありましたから。
「まあ、全体会議は社長に会社解散と脅されて従業員全員大いにビビッて大慌てして、結局それだけで終わったって感じね」
 那間裕子女史が全体会議の方に話しを向けるのでありました。
「ま、大凡としてはそんな感じでしたかね」
「で、次の、何日か後の全体会議は社長から会社が危急存亡の危機にある証拠の数字が出て来て、また従業員一同で震えあがって意気消沈すると云う図式ね」
「どうなるかは今のところはっきりとは判りませんが、まあ、結局あんまり建設的な話し合いになる公算は限りなく小さいでしょうかねえ」
「あたし、また次の会議もサボろうかしら」
 那間裕子女史はそう云ってニヤリと笑うのでありました。
「いやいや、是非出席して社長と土師尾常務につんけん意見を述べてくださいよ」
「それが有意義なら述べもするけど、結局あの二人には無駄でしょうしねえ」
 那間裕子女史は二杯目のモスコミールをグイと空けるのでありました。

 次の全体会議は次の週の月曜日に設定されているのでありました。そこで社長から会社が存亡の危機にある左証としての数字が示されると云う事でありました。その数字と云うのは要するに対前年比の売り上げとか、新賃金体系になった後の人件費の総計とかでありましょう。その他のあんまり従業員には見せたくない数字、例えば自身や土師尾常務の報酬とか余禄とか、或いはひょっとしたら社長が秘かに売上金からピンハネしている分とかの、怪し気で疚しいであろう数字は、勿論綺麗さっぱり省かれたものでありますか。
 その数字に付随して土師尾常務からは、これも例に依って耳にタコの、怪し気で誇張に満ちた悲観論とか愚痴とか誰彼への誹謗中傷なんかが縷々、陰々滅々と述べられるのでありましょう。頑治さんは考えただけでもうんざりでありました。
 さてところでこの週の金曜日に袁満さんが土師尾常務に呼び出されて、二人は何やらの話しをするために連れ立って会社の外に出て行くのでありました。恐らく前に頑治さんが連れていかれたあの喫茶店で、全体会議を月曜日に控えて、袁満さんはまたつまらない牽制か良からぬ工作を土師尾常務から仕掛けられるのであろうと頑治さんは推察するのでありました。ひょっとしたら性懲りもなく今度は袁満さんに退職の勧告するのかも知れませんが、当然それは頑治さんの時に倣って袁満さんは屹度撥ね退けるでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 562 [あなたのとりこ 19 創作]

 袁満さんはなかなか戻っては来ないのでありました。土師尾常務と二人だけの話し合いが思いがけず紛糾しているのでありましょうか。二回目の全体会議を目前に控えて、一体全体何を二人で熱心に話していると云うのでありましょう。
 昼休み近くなってから袁満さんは土師尾常務と連れ立って会社に戻って来るのでありました。一時間半程、二人は喫茶店で話していた事になりますか。
 昼休みの終了ギリギリまで頑治さんが神保町のすずらん通り沿いの三省堂書店と冨山房書店、それに東京堂書店を例の如く回って数冊の本を購入して戻って来ると、丁度事務所のドアを押し開けて外に出て来る袁満さんと出くわすのでありました。
「唐目君は、午後はずうっと倉庫に居るのかな?」
 袁満さんは頑治さんの目の前に立ち止まってそう話し掛けるのでありました。
「二時になったら配達に出ますが、それ迄は梱包作業がありますから居ますよ」
「その梱包作業は急いでやらなければならない仕事かな?」
「いやまあ、今日中に発送すれば良い商品の荷造りですから急ぎではありませんよ」
「じゃあ、ちょっと話しがあるんだけど、後で倉庫に行っても良いかな?」
「それは構いませんけど、何の話しですか?」
 頑治さんは袁満さんの顔を覗き込むのでありました。
「うん、まあ、ちょっと唐目君に聞いて置いて貰いたい事があって」
「土師尾常務に何事か云われたんですか?」
「まあ、そうなんだけど」
 袁満さんはそこで眉根を寄せて陰鬱そうな表情をするのでありました。
「袁満さんが即答に困るような提案でもあったんですかね?」
「提案、と云うのではないけど、ちょっと気になる事を云われたんだよ」
「全体会議に関わる事ですか?」
「その件もあるけど、それとは別に、ね」
 袁満さんは腕組みして瞑目しながら徐に首を横に傾けるのでありました。何やら少々思い煩っていると云った風情であります。
 そこに丁度那間裕子女史が事務所の中から出て来るのでありました。昼一番でバス路線案内図修正の資料を貰うために有楽町の交通会館迄行くと云っていたから、そのために外に出て来たのでありましょう。那間裕子女史は扉の外で何やらこそこそと話している頑治さんと袁満さんを見て、怪訝そうな表情をして見せるのでありました。
「こんな処で、二人して何をひそひそ話しているの?」
「ああ、いや、別にひそひそではないですが」
 袁満さんはそう誤魔化すのでありましたが、不意に那間裕子女史の姿を見て、妙に狼狽しているように頑治さんには見えるのでありました。
「それじゃあ、後で」
 袁満さんはあたふたと事務所の中に消えるのでありましたが、頑治さんとの鉢合わせは偶然で、本来袁満さんは別の用で外に出て来たと思われるのでありますが。
(続)
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あなたのとりこ 563 [あなたのとりこ 19 創作]

「袁満君と何を話していたの?」
 那間裕子女史が改めて頑治さんに訊くのでありました。
「いやまあ、特段の事は何も話さなかったんですが、昼から外に出掛ける用でもあるかと何となく訊かれたので、二時から配達に出掛けると応えただけですよ」
「偶々出くわして、単なる挨拶みたいな言葉の遣り取りをしただけって事?」
「まあそんな感じです。でも、袁満さんは何か用があって出て来たのだろうけど、那間さんの顔を見たら急にそわそわとまた事務所に引っ込んだのは、少し妙ですけど」
「ふうん。あたしに対して何か秘かに疚しい事でもあるものだから、用事も放ったらかしにして慌てて引っ込んじゃったのかしら」
「心当たりの事とか、ありませんかね?」
「取り立てて何も無いわね」
 那間裕子女史は少し考える風の表情をするのでありました。
「何となく袁満さんの今の様子は、ちょっと引っ掛かりはしますかねえ」
「でもまあ、別にどうでも良いけど」
 那間裕子女史は大して拘らないように表情を改めるのでありました。「じゃあ、交通会館迄行ってくるわ。このところ会社絡みのゴタゴタ続きでげんなりだから、ちょっと有楽町界隈のバス停チェックも兼ねて、気晴らしにその辺の街歩きでもして来ようかしら」
「まあ、お早いお帰りを」
「大丈夫よ。前にウチの会社に居た業務の刃葉君みたいに、こっそり仕事をサボってブラブラ散歩を楽しもうとか云う気は無いから。用が済んだら早めに帰って来るわ」
「ああそうですか。ではお気を付けて」
 頑治さんは笑って一礼するのでありました。それに那間裕子女史は片手を上げて応えてから、クルリと身を翻して階段を軽やかな足取りで下りて行くのでありました。

 倉庫に下りると早々に袁満さんが遣って来るのでありました。何やら思い余る事があるらしく、表情は冴えないのでありました。
「さっきは油断していたら那間さんが出て来て、まごまごして仕舞ったよ」
 袁満さんは胸に掌を当てるのでありました
「どうして那間さんと出くわすとまごまごするんですか?」
「いやね、唐目君に訊いて置いて貰いたい事と云うのは、その那間さんの事なんだよ」
「土師尾常務との話しの中で、那間さんについて何か云われたのですか?」
「まさにそうだったんだよ。で、那間さんを見てどぎまぎして仕舞ったんだ」
「一体何を云われたんですか?」
 頑治さんはそう云って袁満さんに傍らにあるパイプ椅子への着席を勧め、自分は梱包台代わりの長机から前は上の事務所で使っていた結構な年季物の、多少車輪の動きがギクシャクしている事務椅子を引き出しにくそうに引き出して座るのでありました。
「土師尾常務に依れば、那間さんの仕事態度は色々ずば抜けて問題があるそうなんだ」
(続)
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あなたのとりこ 564 [あなたのとりこ 19 創作]

「その、ずば抜けて、と云うのは、全社員の中で、と云う事ですかね?」
「まあ、そうだね」
 袁満さんは下唇を噛んで頷くのでありました。
「どう云うところに問題があると云う訳ですか?」
「先ず、朝の遅刻の件だそうだ」
 それを訊いて頑治さんは思わず吹き出すのでありました。
「ほう、那間さんの朝の遅刻の件だと、あの土師尾常務が云う訳ですか」
「役員になる前からそうだったけど、自分が定時に出社してこない事をさて置いて、一体どの面下げて那間さんの遅刻を論えるのか、俺もその神経に呆れるしかないけどね」
 袁満さんが、俺も、と云うのはつまり、頑治さんがこれを聞いて思わず吹き出して仕舞ったのをしっかり受けての云い草でありましょう。
「確かに朝の遅刻は、那間さんが付け込まれ易いところではありますけど」
「しかし土師尾常務がしれっとそこに付け込むのは、どうかと思うけどね」
「でも本当かどうか大いに疑わしいけれど、一応仕事で得意先に直行しているからだ、と言い逃れる余地は確保してはありますか」
「そんなの大嘘に決まっているじゃないか。現に、前にちょっとした行き違いでその嘘がバレかけた事もあるくらいだからね」
「そう云えばそんな話しを前に聞いた事がありましたかねえ」
「アイツの云う事なんか、これっポッチも信用出来ないよ」
 袁満さんは鼻を鳴らしながら、右手の親指と人差し指を立ててその二指で僅かの隙間を作って、これっポッチの具合を頑治さんの目の前に示すのでありました。
「それなら、人の遅刻をあれこれ云う前に、土師尾常務自信がその自分の那間さん批判に恥じる事が無いのかと、袁満さんはその場で毅然と云い返したんですか?」
「いやあ、それは、・・・」
 袁満さんは頑治さんからおどおどと目を逸らすのでありました。
「それはその場では云わなかったのですね?」
「だって、云っても何だかんだと聞いたような事をほざいて云い逃れするし、喫茶店の中と云う場も弁えないで、急に怒り出したりされたら厄介だもの」
 袁満さんは自分の弱気をもじもじと弁解するのでありました。
「あの人が怒って見せるのは単なるポーズで、実はかなりの小心者だから相手が逆に怒気を露骨に表すと、すぐにへなへなと萎むんじゃないですかね」
「まあ、そうかも知れないけど。・・・」
 袁満さんは頑治さんの目を見ないで、居心地悪そうに身じろぎするのでありました。
「まあ、袁満さんの土師尾常務への態度のところはさて置いて、遅刻の他に土師尾常務が云う那間さんの仕事上の色々ずば抜けた問題態度、と云うのは何なのですかね?」
 頑治さんは話しを先に進めようとするのでありました。
「後は、言葉遣いと云う点も云っていたな」
(続)
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あなたのとりこ 565 [あなたのとりこ 19 創作]

「ああ、言葉遣い、ですか」
 確かに那間裕子女史は目上とか目下とかの順には殆ど無頓着で、土師尾常務に対する言葉遣いは対等な者同士のような風でありましたか。まあ、社長に対しては、多少は敬語を使うところもありましたが。それに徹頭徹尾拘らないと云う訳ではなく、例えば偶々応対しなければならなくなった不意の来客とか、誰彼を問わず仕事上の初対面の人とか、問い合わせする交通機関とか役所とかの電話の相手に対しては、それは丁寧でありました。
 まあ、それだからこそ土師尾常務としては自分に対する言葉遣いのぞんざいさに、軽んじられているような不愉快を感じて仕舞うのでありましょう。那間裕子女史の方としては殊更土師尾常務を侮っていると云う心算はないようで、その証拠に前に会社に居た片久那制作部長に対してもため口でありましたし。云って見れば一種の昵懇さの表明としての敬語の省略であろうと、取ろうと思えば取れない事もないでありましょうかな。
「要するに自分に対して敬語を使わないのが、土師尾常務は気に入らないんだろうな。確かに那間さんの口の利き方は、お世辞にも丁寧とは云い難いしね」
 こう云うところを見ると袁満さんとしても、もの怖じもしないで上司に対してですます調を全く使わない那間裕子女史に、日頃からちょっとばかり違和感を抱いていたのでありましょう。しかし袁満さんは面と向かっては然程でもないながら、陰で屡土師尾常務の事を糞味噌に貶すのでありますから、那間裕子女史と袁満さんとではどちらが不謹慎の度合いが大きいのか、そこは俄に軍配を上げられないところでありますか。まあ、那間裕子女史のこの生意気さなんぞは、流儀として、袁満さんには無いと云う事でありますか。
「しかし自分以外の人間をまるで人扱いしない土師尾常務の卑劣さと、単に土師尾常務に対する時には敬語を使わないと云う那間さんの不埒さとでは、土師尾常務の方が遥かに性質が悪いし、非難されて当然のもののように思いますがねえ」
「確かに那間さんに敢えて敬語を遣いたくないようにさせて仕舞う、土師尾常務の在り方そのものに先ず何か問題があるとも云えるかも知れないかな」
 袁満さんは取り敢えず一つ頷いて見せるのでありました。「でも那間さんの言葉遣いの方にも、土師尾常務に態々付け入る隙を与えているようなところもあるし」
「で、那間さんは遅刻と言葉遣いの他にどんな不興を買っているのですか?」
 頑治さんは話しを先に進めようとするのでありました。
「他には、片久那制作部長に対してはそうでもなかったくせに、自分に対する時には一々口応えするとか、反抗的な態度を取るとか、社長に対しても全く敬意の欠片も見られないだとか、生意気だとか、小憎らしいとか、まあそんな感じで色々ね」
「それは土師尾常務の目にはそう見えると云う恣意的な印象であって、那間さんへの客観的評価としては取るに足りないものではないですかね」
「俺もそう思うけど、まあ、土師尾常務は道理の通じない頓珍漢なヤツだからねえ」
 袁満さんは眉根に皺を作るのでありました。
「で、そう云う事を並べ立てて、要するに那間さんをどうしたい訳ですかね?」
 頑治さんは尚も話しの先を促すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 566 [あなたのとりこ 19 創作]

「まあ、どうしたい、とか云う具体的な話しは特には無かったけど」
「しかし何か変じゃないですか。那間さんの事を単にあれこれ腐したり批判するだけの目的で、当人でもない袁満さんを何で態々喫茶店に連れて行ったのですかねえ?」
「それは良く判らないけど、俺が組合の委員長、だからかなあ」
 袁満さんは腕組みして首を傾げるのでありました。「要するに、俺の方から那間さんに注意をして欲しいと云う事なのかも知れないな」
「そう云われたんですか?」
「いや、那間さんの不謹慎を論うだけで、俺に特段どうしろとは云わなかったけど」
「どうして態々袁満さんに向かって、那間さんの行状の問題を論っているのかとか、土師尾常務のそう云う行為を不審に思わなかったんですか?」
「うんまあ、思わない事もなかったけど。・・・」
 袁満さんは口を尖らすのでありました。「俺としては一刻でも早くその場から解放されたかったものだからね。それを訊く事で話しが長くなるのはご免だったし」
「まあ、袁満さんの気持ちは判りますが、しかし何とも変じゃないですか」
「云われてみれば確かに、変は変だけど」
 袁満さんはばつが悪そうに下を向くのでありました。
「袁満さんに那間さんの態度の問題を詰って見せて、それでいて袁満さんにその辺への対処を何も要求しないと云うのは、つまりこれから秘かにやろうと考えている土師尾常務の何事かの策謀の布石、と云う風に考えられるでしょうかね」
「まあ確かにね」
 袁満さんは頷くのでありました。「でも、それはどう云った策謀なんだろうか?」
「考えられるのは、こう云った不良社員は会社を辞めて貰う方が良いと云う考えを、組合の委員長である袁満さんにも共有して貰いたいと云うところですかねえ」
「それは出来ない相談だ」
 袁満さんは首を横に何度も振るのでありました。
「しかし土師尾常務の那間さんをあれこれ論う行為に対して、袁満さんはその場で即座に不同意を表明しなかったのですから、袁満さんも那間さんに対しては問題ありと日頃から考えていると、常務が誤解したとしてもそれはそれで仕方が無いかも知れませんよ」
「でもそれはあくまでも誤解で、俺は別にそんな事考えていないもの」
「しかし土師尾常務が今度の全体会議で、袁満さんが特段自分の那間さん評に抗わなかったというところを、しっかり利用するかも知れないじゃないですか」
「いやあ、それはその時にきっぱり否定すればいいし」
 袁満さんは多少顔を引き攣らせながら否定して見せるのでありました。
「しかし会議で土師尾常務が那間さんの無礼について急に縷々喋り出して、これは袁満君も同意している事だけど、とか何とか付け足したとしたら、袁満さんがその時に慌ててあたふたしながら否定しても、ペースとしては土師尾常務の方にまんまと乗せられた形になって、その否定はちゃんと那間さんには伝わらないかも知れないじゃないですか」
(続)
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あなたのとりこ 567 [あなたのとりこ 19 創作]

「それは拙いなあ」
 袁満さんは尚一層表情を引き攣らせるのでありました。
「土師尾常務の事ですから、そのくらいの欺瞞は平気で遣りかねないですよ」
「もしそうなったら本当に拙いから、今の内に手を打っておかないと」
 袁満さんは視線を頑治さんから宙に移して、腕組みしたりそれを解いたりしながら、俄かにそわそわと落ち着き無く、気持ちの動揺を体の外に表出し始めるのでありました。

 その日の内に頑治さんは那間裕子女史を仕事が跳ねた後で、件の新宿の洋風居酒屋に誘うのでありました。那間裕子女史はおいそれと諾の返事をするのでありましたが、その席には袁満さんも一緒に加わると付け足すと、ほんの少しだけながら眉宇を曇らしたのを頑治さんは認めるのでありました。ちょっと意外であったのでありましょうか。
「袁満君とここで飲むのは初めてかしら」
 洋風居酒屋の奥まったボックス席に三人で座ると、那間裕子女史は袁満さんに話し掛けるのでありました。この時は那間裕子女史と頑治さんが並んで座って、袁満さんが一人向かいの席に着いたのでありましたが、これは本来であれば均目さんが頑治さんの席に、頑治さんがこの折の袁満さんの席に着くという事になるのでありましたか。
「そうですね。ここは一度も来た事がなかったかな」
 袁満さんはそう云いながら少しもの珍しそうに、店のあちらこちらに視線を投げているのでありました。「この近くに在る、ここと同じような内装と雰囲気の店には、前に確か一度だけ行った事があったように思うけど」
「ああ、確か寄席の末廣亭近くの、エルザ館と云う酒場じゃないですかね」
 頑治さんが云うと袁満さんは頷くのでありました。
「そうそう、その時は日比さんと唐目君とで来たんだっけかなあ」
「確かそうでしたね。会社の宴会か終わった後の流れだったか何かで」
 頑治さんは袁満さんとエルザ館で飲んだ記憶はあるのでありましたが、どう云う経緯でそこで飲む事になったのかはもうすっかり忘れているのでありました。
「ところで何の話しで、袁満君と唐目君があたしをここに誘ったのかしら?」
 那間裕子女史は横の頑治さんにではなく、向かいの席に座る袁満さんに一直線に視線を向けて首を傾げて見せるのでありました。
「今日俺は土師尾常務に誘われて、二人で喫茶店に行ったのは知っていますよね?」
 袁満さんが何となく緊張した風情を見せながら語り出すのでありました。
「ううん知らないわ。営業の方の気配はあんまり気にしないし、漏れてくる声にも、余程の大声とか只ならぬ感じだったりする時以外は、それ程注意もしていないから」
 那間裕子女史はすげなく掌を横に振るのでありました。
「ああそうですか」
 袁満さんはちょっと調子が狂ったように一つ納得の頷きをするのでありました。
「まあ兎に角、土師尾常務と喫茶店で二人で話しをすることになったんですよ」
(続)
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